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世界最古の国『日本』

神社仏閣 旅行 グルメ 日本神話 歴史 都市伝説にまつわる事を書いています。是非ご覧ください。

日本の食文化

 

皆さんは明治維新後まで、基本的には『肉』を食べることを禁止していたと言うのご存知でしょうか。

 

 

 

 

 

えっ?と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、これは本当の話なんです。

 

 

 

 

と言いますのも、『飛鳥時代』に『仏教』が伝来して以来、この『仏教』の世界では「動物を殺生を禁じている」ところから、その影響が特に『朝廷』などの貴族階級を中心に、ドンドンと広まっていきました。

 

 

 

 

 

ただし、庶民にはまだそれほど『仏教』自体が浸透もせずに、意味も分からなかったと言う理由から、庶民たちには肉食は続いていました。

 

 

 

 

 

そのような経緯から、貴族の食文化と庶民の食文化が分かれていったのです。

 

 

 

 

また、宮中料理でも犬や牛や猿などいわゆる獣肉の代わりに鶏肉、魚貝類などを使用するように変化していきました。

 

 

 

 

この辺りから、現在の『和食』に通ずるものが少しずつ出来上がってきたんですね!

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その後、武士の時代(『鎌倉時代』)にはいり、『鎌倉新仏教』が庶民の間にも広まっていくと、特に『禅宗』の教えから、動物性を一切使わない『精進料理』が発展していきました。

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なかでも『鎌倉五山』第一位であり、『禅宗』の寺院で、『臨済宗 建長寺』の修行僧が作ったもの(建長汁)が、なまって「けんちん汁」と呼ばれてるようになったと言う説もあります。

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また、この『精進料理』が発展し、『懐石料理』とつながっていき、現在では祝いの席など特別な日の会食として食されるようになっていきます。

 

 

 

 

さて、冒頭でもお伝えしたように明治維新後までは、このような経緯で基本的には『肉』は食べられていませんでした。

 

 

 

 

じゃあ何故、明治維新後から食べられるようになったかと言うと、それは

 

 

 

 

神仏分離

 

 

 

 

これは、『天皇陛下』を頂点とした政治改革で、それ以前の『神仏習合』とは異なり、『神道』と『仏教』を完全に分けて『神社』と『寺院』をはっきりと区別させると言う改革になります。

 

 

 

 

そうすることによって、明治新政府は『神道国家化』をすすめ日本の『国教』にしようと考えていたのですが、『平安京』が出来てからも1500年以上、『神道』と『仏教』両方を重じてきた『日本人』には、受け入れてはもらえなく、この制度は廃止しました。

 

 

 

 

 

またこの時、西洋のものをドンドン取り入れようと言うことで大々的に庶民に人気を誇ったのが「牛鍋」。

 

 

 

これは現在のみんな大好き「すき焼き」のもととなる食べ物です。

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でも、いくらその時代、西洋のものを取り入れようとして、「肉」を食べでも良いとなったところで急に食べれことって出来ますか?

 

 

 

 

実は「肉」は江戸時代、『薬膳』というたてまえで食べられていたのです。

 

 

 

 

 

もちろんそのまま出す訳にもいかないので、イノシシの肉を花(牡丹)の形で提供したり、様々な工夫を凝らして食されていました。

 

 

 

 

イノシシの鍋は現在でも「ボタン鍋」と呼びますもんね。

 

 

 

 

これは花札から取った隠語で、他にはシカを「モミジ」と呼んでいました。

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また、このような獣肉を提供する店を『ももんじ屋(百獣屋)』と呼ばれており、そこで食べることを『薬喰い』と呼ばれていました。

 

 

 

 

ここで、面白い話がありまして。

 

 

 

 

時々、アジア諸国など世界ではイヌが食用になっているという話を聞きませんか?

 

 

 

酷いことをする、残酷だ、野蛮などと思われがちですが実は昔は日本人も当たり前のように食べていたのです。

 

 

 

 

じゃあ何故食べなくなったのか。

 

 

それはあるきっかけからです。

 

 

 

そのあるきっかけとは、

 

 

 

 

『小類憐みの令』

 

 

 

特にイヌを重んじた5代将軍・『徳川綱吉』が出したこの法令によって、日本人がイヌを食べるのをやめていったのです。

 

 

 

 

また、『徳川四天王』の『井伊直政』や『桜田門外の変』で有名な『井伊直弼』が藩主であった『彦根藩』は、毎年、将軍に滋養に効く薬として味噌漬けにした牛肉を献上していました。

 

 

 

これが「近江牛」が名産となるきっかけにもなるわけです。

 

 

 

 

 

こうして、日本の食文化ひとつをみても、日本の歴史とは面白いものですね!

 

 

 

 

このような事を頭の片隅に置きながら、食事をするともっと楽しい食事になると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

重陽の節句

 

みなさんは、今回の題名にもある『重陽節句(ちょうようのせっく)』を含む『五節句』をご存知でしょうか?

 

 

 

 

これは奈良時代以前から続いているもので、平安時代初期あたりには定着していった、宮中の伝統行事の節会(せちえ)で、祝いの日として天皇を中心に行われていた年中行事になります。

 

 

 

 

その中でも、江戸時代にはいり、幕府が公的に行事として、そして祝日として定めた5つの日のことです。

 

 

 

 

それが

 

 

 

①『人日の節句(じんじつ)』

  

→1月7日で『七草の節句

 節句料理は『七草粥

 

 

 

②『上巳の節句(じょうし)』

 

→3月3日で『桃の節句』または『雛祭』

 節句料理は『菱餅』や『白酒』・また『甘酒』など

 

 

 

 

③『端午の節句

 

→5月5日で『菖蒲の節句

 節句料理は関東では『柏餅』・関西では『ちまき

 また、菖蒲と勝負がおなじ音から武家から庶民につたわっていき、『菖蒲湯』に入る風習が出来た

 

 

 

 

④ 『七夕の節句(しきせき)』

 →7月7日で『七夕(たなばた)』

 節句料理は『素麺(そうめん)』

 

 

 

⑤『重陽節句(ちょうよう)』

 →9月9日で『菊の節句

 節句料理は『菊酒(日本酒などに菊の花びらを浮かべた酒)』

 

 

 

になります。

 

 

 

 

そして、9月9日は一桁の奇数で一番大きいことが重なることから、なかでも良い吉日となっています。

 

 

 

 

また、『花札』の絵柄にも使われていることからお正月に家族揃ってやる方々も多いと思われ、この図柄も馴染みもあるものだと思います。

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(↑上記の図柄が『菊酒』)

 

 

 

 

 

 

そして、菊の花は『天皇陛下』をはじめとする『皇室』の方々の家紋にも使われており、花言葉は『高貴』。

 

 

 

 

また、春の桜に対して秋の菊と言うように一般的には『国花』となっています。

ただし、法的には定められているわけではありませんが…。

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また、話は少しズレますが2020年9月と言うのは『金運』でも、180年に一度の最強の財運金運の月となっています。

 

 

 

 

そのなかでも、特に酉の月(9月)の酉の日(3日・15日・27日)に酉の方角(西)を見ながら、酉の時刻(18時ごろ)に、鶏やたまごを食べると『金運アップ』がするそうなので、是非これを機にお試しください。

 

 

 

 

確かに、たまごは「完全栄養食」としても、その色からしても『金運アップ』につながりそうですね。

 

 

 

 

個人的には、「だし巻き」をつまみながら『菊酒』を嗜みたいと思います。

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話は戻りまして、『重陽節句』はさまざまな神社で限定の御朱印を頒布しており、中には郵送頒布している神社もありますので、気になるものが見つかりましたら、是非!

