皆さんは東京都港区にある『泉岳寺(せんがくじ)』と言う寺院をご存知でしょうか?
歴史好きな方はこの名前を聞いただけで、ピン‼︎とくると思いますが。
そうです。
あの『赤穂浪士』の47人とその赤穂藩の藩主であった「浅野 長矩(あさのながのり)」(浅野 内匠頭 たくみのかみの方が認知度は高い。)の葬られいる墓がある寺院になります。
この寺院は江戸府内の『曹洞宗』の寺院を管理・統括する『江戸三箇寺』のひとつになります。
以前、『芝切通し 時の鐘』の時にお伝えした『青松寺』も同じ『江戸三箇寺』になります。
さて、『泉岳寺』は江戸幕府・初代将軍である「徳川家康」がかつて人質となっていた、「海道一の弓取り」とも異名をもっていた「今川義元」の孫にあたる、「門庵宗関(もんあんそうせき)」という僧侶を招いた際に建立した寺院になります。
そして現在の警視庁付近の外桜田に建立したとなっており、この場所は『江戸城』から目と鼻のさき、すぐ近くということから、「今川義元」と言う人物が、人質時代の家康に対していかに手厚い処遇をしていたのかと、少し想像ができます。
しかし、その後『寛永の大火』により焼失。
この大火は江戸開府以来はじめての大火になり、広大な範囲を焼失させてしまいます。
そして、この時の調査の結果、日本橋材木町の材木置き場に火がつき、さらなる延焼の手助けをしたとして、永代島(現在の江東区富岡辺り)に幕府は材木置き場として指定し、この地に集結させました。
その時に「木場」と呼ばれるようになりましたが、のちに本所に移転するように命じられ、ここにいた材木商人達が、自力で払い下げをし発展させていったおかげて、後の「深川木場」という地名が誕生しました。
また、それにともない永代島も「元木場」とよばれるようになったのです。
面白いのが『赤穂浪士』が「吉良上野介」を討ち入りし、現在の『泉岳寺』に首を掲げて戻る際に、永代島に掛かっていた「永代橋」を渡ったとなっていることかも、なにか運命を感じてしまいます。
話はもどり、外桜田にあった『泉岳寺』が焼失した後に、3代将軍・家光の命により、毛利などの5大名が再建に尽力し、現在の港区高輪の地に置かれてるようになります。
この時から浅野家と『泉岳寺』の関係が深くなり、のち『赤穂浪士』とともに埋葬され墓があるわけですが、もうひとつ面白い話があります。
それは『泉岳寺』は『青松寺』とともに曹洞宗の統括寺でしたが、学寮と呼ばれる僧侶たちの学問所でもありました。
のちにこの2寺院は現在の『駒沢大学』へと発展していくわけですが、明治時代に入り、現在の「六本木ヒルズ」付近に校舎を新設しました。
この「六本木ヒルズ」と言う場所は元々は『毛利家』の藩邸があり、この場所で吉良を討ち入りした『赤穂浪士』の10名が預けられ、切腹しました。
このように、不思議と『泉岳寺』を中心に繋がっている『浅野内匠頭』と『赤穂浪士』たち。
現在も主従関係を保ち眠っているのに、なんとも言えない浪漫を感じでしまいますね。