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TOTANの日記

神社仏閣 旅行 グルメ 日本神話 歴史

神社仏閣に引き寄せられvol.38

今回はレイラインや結界と言うのからはちょっとズレまして、宮城県にある陸奥国一宮の『鹽竈神社(しおがまじんじゃ)』についてお伝えしていきたいと思います。

ここは元々、鹽竈神社のみが鎮座していましたが明治時代に志波彦神社(しわひこじんじゃ)が宮城県仙台市の冠川から遷座してきたことにより、現在では『志波彦神社鹽竈神社』と言うのが正式名称になっています。

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志波彦神社は『延喜式』神明帳にも記載されている格式のある神社で、この『延喜式』と言うのは10世紀初頭に朝廷から「官社」として認められた神社で、当時の政治的背景が強く見られています。

また、この神明帳に記載されている神社の事を『延喜式内社』と呼ばれており、その反対に当時から存在はしていたが朝廷の勢力からの範囲外の神社・または『熊野三社』など独自の勢力を持っていた神社・『岩清水八幡宮』など僧侶が管理をしていた神社などは『式外社』と呼ばれていました。

そして、『鹽竈神社』は式外社になっており、この地には式内・式外社が共に共存している場所になる訳です。また、鹽竈神社の方は陸奥国の一宮として鎮座しているので、両社とも格式の高い神社だと言う事がここで分かります。

また、国の天然記念物の「鹽竈桜」も有名で開花時には観光客がたくさん見物しに訪れるます。

 

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志波彦神社主祭神は『志波彦大明神』になります。この神様はあまり馴染みの無い神様ですが、鹽竈神社主祭神である『塩土老翁シオツチノオジ)』よりも格上の神様になり、その証拠にこの2社の正式名称も志波彦神社の方が先の名前が来ていて、明神大社として朝廷からも厚い信仰がありました。

また、志波彦神社は先述でも書いた様に、東山道から多賀城までの交通の要であった現・宮城県仙台市宮城野区岩切に鎮座していましたが、中世以降衰退の一途を辿ってしまった為に明治に入り現在の地に造営をする旨を明治天皇から奏上されました。

しかし、大正に入っても造営されなかったので政府に訴えてましたが、翌年の関東大震災により、その話もうやむやになってしまい次代の宮司が痺れを切らしてもう一度政府に強く訴えてかけ、ようやく昭和に入り着手されて今の地に造営されました。

この時に宮司が政府に「天下の一大事である。直ぐに取り次ぐべし!」と乗り込み、圧倒された係官が担当の大臣に取り次ぐと、大臣が「天下の一大事とは何事か?」と問いました。

そこで宮司は「明治天皇の思し召しでもある志波彦神社の造営をいつまで待たせるのか!」とさらに問いました。

すると担当大臣は「天下の一大事と言うから何事かと思えばそのような事か。」と答え、それに宮司は「神様の事と明治天皇の御意志をおいてこれに勝る一大事があるか!」と一喝し、ようやく政府が重い腰を上げたと言う逸話が残っています。

そしてシワシコはシオチノオジを協力した神様として伝えられており、国土開発・産業・農耕守護の神様として信仰になっていますが、この地周辺には「シワ」と言う地名が多くあります。これは「端っこ=シワ」と言う意味があり、朝廷がこの地まで勢力を拡大していった事が分かり、国津神(土着神)として、この地に住む民衆から深い信仰を集めてきました。

 

また、本殿・拝殿は鹽竈神社とは違い、ともに朱黒漆塗りの極彩色社殿になっており、全額国費で造営された最後の神社とも言われています。

 

さて、ここまで志波彦神社についてをお伝えして来ましたが、次回は陸奥国の一宮である鹽竈神社の事についてお伝えして行きたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.37

前回、お伝えした『鹿島神宮』ですが『東国三社』に数えられており、その残りの2社を伝えたいと思います。

まずは『鹿島神宮』と一対として存在している『香取神宮』ですがここは本当に両社が似ているので、前回お伝えしたのがほとんどになってしまうのですが『鹿島神宮』の主祭神がタケミカヅキに対して、『香取神宮』の主祭神はフツヌシノカミになっています。

この2柱は「国譲り」の際にオオクニヌシとの交渉役にアマテラスによって選ばれ成功したその功績により「軍神・武神」として数多くの武将や民衆によってたくさんの信仰を集めて来ました。

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その様子が平安時代末期の歌集で後白河法王が編成した「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の中の歌に「関東の軍神は鹿島・香取・諏訪の宮」と読まれています。

また、タケミカヅキが『鹿島大明神』と呼ばれているのに対してフツヌシノカミは『香取大明神』と呼ばれ現在でも武道の世界では今でも武道の中に掛軸を掛けている場所も多く、NHK大河ドラマの『新撰組‼︎』でも香取大明神の掛軸が掛けられていました。

 

また、この両神宮は前回もお伝えした様にヤマト政権の蝦夷に対しての軍事的・貿易的役割を果たしており、その勢力は宮城県の一宮でもある『鹽竈神社(しおがまじんじゃ)』辺りまで影響力を占めており、朝廷から関西地区の神社以外に勅使(朝廷から派遣された使者)が派遣されている神社は、九州の大分県にある『宇佐神宮(うさじんぐう)』とこの両神宮のみでした。それも宇佐神宮は6年に一度に対して、両神宮は毎年派遣されていたと言う事からもいかに重要視されていた神社であるかが分かります。

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毎年4月14日・15日には例祭・神幸祭が行われておりこの神社では最も重要なお祭で6年に一度(子年・午年)には勅使が派遣されて参向されます。そして12年に一度丑年に式年神幸祭が4月15日・16日に行われます。

 

そして文化財としては国宝である『海獣葡萄鏡』と言う銅鏡があり、正倉院にこれと瓜二つの銅鏡がある事から古くから朝廷との関係性が伺える事が出来る他に、鹿島神宮香取神宮常陸国下総国のそれぞれの一宮になっており、この事から朝廷からも東の拠点として極めて重要視されていたことも分かります。

 

さて、ここまで『東国三社』2つをお伝えして来ましたが続いて最後の3社目の『息栖神社(いきすじんじゃ)』をお伝えしたいと思います。

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まずこの神社の主祭神は『久那戸神(クナドノカミ)』で古くから交通安全や災いを防ぐ神として崇拝されており、鹿島大明神香取大明神も東国の地に案内した神様であります。

また、神仏習合ではサルタヒコと同一神でもある事からやはり道案内(道しるべ)の神様として信仰を高めていったのだと思われます。

 

この神社は鹿島神宮からも近い事もあり摂社として扱われて来ましたが、朝廷からは元寇の際に国家安全の祈願の為に勅使を送るなどとしていたのでやはり重要な神社として認識されていました。

 

そして、一の鳥居には「忍潮井(おしおい)」と呼ばれている2つの井戸があり、それぞれ「男瓶・女瓶」となりこの井戸に顔を覗き込んで底が見えると幸せが訪れると言う言い伝えがあります。

またこの地は海水と淡水が混じり合う場所にも関わらず真水が湧き出てくる事から「押潮井(おしおい)」と呼ばれてる不思議な現象が起こり、『日本三霊水』のひとつにもなっています。