 

 

 

 

私は千葉県野田市の最古の神社である『櫻木神社』のを郵送頒布して頂きました。

 

 

 

 

ここで、不思議と「菊」と「桜」と「酉」が繋がってくるんですよね!

 

 

 

 

何か縁がある場所と感じながら、コロナ渦がおさまったら参拝してみたい神社をまた新たに発見できた喜びを感じた1日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

泉岳寺

皆さんは東京都港区にある『泉岳寺(せんがくじ)』と言う寺院をご存知でしょうか?

 

 

 

歴史好きな方はこの名前を聞いただけで、ピン‼︎とくると思いますが。

 

 

 

そうです。

 

 

 

あの『赤穂浪士』の47人とその赤穂藩の藩主であった「浅野 長矩(あさのながのり)」(浅野 内匠頭 たくみのかみの方が認知度は高い。)の葬られいる墓がある寺院になります。

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この寺院は江戸府内の『曹洞宗』の寺院を管理・統括する『江戸三箇寺』のひとつになります。

 

 

 

以前、『芝切通し 時の鐘』の時にお伝えした『青松寺』も同じ『江戸三箇寺』になります。

https://www.totan0703.com/entry/2020/08/06/%E8%8A%9D%E5%88%87%E9%80%9A%E3%81%97_%E3%80%8E%E6%99%82%E3%81%AE%E9%90%98%E3%80%8F

 

 

 

 

 

 

さて、『泉岳寺』は江戸幕府・初代将軍である「徳川家康」がかつて人質となっていた、「海道一の弓取り」とも異名をもっていた「今川義元」の孫にあたる、「門庵宗関(もんあんそうせき)」という僧侶を招いた際に建立した寺院になります。

 

 

 

そして現在の警視庁付近の外桜田に建立したとなっており、この場所は『江戸城』から目と鼻のさき、すぐ近くということから、「今川義元」と言う人物が、人質時代の家康に対していかに手厚い処遇をしていたのかと、少し想像ができます。

 

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しかし、その後『寛永の大火』により焼失。

 

 

 

 

この大火は江戸開府以来はじめての大火になり、広大な範囲を焼失させてしまいます。

 

 

 

そして、この時の調査の結果、日本橋材木町の材木置き場に火がつき、さらなる延焼の手助けをしたとして、永代島(現在の江東区富岡辺り)に幕府は材木置き場として指定し、この地に集結させました。

 

 

 

 

その時に「木場」と呼ばれるようになりましたが、のちに本所に移転するように命じられ、ここにいた材木商人達が、自力で払い下げをし発展させていったおかげて、後の「深川木場」という地名が誕生しました。

 

 

 

また、それにともない永代島も「元木場」とよばれるようになったのです。

 

 

 

 

 

面白いのが『赤穂浪士』が「吉良上野介」を討ち入りし、現在の『泉岳寺』に首を掲げて戻る際に、永代島に掛かっていた「永代橋」を渡ったとなっていることかも、なにか運命を感じてしまいます。

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話はもどり、外桜田にあった『泉岳寺』が焼失した後に、3代将軍・家光の命により、毛利などの5大名が再建に尽力し、現在の港区高輪の地に置かれてるようになります。

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この時から浅野家と『泉岳寺』の関係が深くなり、のち『赤穂浪士』とともに埋葬され墓があるわけですが、もうひとつ面白い話があります。

 

 

 

 

それは『泉岳寺』は『青松寺』とともに曹洞宗の統括寺でしたが、学寮と呼ばれる僧侶たちの学問所でもありました。

 

 

のちにこの2寺院は現在の『駒沢大学』へと発展していくわけですが、明治時代に入り、現在の「六本木ヒルズ」付近に校舎を新設しました。

 

 

 

 

この「六本木ヒルズ」と言う場所は元々は『毛利家』の藩邸があり、この場所で吉良を討ち入りした『赤穂浪士』の10名が預けられ、切腹しました。

 

 

 

 

このように、不思議と『泉岳寺』を中心に繋がっている『浅野内匠頭』と『赤穂浪士』たち。

 

 

 

現在も主従関係を保ち眠っているのに、なんとも言えない浪漫を感じでしまいますね。

 

 

 

四神

昨日、仕事中にたまたま外に出たら入道雲などがたくさんあって、ちょっと気になって辺りを見渡しました。

 

 

 

何が気になるかと言うと、『龍神』が出てる気がしてならなかったんです。

 

 

 

 

と言っても、実際に現れる訳ではなく(当たり前か💦)、雲に具現化して現れると言うもの。

 

 

 

 

 

そして、「あっ!」

 

 

 

 

って思い、すぐに写真におさめました。

 

 

 

 

その写真がこちら!

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完全に『龍』と『鳳凰』が一緒飛んでいるように見えますよね!

 

 

 

 

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引きで見ると特に『鳳凰』の方なんかは両翼が生えて飛んでいるように見えます!

 

 

 

 

まあ、そう見えるのは私だけでしょうが💦笑

 

 

 

 

そんな写真を撮り、ふと今日は何の日なんだろうと思いつき、色々と調べていると2020年8月月27日は『寅の日』だったんです。

 

 

 

 

この『寅の日』とは、昔から寅は「千里を行って、千里を帰る」と言われており、寅の黄色からお金をイメージ。

 

 

 

そこから、「お金が出て行っても、すぐに戻ってくる」と非常に勢いのある日で、『金運上昇の日』なんです。

 

 

 

この日に「宝くじ」や財布を新調すると良いとされていたりする暦上の縁起の良い日です。

 

 

 

 

さらに、いろいろ調べて行くと8月27日はあの『男はつらいよ!』で有名な「寅さんの日」だったんです。

 

 

 

あの「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又、…。」でお馴染みのやつです。

 

 

 

しかも、『男はつらいよ!』と言う作品は、「一人の俳優が演じたもっとも長い映画シリーズ」としてギネス認定をされている作品になります。

 

 

 

 

そんな「寅」が2つも重なる日に、『龍』と『鳳凰』をみつけられたら、気になるのは『四神』です。

 

 

 

 

『四神』とは、『青龍』・『白虎』・『朱雀』『玄武』のことで、それぞれが東西南北の守護神になります。

(『朱雀』=『鳳凰』)

 

 

 

 

 

 

 

とここで気になったのは、あとは残るは『玄武』だけ!

