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『世界最古の国』日本

#神社仏閣#歴史#都市伝説#グルメ#漫画#アニメ#ゲーム#その他生活にありとあらゆるものなどに関することを書いています。ここに記載するすべて記事の引用素材は誹謗中傷を目的としたものでは無く、著作権を侵害する目的で作成したものではありません。

『瀬織津姫』

前回、祝詞の中でも最重要なひとつで半年に1回行われる『大祓詞』と言う、祭祀で用いられる祝詞があり、それに登場する『瀬織津姫』と言う水神の女神が最重要神であるとお伝えしました。

 

 

 

また、『伊勢神宮 内宮』の『正宮』の次に尊いものとされている『荒祭宮』の祭神が『瀬織津姫』となっており、『伊勢神宮』の公式由緒書きには『東の正宮を天照大御神、西の正宮を瀬織津姫』祀っていたとなっています。

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そして、『ホツマツタエ』と言う江戸時代の文献には驚くべきことが記載されていました。

 

 

 

 

 

それが。

 

 

 

 

瀬織津姫は、天照大御神の皇后である』

 

 

 

 

 

 

えっ?と思う方も多いと思います。

 

 

 

 

それもそのはず。

 

 

 

 

だって、『天照大御神』は女神でしょ?

女神と女神が結婚出来るわけないじゃん!と。

 

 

 

 

分かります。

 

 

 

 

でも、少し考えてみて下さい。

 

 

 

史書とは勝者が書き換え加えていくものです。

 

 

 

それの最たる古書が『古事記日本書紀』になっていますよね。

 

 

 

 

 

そして、この『古事記日本書紀』にはなぜか『瀬織津姫』は一切登場してきません。

 

 

 

 

では、なぜ『古事記日本書紀』でわざわざ最高神である『天照大御神』を男神から女神に書き換えたのか。

 

 

そして、『瀬織津姫』が登場しなかったのか。

 

 

 

それにはどうも、当時の権力者の背景が存在していると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その背景とは…。

 

 

 

 

前回、『大祓詞』を朝廷に奉上し、その後の祭祀などの際に、この祝詞を読み上げるのは「中臣氏」が担当(独占)していたとお伝えしました。

 

 

 

 

古事記』は神々の誕生から第33代天皇推古天皇』までを、『日本書紀』は第41代天皇持統天皇』までを扱っており、皇室の歴史を語る上で極めて大事な、そして『日本人』のイデオロギーともなっている最古の歴史書です。

 

 

 

 

実はこれ以前にも『天皇記』などのものが存在すていたのですが、あるクーデターによってそれ以前の歴史書のほとんどが焼失してしまいました。

 

 

 

そのクーデターと言うのは。

 

 

 

 

乙巳の変(いっしのへん)』

 

 

 

 

 

 

 

もうお分かりですね!

 

 

 

 

あの『大化の改新』でそれまでの豪族中心の政治から『天皇』を中心とした政治改革のはじまりで、この改革により『日本』と言う国号・『天皇』と言う称号がはじまり、また『元号』もはじまったとされる日本史上最大の大革命です。

 

 

 

 

 

そしてこの改革の勝者側は『天智・天武天皇』と『中臣鎌足』など。

 

 

 

 

古事記』『日本書紀』は『天智・天武天皇』の時代に編纂がはじまり、また『大祓詞』は「中臣氏」が担当していましたね。

 

 

 

 

明らかに、歴史が塗り替えられているのです。

 

 

 

 

 

『天智・天武天皇』『中臣鎌足(のちの藤原鎌足)』ら権力者の手によって。

 

 

 

 

あたからも正当性を示すかのように。

 

 

 

 

 

 

そして歴史書は『天武天皇』の皇后で史上3人目の女性天皇になった『持統天皇』と続き、その2人の子『文武天皇』の時代に完成しました。

 

 

 

 

この『持統天皇』こそが第一回『神宮式年遷宮』を開始した人物です。

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古事記』は史上1人目の女性天皇である『推古天皇』まで。

日本書紀』は史上3人目の女性天皇の『持統天皇』まで。

そして、史上2人目の女性天皇は『天智・天武天皇』の母であり、『乙巳の変』をこの息子たちを指導した『皇極天皇(のちに斉明天皇)』なのです。

 

 

 

 

 

これで条件は整いましたね。

 

 

 

 

そうです。

 

 

 

 

皇祖神である『天照大御神』を女神としたことによって、女性天皇の地位の正当性とこの出来たばかりの政権の強さを歴史書に書き、塗り替えてしまったのです。

 

 

 

 

 

だからこそ、『古事記』や『日本書紀』には『瀬織津姫』を登場させることは出来なく、そのかわりに祭祀などで用いられる『大祓詞』の四柱の中でも最重要神として登場させたのです。

 

 

 

 

 

今までなぜ、『天照大御神』=『大日如来』=『イエス・キリスト』になっているのに、『天照大御神』だけが女神なのかが、これでようやく分かってきました。

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卑弥呼』=『日皇子(ひみこ)』

 

 

 

 

このように歴史は塗り替えられて、『瀬織津姫』は『古事記』『日本書紀』には一切登場しませんでしたが、そのかわりに『大祓詞』に最重要神として登場させ、また『伊勢神宮 内宮』の正宮に次ぐ尊い荒祭宮の祭神に祀ることによって、現在でも仲睦まじく、そして『日本人』の心の中に夫婦2人揃って存在しているのでは無いでしょうか。

 

 

 

 

もし、そうだとしたらやはり古代史には浪漫を感じてしまいますね!

 

 

 

 

 

 

『戌の日 祝詞』

皆さんは20年前まで10月10日が何の日だったか、覚えてますか?

 

 

『体育の日』です。

 

 

 

気象的に言うと、10月10日は晴れの日の確立が多いと言われている日で全く雨が降らなかった日が63%と半分を超えてるわけですが、そうは聞いてもすごい高い確率とまではいきませんよね。

 

 

 

 

さて、2020年の10月10日は『戌の日』になります。

 

 

 

『戌の日』とは妊婦さんが妊娠5ヶ月あたりに腹帯をまいて、無事安全に出産出来るようにと、神社仏閣で『祝詞』で祈祷してもらう風習になります。

 

 

 

なぜ、『戌』かと言うと、犬は比較的安産で、たくさんの仔犬を産むことから、「安産の守神」として親しまれてきました。

 

 

 

 

また、『戌の日』に『祝詞』で祈祷してもらうことを『帯祝い』といい、その際に用いられる腹帯のことを『岩田帯』といいます。

 

 

 

昔は妊婦の実家から贈られることが一般的ではありましたが、現在では多種多様なかたちで、揃えているようになりました。

 

 

 

 

さて、話は変わりますが神社仏閣での祈祷を授かる言葉を『祝詞』と言います。

 

 

 

 

前回、『ひふみ祝詞』と言うのもお伝えしましたが、日本人には色々な節目節目で神社仏閣にいき、『祝詞』によって祈祷して頂くという風習があります。

 

 

 

 

その中でも最も重要な『祝詞』のひとつに『大祓詞(おおはらえのことば)と言うのがあります。

 

 

 

 

これは現在でも毎年、半年に1回(6月と12月)の最後の日に、罪などを祓うために唱えられる『祝詞』で、元々は6月と12月は異なる『祝詞』を唱えていました。

 

 

 

しかし、いつのまにか6月のだけが残り、現在では『6月晦大祓』をもとにしたものが用いられています。

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そして、この「大祓詞」は「中臣氏」が朝廷に奉上し、担当(独占)していました。

「中臣氏」はその後も代々『伊勢神宮』などの神事や祭祀職を務めていきます。

 

 

 

また、この文の成立も『天智・天武天皇』の時代に成立したが、『文武天皇』のときに、文が短かかったために、新文を定めたと言う説があります。

 

 

 

 

さて、この『大祓詞』ではこの『祝詞』に出てくる四柱を『祓戸大神(はらえどおおかみ)』とよび、この四柱によって罪などが消えるとなっています。

 

 

 

 

そして、この四柱のうち最重要の神である女神をご存知でしょうか?

