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TOTANの日記

神社仏閣 旅行 グルメ 日本神話 歴史

神社仏閣に引き寄せられvol.52

さて、前回までは天皇陛下が即位され、それに関連する儀式についてお伝えしましたが2019年12月4日を以って全ての『儀』が終了致しました。

 

 

そこで今回は江戸や天皇陛下とあまり密接はしていない、しかし『神社』としては決して無視の出来ない『生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)』についてお伝えしたいと思います。

 

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と言うのも写真で見て頂いても分かる様に、『日本 中央』と書いてあります。

 

それだけでも、何か御利益がありそうですが、この『生島足島神社』の主祭神は神社の名前にもある『生島大神(いくしまのおおかみ)』と『足島大神(たるしまのおおかみ)』の2柱になります。

 

 

はじめ聞いた方もいると思いますので、説明致しますとまず、『生島大神』は「生きとし生きるものの万物に生命力を与える神」。

足島大神』は「生きとし生きるものものの万物に満足を与える神」なのです。

 

 

これを聞いて何かさらに凄そうと思った方。

 

 

 

ほんとにスゴイんです。

 

 

 

本殿の内部で、一番神聖とされ御神体が安置されている内陣と呼ばれる場所、またその外にある一般の参拝者のための場所で外陣と呼ばれる場所があります。

 

その場所は通常、床がありその上に座り御祈祷などをされますよね?

また、御神体はその奥にあり一段高い場所に上がった所に安置されていると思います。

 

多分、これが一般的な神社の構図になっていますので、皆さんも想像し易いと思います。

 

 

しかし、この『生島足島神社』にはこの床が無いんです。

 

 

 

どういう事?と思う方もいらっしゃると思いますが、床が無く直接「土間」になっているのです。

 

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そして、この土間こそが御神体と言う事であり、つまり大地(国土)そのものが御神体になっているのです。これを「国魂(くにたま)」と呼びますが、これは神道では国自体が御神体となっていると言う意味があります。

 

 

 

と言う事は、我が国である『日本』いや、強いてはこの『地球』自体が神様であるとおっしゃっているのです。

 

 

 

壮大すぎて、今までの概念が吹っ飛びますね!

 

 

そしてこの神社は長野県上田市にあります。

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また、長野県が出て来ましたねぇ。

以前、お伝えした長野市にある『善光寺(ぜんこうじ)』は『西国三十三所』や『東国三十三所』などは巡礼した一番最後に訪れる場所となっています。

 

 

いわゆる『聖地』と言うやつですね!

 

 

ここで、少し面白い話が!

 

 

と言うのも、同じ上田市内に温泉地としても有名な「別所温泉」があります。

 

 

その地区に天台宗の宗派である『北向観音(きたむきかんのん)』と言う寺院があります。

 

ここは名前の如く、お堂が北向きに向いているのでこの名前になっていますが、実は『善光寺』のお堂は南向きになっているのです。

 

 

 

そして『北向観音』は千手観音を御本尊として『現世の御利益』を、逆側の『善光寺』は阿弥陀如来を御本尊として『来世の御利益』を願いまたもたらしているのです。

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したがって、実は善光寺だけを参拝するだけでは『片参り』になってしまうのです。

 

 

皆さん、ご存知だったでしょうか?

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ですので、もし善光寺にご参拝する際には是非この北向観音にもご参拝下さい。

 

 

今回は少し長くなってしまったので、本当に少しだけ北向観音別府温泉)にもちょっとした「都市伝説(怪談)」みたいのもあるので、それは次回にお伝えしたいと思います。

また、少し話は戻って『生島足島神社』についてもお伝えしたいと思いますので、是非ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.51

前回、お伝えした『11月23日』に現在一般公開をしている『大嘗宮(だいじょうきゅう)』を見学する日取りとして、選んだ理由をもう少しだけあるので、それをお伝えして行きたいと思います。

 

 

前回まで、3つの理由についてお伝えしましたが、今回はあと2つ。

 

 

まず、4つ目はちょうどこの日に天皇皇后両陛下が伊勢神宮(内宮)の皇祖神である天照大御神アマテラスオオミカミ)に『即位礼』と『大嘗祭』を終えた事を『剣璽(けんじ)』(八尺瓊勾玉草薙剣の『三種の神器』の2つ)を伴い御奉告をしに御参拝された日で、前日の22日は外宮で『豊受大神トヨウケビメ)』に御参拝されました。

 

 

この儀式の事を『親謁の儀(しんえつのぎ)』(新謁とは天皇陛下、御自らが御参拝される事」と呼びますが、その時の御束帯は天皇陛下平安時代以降、天皇陛下の正装である『黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう』に天皇陛下のみしかかぶる事が出来ない、最も格式の高い冠である『立纓御冠(りゅうえいのおんかんむり)』などをお召しになりなされました。

 

 

また、皇后陛下も『十二単(じゅうにひとえ)』に『釵子(さいし)』と呼ばれるかんざしを『大垂髪(おすべらかし)』と呼ばれる髪形に刺すなどをお召しになされました。

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そして、この御束帯は『即位礼正殿の礼』の際にもお召しになりましたが、この『親謁の儀』実は100年あまりしか歴史的には無いんですねぇ。なので、今回の『親謁の儀』がいかに重要であると言うことが分かります。

 

 

さらにこの『新謁の儀』は神武天皇陵などにも御奉告されたのちに全ての儀式が終了します。

 

 

通常、『新嘗祭』を行う11月23日に伊勢神宮(内宮)に『親謁の儀』をなされたのはこのような重要な日である日だからこその意味合も含めていると思うと納得出来ます。

 

 

さて、ここまで11月23日に『大嘗宮』を見学しに行った理由を4つお伝えしてきましたが、いよいよ最後の一つです。

 

 

5つ目の理由は、『ローマ教皇』が来日した日だったからです。

それも38年ぶりの来日です。

 

 

と言う事は『平成』の時代には一度も来日していないと言う事になりますね。

しかも、今上天皇ローマ教皇も先代が生前退位をなされた後に即位をしたと言う非常に境遇が似ているんです。

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と、ここまでこの日になぜ『大嘗宮』を見学しに行ったかの真意をお伝えしたいと思います。

 

 

それは以前にお伝えした天皇は実は「イエス・キリスト」の子孫と言う事をお伝えしました。

 

 

日本の神仏習合の考えでは『天照大御神大日如来』となっています。

そして、ちょっと話はズレますが鬼門は北東に位置し、日本でも馴染みが深い干支では「丑・寅」がその方角になります。これが鬼は角が生えて虎のパンツを履いているイメージに繋がっているんですね。

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また、裏鬼門は反対側は「未・申」になりますが昔話で1番と言っても過言では無い「桃太郎」では「サル・トリ・イヌ」を率いて鬼退治に行っており、まさに真逆に位置する構図となっています。

そして、こ先頭に立っているのが「未」であり、実はキリスト=羊としてキリスト教では例えとして使われているのです。

また、「未年」の守護神は「大日如来」になっているのです。

 

 

これでちゃんと繋がってきましたよね。

 

 

天照大御神大日如来=キリスト」

 

 

また、ルネッサンス時代の天才である「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の代表作である「モナリザ」は実はキリストの子を身篭ったマグダラのマリアだと言われているのです。

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それも分かる人には分かる様にと。

 

 

 