さらにこの神社の御神体そのものが井戸であるのも、古代から真水を重宝しそれを信仰の対象にしていた事分かり、さらに鹿島神宮の摂社で深い関係があるように軍事的・交通的拠点として、重要視されていた事が分かります。

 

と、この様に『東国三社』をお伝えして来ましたが、古代ヤマト政権に深く関係していた事が分かりました。そして、軍神を祀っている鹿島神宮レイラインの一番東にとして置いたと言うのも守護してもらい、平和な時代がいつまでも続く様にと言う願いが垣間見れる気がします。

 

さて、次回はちょっと脱線しまして、宮城県の一宮をお伝えしたいと思いますのでよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.36

さて、前回お伝えした『東国三社』ですが、この三社は江戸時代には伊勢神宮の参拝後に、関東地方・東北地方の人々に『下三宮参り』と呼ばれ、大いに信仰を集めて行きました。

そしてこの三社の位置が面白い事に直角三角形の形になっているんですねぇ。

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(上図が汚くて申し訳ありませんが、頂点は『息栖神社(いきすじんじゃ)になっています。)

 

さて、話は戻していよいよ『鹿島神宮』について話して行きたいと思います。

 

先程も書いたように『下三宮参り』は回る順番は特に決まっていないのですが高い割合で『鹿島神宮』から回る方が多いみたいです。

その理由がこの神社の主祭神である『タケミカヅキ』が軍神であることから、さまざまな武将が戦勝祈願の為にこの地に立ち寄って戦さに向かった事から、まずはこの神社からと言う習慣がついたようです。

 

この鹿島と言う名称は鹿が神の使いである事から名付けられたそうで、タケミカヅキを祖とする「藤原氏(中臣氏)」の氏神として祀った『春日大社』にも白鹿でタケミカヅキが降りて来て祀ったとあります。その関係からか奈良公園の鹿は全国的にも有名で、人間の方が鹿に気を使いながらの生活をしていますよね。

そして生まれたことわざが『早起きは三文の得』と言うもので、これはもう10年前ほどになりますが、奈良に旅行に行った際に人力車に乗った時に教えて貰ったのですが、この意味は実は「鹿は神の使いであるから万が一、自分の家の前で死んでいたら罰せられてしまう為に、朝早くに起きて確認する」事からきたことわざだそうです。

サッカーの鹿島アントラーズのキャラクターのデザインもそう言った意味からあのようになったのでしょうね。

また、今では武道でも信仰のある神社で自分が実際に鹿島神宮に訪れた時にも小学生が稽古している様子が少し見えました。私も小学生から剣道を習っていたのですが、もはや練習内容が違うのを見てこの地域が強いわけを実感し、驚きを隠せなかった事を覚えています。

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また、千葉県にある『香取神宮』とは一対の存在であり、古くから深く関係していました。その背景には「ヤマト政権」の蝦夷(関東より北)への軍事的輸送基地としての機能をもっていたとあり、この2つの神宮がその拠点になっていました。そのような事から東北地方沿岸部には各地で「鹿島・香取神宮」が祀られており、鹿島神宮の社殿が北を向いているのも蝦夷を牽制する為に建てられた配置になっています。

 

そして「鹿島・香取神宮」でも一位・二位を争う有名な「要石(かなめいし)」は前者が凹型・後者が、凸型となっており、これはかつては地震を引き起こすのは大鯰のせいだと言う事で、両神宮の主祭神のタケミカヅキ・フツヌシノカミがこの要石を杭として大鯰の頭(鹿島側)と尾(香取側)を抑えつけ守っていると言う伝承があります。

 

また、国宝である『韴霊剣(フツノミマタノツルギ)』や、三韓征伐の際に神功皇后からタケミカヅキの守護を受け勝利した感謝の意で献上した腹帯の、『常陸帯(ヒタチオビ)』が神宝としてあります。常陸帯は現在でも本殿深くの箱に納められており見ることは出来ないが、この伝承により現在でも安産祈願の為に特に「戌の日」に妊婦に腹帯授けると言う風習に変わって行きました。

 

さらに「延喜式神名帳に記載されている『神宮』は伊勢神宮鹿島神宮香取神宮の3社だけでその事からも古くから強い信仰を集めていたことが分かります。

 

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と、このようにレイラインの東の端に置かれた鹿島神宮ですがやはり古くから重要な場所だと言うのが分かりました。

次回は少し話がズレますが『東国三社』の残り2社の事について少しだけお伝えして行こうと思います。

 

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.35

さて、今回は前回もお伝えしたレイライン(東から鹿島神宮江戸城・現在の皇居→富士山→伊勢神宮→高千穂)が一直線に走っていて、風水上では、龍脈というとても良い気が流れている一番東にある『鹿島神宮』についてお伝えして行きたいと思います。

 

と、その前にこれも前回お伝えしたのですがこの上記に書いた場所は夏至の日の日の出と冬至の日の日の入がピタリと一致していて、さらに春分秋分の日の日の出と日の入りが諏訪大社とピタリと一致するという話をしました。

しかし、もう一つ不思議なことに『中央構造線』上、さらに『フォッサマグナ』にこれら全て重なりあっているのです。

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(上図の赤線が『中央構造線』、青線が『フォッサマグナ』です。)

この中央構造線とは世界第1級の断層で、この一部は活断層になっていて九州から関東まで縦断している大断層の事です。

またフォッサマグナとはかつて日本アジア大陸から離れまだ東と西の列島に分かれいた頃に北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界にある場所にあり、元々は海だった所がこの2つのプレートが重なりありその歪み(地震)によって隆起した場所の事です。

このように、今現在も地震大国と言われている我が国『日本』の構造を古代人はすでに知っていたかのように『聖地』と言われる場所や古くから『神社仏閣』を建て神に祈りを捧げていたというのが興味深いものを感じてしまいます。

そしてこの線上にあるのが例えば熊本県の幣立神社から高野山弘法大師としても有名な空海金剛峯寺を建てた山)、伊勢神宮諏訪大社、千葉県の香取神宮鹿島神宮と全て重要な場所にあるのです。

 

面白いですよね!

 

 

さて、話は戻り『鹿島神宮』ですがこの中でも一番東にある事から最初に日の出をする神社としても古くから強い信仰を集め来ました。

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ここの主祭神は『建御雷之男神(タケミカヅキノオノカミ)』でこの神様は出雲の国譲りの際に大きく貢献した事により軍神と呼ばれており・また雷神・地震の神様でもあります。

出雲の国譲りをする為にアマテラスから下界に降り任命をされたのがこのタケミカヅキと『経津主神(フツヌシノカミ)』の2柱でした。

「フツヌシ」は先程の中央構造線上の神社として出てきた『香取神宮』の主祭神になっており、この『鹿島神宮』・『香取神宮』は大和朝廷時代の東国を開拓するための拠点になっていたと推測されています。

また、この2つの神社に『息栖神社』を加えた『東国三社』と呼ばれており、江戸時代には『伊勢神宮』を参拝した後に関東地方・東北地方の人々はこの3つの神社を巡礼するという習慣があり、それが「下三宮参り」と呼ばれ信仰を集めました。

 

とここで今回は区切りが良いので次回からは本格的に『鹿島神宮』についてお伝えしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.34