 

 

 

 

その女神とは。

 

 

 

瀬織津姫(せおりつひめ)』

 

 

 

 

 

この女神は水神として、また『七福神』の一柱である『弁財天』と同一神となっている神様です。

 

 

 

 

そして、驚くことに『伊勢神宮 内宮』の第一の別宮である『荒祭宮』の祭神の別名が『瀬織津姫』と記されているのです。

 

 

 

 

さらに、本来は常に東の正宮を『天照大御神』・西の正宮を『瀬織津姫』を祀っていたと『伊勢神宮』の公式の由緒書きには書かれています。

 

 

 

荒祭宮』とは『正宮』の次に尊いとされている宮ですよね。

 

 

 

 

また『ホツマツタエ』にはとんでもないことが記されています。

 

 

 

 

それが。

 

 

 

天照大御神の皇后』

 

 

 

えっ?

 

 

 

 

と思う方も多いと思いますが、そう書かれているのです。

 

 

 

ただ、『ホツマツタエ』の文献は江戸時代前には存在されておらず、偽書と言われているのが定説になっていますが、もしそうであれば今なお研究材料としてたくさんの学者たちが読み漁ることがあるんでしょうか。

 

 

 

 

まさに、浪漫ですね!

 

 

 

さて、次回はもう少し個人的な考察を含めて『瀬織津姫』についてお伝えしていこうと思います。

 

 

 

やはり、古代史・神社はワクワクしますね!

 

 

 

 

 

 

2024年 新紙幣発行予定

前回はちょうど、『中秋の名月』ということで話が変わってしまいましたが、今回はまた我が国、『日本』の新紙幣にまつわるお話をしていきたいと思います。

 

 

 

前々回の記事では、2024年の肖像となる人物たちをざっと紹介しましたが、実はこの3名が選ばれたのには、ある強力な祓いがかけられているという都市伝説があるのです。

 

 

 

 

その祓いとは…。

 

 

 

『ひふみ祝詞

 

 

 

これは、神道の世界での祝詞(神に祈ることば)の中でも、非常に浄化の力が強いとされている祝詞になっていて、何度も口にすることで心身を清めると言われていることばです。

 

 

 

では、この『ひふみ祝詞』がどこにあるのか。

 

 

 

肖像となった人物の名前に含まれていたんです。

 

 

 

 

渋沢栄一→「一(1)」

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津田梅子→「津(ツーから2)」

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北里柴三郎→「三(3)」

 

 

 

そして、昔の数の数え方は「ひ・ふ・み・よ…。」と数えていました。

 

 

 

 

また、『ひふみ祝詞』自体が濁音や半濁音を含まない、清数しか使われていない47文字で表されています。

 

 

 

 

 

そして、その効果は古くから使われているくらい絶大で別名「ひふみ神言」とも呼ばれており、唱えるだけで運気が上昇し、マイナスからプラスへと変換させ前向きにさせることが出来るようです。

 

 

 

 

そこでこの3名を新紙幣の肖像に採用し、常に『日本国民』に使用させ、国全体で知らない間に自然と『ひふみ祝詞』をことばにし、『日本』をマイナスからプラスへと変換させようとしているのです。

 

 

 

 

さらに面白いことに、新千円の裏側の図柄は「葛飾北斎」の『富嶽三十六景』のひとつ、『神奈川沖浪裏』になっています。

 

 

 

 

実はこの作品の手法は、上部の背景以外の波や富士山にいたるまで、コンパスと定規を使い、最も美しい比率とされり『黄金比』を用いた作品なのです。

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そして、この『黄金比』はあの『レオナルド・ダ・ヴィンチ』も作品に使用しており、『モナ・リザ』や『最後の晩餐』にも用いられています。

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また、上部の『黄金比』は螺旋状に表されていますが、実は『ひふみ祝詞』も文字で表すとき、螺旋状に表さすのです。

 

 

 

 

定規とコンパスによる作図で螺旋状に描く黄金比と、『ひふみ祝詞』を文字にしたとき、螺旋状に描く。

 

 

 

 

そして、定規とコンパス、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』、『黄金比』、『モナ・リザ』、『最後の晩餐』。

 

 

 

 

 

繋がってきましたね。

 

 

 

 

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2019年4月に新紙幣発行を6年後の2024年(令和6年)にスタートすると発表しました。

 

 

 

そして『ひふみ祝詞』を実は採用しており、その『ひ(一)・ふ(ニ)・み(三)』を足すと。

 

 

1+2+3=6

 

 

 

『6・6・6』

 

 

 

 

これは果たして偶然なのでしょうか、それとも必然なのでしょうか。

 

 

 

 

どちらにしても、このコロナ渦の時代。前向きになり生き進んで行かなければなりません。

そして、未来の子ども達のためにも明るい未来になるよう突き進んで行かなければ行けないと感じる日々です。

 

どーなら、明るい未来を作り楽しく生きたいですよね!

 

 

 

 

 

 

 

 

中秋の名月

前回、新紙幣の肖像に選出された3名について、お伝えしましたが今回は本日が『中秋の名月』ということで、先にこちらのお話をお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

『秋の夜長に◯◯と…。』などとよく言われたり、『暑さ・寒さは彼岸まで。』と言われるようように、昼間でもだいぶ涼しくなり過ごしやすくなってきましたね。

 

 

 

また、夜から朝方は急に冷えてきたので、体調管理がむずかしい季節となってきました。

 

 

 

 

 

さて、本日は『中秋の名月』と呼ばれる昔からの風習で、月を見ながら(月見)宴をしたり、月明かりを楽しむなどをし、季節を感じる年中行事になります。

 

 

 

 

満月にススキ・ピラミッド状に置かれた白団子をご想像する方も多いのではないでしょうか。

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じゃあ、なぜ白団子なのか?って、不思議になる方もいると思いますが、実はこれ、『秋の収穫祭』を表現したものなのです。

 

 

 

 

いまとなっては、街中に夜になっても灯りがあるのは当然ですが、明治維新以前の特に農村部では灯りなんて、ほとんどありませんでした。

 

 

 

 