 

 

 

 

そして、写真を見返すとありました!

上記の写真の下にアーチ型の屋根をした体育館がっ!

 

 

 

 

「体育館かいっ!」と思った人もいるでしょうが、気は持ちようです!笑

 

 

 

 

 

これで『四神』が全て揃いましたね!

 

 

 

 

また、古来より『龍』と『鳳凰』は我が国『日本』でもさまざまものに使われており、神社仏閣などにも装飾がされている非常に縁起の良いものです。

 

 

 

 

『龍』は『天皇』に、『鳳凰』は『皇后』の象徴にもされている霊獣なので、さらに良い気がしてなりませんね!

 

 

 

また、偶然にも長女は『辰年』、長男は『酉年』、妻は『寅年』、そして来年生まれてくる子は『丑年』(=足が遅いところから「カメ」になると勝手な解釈です)なんです!

 

 

 

 

 

ちなみに私自身は『亥年』なのでまったく関係ありませんが💦

 

 

 

 

 

 

本当に何か近々、良い事が起こりそうでなりません。

 

 

 

 

と、今回はこんな感じのですが、次回からはまた日本史や神社仏閣にまつわることを伝えていきたいと思いますので、ご期待下さい!

 

 

 

そして、良い事が起きたときにはご報告致します!

 

 

 

 

 

天龍寺 『時の鐘』② 江戸市民にとって

前回、日本橋を起点とした『五街道』のひとつで『甲州街道』の最初の宿場の近くにある『天龍寺』の『時の鐘』が武士たちにとっていかに大事なものだったかというのをお伝えしました。

 

 

 

 

 

そして、今回は江戸に住んでいる民衆(江戸市民)たちにとっても大事な『時の鐘』だったということについてお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

というのも、『内藤新宿』は「江戸四宿」のひとつにもなっており、『甲州街道』で日本橋から最初の宿場町になります。

 

 

 

 

これは、日本橋の起点からそれぞれ2里(約8km)以内の宿場町で、他には『東海道』の「品川宿」・『中山道』の「板橋宿」・『奥州街道日光街道』の「千住宿」があります。

 

 

 

 

 

 

そして、この宿場町を通り、さまざまな人が訪れることから旅籠屋や茶屋がたくさん立ち並び、大変賑わいを見せる場所になりました。

 

 

 

 

さらに「岡場所」と呼ばれる「江戸四宿」では非公認ながら準公認の遊郭が置かれてるようになっていくようにになり、最盛期には江戸市内に『寛政の改革』以前には80箇所以上あったものが、この改革以後、統制強化がすすみ、『天保の改革』によって、「江戸四宿」以外はすべて廃絶させられてしまったのです。

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というのも、唯一幕府が公認している遊郭は『吉原』であり、それ以外の遊郭は非公認であり、その非公認の遊郭を「岡場所」と呼んでいました。

 

 

 

 

 

『吉原』は格式が高いうえに、玉代(ぎょくだい)とよばれていた代金も高く、さらに遊女にはそれ以外にご祝儀を払わなければいけないなど、支払いも高額でした。

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さらに、さまざまなしきたりがあった『吉原』には一般の江戸市民たちには、手が出ない場所だったのです。

 

 

 

 

 

しかし、その反対に「岡場所」は代金も安く、そのような、かしこまったしきたりもなかったので、江戸市民たちはむしろ、こっちの方で遊ぶ事が多かったのです。

 

 

 

 

 

そんな立地条件である「江戸四宿」の「内藤新宿」にあった『天龍寺』に『時の鐘』は、唯一江戸城外にあった『時の鐘』でした。

 

 

 

 

そして、ここだけは他の『時の鐘』よりも30分早く梵鐘を鳴らしたことから、夜な夜な遊んでいる人々に『追い出しの鐘』と呼ばれるようになっていきました。

 

 

 

 

「いい加減早く帰れよー!」

 

 

 

 

のような『時の鐘』だったんでしょうね。

 

 

 

 

そう言う風に考えると、何か当時の人々の暮らしにもちょっと、ほんわかとした憎めない気持ちにもなりますね。

 

 

 

 

と、ここまで江戸にあった『時の鐘』についてお伝えしてきましたが、いかがだったでしょうか?

 

 

 

 

その後も3つほど新たに『時の鐘』が設置されますが、江戸時代にはすでにちゃんと「時間」というルールのもとで人々が正しい生活リズムで暮らしていたというのが、改めて分かります。

 

 

 

 

そして、現在日本最大の歓楽街として知られる「新宿」。

 

 

 

 

今も昔も、人々を惹きつける何かがあるのは間違いないですね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天龍寺 『時の鐘』① 武士にとって

今回の『時の鐘』は現在、世界一乗客数が多くギネス世界記録にも認定されているビッグターミナル「新宿駅」のほど近くにある『天龍寺』の『時の鐘』についてお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

天龍寺』はもとは現在の静岡県にある『法泉寺』という寺院が前身と伝わっています。

 

 

 

 

その『法泉寺』というのは2代将軍・秀忠の母である「西郷局」の父の菩提寺でした。秀忠のいわゆるおじいちゃんですね。

 

 

 

 

その、菩提寺を家康が江戸入府後に、現在の牛込付近に移すことになり、その際に名前も改名し、現在の『天龍寺』という名前になりましたが、その由来は『法泉寺』の近くに「天竜川」が流れていたからとなっています。

 

 

 

 

そして、『天龍寺』は江戸城の裏鬼門鎮護の寺院として役割を果たしているという由緒ある寺院になります。

 

 

 

 

しかし、『天和の大火』により焼失してしまい現在の地に移転しました。

 

 

 

 

その後まもなく、日本橋を起点とする『五街道』のひとつである『甲州街道』のひとつ目の宿場がほど近くに開設します。

 

 

 

 

そして、その1年後に5代将軍・綱吉の側用人(将軍の命令を老中たちに伝える役職)だった「牧野成貞(まきのなりさだ)」から、『天龍寺』への梵鐘の寄贈により、ここで『時の鐘』が出来ました。

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また、この時に時刻を知るために『やぐら時計』も寄贈されたとなっており、さらにこの『時の鐘』だけが唯一、江戸城下外となっていたところから、他の『時の鐘』よりも30分早く鐘をうっていました。

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その理由はいくつかあるのですが、ひとつはここの場所が江戸城下外と言う場所に位置しており、登城する武士たちもここからだと時間がかかり遅れてしまうという理由からです。