さて、今回は平将門の北斗七星の最後になる⑦の「鎧神社」で、ここは新宿区にあります。

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この神社はヤマトタケルが東国平定の際にここに立ち寄り甲冑六具を隠したと言う伝説もある神社です。

創建の由緒としては平安時代初期に藤原秀郷が「新皇」と名乗り関東一円を支配していた将門を討伐する為に、訪れた際に重い病に掛かってしまい、この地に薬師如来像があると言う寺院に祈願をしに行きました。すると、重い病はたちまち治り、討伐を達成出来たのでその感謝の意を込めて「圓照寺」を創建しました。

そして、その鬼門鎮護として建てられたのがこの「鎧神社」なのです。

また、将門が討たれその死を悼んだ人々によって将門の鎧をこの地に埋めたとされています。

 

と、ここで一通りの将門にまつわる「北斗七星」の神社をお伝えしてきましたが、やはり気になるのが、ヤマトタケルも度々出てくる事です。

もしかしたら、日本神話の英雄のヤマトタケルと武士(武家)と言う組織として初めて束ね、今でこそ時代劇などで良く見る光景の馬を用いて合戦を行う騎馬隊を駆使した戦いを行ったり、今の日本刀の形で反っている刀を始めて実戦で使用するなど、後の武家のかたちを作り出したという事で崇拝を受けていたり、また当時の世の中に不満を持っていた民衆の声を代弁し乱を起こした事でのちに多くの民衆達からの信仰も得られた事により、同じ東国を平定させようとしたヤマトタケルと、「関東の雄」として平将門は後世にもさまざまな形で伝説が残っているのでは無いでしょうか?

 

さて、これまで江戸城(江戸市内)の結界についてお伝えしてきましたが、もう一つ興味深い事があります。それは茨城県鹿島市にある『鹿島神宮』から富士山に向けて線を引くとちょうど真ん中に江戸城(現・皇居)になるのです。

また、それをさらに伸ばして行くと『伊勢神宮』になるのです。

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これをレイラインと言い、世界各地の遺跡でレイラインが存在していて古代の人々がこのような技術が本当にあったのか、宇宙人の仕業なのではないかなどと研究者たちの間で議論され続けているのです。

また、この直線上は風水では龍脈と言い、良い気が流れる場所であり、その良い気が集まる場所が龍穴と言いますがこの4点はまさに龍穴の場所に当たるのです。

そしてなんと、夏至の日の出の位置と冬至の日の入の太陽の位置がこの4つをピタリと通っているのです。

そしてそして伊勢神宮から伸ばした線のその先には『天孫降臨』の際にニニギ達一行が降りたったとされる『高千穂』があるのです。

 

さらに面白い事にこの『鹿島神宮』の主祭神は『建御雷之男神(たけみかづきのおのかみ)』という神様で、出雲国の『国譲り』の際にオオクニヌシの所にやって来た神様です。その時に戦った相手で『諏訪大社』の主祭神でもあるタケミナカタと相撲の原型でもあるもので戦い、タケミカヅキが勝利した事で、この国譲りが決定しました。

その際、負けたタケミナカタは遠く諏訪まで逃げてきて、「この場から二度と出ませんのでお許しください。」と仰ってこの地の神様となったのです。

そのような2柱の関係がある神様を主祭神として祀っている『鹿島神宮』と『諏訪大社』が春分秋分の日の出・日の入の時にだけ太陽がピタリと重なるのには驚きました。

何か、切っても切れない間柄で結ばれている感じもしますし、当時の人々はどのように計測をしてこの場所に神社を建立したのでしょうか。

 

本当に不思議であり、色々な想像をしてしまうのと同時に大変興味をそそられますよね。

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という事で次回はこの鹿島神宮についてお伝えしていきたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.33

今回は上図の④からお伝えして行きたいと思いますが、まず④の神社は江戸の総鎮守である神田明神です。

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ここは以前にもお伝えしましたが、江戸城の鬼門(北東)に位置し江戸の町を守護している神社ですが、初代将軍・家康が「関ヶ原の戦い」の時に必勝祈願として武士の先駆けである将門を祀っている『神田明神』に訪れ祈願し、これをきっかけに江戸幕府の庇護を受けこれ以降、江戸幕府の総鎮守として江戸市民達にも信仰を集めて行きます。

この「神田」と言う地の由来は元々、伊勢神宮に献上していた御田がこの地にありそこから神の田と言う事で「神田」になったや、将門の首が京都からカラダを探して飛んできて、この神社の付近で葬られたことにより、カラダと言うのが訛って「かんだ」になったなど諸説ありますが、どちらにせよ平氏による崇拝を受けており、3代将軍・家光の時には朝廷からの勅使に「将門は朝敵に非ず(将門は朝廷の敵ではない)」と秦上し朝敵から除かれました。

また、これは朝廷に反逆した将門を鬼門である「神田明神」に祀る事によって、徳川幕府の政治は朝廷には一切関与させないと言う意思表明の現れでもありました。

そしてこの「神田明神」は何度もお伝えするような江戸でも最も信仰のある神社の一つとなったのです。

 

さて、続いては⑤の『筑土八幡神社』なのですが先に言ってしまいますと、この神社には将門の「手」が葬られているという様に都市伝説がありますが、この神社の歴史には一切将門の話は出て来ません。これは一番最初にお伝えした「鳥越神社」と似ていますね。

ただ、千代田区にある『築土神社』と言う場所には将門の墓があり、土が盛り上り築ぎあれた事からこの名前がついたと言う説があり、また、関東大震災の際にこの神社の一部が「筑土八幡神社」のとなりに建てられたなどが関係しているのだそうです。

ただし、この「筑土八幡神社」がある場所は元々「津久戸」と言う地名だった事と言われていると言う説や、江戸明神と元々は名乗っていたが、いつの間にか誤字により「江」が「次」となってしまい、「次戸明神」と読まれて次第に「筑土」になったと言う説があります。

いずれにせよ、「筑土神社」と「筑土八幡神社」の関係は深く、将門の北斗七星の神社として江戸の結界を護ってきたのです。

さて、次にお伝えするのは新宿区戸塚にある『水稲荷神社』ですが、この神社は「新皇」と名乗り朝敵となった将門を討ち落した藤原秀郷が喜び、参拝した事でこの地が将門と関係がある地になりました。

さて、この神社の裏には元々「冨塚古墳」と言う古墳がありまして、この「冨塚」から現在の「戸塚」と言う地名が生まれました。そして元々は「冨塚稲荷」と呼ばれていたが、江戸時代に御神木の根元から霊水が湧き出る様になり、これが眼病に効くと言うことで評判になりいつしか今の名称になっていきました。

また、戸塚と言えば「早稲田大学」が頭に浮かんでくる方もいらっしゃると思いますが、今やこの周辺は日本屈指の学生街になっています。ただし、戦前はこのあたり一帯が旧陸軍の医療施設が点々としていたそうで、戦後100体以上の人骨が出てきたそうです。一説には人体実験をやっていたのでとか言われいるのですが、真実は分かりません。

しかし、そういう噂も相まって今では都内屈指の心霊スポットとしても有名でもあります。(戸山公園ですね。)