感の良い人はもうお分かりでしょうが、天照大御神=キリストだとすると、その子孫であり世界で唯一のエンペラーである天皇陛下と、世界で最も信者の多い「カトリック教(キリスト教)」での最高位聖職者であり、「キリストの代理人」とも称され、さらに世界で一番小さく、世界で一番人が集まる国(バチカン市国)の国家元首であるローマ教皇がこの『日本』に揃うと言う奇跡の日だったのです。

 

 

また、11月25日には皇居内の宮殿の「竹の間」で会談をしており、ここで何を話されたが大変気になる所です。

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さて、ここまで『11月23日』に『大嘗宮』を見学しに行った理由をお伝えしましたが、12月8日まで一般公開がされていまして、まだ間に合うのでまだ訪れていない方も、一度訪れた方も是非ともご覧になってみて下さい。

 

 

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.50

今回で「神社仏閣に引き寄せられ」もようやく50回目を迎えられる事になりました。

 

そして、この記念すべき回にお伝えしたいと思っているのが、先日、11月14日から15日に掛けて行われた、天皇陛下が即位して一世一度しか行われない最重要の儀式『大嘗祭(だいじょうさい)』が行われました。

その最重要な儀式が行われた場所、『大嘗宮(だいじょうきゅう)』です。

 

12月8日まで一般公開されていると言うので、家族全員で見学に行って来ました。

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『大嘗宮』の見学の日は必ずこの日にしようと思っていたので、予定を合わせて行った訳ですが、その日と言うのが『11月23日』です。

 

 

その理由はいくつかあるわけですが、まず1つ目は以前にもこの『大嘗祭』をお伝えした時にも少し触れましたが、『大嘗祭』の儀式を終えた翌年以降は『新嘗祭(しんじょうさい)』の儀式を古くから毎年11月23日に行う事になっています。

 

そして、明治維新後にはこの日を「祭日」としており、たくさんの神社でもこの日に『新嘗祭』を行っているのを見た事があると思います。

 

 

さて、この11月23日は何の日かお分かりでしょうか?

 

 

勤労感謝の日』です。

 

 

勘の良い方はお気づきでしょうが、元々は「祭日(さいじつ)」と言う日が出来た明治時代以降、この日に『新嘗祭』の儀式を行う天皇陛下に対しての『感謝』する日だったんですねぇ。

 

しかし、第二次世界大戦以降はGHQの介入により『日本国憲法』によって『象徴』としてに過ぎなくなってしまった天皇陛下と、第二次世界大戦以前にあった『大日本帝国憲法』の時の『現人神(あらひとがみ)』の思想を完全に切り離す為に、この11月23日を国民の為の『勤労感謝の日』にしたのです。

 

 

ただし、この『新嘗祭』は変わらずに毎年、天皇陛下が国民の安寧と五穀豊穰の感謝の為に、皇祖神でもある『天照大御神アマテラスオオミカミ)』に祈祷するのは変わりありません。

 

そして、この日が我々国民の勤労を感謝する日も変わりありませんので、是非皆さんも骨を休めていただきたいと思います。(この日が休日でない方もたくさんいらっしゃるとは思いますが…。そこはご勘弁を(^^;;)

 

 

と、ここでちょっとだけ面白い話をしたいと思います。

 

 

いま、「祭日・祝日」と言うのが休日になっていると言う方々もいると思いますが、実は「祭日」で休日になっている日は1日も無いんですねぇ。

これは、日本国憲法にも定められている事でもあり、今のカレンダーで赤字のところ(休日)は全て「祝日」になっているんです。

 

理由は「祭日」とは『宗教儀礼上の重要な祭祀を行う日』で、日本では『皇室祭祀』の事になる為です。

 

こうしてみると身近にあったものでも、深く掘り下げてみると時代によって変わり移り、中々面白いですよね。

 

 

そして2つ目の理由は「天赦日(てんしゃにち)」と言う日本の暦の上で、全ての事において吉日になっていると言う最強の吉日の日です。

 

さらに3つ目は、「干支(えと)」と言う十二支と十干(こちらはあまり馴染みがありませんが。)

を組み合わせる事によって60種になるうち、一番はじめに来る「甲子(きのえ)」の日になり、暦の上で最大の吉日が重なる、とても縁起の良い日だったのです。

 

 

さて、ここまで『新嘗宮』を見学する日を「11月23日」に決めた理由をお伝えしましたが、あと少しあるので、それは次回にお伝えしたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.49

前回、前々回と『小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)』の主祭神である『小野篁(おのたかむら)』についてお伝えしてきましたが、今回はこの神社の境内について、お伝えしていきたいと思います。

 

 

さて、まず始めにこの神社に参拝しようと思ったきっかけは、いまちょうど皇居内で一般公開が行われている『大嘗宮(だいじょうきゅう)』で天皇陛下が即位した際に一世に一度きりしか行われない『大嘗祭』の特別御朱印を配布していると言うの知り、これは頂きたいと思いました。

 

 

それがこの御朱印になります。

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その理由はもちろんまず、この御朱印自体が『即位礼正殿の儀』と『大嘗祭』が行われた日付けが金・銀で書かれていると言う事。

また、この御朱印にはイラストもあり、そのイラスト上部には『鳳凰』や『龍』、また縁起の良い動物達が描かれているので、そのままでもかなり縁起の良いものとなっています。

 

 

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しかし、このイラストを拝見した瞬間に『マジかっ!』と思ってしまったのです。

 

 

それは実は私の子供達の干支が『酉年』と『辰年』なんですが、この『鳳凰』と『龍』が一致かしていたんです。

 

これにはさすがに、この神社に間違いなく引き寄せられている!と感じてしまい、必ずこの御朱印を頂こうと思い参拝をしに訪れたのです。

 

 

そして、参拝しに訪れた訳ですが、本殿に参拝後に社務所に行き目的の御朱印を頂こうと待っていた際に、この境内を散策していたのですが、そこでさらに驚かされました。

(この特別御朱印以外、実は何も下調べをして行きませんでした。)

 

 

それはまず1つ目に『下谷坂本富士』と言う実際の富士山の溶岩で築かれた富士塚です。

 

これは江戸時代、誰でもが富士山に登れなかった時代に庶民が気軽に登れる様にと築かれたものです。

この背景には当時はすでに戦国の世も終わっており、庶民の間では富士山信仰やお陰参り(お伊勢参り)など数えきれない程、様々な信仰がありました。

そして、この地に築かれたのがこの富士塚であり、一合目から十合目などしっかりと記されていたり、途中に修験道の開祖である『役子角(えんおづの)』の尊像や『南無妙法』と書かれた石碑があったりとまさにミニチュア版の富士山がそこにあったのです。

また、この富士塚は「国指定重要有形民俗文化財」にも指定されています。

そして毎年、大祓と富士山の開山日の6月30日・7月1日には一般の方にも登拝が許されているので是非是非。

 

と、ここで少しこの名称にある「坂本」と言うところを覚えておいて下さい。

 

あとで、面白い事になりますよぉ!

 

 

さて、2つ目ですがこの「下谷坂本富士」を背に向けた所にある『庚申塚(こうしんづか)』です。

何故この庚申塚に驚いたかと言うと、ここがまさかの「日本三大庚申塚」のひとつだったのです。

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と言っても、あまりピンと来ない方もいるとおもいますがこれは日光東照宮でも有名な「見ざる、聞かざる、話ざる」のサルを祀り、夜には慎ましく静かにして眠らずに過ごし、神や仏(神仏習合)を供養することにより現世での御利益を授かると言う信仰です。

(この信仰も江戸時代に入りかなりの数になった信仰のひとつです。)

 

 

 

さて、ここで勘の良い方はお気づきだとは思いますが、お分かりでない方ももう少しで「うわっ!」となりますよ。笑

 

 

と、この神社で発見した最後の驚きはここにまさかの『三峯神社(みつみねじんじゃ)』・『御嶽神社(みたけじんじゃ)』が社務所(鳥居を入ってすぐ左側)の斜め前にありました。

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これにはさすがに目を疑いました。

なぜこんな所にと!