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実際に、いまでこそ整備された道路ですが『時の鐘』があった『天龍寺』の隣ある現在の「新宿御苑」から皇居の半蔵門まで歩いていくのに45分ほどかかります。

 

 

 

 

江戸城に登城する武士が遅刻をしてしまっては、下手したら切腹・改易もありえますからね。

 

 

 

 

また、『甲州街道』自体が江戸城(将軍など)が有事の際に脱出するためのを想定してつくられた非常に重要な街道で、江戸城の『半蔵門』は『大手門』のほぼ真裏に位置しており、そこからほぼまっすぐに『内藤新宿』までのびています。

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(↑上記は右側が「大手門」いわゆる江戸城の正門。対して、左側通行「半蔵門」いわゆる有事の際の脱出用の門。)

 

 

 

 

 

そして、「半蔵門」から『四谷大木戸』(江戸城内に出来入りするための関所)にまで、忍者で有名な「伊賀組」や「甲賀組」など忍者としても有名な鉄砲の特殊技術をもつ者たちに警護させたり、砦用として多くの寺院を配置しました。

 

 

 

 

 

今でも「半蔵門」前のすぐ先に警視庁の麹町警察署がありますもんね。

 

 

 

 

そう言った意味で、武士たちにとって非常に大事な場所であった『甲州街道』と『四谷大木戸(江戸城内への出入りするための関所)』のすぐ西側に設けられた、『内藤新宿』。

 

 

 

 

そして、そこの宿に宿泊や住んでいる人々にとってはとても重要な『時の鐘』だったことが分かります。

 

 

 

 

さて、次回は武士以外の江戸市民たちにとっても大事な『時の鐘』だというのをお伝えしたいと思いますので、是非ご期待ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目白不動尊 時の鐘

前回は『お盆』のちょうど真ん中と言うことで、少し話をズラして『お盆』についてお伝えしました。

 

 

 

 

さて、今回の『時の鐘』の場所は『目白不動尊』になります。

 

 

 

 

この寺院は名前からも分かるように、目が白い『不動尊』を本尊に安置している寺院で、現在の文京区関口あたりにあった『新長谷寺』にありました。

 

 

 

 

そして3代将軍・家光の時に『五色不動尊』のひとつでもある『目白不動尊』と名を贈られて、以後発展していきました。

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この『五色不動尊』と言うのは、「黒・白・赤・青・黄」の5色からになっており、『五街道』の守護のために設置されましたが、風水によりこの5色・6寺院で結界をつくり、江戸のまちを守護したと言う説があります。

 

 

 

 

また、この5色・6寺院を線で結んだ内側までの範囲が江戸市内だった言われる説もあります。

 

 

 

 

 

そんな場所で設置された『時の鐘』。

 

 

 

 

江戸市内・また市外から江戸に入ってくる人々にとって、それぞれ時間を知るうえでもいかに重要な『時の鐘』だったのかが、うかがえます。

 

 

 

 

 

 

特に、現在の東京都清瀬市方面から農作物を運び、江戸川橋を渡る坂を「目白坂」と称しており、そこからこの辺り一帯が「目白」と呼ばれるようになりました。

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そして、『目白不動尊』が安置してあった『新長谷寺』はこの坂の南側にありました。

 

 

 

 

 

 

また、5代将軍・綱吉とその母である桂昌院からの帰依によりさらに、その名を高めていき門前町も発展していきました。

 

 

 

 

 

と言うのも、3代将軍・家光の子である5代将軍・綱吉。

 

 

 

 

桂昌院(お玉)は家光の側室で、僧侶に男子を産むと占いをされた結果、のちの綱吉が産まれました。

 

 

 

そして、子である綱吉が将軍職に就いたのちに、その占いをした僧侶を江戸に招きいれ、自らの祈願寺とした寺院が、『大本山 護国寺』になります。

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この『大本山 護国寺』に向かう道の途中に、あるのが『新長谷寺』でした。

 

 

 

 

もともとは2代将軍・秀忠の命で建立された『新長谷寺』ですが、先にも述べたようにその子の3代将軍・家光が『目白不動尊』の号を贈り発展。

 

 

 

 

 

そして、その子の5代将軍・綱吉、そしてその母の桂昌院がこの寺院に帰依するのは、もはや必然と言えることだったんですね。

 

 

 

 

そして、その場所にあった『時の鐘』。

 

 

 

 

なんとも由緒がある『時の鐘』と言うのが分かります。

 

 

 

 

しかし、第二次世界大戦中の戦災で壊滅的な破損をして、『新長谷寺』は廃寺になってしまいました。

 

 

 

そして、『目白不動尊』だけが『金乗院(こんじょういん)』に移され、『時の鐘』の再建はされませんでした。

 

 

 

 

こうして『金乗院』の『目白不動尊』が現在にまで至る信仰を集めているわけですが、年に3回(1月・5月・9月の28日)には秘蔵仏である『目白不動尊』のご開帳もあるので、是非機会があれば拝観してみたいものです。

 

 

 

 

また、目白台の関口には『時の鐘』自体の記念碑はないものの、ここにそのような歴史があったと言うことを踏まえて訪れてみるとまた、違った見方が出来ると思います。

 

 

 

 

江戸時代の景色を想像しながら散策するのも、ロマンを感じますね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お盆

今年もお盆休みと入り、皆さんはどうお過ごしでしょうか?

 

 

 

 

今年は前代未聞のお盆となり、通年なら毎年帰省している方や旅行に出かけている方が多いと思いますが、今年はなかなかそうも行かないと言うのが、現状だと思います。

 

 

 

 

 

私自身も、通年であれば両親の実家に帰省して祖父母にひ孫の顔を見せに行くと同時に、地元の祭りに参加しているのですが、今年はそういうわけにもいかない状況です。

 

 

 

 

 

さて、2020年のお盆は8月13日から16日になりまして、この期間のあいだに行われる行事で一般的には父・母の先祖を供養するとともに、感謝の意味を込めて、御供物をします。

 

 

 

 

 

その、御供物を置く容器をお盆を使っていたところから、文字通り『お盆』と呼ばれるようになりました。

 

 

 

 

 

また、日本の『お盆』の風習として『精霊馬(しょうろううま)』『精霊牛(しょうろううし)』と言うものがあります。

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これは夏に旬の野菜を利用して、きゅうりを「馬」に、なすを「牛」に見立て作ったものになります。

 

 

 

 

 

なぜ、この2種類の野菜かというと、やはり夏野菜なので、比較的手に入りやすかったこと。

 

 

 

 

また、きゅうりは長く細いので「馬」に見立てて、「御先祖様が一刻も早く帰って来てもらいたい」と。

なすは反対に丸く太っているので、それを「牛」に見立て「帰りは景色などを楽しみながら、ゆっくりと帰ってほしい」と、願いが込められています。

 

 

 

 

 