とこのように、将門の怨念よりもこっちの方が怖いと感じてしまうのは私だけでしょうか…。その様な歴史もあるこの地は実は私も学生時代に良く遊んでいた場所で昼間は市民の憩いの場としてたくさんの人で溢れていますので、立ち寄った際は是非行ってみたい場所でもあります。

と、また少し長くなってしまったので続きは次回にしたいと思います。

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.32

今回は前回もお伝えしたヤマトタケルのお話を少しと『平将門』にまつわる江戸の神社のお話を少しずつしていきたいと思います。

 

なぜか、毎回長くなってしまうのはご勘弁を…。笑

 

さて、ヤマトタケルが白鳥になり大和の方角に向かって舞い上がっていきましたがその後、妙見(北極星)に行ったと千葉県の由来でもある千葉神社では伝えられています。

この千葉神社主祭神は『天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)』で、この神様は『造化の三神』の一柱で世界が出来て最初に高天原(アマテラスや他の神々が住んでいた場所)で生まれた三柱のうちの神様になります。

また、アメノミナカヌシは『至高の神』と言われて最高の神とされていました。そこと仏教の北極星を神格化した『妙見菩薩(みょうけんぼさつ)』が神仏習合で同一化した事で、ヤマトタケルがこの千葉神社の祭神になったのです。

 

そして、この千葉神社の社家の千葉氏は平常平(たいらのつねひら)が現在の千葉県を治める事により改名したのが始まりになります。

ここで、驚く事にこの平常平は『平将門』の5代後の子孫だったのです。

 

このように、ヤマトタケル平将門が繋がってくるのです。

ヤマトタケルから伊吹山に行く前に妻の『宮簀媛-ミヤズヒメ』に『草薙剣』を預かりそれを護るために建立したのが愛知県名古屋市にある『熱田神宮』です。

そして、ミヤズヒメの末裔の尾張氏が今もなお熱田神宮の社家として御守りし、熱田神宮は『伊勢神宮・内宮』に次ぐ神社になっていったのです。

 

さて、ここで鳥越神社に話を戻しまして、白鳥神社と呼ばれたこの神社ですが、前九年の役源義家がこの地に訪れた時に白鳥が飛んだのを見て浅瀬がある事を知り、渡ることが出来たのでのちに『鳥越大明神』という社号を奉りこの名前が付いたとあります。

そしてもう一つ不思議な話がありまして、平将門の乱で討たれた将門は京都の七条川原で晒し首になりました。その首は数日たっても全く腐らずにいたそうで、切り裂かれた胴体を求めて京都から飛んで行きました。

その首がこの神社を飛び超えて行った事から「とびこえ→とりこえ」と訛り、この名前になったと言う伝説です。また、この神社には「手」が埋められていると言う伝説もあり、社家は千葉氏の一族に当たる鈴木氏になります。

と、このように少なからず平将門に関わっていた神社なんですね。

また、例大祭の千貫神輿(大きな神輿)は浅草の「浅草寺」と共に東京都内最大級の神輿となっていて、これも見どころです。

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続いて②の『兜神社(かぶとじんじゃ)』ですがこの神社には平将門の兜を供養の為に埋めたとか、この地にある「兜岩」に源義家後三年の役の帰還の際に東国平定を祈願とする為に兜を埋めたと伝えられています。

また、明治になり東京株式取引所(現・東京証券取引所)がこの地に設立され、取引所がこの神社の氏子総代になりました。そのような事から信仰を集めこの地の名前でもある「兜町」と言えば東京証券取引所の事を指すようになります。(この地名の由来は兜神社から来ています。)

 

そしてこの将門にまつわる北斗七星の中でも最も有名で、テレビや雑誌等でも毎年のように特集されている「将門首塚」が③に当たる場所にあります。

この場所は今の大手町にあり、かつての江戸城の大手門(正門)のすぐ近くにあります。

ここの伝説としては、京都から将門の首がカラダを探しに飛び出したが、ついに力尽きてこの場所に降りたったと言うもので、他にも色々な都市伝説が残っている場所になります。

例えば、関東大震災後の跡地に都市開発としてこの地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際に、工事関係者や職員、また当時の大蔵大臣が相次いで怪死する事件が起きたので、中止になったことや、第二次世界大戦後にGHQによる区画整理の際に、工事の為に使用していたブルドーザーがひっくり返るなどの事件が起こり、これらが将門の怨念と言う事で手付かずの場所になりました。

おかげでと言うのはおかしいですが、その為現在ビル群が立ち並ぶ中で緑のある場所になり、参拝される方は意外にも怨念によっての怖いと言うイメージよりもむしろ、神聖な場所(神社)と言うイメージになる方も多いのです。

 

と、ここまで将門の北斗七星に関する①〜③までお伝えしてきましたが、次回は④からお伝えして行きたいと思いますので、乞うご期待を!よろしくお願いします。

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.31

今回は五色不動尊の残り1色2寺院をお伝えしたいと思いますが最後の目黄不動尊だけがなぜか2寺院あるんですね。

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まずは⑤の品川区三ノ輪にある『永久寺』ですがここの寺院の歴史は中々面白く、元々建立した時は真言宗最澄)でさらに名前も「唯識院」と呼ばれていました。

その後戦乱などで焼失、再建などを繰り返し、また名前も「大乗坊」・「蓮台寺」と変遷され宗派も禅宗臨済宗栄西が開祖・曹洞宗道元が開祖でこの2宗派で行われている坐禅を組んで悟りを開くのも)から日蓮宗日蓮が開祖で法華宗とも言われている) と変遷され、江戸時代に入りようやく現在の天台宗・永久寺になりました。

そして、江戸幕府より五街道が整備されると天海により、日光街道に面していた永久寺が(古くからあるお寺の中から)『目黄不動尊』が選ばれました。

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また、この近くには五千円札の肖像にもなった『樋口一葉』の銅像や記念館があるので、ここに訪れた際には是非寄りたい場所でもあります。

そして、最後の『目黄不動尊』がある⑥の江戸川区にある『最勝寺』ですが、ここは天台宗明治維新前までは『牛島神社(本所総鎮守)』の別当も務めいた由緒ある寺院でした。特に3代将軍・家光からの崇拝が厚く、その後の将軍達が鷹狩りの際の休憩所である「仮の御殿」も設けられ、江戸市民たちにも広く信仰を集めて行きました。

また、五色不動尊のなかでもこの目黄不動尊は中心的な意味を持つ由緒があるとして、五街道の守護の中心にも「黄」が置かれています。これは、四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)に加え黄龍もしくは麒麟を加えた「五神」から来ていてるものです。

と、ここまで五色不動尊についてお伝えしてきて気づいた事は全ての不動尊で天海と3代将軍・家光が関わっている事。

そして、江戸市民たちによって広く信仰されていた事が今日まで残る『五色不動尊』の信仰となっているのです。

また大日如来の化身でもある不動明王は毎月28日に縁日が開かれいるので日取りを合わせて参拝するのがオススメです。

 

 

さて、話は変わりまして次にお伝えしたい江戸幕府が置いた結界ですが、その結界と言うのは以前にもお伝えした『平将門』に関係のある神社を並べてみると不思議な事に『北斗七星』になると言うものです。

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(↑上図が手書きで分かりにくくてすみません。)

でも、ひとつずつ説明して行きたいと思いますのでご勘弁を。

 