 

 

三峯神社』は言わずと知れた日本でもパワースポットとして最も有名な神社のひとつなのでお伝えするのはいつかの機会にと思いますが、ここを守る狛犬は大変珍しく『狼』なんですね。

 

 

そして、自分的には凄く身近であった『御嶽神社』。ここも実は『狼』が狛犬なんですね。(私が知っているのは東京都青梅市にある「武蔵御嶽神社」ですが。)

 

また、御嶽神社の総本社は修験道の神である「蔵王権現」を祀っている奈良県吉野にある世界遺産のひとつにも含まれている『金峯山寺(きんぷせんじ)』あり、創立者は先程も出てきた「役子角」と伝えてられています。

さらに、この金峯山寺は江戸時代には徳川家康の命で『天海』が創建した『日光輪王寺』(天台宗)の傘下になりました。

 

 

と、ここでお気づきでしょうか?

先程も上げた「坂本」・「見ざる・聞かざる・花ざる」で有名な『日光東照宮』・そして『天海』。

 

そうです。来年の大河で主役の『明智光秀』が浮かび上がってくるのです!

 

 

何故かと言うと、「坂本」とは明智光秀が城主であった坂本城から取ったとされ、さらには日光東照宮は天海が創建した徳川家康の霊廟であり、小野照崎神社は元々は現・上野公園内に創建されており、天海が『寛永寺』の創建の際に今の場所に遷座したと言う事。

 

天海は実は明智光秀と言う都市伝説みたいなものが絶えず知れ渡っているのはご存知だと思いますが、こうしてみると中々面白い気がします。

 

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実際に、山手線の「鶯谷駅」を挟んで目と鼻の先に位置し、寛永寺江戸城の鬼門にも位置しています。

 

また、ちょっと面白いのが上記の地図の寛永寺と小野照崎神社のちょうど真ん中辺りに『旧陸奥宗光邸』と書かれているのがお分かりでしょうか?

 

この陸奥宗光は、あの薩長同盟を仲介した言わずと知れた英雄『坂本龍馬』と一緒に日本初の株式会社を立ち上げ、さらには明治維新後、外務大臣などを歴任し、「条約改正」(徳川幕府時代に行われた海外との不平等条約)を果たした人物です。

 

 

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(↑上図が「旧陸奥宗光邸」ですが、実際に見た時には少しショックを受けてしまうくらいに廃墟化していました。すみません、個人的な意見なので御勘弁を。)

 

 

と、この様に歴史も感じられた今回の参拝でしたが、実は寛永寺にも足を運んだので中々面白い神社仏閣巡りになりました。

 

 

最後にひとつ。

 

 

この小野照崎神社を江戸幕府が残したのは江戸城から「鬼門」の位置に元々はあり、寛永寺創建後にも近くに置いたのも主祭神である「小野篁」が閻魔大王の補佐役で『冥界の官神』とされおり、それにあやかり江戸城また江戸市内の守護神として祀られていたのではないかと思ってしまうTOTANでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.48

 

今回も『小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)』の主祭神である小野篁(おのたかむら)について、そして小野照崎神社について、お伝えしていきたいと思います。

 

 

まず主祭神である小野篁なのですが、本当に面白い逸話が御座いまして、それがなんと昼は朝廷で官吏(かんり)を、夜は地獄(他には冥界やあの世と言われています。)の主(あるじ)である『閻魔大王』のもとで裁判を補佐していたと言う事です。

 

 

なんじゃそりゃ!

ですよね。

 

 

これ、本当に平安後期から鎌倉時代に掛けての説話集で『江談抄(こうだんしょう)』や『今昔物語集』・『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』などに書かれており、その後もたくさんの書物でこのことが紹介されています。

 

 

例えば日本最も有名な小説の一つで、現・二千札にも描かれている『源氏物語』の著者でもある『紫式部』の先祖でもあり、「正一位」も後に贈られた『藤原高藤(ふじわらのたかふじ)』が急死した際に閻魔庁にいる篁が冥土から生還させたと記述されていたり、これもまた後に「正一位」を贈られ、私邸で「平仮名」で墨書が書かれた土器が発見され、国風文化の広まりを示す貴重な発見をされた『藤原良相(ふじわらのよしみ)』が病死した際に、篁のはからいによって蘇生したと記されています。

 

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少し余談ですが『源氏物語』に登場する「光源氏」と「明石の御方」の恋模様のモデルとなったとされるのが、祖先であるこの藤原高藤夫婦になります。

 

 

さらに『元亨釈書』と言う日本で初の仏教の歴史書にもなる書物には「矢田地蔵縁起」と言う物語が描かれており、京都の矢田寺(やたでら)を「送り鐘」・六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)を「迎え鐘」として死者の霊が迷わずにあの世へ送れるようにと鐘をつく信仰があるのです。

 

 

また、この六道珍皇寺は死の世界に行く道(井戸)と京都の嵯峨にあった福正寺は生に帰ってくる道(井戸)があったとされており、六道珍皇寺には篁作といわれている「閻魔大王」の木像が安置されています。

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そして、この閻魔大王は日本の仏教では『地蔵菩薩』と同一視されているのです。

その理由は閻魔大王は地獄の番人(裁判長)であり、地蔵もまた「地」と言う字からの連想によって大地や地下(地獄)を守るする菩薩であり、それによって「閻魔大王地蔵菩薩」と言う信仰が生まれました。

 

 

また、地蔵菩薩は『賽の神』であり、この賽とは賽の河原の事で、不慮などにより親よりも先に亡くなってしまった子供が三途の河原で石を積むのを鬼に崩されてしまうのを守るのがこの地蔵菩薩なのです。

 

 

この為に、地蔵菩薩に子供を亡くした親御さん達などがよだれ掛けをしたり周りに風車を指して、子供が安らかにあの世に行けるように願うと言う信仰になったのです。

 

今でも日本三大霊山のひとつの『恐山』ではその模様がある意味での代表的なものとなっていますよね。

何も知らずに見るとやはり少し異様な光景で怖い雰囲気ですが、このような背景を知るとまた違った見方になってしまうのが不思議な感覚になります。

 

(七五三もある意味では同じような事で、7歳までは神の子として、いついなくなってもおかしくないとして扱われていて、日本では奇数が良い数字と言う風潮があり、その為に7歳・5歳・3歳と言う節目でのお祝い事が現在でも行われている行事事なのです。

ちなみに自分の子供も2019年の今年、七五三が長女と長男であり、出費が激しいので頭が痛い思いをしています。泣)

 

 

さて、話を戻しますがこのような小野篁主祭神としている『小野照崎神社』ですが、もう少し面白い話があり、それがいくつかあるのでこれは次回にまたお伝えしたいと思います。

(何故なら、毎回のごとく話が長くなり過ぎてしまった為。申し訳ありません。)

 

と言う事で、次回もお楽しみにして頂きたいと思いますので、よろしくお願いします。

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.47

 

今回は令和の『大嘗祭』に関連して、もうひとつ御朱印をいただきました台東区にある『小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)』についてお伝えして行きたいと思います。

 