そうした中、月の灯りを頼りにして人々は夜の町を歩いていたわけです。

 

 

 

 

このことから、特に満月は強い光を放っていることを感謝すると共に、秋の農作物の収穫に感謝するという意味からなったものです。

 

 

 

 

 

また、白団子は新米の収穫を感謝し、そのお祝いのために臼で摺り、満月に似たててまん丸に丸めて、お供えしました。

 

 

 

 

そして、ススキはもうこの時期になると稲の収穫が終わってしまっているので、それに似たものの代用として、ススキが飾られるようになっていったんですね。

 

 

 

 

 

このほかにも、秋の農作物として芋(特に丸い形から里芋)や、豆をお供えすることから、『芋名月』や『豆名月』などと呼ばれることもあります。

 

 

 

 

個人的には里芋の小さなもので「きぬかつぎ」を醤油につけて食べるのがこの時期の楽しみとなっています。

 

 

 

 

さて、よく月見のことばで『三日月』や『十五夜』など聞くことがありますが、どのような事からなったかご存知ですか。

 

 

 

 

明治時代前までは『太陰太陽暦(旧暦)』を使用しており、「新月」になった日を朔日(ついたち)としていました。

 

 

 

 

そこから3日後の細い月を『三日月』・15日後の満月のことを『十五夜』と呼ぶようになったのです。

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また、旧暦での春夏秋冬は

 

春→1月・2月・3月

 

夏→4月・5月・6月

 

秋→7月・8月・9月

 

冬→10月・11月・12月

 

 

になっており、季節が約1月半のずれがあります。

 

 

この『秋』の8月15日辺りに季節的にも収穫祭になったことにより、『秋』の真ん中というところから『中秋』と呼ばれるようになりました。

 

 

 

ただ、この時期は今も昔も『日本列島』では台風や秋雨前線の影響で雨の降る日も多く中々、この日に満月を拝めることが出来なかったようです。

 

 

 

 

そういった意味でも特別な日として、今なお日本の年中行事として深く根強いているのでしょうね。

 

 

 

 

また余談ですが、2020年の『中秋の名月』は実は満月では無いんです。

と言うか、満月になるのが少ないみたいなのです。

というのも閏年や軌道などで少しずれていて、平均で0.8日ずれているんです。

 

 

 

そういったところから、満月は2020年10月2日になるんですね。

 

 

 

さて、何はともあれ本日2020年10月1日は『中秋の名月』です。

 

 

 

このような趣のある風習があることに感謝して、今夜は少しいつもと違う風情のある秋の夜長を楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新紙幣

2019年(令和元年)に日本で新紙幣の発行が発表されました。

 

 

 

新紙幣の肖像には

 

1万円札→『渋沢栄一

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5千円札→『津田梅子』

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千円札→『北里柴三郎

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となります。

 

 

これは実に20年ぶりの変更になり、その前の変更も20年前ということからも、最上級の紙幣のことを「諭吉が…。」などと比喩され親しまれいたとうのが分かります。

 

 

 

 

 

なぜなら40年も1万円札であり続けていたんですからね。

 

 

 

 

さて、今回採用された3人ですが、なぜ採用されたかというと肖像画がハッキリと残っているなどといくつかの基準をクリアした上での採用となりました。

 

 

 

 

でも、あまり馴染みが無い方の方が多いですよね。

 

 

 

歴史の教科書でもあまり出てこないので、何をした人物かすら分からない方の方が多いと思います。

 

 

 

そこで簡単な紹介しますと、まず新1万円札の『渋沢栄一』は『日本資本主義の父』として、現在のみずほ銀行を創設など、さまざまな企業・学校の創設に尽力を注いだ人物です。

 

 

 

 

また、『日本赤十字社』の設立など社会貢献にも尽力した渋沢ですが、大蔵官僚時代に「紙幣寮」のトップに就任したさいに、「大久保利通」や「大隈重信」と予算編成で対立し、「井上馨」とともに退官してしまいました。

 

 

 

 

ここから、様々な企業や学校などの設立に尽力していくわけですが、ここでまさかの井上馨が登場してきましたね。

 

 

 

井上馨とはあの「長州ファィブ」の1人であり、内務卿などを務めた人物です。

 

 

 

 

その「長州ファィブ」のバックアップした人物は「トーマス・グラバー」。

 

 

 

そしてその「トーマス・グラバー」が勤めていた財閥とは。

 

 

 

 

 

ロスチャイルド財閥』

 

 

 

 

出てきましたね。

 

 

 

 

ここで、渋沢と『ロスチャイルド家』が繋がって来ました。

 

 

 

 

また、『日本赤十字社』はフリーメイソンのの傘下組織として都市伝説ありますが、実はそのような経緯から渡米した際にある人物と会合します。

 

 

 

 

そのある人物とは。

 

 

 

 

『ジョン・D・ロックフェラー』

 

 

 

 

 

 

 

そうです。

 

 

 

 

あの世界を牛耳っていると言われている『ロスチャイルド財閥』と『ロックフェラー財閥』、双方と関わっているのです。

 

 

 

 

さらに、渋沢と『ジョン・D・ロックフェラー』は同じ学年でもあり、日本人で唯一会合した人物こそが「渋沢栄一」なのです。

 

 

 

 

 

 

次に新5千円札の『津田梅子』ですが、彼女は言うまでもなく、あの名門大学で有名な「津田塾大学」の創設者で、『女子教育の先駆者』として評価されている人物です。

 

 

彼女は6歳の時に『岩倉使節団』に随行して渡米し、キリスト教の洗礼を受けています。

 

 

 

 

岩倉使節団』…。

 

 

 

 

また繋がって来ていますね。

 

 

 

フリーメイソン

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また、彼女は『日本基督教女子青年会』(YWCA )を創設し、会長になっていますが、これもイルミナティの傘下となっているなどと都市伝説があります。

 

 

 

 

 

そして、最後の新千円札の『北里柴三郎』ですが、『日本の細菌学の父』として、ペスト菌の発見や破傷風の治療法の開発などに貢献し、また、「福澤諭吉」などの援助により、『伝染病研究所』の所長となりました。

 

 

 

 

この『伝染病研究所』に現・千円札の『野口英世』が就職しており、彼はのちに渡米し、『ロックフェラー医学研究所』の正社員となっています。

 

 

 

そうです。

また、繋がって来くわけです。

 

 

 

そして、現在の1万円札である『福澤諭吉』もフリーメイソンの会員だったという都市伝説があり、ここまで来ると偶然とは思えなくなりますね。

 

 

 

 

さて少し長くなってしまったので、次回はもう少しだけ深くお伝えしたいと思いますので、是非ご期待ください。

 

 

 

2020年 秋分の日

2020年の『秋分の日』は9月22日になります。

 

 

これは国立天文台が天文観測により、選出された日で、全世界共通の日となっており、世界各地の文明遺跡でこの『秋分の日』に特別なことが起こるような仕掛けがあるように建設されています。

 

 

 

 

例えば、メキシコにある『チチェン・イッツァ』と言う、マヤ文明期の遺跡で、世界遺産にも登録されている遺跡では『春分秋分の日』の日のみに現れるものがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