まず①にある神社は『鳥越神社(とりこえじんじゃ)』と言って主祭神は『日本武尊ヤマトタケルノミコト』です。

元々はヤマトタケルが東国征討の際にこの地に立寄ってそれを見た人々がこの地にヤマトタケルを祀っていて、白鳥神社と称していました。

 

ここでヤマトタケルの事を少しお話しますと、第12代天皇景行天皇(けいこうてんのう)の子で、子供に第14代天皇仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)がいます。また、その子の第15代天皇応神天皇(おうじんてんのう)は『八幡宮様』としても、全国各地にお祀りされているのは、以前お話をしました。

また、妃の一人に「吉備武彦」の娘がいますがこの吉備武彦が昔話でも有名な「桃太郎」のモチーフになった人と言われています。

そして、九州の熊襲征討・東国征討(この時に伊勢で三種の神器でもある『草薙剣』を授かる)を経て、伊吹山(現在の滋賀県岐阜県の境にある山)の神を征討しに向かいます。その際、ヤマトタケル草薙剣を持たずに素手で挑むと言い、妻に預けています。

伊吹山を登っていると白いイノシシが現れたが、これは山の神の使いなので大した事は無いと思いそのまま進みましたが、これが山の神自身だったのです。山の神は怒り、大氷・大雨を降らせこれを受けたヤマトタケルは大きな深手をおおってしまい、やがて病にかかり伊吹山を下りました。

その後、大和に帰路しようとするが疲れ果て足が三重に折れ曲がり嘆き悲しみました。「わが足、三重の勾りして、いと疲れり」と語った場所から今の三重県の由来になっています。

そして、能褒野に着きここで終焉を迎えるのですが、それを聞いた妃たちがこの地に陵(墓)を造りました。そして、妃たちが嘆き悲しんでいると一羽の白鳥が陵から空へ舞い上がり、大和に向かっていたと言う日本神話のお話です。

 

と、この事からヤマトタケルを祀る神社には『白鳥神社』が多くなった訳です。

ここで少々長くなってしまったので次回はもう少しだけヤマトタケルのお話と話を戻して、平将門に関係する神社のお話をして行きたいと思います。

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.30

今回は前回に引き続き、五色不動の残り2色3寺院と江戸にあったもう一つの結界である平将門に関連している寺院のお話をしようと思います。

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前回も載せてましたが、上図の④に当たる場所が『目赤不動尊』がある「南谷寺(なんこくじ)」です。

この寺院を創建した万行律師が比叡山南谷の出身と言う事からこの寺院の名前も南谷寺になりました。

万行律師が比叡山を下り伊勢国(現在の三重県)赤目山で修業をしている時に一寸二分(約3,6㎝)の大きさの不動尊を授かり江戸の駒込に寺院を建てました。当時はまだ赤目不動尊と呼ばれていましたが、ちょうど3代将軍・家光が鷹狩りの際に立ち寄り、すでに有名であった目黒・目白不動尊と合わせるようにここも目赤にしろ!と命令があり、今の「目赤不動尊」と呼ばれるようになりました。

また、この寺院の宗派は天台宗であり天海が建てた寛永寺の直末寺になり、現在の文京区本駒込にあり、今でも「家内安全・交通安全・極楽住生」などのご利益があり多くの人々の信仰があります。

そして、ここで話はずれますがちょっと面白い話がありまして。

この南谷寺のすぐ近くに『諏訪山 吉祥寺』と言う寺院があるのですが、明暦の大火の際にこの『吉祥寺』の門前町も焼失し、この地を江戸幕府は都市計画に基づき大名屋敷を再建しようと考えました。その為にこの地に住む住民たちなどが現在の東京都武蔵野市吉祥寺に移り住み、この『諏訪山 吉祥寺』に愛着があった住民たちによって「吉祥寺村」と名付けられました。

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またドラマや小説など数々の作品にも登場し、憩いの場としても有名な「井の頭恩賜公園」ですが、この井の頭の「井」とは湧き水や川の水をくむ場所と言う意味がありまして、古くは縄文時代から集落が形成されていたほど沢山の水が湧いていました。そして、この湧き水を神田川の一部として引いて江戸市民たちの飲み水としました。

この井の頭恩賜公園には、弁財天様が祀られており(天台宗大盛寺が別当寺になります。)、この弁財天様は最澄が作ったものを源経基がこの地に安置する為に建てたお寺です。

その後、源頼朝源平合戦の際に東国平定を祈願し、その大願成就の後に改築されたことが伝わっています。しかし、元引の乱の際に焼失してしまい、数百年ものあいだ放置されてましたが3代将軍・家光により弁財天様を再建されました。

また初代将軍・家康が「関東随一の名水だ!」と言ったことが資料にも残っているように、家光も鷹狩の際の休憩所として井の頭の水を使っていました。そして、この弁財天様は江戸市民たちの信仰の地とともに行楽地としても人気があり、その当時の歌舞伎役者などが寄進した石灯篭などが残っています。

そして、この弁財天様は水にまつわる神様で、天女でもあり『七福神』の一員でもあります。そうした背景からここ、井の頭恩賜公園に祀られ、現在まで慕われているのです。

ここで、この井の頭恩賜公園のちょっとした都市伝説をひとつ。

この公園には溜池があり、スワンボートがあるんですが、このスワンボートをカップルが乗ると別れてしまう!と言う都市伝説です。

なぜかと言うと弁財天様は女性の神様であり、カップルに嫉妬してしまうからと言われているんですが、ほんとのところは男性の方が意外とスワンボートをこげなかったりするので、嫌気がさして別れるらしいのですがね。笑

とこのような都市伝説は他の場所にもいくつかありますがだいたいが似た様な話で近いんです。

さて、話を戻して五色不動尊の残り1色2寺院の話をしようと思いましたが、少し余談が長くなり過ぎてしまったので、また次回にしたいと思います。

しかし、まさかの井の頭恩賜公園の弁財天様も3代将軍・家光が関わっていたのは驚きましたね!

それでは次回もお楽しみに!

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.29

今回は5色不動尊のお話をしたいと思いますが、まずはじめにこの5色とは「黒・白・青・赤・黄」の5色で五行思想から来ていると伝えられていて、これは自然における四季の流れに例えられた思想です。

青は「春」、赤は「夏」、黄は「季節の移り変わり」、白は「秋」、黒は「冬」をそれぞれ象徴していて、ここから青春や朱夏などの言葉が生まれました。

とこのような背景から天海が江戸の守護として置き、特に目黒・目白・目赤不動尊は「江戸三大不動尊」とも呼ばれるくらい有名な場所になったのです。

また、その配置が五街道と関連づけられているほかに、この五色不動尊を結んだ線の内側が「江戸」になると言う都市伝説が残っています。

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さて、この5色6箇所にある「不動尊」ですが、前回も少し話した様に目黒不動尊がある場所は地名としても有名な目黒区の名前の由来にもなっているのですが正式名称は『瀧泉寺(りゅうせんじ)』と言う寺院で天台宗です。

上記の①の場所になります。

この瀧泉寺は天海の弟子の生順大僧正(大僧正とは僧侶の官位の中では最高位の地位)が寛永寺の子院(本寺院に付属する子寺院)、護国寺の末院(本寺院の支配下になる寺院)になり兼務すると3代将軍家光の擁護を受け、「目黒御殿」と呼ばれるほど豪華絢爛になりました。