この神社は元々は主祭神である『小野篁(おのたかむら)』が、上野の照崎(現在の上野公園)の地に父の岑守(みねもり)が東征を朝廷から命じられ一緒に東北に向かいその時、一時住んでいた縁から篁が逝去した際に創建されました。

 

 

その後、徳川幕府の時代にこの上野の地に寛永時(徳川の菩提寺)を建立すると言う国策によって現在の地に遷座されました。

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と、ここで少し話はずれますが、この主祭神である『小野篁』について面白い話をお伝えしたいと思います。

 

まず、祖先が名前からご察しのつくように、あの第33代推古天皇の時に摂政として活躍していた厩戸皇子の命で、隋(現在の中国)に派遣された「遣隋使」でも有名な「小野妹子」になります。

何かと、妹子は出てきますねぇ。

 

そして、父の岑守は「征夷副将軍」として、現在の関東・東北地方など北方の地域(蝦夷)を征伐する官職につき、陸奥守に任じられていました。

その際一緒に篁も父に従い陸奥国に赴いていたのですが、その時期は弓や馬をよく練習し、帰京後もそればかりしか精を出さずに、学問を一切しないようになってしまったので、時の天皇である第52代天皇嵯峨天皇に「なぜ、このようになってしまったのか?」と嘆き悲しまれました。

それを聞いた篁は深く恥じらい、悔い改めて学問を志すようになり、律令制の官僚候補生たちに歴史を教える(当時は主に中国史)教授にまでになりました。

 

また、「明法道(みょうほうどう)」と言う明経法(儒学)と数学の2つで構成された学科にも非常に長けており、『令義解(りょうぎのげ)』にも深く関与するなど、政務能力に優れていました。

(令義解とは「大宝令」・「養老令」と律令をまとめた解説書で、法的に効果があった)

 

さらに、平安初期屈指の詩人・和歌も優れており「古今和歌集」など天皇上皇の命で編纂された歌集である「勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)」には14首も選ばれています。

 

 

その中で自分が一番親しみやすかったのが「小倉百人一首」の11番目である「わたの原 八十島(やそしま)かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまの釣船」

ですかね。

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これは嵯峨天皇の怒りを買い、流刑になった際に読まれた和歌で、意味は「広い大海原をたくさんの島を目指して漕ぎ出していったよ、と都にいる人々に伝えてくれ、漁師の釣り船よ。」と言う意味になり、何か寂しげな心情が伝わってくる様な気がしますね。

 

 

ただし、この2年後には帰京が許され、本来の才能から官位にまで上り積めるわけですが、ここで面白いのがあの「秋田美人」の由来ともなり、「小倉百人一首」では9番目の和歌にもなっている『小野小町(おののこまち)』は篁の孫と言う説があるのです。

なんと言う因果関係なのでしょうか。

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また、それまで中国的な書風から和様的書風(日本的)の基礎を築いた『小野道風(おのみちかぜ)』も篁の孫になります。

この道風の作品は『智証大師諡号勅書(ちしょうだいししごうちょくしょ)』など、国宝になっているものが幾つもあります。

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一族で和歌や書に優れているのがこれを見てもよく分かりますね。

 

さて、今回は区切りが良いのでここまでにしまして次回はもう少しだけ小野篁の話をしたいと思います。本当に面白いですよ。

 

神社仏閣に引き寄せられvol.46

 

さて、今回は前回同様、品川区にある『蛇窪神社(へびくぼじんじゃ)』、そして行けたら台東区下谷にある『小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)』についてお伝えしたいと思います。

 

 

まず初めに前回お伝えした蛇窪神社ですが、この神社の創建は鎌倉幕府の第2代執権(執権とは鎌倉殿の補佐をして政務を統轄していた官職の事を言います。また、鎌倉殿とは鎌倉幕府を統轄していた武家の棟梁のことで、当時の武士は鎌倉殿=鎌倉幕府を指していました。

また、『平家物語』では鎌倉殿=「源頼朝」のことを指しています。)

北条義時の三男の重時の五男が仏門に入り「法圓上人」となり、現東京都の大田区大森にある「厳正寺(ごんしょうじ)」を開山しました。

そして、その家臣たちがこの蛇窪付近に移り住みこの為、現在でもこの地域付近では厳正寺の檀家が多く見られます。

 

 

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(↑上記の写真は鎌倉の鶴岡八幡宮

 

とここで少し話はズレますが、この法圓上人の兄弟で長女の「葛西殿」は5代執権北条時頼正室となり、後に8代執権北条時宗などを産んでいます。

 

また、時頼は得宗専制(伊勢平家一門である、北条氏一門で鎌倉幕府の実権を握り政務を執り仕切る事)の先駆けとなり、その子の時宗の時代に最盛期を迎えます。

 

そして、鎌倉幕府の最後の執権・北条守時赤橋守時)や、室町幕府初代将軍・足利尊氏(尊氏の正室はこの北条守時の娘)も法圓上人の父である北条重時の玄孫になります。

 

その為、重時の子孫が鎌倉幕府室町幕府の実権を握っていた事になり、またその祖先である伊勢平氏には武家政権を初めて確立した「平清盛」がいる事から、豊臣政権以前では源頼朝以外は全ての時代でこの伊勢平氏が政権を握っている事になります。

(2代将軍頼家・3代将軍実朝は頼朝と妻である北条昌子の子供の為)

 

 

 

さて話は戻しまして、蛇窪神社ですが法圓が厳正寺を創建してから半世紀後の2代目当主で法圓の甥である法密上人の時にこの辺り一帯が大飢饉に襲われるのが必至な程の旱魃(かんばつ)になりました。

そこで厳正寺の北西(戌亥)の方角にある龍神社に雨乞いの断食祈願したところ、大雨が降りこの危機を免れることが出来ました。

これに感動した法圓の旧家臣たちは蛇窪の地に神社を観請(神社を移す事)し、現在の地に蛇窪神社が創建されました。

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余談ですがこの戌亥(北西)の方角は陰陽道では、怨霊や魑魅魍魎(山や川の妖怪)などの災いが出入りする方角と言われおり、「天門」と呼ばれています。その為、この方角の神社で祈願しました。

 

 

また、その後この神社に湧き水が出る洗い場に白い蛇が住んでいましたが、時が過ぎ洗い場が干上がってしまった為に現在の戸塚公園の池に移り住んでしまいました。

ある時にこの地に古くから住んでいる森谷氏の夢枕に白蛇が現れ「一日も早くもとの住みかに帰して欲しい」と懇願し、そのことを神社の宮司に話し、宮司は弁天社を創建する事に決め白蛇を祀る事にしました。

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そして、この神社の主祭神はアマテラスとなっており、配祀はタケミカヅキの子の天児屋命アメノコヤネノミコト)・応神天皇になっています。

 

その為に、令和の大嘗祭の際にも特別御朱印を配布したわけですね。(これは自分の見解なので、あしからず。)

ただ、個人的にはかなり気に入っている御朱印になっています。

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また、この神社は『東京福めぐり』と言う特別御朱印も頂ける神社となっていまして、先程も上がった戸越公園の近くの戸越八幡神社もこの中に入っています。

何か『福』に縁があるのがこれを見ても分かります。

 

 

と、ここまで蛇窪神社についてお伝えして来ましたが次回は台東区にある『小野照崎神社』について、お伝えして行きたいと思いますので、ご期待お願い致します。

(やはり、行けなかったかぁ。)

 

 

 

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.45

かさて、今回は令和の『大嘗祭』に合わせて特別な御朱印を配布していると言う神社(今しか頂く事が出来ない)に行って来ましたので、それをお伝えしたいと思います。

 