それが『蛇』です。

 

 

 

この『蛇』とはマヤ文明では『ククルカン』と呼ばれる『最高神』であり、それが『春分秋分の日』のみに現れることから、『ククルカンの降臨』と呼ばれています。

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また、『イースター島』にある『モアイ像』』ですが、1000体近くあるこの像のうち、たったの7体だけが、『春分秋分の日』に沈む太陽を見つめて立っています。

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そして、太陽が沈む方向とはすなわち『西』であり、実はこの『モアイ像』は、我が国『日本』の方角を見ていると言う都市伝説もあるくらいです。

 

 

 

 

不思議ですよねぇ。

 

 

 

 

地球のほぼ反対側の『日本』を見つめているなんて。

 

 

 

 

 

その『日本』では、『春分秋分の日』は『御彼岸』と呼ばれる仏教行事があり、宗派と問わず御先祖様の供養のために、お墓参りに行く方が多いとおもいます。

 

 

 

 

 

これも不思議な事に、『日本』に伝わった『仏教』では、『西』の方角に極楽浄土があるとなっており、これまた『西』を指しているんですね。

 

 

 

理由は『仏陀』がいらっしゃる、インドが西の方角に位置していると言うこともあり、そこに憧れを抱いていた為などと言われいます。

 

 

 

 

また、この『御彼岸』。

 

 

 

 

実は『日本』独自のものだったんです。

 

 

 

 

太陽神である『天照大御神』をはじめとした『神道』と『仏教』が融合して、いつしか『春分秋分の日』の昼と夜の長さが同じ日に、御先祖様を供養するという風習が生まれたのです。

 

 

 

 

 

『日、出ずる国』と言われている『日本』では太陽が東から昇り、西に沈み、そして最果てには『仏陀』のいた国があり、そこに御先祖様の霊を無事浄土の世界を目指せるように、供養する。

 

 

 

 

 

それが『御彼岸』なのです。

 

 

 

 

『日本人』の心には昔から先人たちを敬うような心があったんですね。

 

 

 

 

 

 

さらに、宮中祭祀でも『春分秋分の日』に歴代の天皇などを奉る祭祀が行われている大祭のひとつであり、『皇霊祭』として大切な祭祀にもなっています。

 

 

 

 

 

 

そして、『御彼岸』の日に食べられる「ぼたもち・おはぎ」。

 

 

 

 

春が「ぼたもち」・秋が「おはぎ」と決まっています。

 

 

 

 

実は、これはこの時期に咲く「牡丹」と「萩」に由来しているんです。

 

 

 

 

また、小豆は邪気を払う食べ物となっておらは、五穀豊穣・健康などを願い食べられてきました。

 

 

 

 

小豆は秋(8月〜9月)あたりに収穫されるので、「おはぎ」はまだ新しい小豆を使うという事から粒餡が多く、その逆に春の「ぼたもち」は収穫してから時間が経っているので、すりつぶして使うことから、こし餡が多くなっていったのです。

 

 

 

 

 

 

今では食べ安い方をと両方とも販売している方が多いですがね。

 

 

 

 

 

ただ、このように『日本』の歴史を少し知ると、また食べる時に面白いですよね。

 

 

 

 

 

2020年は『敬老の日』・『秋分の日』と続いた年でしたが、目上の方や御先祖様を敬うことを特に意識出来る年になったのではないでしょうか。

 

 

 

 

そして、それこそが『日本人の心』なんだと感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の食文化

 

皆さんは明治維新後まで、基本的には『肉』を食べることを禁止していたと言うのご存知でしょうか。

 

 

 

 

 

えっ?と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、これは本当の話なんです。

 

 

 

 

と言いますのも、『飛鳥時代』に『仏教』が伝来して以来、この『仏教』の世界では「動物を殺生を禁じている」ところから、その影響が特に『朝廷』などの貴族階級を中心に、ドンドンと広まっていきました。

 

 

 

 

 

ただし、庶民にはまだそれほど『仏教』自体が浸透もせずに、意味も分からなかったと言う理由から、庶民たちには肉食は続いていました。

 

 

 

 

 

そのような経緯から、貴族の食文化と庶民の食文化が分かれていったのです。

 

 

 

 

また、宮中料理でも犬や牛や猿などいわゆる獣肉の代わりに鶏肉、魚貝類などを使用するように変化していきました。

 

 

 

 

この辺りから、現在の『和食』に通ずるものが少しずつ出来上がってきたんですね!

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その後、武士の時代(『鎌倉時代』)にはいり、『鎌倉新仏教』が庶民の間にも広まっていくと、特に『禅宗』の教えから、動物性を一切使わない『精進料理』が発展していきました。

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なかでも『鎌倉五山』第一位であり、『禅宗』の寺院で、『臨済宗 建長寺』の修行僧が作ったもの(建長汁)が、なまって「けんちん汁」と呼ばれてるようになったと言う説もあります。

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また、この『精進料理』が発展し、『懐石料理』とつながっていき、現在では祝いの席など特別な日の会食として食されるようになっていきます。

 

 

 

 

さて、冒頭でもお伝えしたように明治維新後までは、このような経緯で基本的には『肉』は食べられていませんでした。

 

 

 

 

じゃあ何故、明治維新後から食べられるようになったかと言うと、それは

 

 

 

 

神仏分離

 

 

 

 

これは、『天皇陛下』を頂点とした政治改革で、それ以前の『神仏習合』とは異なり、『神道』と『仏教』を完全に分けて『神社』と『寺院』をはっきりと区別させると言う改革になります。

 

 

 

 

そうすることによって、明治新政府は『神道国家化』をすすめ日本の『国教』にしようと考えていたのですが、『平安京』が出来てからも1500年以上、『神道』と『仏教』両方を重じてきた『日本人』には、受け入れてはもらえなく、この制度は廃止しました。

 

 

 

 

 

またこの時、西洋のものをドンドン取り入れようと言うことで大々的に庶民に人気を誇ったのが「牛鍋」。

 

 

 

これは現在のみんな大好き「すき焼き」のもととなる食べ物です。

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でも、いくらその時代、西洋のものを取り入れようとして、「肉」を食べでも良いとなったところで急に食べれことって出来ますか?

 

 

 

 

実は「肉」は江戸時代、『薬膳』というたてまえで食べられていたのです。

 

 

 

 

 

もちろんそのまま出す訳にもいかないので、イノシシの肉を花(牡丹)の形で提供したり、様々な工夫を凝らして食されていました。

 

 

 

 

イノシシの鍋は現在でも「ボタン鍋」と呼びますもんね。

 

 

 

 

これは花札から取った隠語で、他にはシカを「モミジ」と呼んでいました。

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また、このような獣肉を提供する店を『ももんじ屋(百獣屋)』と呼ばれており、そこで食べることを『薬喰い』と呼ばれていました。

 

 

 

 

ここで、面白い話がありまして。

 

 

 

 

時々、アジア諸国など世界ではイヌが食用になっているという話を聞きませんか?