また、「江戸の三富(残りの2つは湯島天満宮・谷中感応寺)」と呼ばれ、富くじ(今で言う宝くじ)が行われていましたが、天保の改革で中止になってしまいました。

江戸時代には行楽地として門前町が栄え、江戸の町を紹介している本である「江戸名所図会」にも、目黒飴屋(目黒の名物品)の風景が描かれており、かなり大きな店構えから見てもこの地が栄えていた事が分かります。

そして、この寺院の名前の由来にもなった独鈷(天台宗真言宗では仏具として使われており、古代インドでは武具として使われていた。)の滝があり、今もなお霊泉が湧き続けていて人々はそれをあやかりに参拝しています。この瀧泉寺は関東三十六不動尊霊場では第18番、江戸三十三箇所では33礼所になっています。

さらに瀧泉寺は都内最古の狛犬があったり、「日本三大不動尊(他の2つは成田不動尊、木原不動尊)」でもある事も含めて、今もなお多くの参拝者が訪れています。

と、ここでもう一度上記の地図を見てみると江戸城の裏鬼門に当たる場所でもあることから「厄除け」の御利益もあり、毎月8日・18日・28日には縁日が開かれいて、28日には露店も出ているので大いに盛り上がりますよ!

続いて地図の②の目青不動尊がある『最勝寺(さいしょうじ)』は今は世田谷区にあり、通称は「教学院(きょうがくいん)」と呼ばれいます。

この寺院は江戸城の紅葉山付近にはじめ建立されその後麹町貝塚、赤坂三分坂と移転を繰り返し、現在の場所に移転して来ました。

また、現在の六本木1丁目付近にあった観行寺が廃寺となったのに伴って、この寺院に移って来ました。現在は秘像となっており一般公開はされていませんが、目が青い所から天と地の連絡をしてくださると言われ、いつしか「縁結びの不動尊」として信仰を深めて行きました。

また、この寺院も寛永寺の末寺で天台宗になります。

そして、次は③の目白不動尊になりますが、ここは豊島区にある『金乗院(こんじょういん)』にあります。

宗派は真言宗で唐から帰ってきた空海羽黒山で修業をしている際に彫られたと伝わっており、その後3代将軍家光から「目白不動尊」と言う名を贈られ以後、この名前を名乗りました。

また、当時江戸市民たちに時間を告げる時の鐘として使われていたり、この地(目白や目白台)の名前の由来にもなりました。

現在では1月・5月・9月の28日の3日間だけご開帳されている秘像でもあります。

そして自分の身を切ってまで人々にご利益を与える事から「家内安全・病気平瘉」の不動尊として信仰を集めていきました。

さて、ここまで3色の不動尊をお伝えしてきましたが今のところ全て3代将軍・家光からの庇護があり関わって来ますね。また、前に書いた空海羽黒山も出て来て本当に引き寄せられているんだと実感しました。

次回は残り2色3寺をお伝えしたいと思いますので、お楽しみに‼︎

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.28

さて、今回も前回と引き続き日光にある神社仏閣のお話をしたいと思いますが、まずは前回と同様『日光東照宮』から行きたいと思います。

2017年に平成の大修理を終えた陽明門は建立当時の豪華爛漫さを取り戻し、それと同時に徳川家の権力の大きさを物語っているのが分かる建造物になっています。(とは言っても、大修理を終えてからはまだ私は行ってないんですけどね💦)

そして、右に行くと家康公の霊廟があるのですが、そこに行くまでに少々階段を登って行きます。

私事ですが、初めて霊廟に行った時は旅行がてら日光に行ったのですが、荷物を預ける場所が見つからずっと持ち歩いたまま行き、すごい大変だった記憶があり2回目は車で日帰りにしてしまいましたね。

さて、この霊廟に向かう最初の場所には「眠り猫」と言われる彫刻があるのですがその意味をするのは「猫が眠れるほど平和で安泰な時代になるように」と願いが込めてられており、その反対側にはスズメが遊んでいる彫刻がそれを証明しているような気しますよね。

そして、陽明門・奥の院(家康公の霊廟がある場所)を周りその次に訪れたのは、その時期がちょうど家康公没後400年と言うのもありまして、孫である3代将軍家光公の霊廟のある『日光山輪王寺大猷院』に訪れました。

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ここに訪れた時に感じたのは金・金・金‼︎

お寺の中は本当に金で装飾されており、さらに家康公の位牌も金箔?が張られて全て金でした。また、歴代将軍が座ったと言われている場所があり、その上には見事な金の飾りがあったのです。

そこで家康公の位牌に拝むとなんとも言えない厳粛な気持ちになり、これは本当にそこに出向いたからこその体験だと思いました。

(2016年の特別公開なので今はやっていません。)

そして、干支によって守護神が違うネックレスタイプの御守りを買い、車での帰路中「龍」のような雲が現れたので、何良い事が起きそうな予感がしました。

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ここでまた私事ではありますが、この『日光東照宮』に参拝した後になぜか必ず人生に関わる良い事が起こるんですよね。

一度目の時は今の就職先に受かり、結婚、子供が産まれ二度目はマイホームを建てて2人目の子供が産まれた事。さらにこんな事がありました。

家族で違う神社に参拝した際に、分社がいくつかありその中で『東照現権』を祀ってある場所がありました。その時に私の父が「必ずお参りしとけ!」と言われたのでお参りし、その理由を尋ねると私の先祖が紀州和歌山藩の医師を代々していたと言う話を聞きました。

紀州和歌山藩と言うのは徳川幕府の中でも徳川将軍家の次に地位が高い「御三家(尾張藩紀州藩水戸藩)」の中の一つで、8代将軍・吉宗以後、14代将軍・家茂まで紀州藩からの将軍が続いている藩です。

そのような事を聞いてから親近感が湧き、私にとってもこの『日光東照宮』は神聖な場所になりました。

 

さて、ここまで日光のお話をしてきましたが一度江戸に戻り、江戸の風水による結界のお話をしたいと思いますが、江戸城を囲うように不動尊があるのはご存知でしょうか?