そして、沖縄ではさとうきびを杖に見立てたりと各地域によってその様子も違うのも、面白いところです。

 

 

 

 

さて、夏の風物詩でもある『隅田川の花火大会』などの花火大会、そして『盆踊り』も実は『お盆』と関係があるんです。

 

 

 

 

 

特に『盆踊り』はその文字からも想像がつくでしょうが、平安時代踊念仏と民間習俗が習合していき、そのうちに祖先など死者の供養・精霊を迎えるなどの行事と結びついて、室町時代あたりには各地域で定着していきました。

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また、『隅田川の花火大会』も8代将軍・吉宗のときに「享保の大飢饉」ででコレラによる死者の慰霊と悪疫退散などのために始まったと伝承されています。

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とは、言ってもこれは明治中期から昭和初期にかけて、花火業者の広告目的から慰霊や悪疫退散に話がすり替わっていった作り話になります。

 

 

 

 

そして、この花火業者の広告目的と言うのが、江戸当時、「たまやー」「かぎやー」と言う掛け声で有名で、お互いの腕を競いあっていた、「玉屋」と「鍵屋」になります。

 

 

 

 

 

しかし、のちに「玉屋」が幕末に入り火事を起こしたために廃業。

一方の「鍵屋」は日本で最古の花火業者として今も現存しているのです。

 

 

 

 

その他にも精霊流しや、京都で「大文字の送り火」で有名な「五山の送り火」があります。

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この送り火は精霊(死者の霊)をあの世に送り帰す上がり火となっていて、これもお盆の最後の日の風物詩となっています。

 

 

 

 

今年は、日本全国でこのようなイベントも縮小や中止になってしまっていますが、是非来年以降はまた歴史ある風物詩を目にしてみたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芝切通し 『時の鐘』

 

前回、本所の『時の鐘』についてお伝えしましたが、この場所のほど近くに、『スカイツリー』があります。

 

 

 

 

そして、それ以前から電波塔として使用していた東京のシンボル的な存在でもある『東京タワー』。

 

 

 

 

このほど近くに、徳川将軍家菩提寺として、北の『伝通院』・鬼門の『寛永寺』とともに、ここ裏鬼門の『増上寺』があります。

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そして、ちょうど『増上寺』の北側に位置し、『出世の石段』で有名な『愛宕神社』を南側にすすんで、『青松寺』を通り、現在は「正則高等学校」が置かれているあたりの坂が『芝切通り』になります。

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江戸時代には、『増上寺』と『青松寺』の間の坂だっとされたこの場所に、今回の『芝切通し』の『時の鐘』が置かれていました。

 

 

 

 

 

増上寺』は言わずとしれた徳川将軍家菩提寺として由緒ある寺院であり、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますが、その手前の『青松寺』も実は、由緒ある寺院なんです。

 

 

 

 

と、言うのも江戸時代、市中にある『曹洞宗』の寺院を統括する3つの寺院のうちの1つになる寺院なんです。(『江戸三箇寺』と呼ばれている。)

 

 

 

 

また、この寺院は元々は「武蔵国貝塚」あたりにあった寺院で、江戸城拡張にともない、初代将軍・家康の命で現在の地に移転したと伝わっています。

 

 

 

 

そして、まさかの『増上寺』の前身である寺院も元々は「武蔵国貝塚」付近にあった寺院で、この寺院も江戸城拡張の際に、家康の命で現在の地に移転してきました。

 

 

 

 

そんな場所の間にあった『時の鐘』は、江戸時代には『浅草奥山』とともに、見せ物屋や茶屋などがたくさん並ぶ、江戸時代から昭和初期までの代表的な繁華街となっていました。

 

 

 

 

 

 

また、この『時の鐘』自体ももとはほど近くの『西久保八幡神社』に設置されてたものが破損してしまい、新しく作り直した鐘をこの地に移転させたと伝わっています。

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しかし、現在では『時の鐘』はこの場所にありませんが、当時は芝浜のから対岸にある千葉県・木更津までその鐘の音が響いていたそうで、「今鳴るは   芝か上野か  浅草か」と詠まれるほど、江戸庶民たちにとっては親しみのある『時の鐘』でした。

 

 

 

 

さて、話は少しズレますが冒頭にお伝えした『東京タワー』の麓にあるものがあるのを皆さんはご存知でしょうか?

 

 

 

 

都市伝説好きな方でしたらきっとお分かりだと思いますが、それはある秘密結社の『日本 グランドロッヂ』。

 

 

 

そのある秘密結社とは

 

 

 

 

フリーメイソン

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第二次大戦後、日本に介入してきたGHQの最高司令官であった「ダグラス・マッカーサー」は来日した途端にすぐにこの地に向かい、グランドロッヂを建てたそうです。

 

 

 

 

 

こんな歴史や都市伝説の詰まっている『増上寺』周辺は江戸時代から現在にいたるまで、観光スポットとして賑わっています。

 

 

 

 

もう一度、是非訪れてみたい場所のひとつですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

本所横堀 時の鐘

今回は『本所横堀』の時の鐘です。

この場所は墨田区に位置にしており、錦糸町からも徒歩でいける距離にあります。

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この辺りもなかなか面白い話がありまして、1657年に江戸で大火、俗に言う『明暦の大火』が発生してしまいました。

 

 

 

 

この時の被害は、江戸時代最大であり「江戸城」の天守閣を含むなど、「江戸城」自体も大被害にあい、さらにはそのまわりにあった大名屋敷や、江戸市中の市街地までも大半が焼失してしまうという大火災になってしまいます。

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これを契機に江戸市中の都市改革がはじまり、

江戸城内にあった『御三家』の屋敷を城外に置くことになりました。

 

理由は諸説ありますが、万が一同様の大火災が起きて同じ場所にいると、徳川家が滅亡しかないですからね。

 

 

これにともない、大名屋敷や寺社なども移転。

 

 

 

また、江戸市中でも当時は防衛のために「千住大橋」だけしかなかった橋をたて、多数の市民の逃げ道を確保しました。

 

 

 

 

当時、この一本しか橋が無かったために、被災者みんながここに集まり渋滞状態になってしまい、逃げ遅れて亡くなってしまった市民が多数いたためです。

 

 

 

 

これを機に市街地が拡大し「深川」など東側も発展していきました。

 

 

 

 

また、この『明暦の大火』で焼失してしまった江戸城天守閣はこれ以降、再建されることはありませんでした。

 

 

 

現在、この天守閣をもういちど復活させようと言うプロジェクトもあるようですので、個人的にはそれは楽しみですがね!