 

 

 

酷いことをする、残酷だ、野蛮などと思われがちですが実は昔は日本人も当たり前のように食べていたのです。

 

 

 

 

じゃあ何故食べなくなったのか。

 

 

それはあるきっかけからです。

 

 

 

そのあるきっかけとは、

 

 

 

 

『小類憐みの令』

 

 

 

特にイヌを重んじた5代将軍・『徳川綱吉』が出したこの法令によって、日本人がイヌを食べるのをやめていったのです。

 

 

 

 

また、『徳川四天王』の『井伊直政』や『桜田門外の変』で有名な『井伊直弼』が藩主であった『彦根藩』は、毎年、将軍に滋養に効く薬として味噌漬けにした牛肉を献上していました。

 

 

 

これが「近江牛」が名産となるきっかけにもなるわけです。

 

 

 

 

 

こうして、日本の食文化ひとつをみても、日本の歴史とは面白いものですね!

 

 

 

 

このような事を頭の片隅に置きながら、食事をするともっと楽しい食事になると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

重陽の節句

 

みなさんは、今回の題名にもある『重陽節句(ちょうようのせっく)』を含む『五節句』をご存知でしょうか?

 

 

 

 

これは奈良時代以前から続いているもので、平安時代初期あたりには定着していった、宮中の伝統行事の節会(せちえ)で、祝いの日として天皇を中心に行われていた年中行事になります。

 

 

 

 

その中でも、江戸時代にはいり、幕府が公的に行事として、そして祝日として定めた5つの日のことです。

 

 

 

 

それが

 

 

 

①『人日の節句(じんじつ)』

  

→1月7日で『七草の節句

 節句料理は『七草粥

 

 

 

②『上巳の節句(じょうし)』

 

→3月3日で『桃の節句』または『雛祭』

 節句料理は『菱餅』や『白酒』・また『甘酒』など

 

 

 

 

③『端午の節句

 

→5月5日で『菖蒲の節句

 節句料理は関東では『柏餅』・関西では『ちまき

 また、菖蒲と勝負がおなじ音から武家から庶民につたわっていき、『菖蒲湯』に入る風習が出来た

 

 

 

 

④ 『七夕の節句(しきせき)』

 →7月7日で『七夕(たなばた)』

 節句料理は『素麺(そうめん)』

 

 

 

⑤『重陽節句(ちょうよう)』

 →9月9日で『菊の節句

 節句料理は『菊酒(日本酒などに菊の花びらを浮かべた酒)』

 

 

 

になります。

 

 

 

 

そして、9月9日は一桁の奇数で一番大きいことが重なることから、なかでも良い吉日となっています。

 

 

 

 

また、『花札』の絵柄にも使われていることからお正月に家族揃ってやる方々も多いと思われ、この図柄も馴染みもあるものだと思います。

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(↑上記の図柄が『菊酒』)

 

 

 

 

 

 

そして、菊の花は『天皇陛下』をはじめとする『皇室』の方々の家紋にも使われており、花言葉は『高貴』。

 

 

 

 

また、春の桜に対して秋の菊と言うように一般的には『国花』となっています。

ただし、法的には定められているわけではありませんが…。

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また、話は少しズレますが2020年9月と言うのは『金運』でも、180年に一度の最強の財運金運の月となっています。

 

 

 

 

そのなかでも、特に酉の月(9月)の酉の日(3日・15日・27日)に酉の方角(西)を見ながら、酉の時刻(18時ごろ)に、鶏やたまごを食べると『金運アップ』がするそうなので、是非これを機にお試しください。

 

 

 

 

確かに、たまごは「完全栄養食」としても、その色からしても『金運アップ』につながりそうですね。

 

 

 

 

個人的には、「だし巻き」をつまみながら『菊酒』を嗜みたいと思います。

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話は戻りまして、『重陽節句』はさまざまな神社で限定の御朱印を頒布しており、中には郵送頒布している神社もありますので、気になるものが見つかりましたら、是非!

 

 

 

 

私は千葉県野田市の最古の神社である『櫻木神社』のを郵送頒布して頂きました。

 

 

 

 

ここで、不思議と「菊」と「桜」と「酉」が繋がってくるんですよね!

 

 

 

 

何か縁がある場所と感じながら、コロナ渦がおさまったら参拝してみたい神社をまた新たに発見できた喜びを感じた1日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

泉岳寺

皆さんは東京都港区にある『泉岳寺(せんがくじ)』と言う寺院をご存知でしょうか?

 

 

 

歴史好きな方はこの名前を聞いただけで、ピン‼︎とくると思いますが。

 

 

 

そうです。

 

 

 

あの『赤穂浪士』の47人とその赤穂藩の藩主であった「浅野 長矩(あさのながのり)」(浅野 内匠頭 たくみのかみの方が認知度は高い。)の葬られいる墓がある寺院になります。

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この寺院は江戸府内の『曹洞宗』の寺院を管理・統括する『江戸三箇寺』のひとつになります。

 

 

 

以前、『芝切通し 時の鐘』の時にお伝えした『青松寺』も同じ『江戸三箇寺』になります。

 

https://www.totan0703.com/entry/2020/08/06/%E8%8A%9D%E5%88%87%E9%80%9A%E3%81%97_%E3%80%8E%E6%99%82%E3%81%AE%E9%90%98%E3%80%8F

 

 

 

 

 

さて、『泉岳寺』は江戸幕府・初代将軍である「徳川家康」がかつて人質となっていた、「海道一の弓取り」とも異名をもっていた「今川義元」の孫にあたる、「門庵宗関(もんあんそうせき)」という僧侶を招いた際に建立した寺院になります。

 

 

 

そして現在の警視庁付近の外桜田に建立したとなっており、この場所は『江戸城』から目と鼻のさき、すぐ近くということから、「今川義元」と言う人物が、人質時代の家康に対していかに手厚い処遇をしていたのかと、少し想像ができます。

 

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しかし、その後『寛永の大火』により焼失。

 

 

 

 

この大火は江戸開府以来はじめての大火になり、広大な範囲を焼失させてしまいます。

 

 

 

そして、この時の調査の結果、日本橋材木町の材木置き場に火がつき、さらなる延焼の手助けをしたとして、永代島(現在の江東区富岡辺り)に幕府は材木置き場として指定し、この地に集結させました。

 

 

 

 

その時に「木場」と呼ばれるようになりましたが、のちに本所に移転するように命じられ、ここにいた材木商人達が、自力で払い下げをし発展させていったおかげて、後の「深川木場」という地名が誕生しました。

 

 

 

また、それにともない永代島も「元木場」とよばれるようになったのです。

 

 

 

 

 

面白いのが『赤穂浪士』が「吉良上野介」を討ち入りし、現在の『泉岳寺』に首を掲げて戻る際に、永代島に掛かっていた「永代橋」を渡ったとなっていることかも、なにか運命を感じてしまいます。

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話はもどり、外桜田にあった『泉岳寺』が焼失した後に、3代将軍・家光の命により、毛利などの5大名が再建に尽力し、現在の港区高輪の地に置かれてるようになります。

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この時から浅野家と『泉岳寺』の関係が深くなり、のち『赤穂浪士』とともに埋葬され墓があるわけですが、もうひとつ面白い話があります。