この不動尊と言うのは「不動明王」の事を指していて、天台宗では在家(出家せずに各家庭で生活をしながら仏教に帰依している事)で祀る事もあり、また不動明王大日如来の化身として見られています。

そしてこの江戸を風水の結界を利用し、繁栄させようとした人物で江戸幕府初期のブレーンでもある「天海」も天台宗出身でしたよね。

そのような背景から不動尊を建て江戸を守ろうとしたのではないでしょうか。

また、この不動尊は5色の目をしておりその色は「黒・青・白・赤・黄」になっています。ここで気づかれた方もいらっしゃると思いますが、東京都内でも一等地としても有名な「目黒」はこの不動尊がある場所なんですね。

そして、「目白」も白い目の不動尊があった事からこの地名になったと言うなんとも面白い話です。

さて、今回はここまでにし次回はこの5色不動尊のお話をもう少ししていきたいと思います。

 

神社仏閣に引き寄せられvol.27

今回は世界文化遺産としても登録されており、徳川将軍の中でももっとも重要な礎を築きその後、265年間もの平和な時代を作りあげた初代将軍・家康と3代将軍・家光が眠る『日光』にスポットを当てて行きたいと思います。

さて、この地は元々奈良時代に勝道上人が開山し山岳信仰として『二荒山大神オオクニヌシタキリビメアヂスキタカヒコネの総称であり、この3柱は親子になります。)』を祀っており、日光連山の主峰である日光三山である男体山(元々は二荒山−ふたらさん)・女峰山・太郎山をそれぞれ聖地として神格化したものです。

 

あれっ、なんかまたオオクニヌシが出てきましたねぇ。

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そしてその後、鎌倉幕府を開いた源頼朝も寄進していましたが、戦国末期には衰退して行きます。その後、源氏の末裔であると名乗り(平氏・源氏・藤原・皇族以外は征夷大将軍の官職に就いた事がないことから)、天下統一を成し遂げた源頼朝を崇拝していた事から、日光再興を図った事、またこの地が江戸城から見てちょうど真北の方角に位置し、北方信仰(北極星はずっと位置が変わらない事から、皇帝などに好んで信仰された)により選ばれたと言う説があります。

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そして、この地にあった「二荒神社(ふたあらじんじゃ)」の名から二荒(ふたあら)と呼ばれていたが、これを音読みにしするとニッコウと読める事から字を変えて、「日光(にっこう)」と言う地名になったと言う説があります。

また、家康は生前に遺言で、「遺体は久能山に葬り、葬儀は増上寺で、位牌は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光に小さな御堂を建て祀れよ。」と残した事により、2代将軍・秀忠が建立し、その後3代将軍の家光がこの豪華爛漫な『日光東照宮』を改修しました。

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そして、この日光東照宮で最も巨大なパワーがある場所と言うのは国宝でもある『陽明門』と手前にある鳥居を中心に結んだ上に北極星が来る場所でガイドの方も教えてくれるので参拝した際は是非、記念写真を!

(実際、私が参拝した際にはガイドさんが記念写真を売ってました。)

また、この鳥居を抜けて陽明門に入る前に大きな灯籠があるのですが、それは「独眼竜」で有名な『伊達政宗』がポルトガルから輸入した鉄で作り寄進したり、 正面にある石の鳥居は福岡藩初代藩主である黒田長政が寄進し、その足元にははっきりと『黒田筑前守藤原長政』と彫られているのです。

さらに多くの大名が寄進した灯籠は合計で121基あり、その中で唯一女性から寄進されているものがあります。それが黒田長政の継室であり、家康の養女でもあった栄姫からのものである事でも分かる様に、当時かなりの財力・技術があり、信頼されていたのが伺えます。

また、余談ではありますが今では全国的にも有名な福岡県の郷土料理の「筑前煮」はここから来てるんですね!

福岡では正月や祝い事の席には必ず出されるそうですので、福岡に行った際は是非食べてみたい料理のひとつです。

そして、全121基あるこの灯籠ですが3基を除き全て3万石を超える大名が寄進しています。

この残りの3基ですが、2基は先程もお話をした栄姫で、もう1基は福井藩松平家)の家老になります。

この福井藩が幕末期に薩長同盟の仲介役をした坂本龍馬を支援していたと言うのも、何か皮肉なものですよね…。

さて、この日光東照宮は陽明門だけで無く色々と観て楽しめるわけですが、その中でも一番有名なのが「見ざる言わざる聞かざる」ですが、自分や人の欠点や過ちを、見ない・言わない・聞かない方が良いと言う意味があります。

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また、この言葉が日本に伝わったのは8世紀頃に天台宗系の僧が持ち込んだとして、天台宗比叡山の鎮護社となっていた日吉大社と密接な関係にあった事から山王信仰比叡山の麓にある日吉大社から生まれた信仰で、山王とは日吉大社に祀られている神様の別名である。「山王日枝神社の神様と同じですね!)が発展して行ったもので、山王信仰では猿が神の使いとなっているので、ここで使われたのではないかと考えられています。

 

そういえば、天海は天台宗出身でしたね!

 

さて、次回はもう少し日光の神社仏閣についてお話していきたいと思いますのでよろしくお願いします。

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.26

今回は前回の続きの『山王日枝神社』そして増上寺のお話をしたいと思います。

この『山王日枝神社』と言うのは前回もお伝えした江戸城の裏鬼門(南西の方角)にあたり徳川家の氏神として江戸の鎮守と扱われましたが、この神社のお祭も鬼門にあたる『神田明神』の神田祭と同様に「天下祭」として江戸っ子達に親しまれてきました。

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そして、この2つの祭は1年ごとに交互に行われ、山王祭は十二支で言うと「子・寅・辰・午・申・戌」の年に、神田祭は「丑・卯・巳・未・酉・亥」の年に西暦で言うと前者が偶数年、後者が奇数年の隔年に行われている。

また、神田明神は江戸の町の守護神としてに対して山王日枝神社江戸城そのものの守護神として司っていたので幕府から手厚く保護されていた。ただし、一方で行列の集合から経路・解散まで厳しく順序も定められていました。

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とこの様に、山王祭神田祭は似ている様で似ていない天下祭になっていったのです。

そして今では皇城の鎮として守護しているのです。

そしてもう1つの裏鬼門にあたる『増上寺』は今の芝公園内に位置する場所にありますがここはちょっと他の寺院に比べるとスケールの大きさが違うというのを感じます。

まさに圧巻っ!

 

と言うのが始めて訪れた時の直感的な感想でして、15年年くらい前の事ですが、何も知らずに浜松町駅から東京タワーに遊びに行った時に、「なんの鳥居だろう?」

と言う事しか思っていませんでした。そしてそのまま東京タワーに歩いて向かっているとふと、左側に神社なのかお寺なのかどっちが分からないがやたらと大きなのがあるなぁ。と思いそのまま少し時間があったので寄る事になりました。

時間帯的にも夕方過ぎで辺りも薄暗くなってきてたのもあり、照明を点けていたのですが、その時の迫力と言ったら今まで体験した事の無い様な息の詰まるほどの圧巻さと少しの恐さだったのです。

そして、参拝をしこのお寺は何というお寺なのかを辺りを見渡すと、『葵の御紋』が目に入り、「ここは徳川家に関係のあるお寺なんだなぁ」と思いながらパンフレットを手に取りました。

そこで初めてこのお寺は『増上寺』と言うお寺なんだと分かり、更にそこに記載されていたのに更に驚いたのです。

それは前回、『寛永寺』が徳川家の菩提寺とお話をしたの同じく、ここ『増上寺』も徳川家の菩提寺だったのです!