 

 

 

 

そして、東側の市区整備により、このあたりが碁盤の目状に整備され、さらに運河も水運に利用することになりました。

 

 

 

また、江戸と現在の千葉県を結ぶ街道や大横川・横十間川が交差する場所から物流の拠点となっていきました。

 

 

 

 

そして、時はさかのぼり1634年に日光東照宮の御霊屋の普請を3代将軍・家光から仰せつかった『伊達政宗』が、この大横川に材木置き場をつくりました。

 

 

その時に職人たちに時間を知らせる為に設置したのが、この『本所横堀』の時の鐘だったのです。

 

 

 

また、この辺りの本所には『本所七不思議』と呼ばれる会談の都市伝説があり、「置行橋(おいてけばし)』は、この時の鐘の近くが舞台となっており、落語などで噺のネタにもなるくらい、親しみのある地域でした。

 

 

 

 

 

さらに、明治に入ってからも物流の拠点となっていたこの錦糸町に「総武鉄道」(下総国の「総」と武蔵国の「武」を取った鉄道)の駅を置いたのもこのような背景からになります。

 

 

 

 

 

さて、この本所の『時の鐘』を建てた「伊達政宗」ですが現在の宮城県に「仙台藩」を築きます。

また、政宗も『天海』の影響で風水を好んだのか、仙台にも仙台城や神社仏閣を結ぶと『六芒星』になるようにできています。

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ただ、今回は仙台藩の『六芒星』については長くなってしまうので、割愛しますが必ずいつかご紹介しますので、お楽しみに。

 

 

 

 

さて、『本所』の時の鐘の近くに東京の有名な観光スポットであり、電波塔となっている「スカイツリー」があります。

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そして、2012年に完成するまで電波塔、また東京のシンボルとして未だに人気の観光スポットの「東京タワー」。

 

 

そのすぐ近くの徳川将軍家菩提寺である『増上寺』境内にあった『芝切通し』にも時の鐘があります。

 

 

 

 

 

次回はここをご紹介したいと思いますので、是非お楽しみに!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤坂田町 円通寺 時の鐘

今回は『赤坂田町』にあった『時の鐘』をお伝えしたいと思いますが、これがどうも複雑でして。

 

 

 

と、いうのも赤坂の高台にあった『円通寺』にはじめは『時の鐘』が建てられましたが、その後の大火で寺院が焼失。

 

 

 

その際に、南側の同じ名の寺院に移転したとされています。

 

 

 

 

 

ここも赤坂の高台にあり、鐘の音が遠くまで良く聞こえたそうですが、どのような経緯かは分かりませんが、その後『赤坂見附』付近の『成満寺』に梵鐘は移転し、1678年に8代将軍・吉宗の子で9代将軍・家重の時代から新しく梵鐘をつくり始めました。

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その後、同年の8月28日の明け6つ(午前6時)より幕府からの許可を得て、鐘を撞き始めました。

 

 

 

 

 

 

しかし、その後『成満寺』の鐘楼堂が大破してしてしまい、その時から『時の鐘』は休止されてしまいました。

 

 

 

そしてその後、東京都多摩市に移転をしてしまいましたが、現在でも使用はされていませんが梵鐘は保存さられ残っています。

 

 

 

 

 

また、赤坂の『円通寺』もTBSの坂を登ったすぐ近くにあり、そこに1994年に新たに鐘楼を建ていますので、是非どちらも近くにお寄りの際は拝観下さい。

 

 

 

 

 

さて、話はそれますが東京でも有数の観光スポットである『赤坂』。

 

 

 

 

ここがなぜこのような地名になったかはいくつか説があるようです。

 

 

 

 

まず、江戸城周辺は江戸幕府・開府前は入り江が入り組んでいたと言うのを以前お伝えしました。

 

 

 

 

そして、赤坂周辺は武蔵野台地の東の先端に位置していまして、入り江に向かって流れこむような地形だったことから、江戸城周辺は「坂」が多いんですね。

 

 

 

 

その後、江戸幕府開府からどんどんこの周辺も埋め立てられるようになり、そこに田んぼを作ったところから「田町」と言う地名で呼ばれるようになりました。

 

 

 

また、赤坂は「赤土」の土壌だったという説と「紀伊国坂」だったという説が2つあります。

 

 

 

 

そして「紀伊国坂」の説にも2つあり、1つはその昔、茜の草がたくさん多い茂っていたために「茜坂(あかねさか)」と呼ばれるようになり、それが訛って「赤坂」になったという説。

 

 

 

 

もう1つは染物屋が坂に赤い絹を干していたからという説があります。

 

 

 

 

どちらにしても、江戸城の『赤坂御門(赤坂見附)』と呼ばれるようになった以降は、この地一帯を「赤坂」と呼ぶようになりました。

 

 

 

 

また、ほど近くに『溜池(ためいけ)』という地がありますが、ここは湧水が湧く場所だったために堤防をつくり、文字通り溜池にして上水として利用していました。

 

 

 

しかし、神田上水玉川上水が整備されてからは徐々に埋め立てられ、明治21年には完全に埋め立てられ町名だけが残るようになりました。

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そして、平成に入り「溜池山王駅」が出来る訳ですが、この「山王」とは『山王日枝神社』のことで、江戸城の『裏鬼門』に位置し、『皇城鎮護』の神社となっています。

 

 

 

 

また、『江戸三大祭』のひとつで、『神田祭』ともに『天下祭』と呼ばれた『山王祭』があります。

 

 

 

 

この『天下祭』とは祭の際には、江戸城内に山車が入り将軍に拝謁することが許された唯一の祭になります。

 

 

 

 

さらに一年ごとに交互で現在でもやっている(2020年は新型コロナウィルスの影響で中止しました。)ので、是非一度は見てみたいですね。

 

 

 

個人的には一度、『山王祭』は見たので次は『神田祭』を見てみたいと思っています。

 

 

 

さて、このような歴史の詰まった「赤坂」。

 

 

次回訪れる時はこのようなことを頭の片隅に置きながら、散策するとまた違った景色が見えるような気がします。

 

 

 

ただ、個人的にここより少し先の『国会議事堂』周辺が不気味で息が詰まる感じがしてしまうんですがね…。笑

 

 

 

市谷亀岡八幡宮 時の鐘

今まで『石町』の時の鐘から『上野』・『浅草』と紹介してきましたが、今回は『市谷亀岡八幡宮神社』で鳴らしいていた『時の鐘』をお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

この『市谷亀岡八幡宮』はもともと江戸城を築いた『太田道灌(おおたどうかん)』が城内に江戸城の「西」の守護神として、建立した神社になります。

 

 

 

 

そして、この神社は鎌倉の『鶴岡八幡宮』から分霊を祀りました。

 

 

 

と、ここで何故、鎌倉の『鶴岡八幡宮』から分霊したかと言うと、まず『太田道灌』が室町幕府武蔵国守護代であったことが最大の理由になります。

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八幡宮』とは第15代・天皇の『応神天皇』を祀っている神社で、数多くの武将たちに『八幡神』と呼ばれ、戦の神様として崇拝されていました。

 

 

 

 

 