 

 

 

 

それは『泉岳寺』は『青松寺』とともに曹洞宗の統括寺でしたが、学寮と呼ばれる僧侶たちの学問所でもありました。

 

 

のちにこの2寺院は現在の『駒沢大学』へと発展していくわけですが、明治時代に入り、現在の「六本木ヒルズ」付近に校舎を新設しました。

 

 

 

 

この「六本木ヒルズ」と言う場所は元々は『毛利家』の藩邸があり、この場所で吉良を討ち入りした『赤穂浪士』の10名が預けられ、切腹しました。

 

 

 

 

このように、不思議と『泉岳寺』を中心に繋がっている『浅野内匠頭』と『赤穂浪士』たち。

 

 

 

現在も主従関係を保ち眠っているのに、なんとも言えない浪漫を感じでしまいますね。

 

 

 

四神

昨日、仕事中にたまたま外に出たら入道雲などがたくさんあって、ちょっと気になって辺りを見渡しました。

 

 

 

何が気になるかと言うと、『龍神』が出てる気がしてならなかったんです。

 

 

 

 

と言っても、実際に現れる訳ではなく(当たり前か💦)、雲に具現化して現れると言うもの。

 

 

 

 

 

そして、「あっ!」

 

 

 

 

って思い、すぐに写真におさめました。

 

 

 

 

その写真がこちら!

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完全に『龍』と『鳳凰』が一緒飛んでいるように見えますよね!

 

 

 

 

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引きで見ると特に『鳳凰』の方なんかは両翼が生えて飛んでいるように見えます!

 

 

 

 

まあ、そう見えるのは私だけでしょうが💦笑

 

 

 

 

そんな写真を撮り、ふと今日は何の日なんだろうと思いつき、色々と調べていると2020年8月27日は『寅の日』だったんです。

 

 

 

 

この『寅の日』とは、昔から寅は「千里を行って、千里を帰る」と言われており、寅の黄色からお金をイメージ。

 

 

 

そこから、「お金が出て行っても、すぐに戻ってくる」と非常に勢いのある日で、『金運上昇の日』なんです。

 

 

 

この日に「宝くじ」や財布を新調すると良いとされていたりする暦上の縁起の良い日です。

 

 

 

 

さらに、いろいろ調べて行くと8月27日はあの『男はつらいよ!』で有名な「寅さんの日」だったんです。

 

 

 

あの「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又、…。」でお馴染みのやつです。

 

 

 

しかも、『男はつらいよ!』と言う作品は、「一人の俳優が演じたもっとも長い映画シリーズ」としてギネス認定をされている作品になります。

 

 

 

 

そんな「寅」が2つも重なる日に、『龍』と『鳳凰』をみつけられたら、気になるのは『四神』です。

 

 

 

 

『四神』とは、『青龍』・『白虎』・『朱雀』『玄武』のことで、それぞれが東西南北の守護神になります。

(『朱雀』=『鳳凰』)

 

 

 

 

 

 

 

とここで気になったのは、あとは残るは『玄武』だけ!

 

 

 

 

そして、写真を見返すとありました!

上記の写真の下にアーチ型の屋根をした体育館がっ!

 

 

 

 

「体育館かいっ!」と思った人もいるでしょうが、気は持ちようです!笑

 

 

 

 

 

これで『四神』が全て揃いましたね!

 

 

 

 

また、古来より『龍』と『鳳凰』は我が国『日本』でもさまざまものに使われており、神社仏閣などにも装飾がされている非常に縁起の良いものです。

 

 

 

 

『龍』は『天皇』に、『鳳凰』は『皇后』の象徴にもされている霊獣なので、さらに良い気がしてなりませんね!

 

 

 

また、偶然にも長女は『辰年』、長男は『酉年』、妻は『寅年』、そして来年生まれてくる子は『丑年』(=足が遅いところから「カメ」になると勝手な解釈です)なんです!

 

 

 

 

 

ちなみに私自身は『亥年』なのでまったく関係ありませんが💦

 

 

 

 

 

 

本当に何か近々、良い事が起こりそうでなりません。

 

 

 

 

と、今回はこんな感じのですが、次回からはまた日本史や神社仏閣にまつわることを伝えていきたいと思いますので、ご期待下さい!

 

 

 

そして、良い事が起きたときにはご報告致します!

 

 

 

 

 

天龍寺 『時の鐘』② 江戸市民にとって

前回、日本橋を起点とした『五街道』のひとつで『甲州街道』の最初の宿場の近くにある『天龍寺』の『時の鐘』が武士たちにとっていかに大事なものだったかというのをお伝えしました。

 

 

 

 

 

そして、今回は江戸に住んでいる民衆(江戸市民)たちにとっても大事な『時の鐘』だったということについてお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

というのも、『内藤新宿』は「江戸四宿」のひとつにもなっており、『甲州街道』で日本橋から最初の宿場町になります。

 

 

 

 

これは、日本橋の起点からそれぞれ2里(約8km)以内の宿場町で、他には『東海道』の「品川宿」・『中山道』の「板橋宿」・『奥州街道日光街道』の「千住宿」があります。

 

 

 

 

 

 

そして、この宿場町を通り、さまざまな人が訪れることから旅籠屋や茶屋がたくさん立ち並び、大変賑わいを見せる場所になりました。

 

 

 

 

さらに「岡場所」と呼ばれる「江戸四宿」では非公認ながら準公認の遊郭が置かれてるようになっていくようにになり、最盛期には江戸市内に『寛政の改革』以前には80箇所以上あったものが、この改革以後、統制強化がすすみ、『天保の改革』によって、「江戸四宿」以外はすべて廃絶させられてしまったのです。

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というのも、唯一幕府が公認している遊郭は『吉原』であり、それ以外の遊郭は非公認であり、その非公認の遊郭を「岡場所」と呼んでいました。

 

 

 

 

 

『吉原』は格式が高いうえに、玉代(ぎょくだい)とよばれていた代金も高く、さらに遊女にはそれ以外にご祝儀を払わなければいけないなど、支払いも高額でした。

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さらに、さまざまなしきたりがあった『吉原』には一般の江戸市民たちには、手が出ない場所だったのです。

 

 

 

 

 

しかし、その反対に「岡場所」は代金も安く、そのような、かしこまったしきたりもなかったので、江戸市民たちはむしろ、こっちの方で遊ぶ事が多かったのです。

 

 

 

 

 

そんな立地条件である「江戸四宿」の「内藤新宿」にあった『天龍寺』に『時の鐘』は、唯一江戸城外にあった『時の鐘』でした。

 

 

 

 

そして、ここだけは他の『時の鐘』よりも30分早く梵鐘を鳴らしたことから、夜な夜な遊んでいる人々に『追い出しの鐘』と呼ばれるようになっていきました。

 

 

 

 

「いい加減早く帰れよー!」

 

 

 

 

のような『時の鐘』だったんでしょうね。

 

 

 

 

そう言う風に考えると、何か当時の人々の暮らしにもちょっと、ほんわかとした憎めない気持ちにもなりますね。

 

 

 

 

と、ここまで江戸にあった『時の鐘』についてお伝えしてきましたが、いかがだったでしょうか?

