前回、日本橋を起点とした『五街道』のひとつで『甲州街道』の最初の宿場の近くにある『天龍寺』の『時の鐘』が武士たちにとっていかに大事なものだったかというのをお伝えしました。
そして、今回は江戸に住んでいる民衆(江戸市民)たちにとっても大事な『時の鐘』だったということについてお伝えしたいと思います。
というのも、『内藤新宿』は「江戸四宿」のひとつにもなっており、『甲州街道』で日本橋から最初の宿場町になります。
これは、日本橋の起点からそれぞれ2里(約8km)以内の宿場町で、他には『東海道』の「品川宿」・『中山道』の「板橋宿」・『奥州街道・日光街道』の「千住宿」があります。
そして、この宿場町を通り、さまざまな人が訪れることから旅籠屋や茶屋がたくさん立ち並び、大変賑わいを見せる場所になりました。
さらに「岡場所」と呼ばれる「江戸四宿」では非公認ながら準公認の遊郭が置かれてるようになっていくようにになり、最盛期には江戸市内に『寛政の改革』以前には80箇所以上あったものが、この改革以後、統制強化がすすみ、『天保の改革』によって、「江戸四宿」以外はすべて廃絶させられてしまったのです。
というのも、唯一幕府が公認している遊郭は『吉原』であり、それ以外の遊郭は非公認であり、その非公認の遊郭を「岡場所」と呼んでいました。
『吉原』は格式が高いうえに、玉代(ぎょくだい)とよばれていた代金も高く、さらに遊女にはそれ以外にご祝儀を払わなければいけないなど、支払いも高額でした。
さらに、さまざまなしきたりがあった『吉原』には一般の江戸市民たちには、手が出ない場所だったのです。
しかし、その反対に「岡場所」は代金も安く、そのような、かしこまったしきたりもなかったので、江戸市民たちはむしろ、こっちの方で遊ぶ事が多かったのです。
そんな立地条件である「江戸四宿」の「内藤新宿」にあった『天龍寺』に『時の鐘』は、唯一江戸城外にあった『時の鐘』でした。
そして、ここだけは他の『時の鐘』よりも30分早く梵鐘を鳴らしたことから、夜な夜な遊んでいる人々に『追い出しの鐘』と呼ばれるようになっていきました。
「いい加減早く帰れよー!」
のような『時の鐘』だったんでしょうね。
そう言う風に考えると、何か当時の人々の暮らしにもちょっと、ほんわかとした憎めない気持ちにもなりますね。
と、ここまで江戸にあった『時の鐘』についてお伝えしてきましたが、いかがだったでしょうか?
その後も3つほど新たに『時の鐘』が設置されますが、江戸時代にはすでにちゃんと「時間」というルールのもとで人々が正しい生活リズムで暮らしていたというのが、改めて分かります。
そして、現在日本最大の歓楽街として知られる「新宿」。
今も昔も、人々を惹きつける何かがあるのは間違いないですね!