そしてこのお寺で眠っているのは15人の将軍のうち6人で、秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂です。

その時はこの霊廟には時間的に遅かった事もあり行けませんでしたが、後日ちゃんと時間帯を調べて参拝致しました。

と、ここで思ったのが徳川将軍15代のうち6人ずつ鬼門である寛永寺と裏鬼門である増上寺に守護神として置き、さらには北方に初代将軍『家康』3代将軍『家光』を置くことによって、風水で最強の結界を作り、江戸、そして今の東京は繁栄していったのです。

また、このとてつもない敷地を持っていた増上寺は麹町貝塚と言う先史時代から発展していた場所に建立しており、今現在も芝公園内に古墳として残っています。そして、その近くには東京のシンボル的存在でもある東京タワーがあります。この麓にはフリーメイソンの日本本部ロッジがあったりもするんですね。

さらに時代劇や歌舞伎でも有名な「赤穂浪士」のきっかけを作った場所にもなっていたりとやはり江戸時代はかなり重要な寺院だったのですね。

そして江戸城の鬼門の延長線上には霊峰・筑波山があります。そのさらに奥には日立市にある「御岩神社」があります。この神社も中々面白い話があるのですが、宇宙飛行士が宇宙から地球を見た時に1箇所だけ光の柱が立っている場所があったそうです。

その場所を調べてみるとこの神社だったそうです。さらにこの神社には188柱の神様を祀っているのです。

さらに裏鬼門には川崎大師、その奥にはたくさんの神社仏閣がある鎌倉市があるのです。

このように見てみるとこの地に幕府を開いたのは必然だった気がしてなりません。

さて、次回は初代将軍家康・3代将軍家光の霊廟がある日光に焦点を当てて行きたいと思いますます

 

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.25

前回、江戸城の鬼門にあたる『神田明神』さらに奥に天台宗別格大本山にもなり、また徳川家の菩提寺にもなっている『寛永寺』のお話をしましたが、もう少しだけこのお寺のお話をしたいと思います。

この寛永寺を開山した天海ですが初代将軍家康の参謀として、風水を使い江戸城を建設しました。それは当時から江戸庶民に人気のあった『平将門』のパワーを利用しこの江戸を護ろうとしまた、将門は「如見菩薩」を信仰しておりそれが北方の守護神である事から、将門に関係のある場所に「北斗七星」を作り江戸に結界を作りました。

この中でも一番有名なのが「将門首塚」ですが、大手町(大手門とは正門の事)にある事、江戸総鎮守でもある神田明神の三ノ宮の祭神が将門である事、家康が北方信仰(北極星は変わらずそこに君臨していることから古代から皇帝などに好まれて信仰されていた)を信じていた事からも将門自体を信仰していた事が分かりますよね。

また、江戸城の鬼門方面に古事記の「岩戸隠れ」で活躍した神様達にあやかり町を作って行きました。その神様が布刀玉命(フトダマノミコト)・天宇受売命(アメノウズメノミコト)・天手力男神アメノタヂカラオ)で上から芸人・遊女・力士の神とされていました。

ここでお解りの方もいらっしゃると思いますがそうです。芸人=浅草・遊女=吉原・力士=両国となるのです。そして、この地は幕府からも正式に認められいた地ですよね。

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さて、天海が開山しのちに徳川家の菩提寺になった寛永寺ですが15人の将軍のうち6人が眠っており(家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定)、守護神として江戸を見守っています。

そして、あくまで都市伝説の域なのですが天海は実は「明智光秀」であったと言う話があり、日光にある明智平と言う地名は天海が名づけたと言う伝承があることや、3代将軍家光の乳母の春日局の父は光秀の重臣斎藤利三であること。また、天海の墓所が光秀の居城があった近江坂本にあると言う事からこの様な都市伝説が出来たのだと思います。

また少し話はズレますが、明治維新の立役者の坂本龍馬の先祖が近江坂本出身でこの明智光秀の末裔と言う話があり、倒幕の際、龍馬の家紋が光秀の家紋である桔梗紋と似ていることから、志士たちにも絶大な効果があり奮起させたと言う事実もあります。

そして、今まで鬼門の方のお話をしてきましたが、実は裏鬼門にも守護をしている神社仏閣があるんですね。1つは『山王日枝神社』・もう1つは大本山でもある『増上寺』です。

まず、『山王日枝神社』ですがここの主祭神大山咋神(オオヤマクイノカミ)であり、地主神でありさらに農耕の神とされており、また近江の日枝山(のちの比叡山)に鎮座したことから山全体の神となった。また、この地に最澄天台宗延暦寺を建ててからはこの山の結界を守る守護神として扱われています。

また、天海は天台宗出身である事もあり徳川家の氏神となり、江戸幕府の鎮守となりました。

さて次回はこの山王日枝神社のお話をもう少しと増上寺のお話をしたいと思います。

 

 

 

 

神社仏閣に引き寄せられvol.24

今まで伊勢神宮と関連して、色々とお話をしてきましたが今回は首都、東京のお話とそれに関連する様なお話をしていきたいと思います。

さて現在、上皇天皇をはじめ皇族の方々のお住まいになっている『皇居』ですがそれ以前は『徳川幕府』の中枢部であったのは皆さん、周知の通りだと思います。

この通称、江戸城(千代田城とも呼ばれる)は外郭を含めると日本最大の城郭になりまして、西は四谷辺りから東は両国辺りまで、さらに北は飯田橋や水道橋辺りから南は新橋辺りまでと広大な範囲をほこり、その中で政治や経済、文化が発展し当時、「世界最大の人口都市」として栄えて言ったのです。

そして、この江戸城を護るようにして鬼門に『神田明神』がそのさらに奥に徳川家の菩提寺としてなった『寛永寺』があるのです。

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そしてこの神田明神主祭神ですが、『オオクニヌシ』『スクナビコナ』そして『平将門』の3柱であり、元々この辺りは伊勢神宮に献上する為、または皇族の方々に献上する為の神田であった場所なので、神田(かんだ)と言う地名がついたそうです。そして、この地に出雲系の人々がやってきてオオクニヌシを祀る為に創建したのがこの神田明神と言われています。

そして、神田明神は『江戸総鎮守』とも言われいて、神田祭の際に山車は将軍が上覧する為に江戸城内に入った事から『天下祭』とも呼ばれるようになりました。

それだけ、徳川将軍家にとって崇敬されていた事が分かりますね。

また、皮肉にもアマテラス(伊勢神宮)とスサノオオオクニヌシは子孫)の関係がありさらに言うと『三種の神器』の一つでもある『八尺瓊勾玉』が現・皇居に保管されていると言う因果関係も面白いですよね。

この『三種の神器』と言うのは『八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)』『八咫鏡(やたのかがみ)』『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』で上から順に皇居・伊勢神宮(内宮)・熱田神宮に保管されていると言われています。

また、八咫の鏡=アマテラスであるとされており鏡を『陽』、八尺瓊勾玉は形から月(ツキヨミ)に見立ているので『陰』となり、草薙剣スサノオヤマタノオロチを倒した際に見つけたものである事から『三貴神』に繋がっており、天皇即位の際の儀式にはこの3つが揃う事になっています。

と、このようにいまの皇居を中心とする東京は『古事記』などにも繋がってくるのですが、当時はまだ八尺瓊勾玉は『京都御所』に保管されていたので分かりませんが、この様な事を踏まえつつ散策をしてみるとまた面白いかも知れませんね。

さて、江戸城を中心に鬼門となる場所に神田明神寛永寺が存在するとお話をしましたが、この上野にある寛永寺天台宗の別格大本山と寺で3代将軍『家光』が開基し、初代将軍『家康』のブレーンとして、江戸初期の朝廷・宗教的な政策に深く関わってきた『南光坊天海』が開山しました。

そして、この天海ですが少し面白い話があるのですが、また少し長くなってしまったのでこの続きは次回にしたいと思います。