 

と言うのも少し前にTwitterを始めまして、きっとハッシュタグ「#」から引っかかったんでしょうがいくつかの神社が「おすすめユーザー」と言うので出てきたんですねぇ。

その中でいくつかフォローさせて頂きさらにフォローして頂きまして、そのフォローして頂いた神社(きっと広報部だと思いますが)は他の神社もフォローしていまして。

 

そしてその中で気になってしまった大嘗祭限定の御朱印がいくつかあり、デザインも気に入りこれはどうしても欲しいと言うよりも、何か行かなければ行けない様な思いが強くなり、今回2つの神社に参拝させて頂き御朱印を授与させて頂きました。

 

 

その2つの神社と言うのは品川区にある『蛇窪神社(へびくぼじんじゃ)』と台東区にある『小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)』です。

 

 

まず最初に品川区にある蛇窪神社に参拝しに行って来ました。

ここは事前に調べたのですと最寄駅が東京メトロ浅草線の「中延駅」にありました。

何か遠い気が…。

と言うのも浅草線はそれこそ浅草に行く為には使った事はありますが、逆側には一度も使った事が無い。さらに品川区と言うのがほとんど土地勘が無いので余計に遠く感じてしまいました。

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しかし、そんな事を言っていてはどこにも行けないし腹をくくろうと思い、まさかの1人で強行突破で向かったわけです。

(正直、今まで家族としか神社を巡った事が無かったのですが、初めて1人で神社に参拝しました。)

 

 

 

そして、蛇窪神社に向かったわけですが自宅を出た時間帯により少し経路が変わってしまいました。それがなんと新宿から湘南ライナーに乗り換え4つ目の駅にある「西大井駅」だったのです。

どこそこ?と言う方も沢山いると思いますが、実はこの駅は非常に縁の深い駅でありまして。

 

そこがNSC吉本総合芸能学院)‼︎

 

実は私、お笑い芸人を目指していたんですねぇ。高校卒業後にすぐに行ったのでかれこれ18年前にもなりますが…。笑

高校生の時から文化祭で漫才、コントをやっていた私が最初に1人でやったネタ見せの時に同期から爆笑を取った事、そして講師から言われた一言は今でも忘れる事が出来ません。

その一言と言うのが「キミ、芸人みたいやなぁ。それやとアカンで。今いる芸人と一緒や。もっと違うもん考えんと。」

 

これには衝撃を受けましたね。

 

 

痺れました。

 

 

その後も井の頭恩賜公園などでゲリラライブをやったり色々と技を磨いていたのですが、私自身が大学を2回留年してしまいまして本格的に仕事に専念出来なかったと言う事で解散してしまいました。

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(↑当時の養成所跡。いまは保育園になっていました。)

 

と、ここから歩いて5分程で蛇窪神社に着きました。

Googleの経路案内だと8分と表示されていました。)

 

 

この神社は名前の如く、蛇を祀っている神社でしかも「白蛇」と言う縁起も良く金運にはとてもご利益があると言う神社です。

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この日はちょうど『七五三』でたくさんの地元(多分ですが)の方々がいらしてました。

その様子を見ているだけで何故か心が穏やかになってしまいますよね。

(私の長女も今年、七五三をやるので特に着物には気になってしまいました。私も含め妻と義母が和服が大好きなもんで。)

 

そんなこんなで子供の晴着姿を見て鳥居を潜ると、いきなり白龍神様が出て参りました。

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これは本当にご利益ありそう。

 

 

ちょっとここまで私的な話が長くなってしまったので、次回はもう少し詳しく蛇窪神社について、そして2つ目に行った小野照崎神社についてお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.44

 

今回は『大嘗祭』についてもう少しだけお伝えして、と言うのは大嘗祭の直後に行われる『大饗の儀』と言う、参列者に向けて酒や食事や、悠紀国・主基国の芸能(舞など)を振舞う会です。

これは、悠紀国・主基国の風俗舞(これは大嘗祭ごとに新作)を両国の地名の入った歌を披露したり、両国から推薦された15種類の農林水産物を献物として会の開かれる所の正面に並べて、その色目を式部官長(宮内庁の儀式や雅楽を担当する部署の長)がこれを奉上します。

 

そして最後に天皇皇后両陛下が挿花を参列者に供します(贈る)。

 

また、古来では大嘗祭が11月の2回目の「卯の日」に行われいたので、翌辰・巳・午日にこれが行われおり、辰・巳日は直会(なおらい)の意味を目的としており(神社に於ける最後に祭祀に参加者一同でお神酒や神饌を食する事)、3日目の午日はこれよりも少しくだけた宴会の様な形で行われいました。

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(↑上記の御朱印は品川区の蛇窪神社で2019年11月9日から3000枚限定で配布しています。)

 

そして、大嘗祭がこの様な儀式として明確に行われ始めたのは第40代天武天皇・第41代持統天皇の頃時代になります。

 

天武天皇は歴史の授業にも取り扱われいる様に、「壬申の乱」で勝利した大海人皇子が即位して天武天皇になりました。そして、『元号』を始めて使い、「大化改新」を成し遂げた天智天皇の弟でもあり、自ら政務を行い天皇史上、まれな権力を集中させ、地方豪族を排除し皇族を要職に就かせる『皇親政治(こうしんせいじ)』を行い、古代天皇専制の頂点を極めました。

 

さらに、『日本』と言うことばを始めて使う他、『天皇』と言うことばも始めて使う人物でありました。

その皇后であり、第41代天皇である『持統天皇』。この天皇は「小倉百人一首」の2番目の歌でも有名ですが1番目の天智天皇の娘になります。

と言う事は、叔父と姪の結婚と言う訳ですね。

 

そして夫である天武天皇の方がイメージが強すぎてあまり知られてませんが、『飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)』と言う日本で最初の律令体制の体系を編纂した人物なのです。

 

これは天武天皇が元は行なっていた事業でその意思を継ぎ編纂され、班田収授など律令制の骨格を本格化させ、孫である第42代文武天皇が完成させた『大宝律令』によってこのプロジェクトを成功させています。(この制度により初めて国号を『日本』になりました。)

 

さらに天武天皇の念願であった『伊勢神宮』の『神宮式年遷宮』を持統天皇は成功させ、(第一回神宮式年遷宮)さらに藤原京(ここが初めて碁盤の目状の都市作りになりました。)や、史上初の『太上天皇上皇)』になった人物です。

 

何か、ここ数年にあった事と似ている様な気がしませんか?

2013年の神宮式年遷宮(この年は『出雲大社遷宮もあり、かなり話題になりました)・2019年の先代天皇(現・上皇陛下)からの譲位継承と現天皇の即位(即位後の儀式なども含め)とおよそ1300年も継承されています。

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今まであまり気にしていなかった持統天皇を今回の大嘗祭によって深く知ることが出来たのも何かの巡り合わせなのかなと感じました。

(実は小倉百人一首は小学生の頃からやっており、去年の正月にこれを買って子供と一緒に楽しんだ所でした。)

 

と、この様に日本人の中に自然と入っていたものも過去の歴史があり、それを皆が共有していると言うのがなんとも言えない面白さ。

これが伝承やら伝統と言うんですかね。

 

日本人に生まれ良かった!