そして、『鶴』に対して縁起のよい、『亀』として『亀岡八幡宮』と名付けました。

 

 

 

 

その後、豊臣政権時代に「徳川家康」が江戸に入城。

 

 

 

 

そして、江戸で幕府を開きます。

 

 

 

 

江戸城の外堀が完成した際に、現在の地である江戸城の西側に移転することによって、『江戸城 西の鎮護』として『市谷亀岡八幡宮』となっていきます。

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そして、この神社に『時の鐘』が設置されてからは数多くの民衆が訪れるようになり、それにともない例祭など江戸市内の「山の手地域」において江戸の名所として、大いに賑わいました。

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また、3代将軍・家光やその側室でのちの5代将軍・綱吉の母である「桂昌院(けいしょういん)」からも深い信仰を得ることによって、門前町も賑わい、境内では茶屋や人形瑠璃などの芝居小屋なども並ぶようになり、よりいっそう人々の信仰を集めるようになりました。

 

 

 

 

 

さて、「市ヶ谷」といえば幕末ファンではちょっとした有名なスポットがありますが、それが『試衛館跡』です。

 

 

 

『試衛館』とは幕末に幕府側として活躍した『新撰組』の局長、「近藤勇」以下、中心人物たちが自然と集まっていった『天然理心流』の道場ですが、『市谷亀岡八幡宮』からほど近い場所にあります。

 

 

 

 

 

 

また、面白いことにその近藤勇たちが上洛する際にはじめ集められ、「清河八郎」を筆頭とした『浪士組』を結成した場所が『伝通院(でんつういん)』になりますが、この場所は江戸城から見て、ほぼ真北に位置しています。

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そして、北のその先には初代将軍・家康が眠る『日光東照宮』が存在しています。

 

 

 

 

また、『伝通院』とは、家康の生母の法名でそこから院号をとりこの名前になりました。

 

 

 

 

さらに、将軍家の菩提寺として、『増上寺』『寛永時』と並び『江戸の三霊山』と称されるくらい権威のあった寺院になります。

 

 

 

 

『市谷亀岡八幡宮』の『時の鐘』を聞き、例祭などでは足を運び、そして将軍警護(江戸幕府)の為にと、志をもった近藤勇以下、試衛館の人たちの情景が目に浮かぶような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸前寿司と蕎麦、天婦羅

 

前回、『江戸前』と呼ばれる理由とその地域についてお伝えしましたが、今回は特に現在、東京の観光名所などで目にしたり、聴いたりする『江戸前寿司』と『江戸前蕎麦』、そして『天婦羅』についてお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

 

というのも、これには江戸庶民たちの生活習慣が深く関係しています。

 

 

 

 

まず、徳川家康江戸幕府を開いたことで、『日本橋』が物流の中心となり、それにつけ加えて、大名屋敷などの建てるために、幕府からの命で各藩が、もともとは「入り江」だった江戸城周辺を埋め立てるよう指示がありました。

 

 

 

 

そうすると、各藩は土木・建設事業(この時の工事は各藩の実費でした。)で「武士」以外の人手が必要となってきます。

 

 

 

また、『参勤交代』で各藩の大名をはじめ武士たちも集まり、江戸市中の人口はドンドン増えてきます。

 

 

 

 

結果、物流の中心となり『五街道』の起点ともなった『日本橋』は賑わいに溢れてるようになり、さらにそれを聞いた各地の商人たちもたくさん集まり、江戸市中は大変な賑わいになっていきました。

 

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こうして多種多様な店が並ぶ街へと『日本橋』は変化していったのです。

 

 

 

 

 

 

 

それにつけ加えて、江戸時代中期ごろになると、現在の千葉県・野田市周辺で、東側の利根川沿いの大豆や小麦の生産地・また西側の江戸川下流では『行徳の塩』としても当時から有名な塩田があり、『醤油』作りに最適な立地条件から製造が始まりました。

 

 

 

 

 

また、川を通して江戸市中にも流通ができたために、江戸っ子たちに『醤油』が爆発的人気になったのです。

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野田の『醤油』と言えば『キッコーマン』が有名ですよね!

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そして、『日本橋』の魚河岸に集まった江戸湾で獲れた魚介類を、刺身にして醤油につけて食べていました。

 

 

 

 

特に、当時はまだ冷蔵庫がない時代。

生モノは足が早いので、醤油漬けや〆で食べられるようになると、せっかちな江戸っ子はお米を握ったものと一緒に食べるようになり、いまの『江戸前寿司』の原型ができてきました。

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そして、いまのような『江戸前寿司』が高級なイメージがついたのは戦後、一時期衰退していた寿司屋がそれまでは屋台で提供されていましたが、衛生上禁止され、高度経済成長期のときでした。

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また、『蕎麦』に関してもやはり醤油好きでせっかちな江戸っ子。

 

 

ズズッと食べれるのと、「上方」ではうどんが主流だったことから、それなら江戸では『蕎麦』となったという説があります。

 

また、参勤交代で江戸に来ている各藩の忙しい武士たちも、単身赴任であり、簡単で早く食べられる『蕎麦』を好んで食べられるようになるのと同時に、江戸市民も男女比率で男性の方が多かったため、たくさんの屋台が出店しており、それを好んで食べていました。

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そして、「天婦羅」は江戸前で獲れた魚介類を生だと足が早いので、それを衣をつけて揚げて火を通し、少しでも日持ちするよう、またごま油で揚げるのも、生臭さを感じさせないように風味の強い、ごま油で揚げるようになりました。

 

 

 

また「天婦羅」も屋台で出店がされ、「蕎麦屋」の隣に連なっていることが多くなったことで、やはりここはせっかちで醤油好きな江戸っ子。

 

 

 

一緒に食べてしまえ!

 

 

 

ってことで、「蕎麦」と「天婦羅」を一緒に食べられるようになり、いつしか「蕎麦屋」で蕎麦を注文し、それを待っている間に天婦羅をつまむと言うスタイルになっていったそうです。

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せっかちで醤油好きな江戸っ子が現在の『江戸前』というブランドを作って行ったのがよく分かりますね。

 

 

 

 

寿司屋も蕎麦屋も食べ終わったら長居をせずに、サッと帰る。

 

 

 

これが『江戸っ子』の粋で乙ってやつなんですね!

 

 

私も是非こうした振る舞いをしてみたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

江戸前とは

 

前回、前々回と『上野』『浅草』の『時の鐘』をご紹介してきましたが、今回はちょっと話をずらしまして『江戸前』のお話をしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

そもそも、『江戸前』とは江戸城の前にある海のことで、特に今の東京湾近郊で取れた魚介類のことを指しています。

 

 

 

 

 

ただし当時の東京湾江戸城から見えるくらい近くにあったので、本当に『江戸前』と言うのがふさわしいくらい、近い距離にありました。

 

 

 

 

実際に現在の日本橋から銀座にかけては、徳川家康が江戸に入る前までは、神田川隅田川がぶつかって「砂州(さす)」で出来た半島でした。

 

 

 

 

また、江戸城付近も現在の大手町付近まで入り江であり、『日比谷壕』などはその入り江を利用して出来ました。

 

 

 

 

という事は、江戸城の前がほんとうに海だったってことですね!