 

 

 

 

その後も3つほど新たに『時の鐘』が設置されますが、江戸時代にはすでにちゃんと「時間」というルールのもとで人々が正しい生活リズムで暮らしていたというのが、改めて分かります。

 

 

 

 

そして、現在日本最大の歓楽街として知られる「新宿」。

 

 

 

 

今も昔も、人々を惹きつける何かがあるのは間違いないですね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天龍寺 『時の鐘』① 武士にとって

今回の『時の鐘』は現在、世界一乗客数が多くギネス世界記録にも認定されているビッグターミナル「新宿駅」のほど近くにある『天龍寺』の『時の鐘』についてお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

天龍寺』はもとは現在の静岡県にある『法泉寺』という寺院が前身と伝わっています。

 

 

 

 

その『法泉寺』というのは2代将軍・秀忠の母である「西郷局」の父の菩提寺でした。秀忠のいわゆるおじいちゃんですね。

 

 

 

 

その、菩提寺を家康が江戸入府後に、現在の牛込付近に移すことになり、その際に名前も改名し、現在の『天龍寺』という名前になりましたが、その由来は『法泉寺』の近くに「天竜川」が流れていたからとなっています。

 

 

 

 

そして、『天龍寺』は江戸城の裏鬼門鎮護の寺院として役割を果たしているという由緒ある寺院になります。

 

 

 

 

しかし、『天和の大火』により焼失してしまい現在の地に移転しました。

 

 

 

 

その後まもなく、日本橋を起点とする『五街道』のひとつである『甲州街道』のひとつ目の宿場がほど近くに開設します。

 

 

 

 

そして、その1年後に5代将軍・綱吉の側用人(将軍の命令を老中たちに伝える役職)だった「牧野成貞(まきのなりさだ)」から、『天龍寺』への梵鐘の寄贈により、ここで『時の鐘』が出来ました。

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また、この時に時刻を知るために『やぐら時計』も寄贈されたとなっており、さらにこの『時の鐘』だけが唯一、江戸城下外となっていたところから、他の『時の鐘』よりも30分早く鐘をうっていました。

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その理由はいくつかあるのですが、ひとつはここの場所が江戸城下外と言う場所に位置しており、登城する武士たちもここからだと時間がかかり遅れてしまうという理由からです。

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実際に、いまでこそ整備された道路ですが『時の鐘』があった『天龍寺』の隣ある現在の「新宿御苑」から皇居の半蔵門まで歩いていくのに45分ほどかかります。

 

 

 

 

江戸城に登城する武士が遅刻をしてしまっては、下手したら切腹・改易もありえますからね。

 

 

 

 

また、『甲州街道』自体が江戸城(将軍など)が有事の際に脱出するためのを想定してつくられた非常に重要な街道で、江戸城の『半蔵門』は『大手門』のほぼ真裏に位置しており、そこからほぼまっすぐに『内藤新宿』までのびています。

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(↑上記は右側が「大手門」いわゆる江戸城の正門。対して、左側通行「半蔵門」いわゆる有事の際の脱出用の門。)

 

 

 

 

 

そして、「半蔵門」から『四谷大木戸』(江戸城内に出来入りするための関所)にまで、忍者で有名な「伊賀組」や「甲賀組」など忍者としても有名な鉄砲の特殊技術をもつ者たちに警護させたり、砦用として多くの寺院を配置しました。

 

 

 

 

 

今でも「半蔵門」前のすぐ先に警視庁の麹町警察署がありますもんね。

 

 

 

 

そう言った意味で、武士たちにとって非常に大事な場所であった『甲州街道』と『四谷大木戸(江戸城内への出入りするための関所)』のすぐ西側に設けられた、『内藤新宿』。

 

 

 

 

そして、そこの宿に宿泊や住んでいる人々にとってはとても重要な『時の鐘』だったことが分かります。

 

 

 

 

さて、次回は武士以外の江戸市民たちにとっても大事な『時の鐘』だというのをお伝えしたいと思いますので、是非ご期待ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目白不動尊 時の鐘

前回は『お盆』のちょうど真ん中と言うことで、少し話をズラして『お盆』についてお伝えしました。

 

 

 

 

さて、今回の『時の鐘』の場所は『目白不動尊』になります。

 

 

 

 

この寺院は名前からも分かるように、目が白い『不動尊』を本尊に安置している寺院で、現在の文京区関口あたりにあった『新長谷寺』にありました。

 

 

 

 

そして3代将軍・家光の時に『五色不動尊』のひとつでもある『目白不動尊』と名を贈られて、以後発展していきました。

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この『五色不動尊』と言うのは、「黒・白・赤・青・黄」の5色からになっており、『五街道』の守護のために設置されましたが、風水によりこの5色・6寺院で結界をつくり、江戸のまちを守護したと言う説があります。

 

 

 

 

また、この5色・6寺院を線で結んだ内側までの範囲が江戸市内だった言われる説もあります。

 

 

 

 

 

そんな場所で設置された『時の鐘』。

 

 

 

 

江戸市内・また市外から江戸に入ってくる人々にとって、それぞれ時間を知るうえでもいかに重要な『時の鐘』だったのかが、うかがえます。

 

 

 

 

 

 

特に、現在の東京都清瀬市方面から農作物を運び、江戸川橋を渡る坂を「目白坂」と称しており、そこからこの辺り一帯が「目白」と呼ばれるようになりました。

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そして、『目白不動尊』が安置してあった『新長谷寺』はこの坂の南側にありました。

 

 

 

 

 

 

また、5代将軍・綱吉とその母である桂昌院からの帰依によりさらに、その名を高めていき門前町も発展していきました。

 

 

 

 

 

と言うのも、3代将軍・家光の子である5代将軍・綱吉。

 

 

 

 

桂昌院(お玉)は家光の側室で、僧侶に男子を産むと占いをされた結果、のちの綱吉が産まれました。

 

 

 

そして、子である綱吉が将軍職に就いたのちに、その占いをした僧侶を江戸に招きいれ、自らの祈願寺とした寺院が、『大本山 護国寺』になります。

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この『大本山 護国寺』に向かう道の途中に、あるのが『新長谷寺』でした。

 

 

 

 

もともとは2代将軍・秀忠の命で建立された『新長谷寺』ですが、先にも述べたようにその子の3代将軍・家光が『目白不動尊』の号を贈り発展。

 

 

 

 

 

そして、その子の5代将軍・綱吉、そしてその母の桂昌院がこの寺院に帰依するのは、もはや必然と言えることだったんですね。

 

 

 

 

そして、その場所にあった『時の鐘』。

 

 

 

 

なんとも由緒がある『時の鐘』と言うのが分かります。

 

 

 

 

しかし、第二次世界大戦中の戦災で壊滅的な破損をして、『新長谷寺』は廃寺になってしまいました。

 

 

 

そして、『目白不動尊』だけが『金乗院(こんじょういん)』に移され、『時の鐘』の再建はされませんでした。

 

 

 

 

こうして『金乗院』の『目白不動尊』が現在にまで至る信仰を集めているわけですが、年に3回(1月・5月・9月の28日)には秘蔵仏である『目白不動尊』のご開帳もあるので、是非機会があれば拝観してみたいものです。

 

 

 

 

また、目白台の関口には『時の鐘』自体の記念碑はないものの、ここにそのような歴史があったと言うことを踏まえて訪れてみるとまた、違った見方が出来ると思います。

 

 

 

 

江戸時代の景色を想像しながら散策するのも、ロマンを感じますね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お盆

今年もお盆休みと入り、皆さんはどうお過ごしでしょうか?