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられてvol.43

前回、前々回とお伝えしてきた『大嘗祭(だいじょうさい)』ですが、お伝え忘れた事が少しあったので、もう少しだけお付き合い下さい。

 

大嘗祭』の神饌(しんせん)の中で最も重要なものは稲になります。(神饌とは神様に供える酒や食物の事を言います。)

その稲を収穫する田んぼのことを「斎田」と言い、大嘗祭を始めるにあたって、まずこの「斎田」を選ぶ事から始めます。

 

そして、この祭祀は同じ所作(しょさ)を2回繰り返して行われる事からこの「斎田」も2カ所あります。(所作とは振る舞いや踊る事を意味しています。)

この2カ所の事を『悠紀(ゆき)』・『主基(すき)』と呼び、前者が大嘗宮(大嘗祭が行われる場所)の東の悠紀殿・後者が西の主基殿に神饌されます。

 

さらに、原則として悠紀は西国から、主基は東国から選ばれていましたが、古代はその選定の場所は吉凶をあらわす占いによって選ばれていました。(この占いの事を「ト定」と呼びます。)

 

また平安中期の第59代目天皇である『宇多天皇』以降は京都から見て東にある悠紀は近江国(現・滋賀県)から、また西にある主基は丹波国(現・京都府など)と備中国(現・岡山県)から選ばれていました。この悠紀・主基に選ばれた国を『斎国』と言い、明治時代以降は京都から東・南の18都道県の地方を悠紀、西・北の29府県の地方を主基と定められました。

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さらにこの場所は亀の甲羅に熱を加えそのヒビを見て占い場所を決めているのです。(この占いを「亀ト」と呼びます。)

と言う事は、亀トを行い斎田をト定すると言うことですね。

(要約すると亀の甲羅に熱を加え、悠紀・主基の場所になる斎田を占いで選ぶと言う事になります。

 

さて、ここまで悠紀・主基についてお伝えしてきましたが最後に大嘗祭の流れについてお伝えしていきます。

 

まず、大嘗祭の前日に『鎮魂祭』と呼ばる天皇陛下の霊を大嘗祭と言う重要な祭祀を行う前に魂を強化させる儀式を行います。

 

そして、大嘗祭当日は悠紀殿・主基殿に斎田から持ち込まれた米を炊き両殿に用意します。その後、天皇陛下は内裏を出て廻立殿に向かい帷(とば)と言われる祭服を着用したまま、沐浴をしその後湯に入ったまま脱ぎ捨てて新しい帷に着替えます。(廻立殿の儀)

 

その後、廻立殿から悠紀殿に渡御(天皇陛下やかつては将軍がお出ましになる)します。その際、天皇陛下が通る通路に真薦(まこも)と呼ばる天皇陛下が通る時のみに使われるものが敷いてあり、通る直前に従者によって広げてられます。また、『三種の神器』のうち『八尺瓊勾玉』と『草薙剣』(この2つで『剣璽』と言います。)を持った従者、天皇陛下天皇陛下の祭服を持った従者がここを通り終わった直後にこれは終われます。

この時に現れる道を『御筵道(ごえんどう)』と呼びます。

 

その後、天皇陛下は悠紀殿の外で着御し、剣璽は上座に奉安(安置)されます。その際にこれに付き添った皇太子も含めた男性皇族は『古忌幄舍』に入り、続いて皇后陛下・女性皇族が進み、皇后陛下は『帳殿』、女性皇族は『殿外古忌幄舎』に入ります。(ただし、女性皇族の列席は大正以降からになります。

 

そして、この日に参列者がここに入り、古風(古代から吉野に伝わる歌)・悠紀国・主基国の国つ神からの寿歌(その地に古代から伝わる歌)などの行事が行われ、その後『神饌行立』が行われます。

 

天皇陛下は神饌が用意されると古代から伝わる方法で、自ら箸をとり規定の数だけを神供(神に供物を献上する)すると、『御告文』(歴代の天皇の霊に告げる文)を奉すります。この時は参列者全員が起立をしています。

 

その後、天皇陛下自らが神饌を聞き召さられ(飲食をする)、それを聞き召さられた後に撤下され、天皇陛下も廻立殿に還御(還る)します。(この時も渡御と同様に御筵道が現れます。)

 

そして次に、主基殿に渡御しますが全く同じ祭礼が行われます。また、天皇陛下はこの全ての行事が終えてもこの日は内裏には戻らず、大極殿(正殿)で朝を向え、全ての儀式が終わります。また、神座も全ての儀式が終えた後に全て撤去します。

 

 

と、ここまで一連のの流れをお伝えしましたが聞いているだけでも大変な儀式であり、伝統的で古来から重要視されてきた儀式だと言うのが分かります。それは『新嘗祭』が『勤労感謝の日』の祭日になる訳だと思いました。

 

また、今回の令和の悠紀国は栃木県で「ちちぎの星」・主基国は京都府で「キヌヒカリ」が精米で180Kg・玄米で7.5Kgが奉納されました。

 

 

とここまでかなり長くなってしまいましたが、最後に大嘗祭後の11月21日から12月8日まで、この儀式が行われる『大嘗宮』が一般公開されるそうなので是非足をお運びください。

 

 

 

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられてvol.42

前回は『大嘗祭(だいじょうさい)』の際に用いる麻織物の『麁服(あらたえ)』ですがこれは、徳島県の剣山付近にある『阿波忌部(あわいんべ)』と言う古代から朝廷に仕える職能集団の『三木氏(みきし)』のみが天皇陛下に供進出来ると言うのをお伝えしました。

 

そしてもう一つ、絹織物である『繪服(にぎたえ)』と言うのもある限定的な地域からこの時に供進されます。それが三河国(現・愛知県)になります。

ここは徳川幕府・初代将軍の家康の出身地でもある事でも有名ですが、さらに古代では「大化改新」後には国造(くにのみやつこ)と呼ばれる地方を治める官職で、特に祭祇を司る世襲制の名誉職になったが、それ以前(古墳時代からヤマト政権)では、軍事権や裁判権を持った役割を果たしていた官職で、この三河国に深く関係を持った国造を、優先的に郡司(中央から派遣された地方を治める官職の事)を派遣されていました。

それほど、この地が重要であると言うのが分かりますね!

また、面白い事に剣山(麻織物の麁服)と三河国(絹織物の繪服)の一宮である『砥鹿神社(とがじんじゃ)』を結ぶと奈良県橿原市がちょうど中央の位置になります。

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この橿原市は初代天皇である『神武天皇(じんむてんのう)がこの地で即位・建国したと言われている場所でさらには『神武天皇陵』や『橿原神宮(かしはらじんぐう)』さらには日本で最初に作られた都城の『藤原京』があった場所になるのです。

橿原神宮神武天皇の宮である橿原宮があった言われている場所に明治に入り、この地に神宮を建てました。)

 

何かこの話を聞くと偶然とは思えない様な場所に3つが存在していますよね!

本当に面白い‼︎

これは必然的に建てられたとしか思えません。

 

日本には不思議なことにこの様に重要な場所を結べる(レイライン)が幾つかあるんですねぇ。

 

と、話を戻しまして『あらたえ』と『にぎたえ』と言うのがもう一つあるのです。

それが伊勢神宮(内宮)で天皇陛下の皇祖神である天照大御神を祀る皇大神宮荒祭宮にのみ毎年5月と10月の14日に麻織物の『荒妙(あらたえ)』と絹織物の『和妙(にぎたえ)』を奉る祭典があるのです。

その祭典が『神御衣祭(かんみそさい)』と言い、『神嘗祭(かんなめさい)』(神嘗祭とは内宮で天照大御神にこの年に収穫された新穀をお供えすると同時に感謝する祭事です。)とともに伊勢神宮(内宮)でも格別の由緒あるお祭りになります。

新嘗祭』は皇居で行う祭事になるので、どこでやるかは名前で判断すると分かりやすいですよね!