 

 

 

 

 

そこで取れた魚介類のことを『江戸前』と呼んだわけです!

 

 

 

 

いまの「東京駅」も江戸時代初頭はまだ、海だったというのですから、現在では不思議な感覚になります。

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ただ、そうして考えると『日本橋』が江戸時代から常に活気が溢れていたのが分かります。




なぜなら神田川隅田川がぶつかる場所(半島)であり、そこが物流の中心となっていき、さらに江戸幕府の命により、各藩が自費で土木事業を行い、ドンドンと海を埋め立てていき、そこに大名屋敷をつくってさらに、人口が増えます。

 

 

 

 

そうすると多種多様なものがそこに集まり、さらに活気づくわけです。

 

 

 

 

 

そして、当時の食文化は牛肉を食べることが禁止されており、そうなるとおのずと魚介類が中心になります。

 

 

 

 

そうして、生まれ呼ばれるようになったのが『江戸前』でした。

 

 

 

 

また、家康が「本能寺の変」の直後に自身の城である「岡崎城」に決死の覚悟で戻ろうとした際に、現在の大阪府兵庫県の間を流れる「神崎川」で足止めをしてしまい、その時に佃村の漁師たちに助けられ、無事に「岡崎城」に戻ることができました。

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その後、彼らを江戸に呼び寄せて特別な漁業権を与えました。

 

 

 

 

その場所というのが、隅田川河口の2つの中州であり、「佃島」と名乗り、ここまでが『江戸前』と呼ばれていました。

 

 

 

 

そして、ここで生まれたのが「佃煮」です。

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特に、最初は雑魚やアサリ・海苔などこの近辺でとれた魚介類を醤油や塩で煮込み、漁師たちの非常食用でしたが、その後人気が高まり醤油好きな江戸庶民たちにも受け入れられてきました。

 

 

 

 

そして、『参勤交代』で江戸にくる武士たちが江戸のお土産にと各地に持ち帰り、全国に広がっていったという説があります。

 

 

 

もとは非常食用なので、当時は冷蔵庫が無い時代。

 

 

 

お土産には最適だったんですね。

 

 

 

 

さて、話は江戸市中中心に戻しまして、『江戸前』から獲れた魚介類を『日本橋』の魚河岸で流通していました。

 

 

 

その魚介類を生では「寿司」に、そしてそれを加工し揚げたものが「天婦羅」となり、江戸庶民たちにも人気がでてくるわけですが、少し長くなるので、また次回にしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浅草『時の鐘』

江戸の『時の鐘』は石町や上野など、合計で10箇所ありましたが今回は『浅草』にある『時の鐘』をご紹介していきたいと思います。

 

 

 

 

石町の『時の鐘』は2代将軍・秀忠が、そして上野の『時の鐘』は3代将軍・家光の命により設置されましたが、『浅草』にある『時の鐘』は5代将軍・綱吉の命でこの地に建てられました。

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そして、『浅草』といえば『雷門』や『浅草寺(せんそうじ)』など、日本でも有数の観光スポットとしても人気ですが、この『時の鐘』は『浅草寺』の敷地内にあり、いまもなお、毎日午前6時に鐘がつかれています。

 

 

 

 

 

また、浅草の『時の鐘』は綱吉の命で作られて以来、戦火などで多少焼けてしまった箇所はありますが、現在も最初に作られた形のまま、残されています。

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また、第二次世界大戦中、鉄の不足のために数多くの寺院の鐘が当時の政府によってほぼ強制的に回収されてしまう中、ここの『時の鐘』は特に由緒があるとして、残されました。

 

 

 

 

この時、もし回収されていたら毎年大晦日の深夜にNHKの『ゆく年、くる年』という番組での除夜の鐘もまた、違う音色になっていたと思うと、なんとも感慨深くなりますね。

 

 

 

 

 

 

さらに、前回の上野『寛永寺』の『時の鐘』を鋳造した旧称『谷中 感應寺(かんのうじ)』は「富くじ」といっていまでいう「宝くじ」を江戸幕府から認可され興行していましたが、浅草の『時の鐘』ある場所もカネ=金に深く関係のある場所にあるのです。

 

 

 

 

 

その場所というのが『浅草寺』の敷地内にある、少し小高い丘に弁天様を祀っている弁天堂がある、『弁天山』です。

 

 

 

 

弁天様は『弁財天』ともいわれており、『七福神』の一員で唯一女性でありとても縁起の良い神様です。

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そして、『弁財天』の字からも分かるように「財」の文字が入っており、さらには「巳の日」が縁日になっていることから、『財運』のご利益がある神様となっています。

 

 

 

 

 

そうしたところからも「鐘=カネ=金」と掛け、江戸時代以降いまもなお、人々に親しまれてきたのでしょうね。

 

 

 

 

 

また、『弁財天』が『古事記』や『日本書紀』に登場する『イチキシマヒメ』と神仏習合により同一視されるようになり、『イチキシマヒメ』は水の神でもあることにより、池や泉・海や川のほとりなどに祀られることが多くなりました。

 

 

 

 

池や泉は水が溢れて出ることから、昔の人々にとっては生活に欠かせない存在であり、また海や川沿いでは漁師や農民たちにも生活をするうえで欠かせない存在でした。

 

 

 

 

そのような関係性からもやはり「財」の文字がある『弁財天』が数多く祀られる理由になったのでしょうね。

 

 

 

 

 

浅草寺』の弁天山にもかつては池があり、そこに祀られていましたが、そもそもこの『浅草寺』自体もその昔、ある兄弟が川で漁をしていると観音さまが網にかかり、それを祀ったのがはじめとされる寺院です。

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そういった関係からもこの地に『時の鐘』が出来たというのが必然な気がします。

 

 

 

 

 

また、この『浅草寺』の創建は『推古天皇』の時代であり、『坂東三十三箇所』では「13」番目の礼所となっています。

 

 

 

 

推古天皇といえば『聖徳太子』。

 

 

 

 

聖徳太子』は別名、『厩戸皇子(うまやどのみこ)』であり、『イエス=キリスト』は馬小屋で生誕したと言われています。

 

 

 

 

 

そして、『推古天皇』は第33代目の天皇

 

 

 

 

ここで「13」「33」『イエス=キリスト』で浮かび上がるのは…。

 

 

 

 

 

フリーメイソン

 

 

 

 

もかしたら、最早この時から『日本』と『フリーメイソン』は深く関わっていたのかもしれません。