 

 

 

 

今年は前代未聞のお盆となり、通年なら毎年帰省している方や旅行に出かけている方が多いと思いますが、今年はなかなかそうも行かないと言うのが、現状だと思います。

 

 

 

 

 

私自身も、通年であれば両親の実家に帰省して祖父母にひ孫の顔を見せに行くと同時に、地元の祭りに参加しているのですが、今年はそういうわけにもいかない状況です。

 

 

 

 

 

さて、2020年のお盆は8月13日から16日になりまして、この期間のあいだに行われる行事で一般的には父・母の先祖を供養するとともに、感謝の意味を込めて、御供物をします。

 

 

 

 

 

その、御供物を置く容器をお盆を使っていたところから、文字通り『お盆』と呼ばれるようになりました。

 

 

 

 

 

また、日本の『お盆』の風習として『精霊馬(しょうろううま)』『精霊牛(しょうろううし)』と言うものがあります。

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これは夏に旬の野菜を利用して、きゅうりを「馬」に、なすを「牛」に見立て作ったものになります。

 

 

 

 

 

なぜ、この2種類の野菜かというと、やはり夏野菜なので、比較的手に入りやすかったこと。

 

 

 

 

また、きゅうりは長く細いので「馬」に見立てて、「御先祖様が一刻も早く帰って来てもらいたい」と。

なすは反対に丸く太っているので、それを「牛」に見立て「帰りは景色などを楽しみながら、ゆっくりと帰ってほしい」と、願いが込められています。

 

 

 

 

 

そして、沖縄ではさとうきびを杖に見立てたりと各地域によってその様子も違うのも、面白いところです。

 

 

 

 

さて、夏の風物詩でもある『隅田川の花火大会』などの花火大会、そして『盆踊り』も実は『お盆』と関係があるんです。

 

 

 

 

 

特に『盆踊り』はその文字からも想像がつくでしょうが、平安時代踊念仏と民間習俗が習合していき、そのうちに祖先など死者の供養・精霊を迎えるなどの行事と結びついて、室町時代あたりには各地域で定着していきました。

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また、『隅田川の花火大会』も8代将軍・吉宗のときに「享保の大飢饉」ででコレラによる死者の慰霊と悪疫退散などのために始まったと伝承されています。

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とは、言ってもこれは明治中期から昭和初期にかけて、花火業者の広告目的から慰霊や悪疫退散に話がすり替わっていった作り話になります。

 

 

 

 

そして、この花火業者の広告目的と言うのが、江戸当時、「たまやー」「かぎやー」と言う掛け声で有名で、お互いの腕を競いあっていた、「玉屋」と「鍵屋」になります。

 

 

 

 

 

しかし、のちに「玉屋」が幕末に入り火事を起こしたために廃業。

一方の「鍵屋」は日本で最古の花火業者として今も現存しているのです。

 

 

 

 

その他にも精霊流しや、京都で「大文字の送り火」で有名な「五山の送り火」があります。

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この送り火は精霊(死者の霊)をあの世に送り帰す上がり火となっていて、これもお盆の最後の日の風物詩となっています。

 

 

 

 

今年は、日本全国でこのようなイベントも縮小や中止になってしまっていますが、是非来年以降はまた歴史ある風物詩を目にしてみたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芝切通し 『時の鐘』

 

前回、本所の『時の鐘』についてお伝えしましたが、この場所のほど近くに、『スカイツリー』があります。

 

 

 

 

そして、それ以前から電波塔として使用していた東京のシンボル的な存在でもある『東京タワー』。

 

 

 

 

このほど近くに、徳川将軍家菩提寺として、北の『伝通院』・鬼門の『寛永寺』とともに、ここ裏鬼門の『増上寺』があります。

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そして、ちょうど『増上寺』の北側に位置し、『出世の石段』で有名な『愛宕神社』を南側にすすんで、『青松寺』を通り、現在は「正則高等学校」が置かれているあたりの坂が『芝切通り』になります。

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江戸時代には、『増上寺』と『青松寺』の間の坂だっとされたこの場所に、今回の『芝切通し』の『時の鐘』が置かれていました。

 

 

 

 

 

増上寺』は言わずとしれた徳川将軍家菩提寺として由緒ある寺院であり、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますが、その手前の『青松寺』も実は、由緒ある寺院なんです。

 

 

 

 

と、言うのも江戸時代、市中にある『曹洞宗』の寺院を統括する3つの寺院のうちの1つになる寺院なんです。(『江戸三箇寺』と呼ばれている。)

 

 

 

 

また、この寺院は元々は「武蔵国貝塚」あたりにあった寺院で、江戸城拡張にともない、初代将軍・家康の命で現在の地に移転したと伝わっています。

 

 

 

 

そして、まさかの『増上寺』の前身である寺院も元々は「武蔵国貝塚」付近にあった寺院で、この寺院も江戸城拡張の際に、家康の命で現在の地に移転してきました。

 

 

 

 

そんな場所の間にあった『時の鐘』は、江戸時代には『浅草奥山』とともに、見せ物屋や茶屋などがたくさん並ぶ、江戸時代から昭和初期までの代表的な繁華街となっていました。

 

 

 

 

 

 

また、この『時の鐘』自体ももとはほど近くの『西久保八幡神社』に設置されてたものが破損してしまい、新しく作り直した鐘をこの地に移転させたと伝わっています。

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しかし、現在では『時の鐘』はこの場所にありませんが、当時は芝浜のから対岸にある千葉県・木更津までその鐘の音が響いていたそうで、「今鳴るは   芝か上野か  浅草か」と詠まれるほど、江戸庶民たちにとっては親しみのある『時の鐘』でした。

 

 

 

 

さて、話は少しズレますが冒頭にお伝えした『東京タワー』の麓にあるものがあるのを皆さんはご存知でしょうか?

 

 

 

 

都市伝説好きな方でしたらきっとお分かりだと思いますが、それはある秘密結社の『日本 グランドロッヂ』。

 

 

 

そのある秘密結社とは

 

 

 

 

フリーメイソン

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第二次大戦後、日本に介入してきたGHQの最高司令官であった「ダグラス・マッカーサー」は来日した途端にすぐにこの地に向かい、グランドロッヂを建てたそうです。

 

 

 

 

 

こんな歴史や都市伝説の詰まっている『増上寺』周辺は江戸時代から現在にいたるまで、観光スポットとして賑わっています。

 

 

 

 

もう一度、是非訪れてみたい場所のひとつですね。