 

さらに面白いのが毎年行われてる『新嘗祭』では天皇陛下が自らで作られた新穀を神に捧げるのに対し、『大嘗祭』では国民が作った新穀を神に捧げると言う事も伝統的で、これは天皇陛下にとっても即位後の年に、一世一度の大切な儀式であり、本当に国民の安寧を祈っていると言う事からも分かります。

 

と言うのすら、おこがましいのですがね。

 

さて、今回の『令和』の大嘗祭は11月14日・15日に行われますがそれ以前は11月23日に行われていて、また新嘗祭はこの日に行われています。その理由としては元は冬至に行われてその後、太陰暦の11月の二の卯日に行われるようになりました。

その後、明治時代に入り、明治政府から『国民の休日・祭日』の『新嘗祭』が定められましたが、戦後GHQから『勤労感謝の日』に変更され今に至るわけです。

と言う事は、本来の意味は「天皇陛下が国民の安寧の為に祈りを奉る事」に対して、感謝する日と言う意味なんですね!

もちろん、私たちや先人達勤労者に対しての感謝する日でもあるのですが。

 

 

と、今回は2回に分けて『大嘗祭』についてお伝えしてきましたが、また沢山面白い事が発見出来て、さらに神社仏閣・そして皇室について興味深くなりました。

 

令和と言う時代がどうなるかが楽しみですが良い時代になって欲しいものです!

 

それでは、また次回も楽しみに‼︎

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.41

今回は『大嘗祭(だいじょうさい・おおなめまつり・おおにえまつり)』についてお伝えしたいと思いますが、この儀式は天皇陛下が『一世に一度きりで、天皇陛下が即位した直後の「新嘗祭(しんじょうさい,にいなめさい・にいなめまつり)」』になります。

新嘗祭」とは11月23日に天皇陛下が国家・国民の安寧を祈り、五穀「稲作物・鮮魚・干物・果物・鮑やミル貝の羹(アツモノ-)などの汁物」を天照大御神を始めとする天神地祇天津神国津神の事)に御供えをし、さらに天皇陛下自らも口にしてその年感謝を祈念する事です。

そして、大嘗祭邇邇芸命ニニギノミコト)が天孫降臨の際に天照大御神から稲穂を授かりそれを聞こし召す(食べたり飲んだりする事)で天照大御神の霊威を授かると言う伝統を、即位後の年に天皇陛下が行う事によって、天皇陛下自身に天照大御神の霊威を授かると言う儀式であり、皇室行事になっています。

 

また、新嘗祭はこれを更新する為の皇室行事になっており、前者も後者も御祭服は両者共にだけ、純白の生織りのままの麻で織られた天皇陛下が祭事に際に着る中で最も清浄で神聖な服装の麁服(あらたえ)と言う服を着ます。

 

と、ここで面白いのがこの麻を使い麁服を作り宮中に献上出来るのは、現徳島県の剣山近くの集落にある吉野川市にある『忌部神社(いんべじんじゃ)』で織られたもののみであり、古代から朝廷祭祀であった『阿波忌部氏』の末裔の『三木氏(みつきし)』だけになります。

 

そして、以前お伝えした鹿島神宮・皇居・富士山・伊勢神宮・高千穂のレイラインを覚えいるでしょうか?

このライン上にある場所は夏至冬至の日の出・日の入の時にピタリと一直線になるのですが、まさかの剣山もこのレイライン上に当てはまるんですね!

この場所を選んだ理由はもう必然的にしか思えないですよね!

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さらにこの剣山は実は古代ピラミッドであって人工的に作られたものだと言われていたり、この場所に『ソロモンの秘宝』が隠されいると言う都市伝説があります。

この『ソロモンの秘宝』とは『十戒の石版』『アロンの杖』『マナの壺』であり、それを入れた特別な箱である『契約の聖櫃(せいひつ)』が隠されいると言われており、それを物語る様に、この剣山にある『磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ)』には主祭神天照大御神ですが、『五社三門』と呼ばれている5つの祈壇と3つの入り口がありこれがユダヤの礼拝所と酷似しているのです。

(この神社自体も1000年以上続く神社です。)

 

また、鶴岩・亀岩と言う場所には童謡の「かごめかごめ」が深く関わっており、かごめは「籠の目」でこれはダビデの紋章になり、また「夜明けの晩」は夜が明けるとなり、「ヨハネ(キリストの使徒)」になると言うのです。そして、剣山はかつては「鶴亀山」と書いてつるぎやまと記されていたと言う文献も残っていたり、『栗枝渡神社(くりしどじんじゃ)』はキリストから名前が来ていると言う説があります。

 

そして、「天地一切の悪運を断ち現世で最高良縁を結ぶ」と言われている『大剣神社(おおつるぎじんじゃ)』など様々なミステリースポットがある場所になっています。

 

と少し話がズレてきてしまったので今回はここまでにして次回も大嘗祭について少しお伝えしたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.40

(令和元年(2019年)10月22日に行われた天皇陛下の『即位礼正殿の儀』ですが、なんと言いますか。驚きと感動、そして日本人であり良かったと思いかつ誇りにも感じる日でしたね。

 

今回の儀式は明治以降、生前退位と言うのは無く現在生存されている方(当たり前ですが自分も含めて)には未経験な体験でしたが、日本国民も含め全世界が感心を持った儀式でしたね。

それを証明するにテレビの視聴率は20%超え、または全世界のSNSでも話題になった程です。

(視聴率20%超えと言う事はその時間にテレビを見てる日本国民だけで5人に1人以上はいると言う事になり、ラジオで視聴されてる方や現地に来れた方、またあえなく仕事があった方などを含めたらもっと多くの日本国民が今回の儀式に関心を持っていたと思われます。)

 

と、この『即位礼正殿の儀』ですが平安時代にはすでにこの儀式が行われており、この原型は古墳時代にあり、天武天皇の時代にはこの儀式のしきたりが確立されていったと言われています。

さて、この『即位礼正殿の儀』ですがこれは、国内外(世の中)に対して皇位継承が行われ即位する事を宣明を致す儀式で、そこには皇族・世界各国の国家元首・日本の三権の長(立法・行政・司法権)などが参列致します。

また、この儀式は国内外に示す皇室儀式の中でも最高の儀式になり、『三種の神器』のうち剣璽草薙剣八尺瓊勾玉)・御璽(天皇が用いる公式な印章)・国璽(国家の表徴として用いる公式な印章)を継承すると共に、唯一天皇陛下のみが許された玉座である高御座(皇后陛下は御帳台に昇ります)にこれを安置し、全世界に対して『御言葉』を申し上げられ、宣明致します。

剣璽等継承の儀はこの日の当日、即位礼正殿の儀が行われる前に行われる儀式でここで剣璽・御璽・国璽の継承がなされます。)

そして、参加者は皇族・内閣総理大臣三権の長国家元首(各国の国王など)・各界の著名人などが参列致します。

その後、参列された方を招待し晩餐会が開かれますが5日に渡って繰り広げられます。また、今回は和食(日本食)をベースにした料理が出されたそうですが、これは和食が世界無形文化遺産に選ばれた事や、来年に東京でオリンピックが開かれる事で、世界にもっと知って欲しいと言うのがあったからとされています。

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(今回のメニューの一部ですが、箸が苦手な方の為にナイフとフォークも用意してあります。)

 

とここで、テレビなどでも話題になったのが天皇陛下が高御座で『即位礼正殿の儀』を行う直前に今まで雨がずっと降っていたのに、止んで更に虹が掛かると言う神懸かりの様な出来事が起きました。

しかも、元々この『剣璽』のうち『草薙剣』は『天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)と呼ばれており、これを使用する際には必ず雨が降る言われている神剣で、それをも断ち切るはやはり天照大御神(太陽神)の正統なる末裔だからなのでしょうか。

本当に不思議で凄くですよね!

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と、今回は神社仏閣は出て来ませんがそれに関係のある天皇陛下の『即位礼正殿の儀』をお伝えしましたが、次回は『大嘗祭』についてお伝えして行きたいと思いますので、ご期待ください!

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.39

今回は宮城県にある『鹽竈神社(しおがまじんじゃ)』についてお伝えしたいと思います。

ここは前回もお伝えしましたが、陸奥国の一宮になっており、古くから東北鎮護として朝廷、また庶民からの崇敬を集めて来ました。

奈良時代多賀城国府兼・鎮守府として建てられると、その東北の方角である「鬼門」を護る精神的な支えとしてこの神社が建てられ信仰があったとされています。

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そして、中世以降、奥州藤原氏をはじめ様々な武家からの崇敬を集めて特に江戸時代には伊達政宗以降、全ての当主が大神主を務める様になりました。

それは主祭神で左右宮に祀られているタケミカヅキ・フツヌシノカミが古事記・日本書記に登場する軍神であり武家からたくさんの崇敬を集めていた事からが理由とされています。

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また、別宮(この神社の場合は特別な宮と言う意味があります)にはシオチノオジが祀られており、この神様は前者の2柱を東北地方平定する際に案内役として務め、その後役目を果たしたタケミカヅキ・フツヌシノカミはそれぞれ鹿島神宮香取神宮に戻りましたが、シオチノオジだけがこの地に留まり地元の民衆に塩の製法を教えたとされています。

そこからこの地名の由来になったと伝わっています。

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またこの神社は少しで不思議な造りをしており、通常は鳥居または門に対して正面に主祭神があるのに対して、左右宮(タケミカヅキ・フツヌシノカミを祀っている宮)は南向きに、また別宮(シオチノオジを祀っている宮)は松島湾に背を向けて西向きに建てられいます。

その理由は鹽竈神社の大神主が伊達藩の歴代当主になっていて、青葉城仙台市青葉区)に向けて建てられおり、城から見れる様な配置になっています。

また、別宮のシオチノオジは海上守護の神様であるので、海難を背負ってもらう様な配置になっています。

ちなみになんですがこの神社は山の上にあり天気の良い時は松島湾が絶景として見れます。

その写真を撮り忘れたのが心残りでもあります。泣

そして、鹽竈神社伊勢神宮と同じく20年に一度の式年遷宮が定められているので綺麗な姿が保たれておりその信仰の深さを実感出来ます。

 

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また、この神社の末社の「御釜神社(おかまじんじゃ)」には不思議な釜が4つあり『四口の神釜』と言われているものがあります。これは『日本三奇』の一つとして数えられており、その理由はこの御釜の水は、日照りが続いても枯れる事がなく、雨が降っても溢れることもない不思議な御釜であり戦国時代以降、鹽竈神社の大神主となった伊達氏の仙台藩では「この水になにか異変があれば必ず報告せよ‼︎」と言う藩命も出たほどです。

初代藩主の伊達政宗が亡くなった際にも普段は赤茶に濁っている水の色が変わったと言うのが伝わっていたり、2011.3.11に発生した「東日本大震災」の際にも4つのうち2つの水が澄んでいたとされ、これを予言していたと言われる不思議な御釜です。

 

とこの様に、都市伝説じみたものもあったりと魅力的な『志波彦神社鹽竈神社』ですので一度は訪れて欲しい神社ですので、機会がありましたら是非ともッ!

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.38

今回はレイラインや結界と言うのからはちょっとズレまして、宮城県にある陸奥国一宮の『鹽竈神社(しおがまじんじゃ)』についてお伝えしていきたいと思います。

ここは元々、鹽竈神社のみが鎮座していましたが明治時代に志波彦神社(しわひこじんじゃ)が宮城県仙台市の冠川から遷座してきたことにより、現在では『志波彦神社鹽竈神社』と言うのが正式名称になっています。

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志波彦神社は『延喜式』神明帳にも記載されている格式のある神社で、この『延喜式』と言うのは10世紀初頭に朝廷から「官社」として認められた神社で、当時の政治的背景が強く見られています。

また、この神明帳に記載されている神社の事を『延喜式内社』と呼ばれており、その反対に当時から存在はしていたが朝廷の勢力からの範囲外の神社・または『熊野三社』など独自の勢力を持っていた神社・『岩清水八幡宮』など僧侶が管理をしていた神社などは『式外社』と呼ばれていました。

そして、『鹽竈神社』は式外社になっており、この地には式内・式外社が共に共存している場所になる訳です。また、鹽竈神社の方は陸奥国の一宮として鎮座しているので、両社とも格式の高い神社だと言う事がここで分かります。

また、国の天然記念物の「鹽竈桜」も有名で開花時には観光客がたくさん見物しに訪れるます。

 

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志波彦神社主祭神は『志波彦大明神』になります。この神様はあまり馴染みの無い神様ですが、鹽竈神社主祭神である『塩土老翁シオツチノオジ)』よりも格上の神様になり、その証拠にこの2社の正式名称も志波彦神社の方が先の名前が来ていて、明神大社として朝廷からも厚い信仰がありました。

また、志波彦神社は先述でも書いた様に、東山道から多賀城までの交通の要であった現・宮城県仙台市宮城野区岩切に鎮座していましたが、中世以降衰退の一途を辿ってしまった為に明治に入り現在の地に造営をする旨を明治天皇から奏上されました。

しかし、大正に入っても造営されなかったので政府に訴えてましたが、翌年の関東大震災により、その話もうやむやになってしまい次代の宮司が痺れを切らしてもう一度政府に強く訴えてかけ、ようやく昭和に入り着手されて今の地に造営されました。

この時に宮司が政府に「天下の一大事である。直ぐに取り次ぐべし!」と乗り込み、圧倒された係官が担当の大臣に取り次ぐと、大臣が「天下の一大事とは何事か?」と問いました。

そこで宮司は「明治天皇の思し召しでもある志波彦神社の造営をいつまで待たせるのか!」とさらに問いました。

すると担当大臣は「天下の一大事と言うから何事かと思えばそのような事か。」と答え、それに宮司は「神様の事と明治天皇の御意志をおいてこれに勝る一大事があるか!」と一喝し、ようやく政府が重い腰を上げたと言う逸話が残っています。

そしてシワシコはシオチノオジを協力した神様として伝えられており、国土開発・産業・農耕守護の神様として信仰になっていますが、この地周辺には「シワ」と言う地名が多くあります。これは「端っこ=シワ」と言う意味があり、朝廷がこの地まで勢力を拡大していった事が分かり、国津神(土着神)として、この地に住む民衆から深い信仰を集めてきました。

 

また、本殿・拝殿は鹽竈神社とは違い、ともに朱黒漆塗りの極彩色社殿になっており、全額国費で造営された最後の神社とも言われています。

 

さて、ここまで志波彦神社についてをお伝えして来ましたが、次回は陸奥国の一宮である鹽竈神社の事についてお伝えして行きたいと思いますので、ご期待下さい。