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『世界最古の国』日本

#神社仏閣#歴史#都市伝説#グルメ#漫画#アニメ#ゲーム#その他生活にありとあらゆるものなどに関することを書いています。ここに記載するすべて記事の引用素材は誹謗中傷を目的としたものでは無く、著作権を侵害する目的で作成したものではありません。

新選組 18-上野戦争・会津戦争・そして最後の戦い、箱館戦争

江戸城開城』を開城した旧幕府軍ですが、未だにそれに納得していない、強硬派もまだまだ残っています。

 

 

 

 

 

そんな中で、唯一江戸で戦場になってしまったのが、『上野戦争』です。

 

 

 

 

 

 

これは新政府軍に反抗する「彰義隊」が上野にある徳川家の菩提寺である『寛永寺(かんえいじ)』周辺にたてこもり、新政府軍と戦争をし、惨敗すると言う結果になりました。

 

 

 

 

 

 

 

それもそのはすですね。

 

 

 

 

 

なんと言っても新政府軍は最新の兵器をもち勢いづいている。

さらに、軍事戦略の天才である長州藩の「大村益次郎」が指揮を執っていたことにより、たったの1日で終焉してしまいます。

 

 

 

 

また、この戦いの作戦会議の中、西郷隆盛が大村に「皆殺しにするつもりですか?」と問うと、「そうです。」と即答したというほど、大村は軍事に優れている人物ではあるが、非情にもなれる男でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、旧幕府軍側の彰義隊

 

 

 

 

 

この中に、徳川四天王のひとりである『榊原康政(さかきばらやすまさ)』の子孫が領土を平定していた「越後高田藩」の脱藩藩士たちも参加します。

 

 

 

 

 

 

戊辰戦争』が始まった時にはすでに「高田藩」は討幕派となっていましたが、これに反発した藩士たちが脱藩。

 

 

 

 

 

そして、『榊原家』の『榊』の文字を2つに分けた「神木隊」を結成するのです。

 

 

 

 

 

その後、彼らが彰義隊に合流して『上野戦争』に発展していきます。

 

 

 

 

 

 

また、甲州で『新選組』と別れた「原田左之助」もこの戦いに加わり戦死したとも、その後生き延びて大陸にわたり、馬賊の頭になり『日清・日露戦争』の際に『大日本帝国』に一矢報いたなどの伝説があります。

 

 

 

 

 

 

さて、『上野戦争』がたったの1日で決着がつき、新政府軍は関東より西側を制圧。

 

 

 

 

 

逆に旧幕府軍は東北地方に追いやられて行くようになります。

 

 

 

 

 

そして、新政府軍はいよいよ憎き敵である『会津藩』に向けて兵を進行していきます。

 

 

 

 

 


『朝敵』とされた会津藩庄内藩を守ろうと『奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)』を結成し、罷免を求めた。

 

 

 

 

 

また、会津藩庄内藩の同盟である『会庄同盟』も結成され、『会津戦争』では奮闘をしますが、新政府軍の圧倒的な強さに、会津藩は降伏。

 

 

 

 

 

この2日後には庄内藩も降伏し、さらに桑名藩も降伏します。

 

 

 

 

会津戦争』には新選組の三番隊隊長・「斎藤一」などが奮戦。

 

 

 

 

副長の「土方歳三」は仙台藩などに応援を求め走っていましたが、この間に会津藩が降伏することによって、最後の戦地である、箱館まで行くことになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

この戦いで、予備隊であった「白虎隊(びゃっこたい」」が、13歳から16歳で構成された部隊がありましたが、会津にある「飯盛山」で、鶴ヶ城が焼けていると勘違いをして、もはやここまでと悟り集団自決をすると言う悲劇が生まれます。

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この時の新政府軍の司令官が「人斬り半次郎」という異名も持っていた、「中村半次郎」のちの「桐野利秋」ですが、開城の際に男泣きをしたと伝わっており、その後の処理も会津藩に対して、解体はするものの、藩主である「松平容保」は江戸で謹慎と言う、軽い処分でした。

 

 

 

 

 

ただし、家老のひとりが責任をとり「切腹」、藩士たちは現在の青森県むつ市に移住させられ、特に冬は極寒になり、生活も非常に大変だったといいます。

 

 

 

 

 

それとは逆に、庄内藩西郷隆盛の意向もあり、藩自体の処罰も非常に軽いものになり、その後の庄内地方の人びとは西郷隆盛を敬愛しています。

 

 

 

 

 

 

 

その後、秋田や岩手でも戦いが行われ、最後の戦いになった「箱館戦争」が始まります。

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この時の新政府軍の指揮官である「黒田清隆」は、敵将である「榎本武揚」の助命に尽力をつくし、その後、黒田清隆内閣総理大臣になると、文部大臣や逓信大臣・農商務大臣を務めるなと、盟友となりました。

 

 

 

 

 

 

 

さて、箱館五稜郭で、旧幕府軍の軍事治安部門の責任者となった土方歳三ですが、蝦夷共和国旧幕府軍側)が樹立したときも、ほかの幹部たちが祝杯をしているときでも、「いまは浮かれている時ではない!」と言い放つなど、ひとり冷静な判断をしていました。

 

 

 

 

 

 

また、部下たちには「この戦況のなか、あまり飲みすぎると戦えなくなってしまうので、一杯だけな。」と言い、酒を振る舞うと言う、新選組時代には有り得ないほど、部下に対して気遣いをするくらいまで、温厚になっていました。

 

 

 

 

 

 

そして、土方歳三は「二股口の戦い」で、腹部に銃弾を受けて戦死。

 

 

 

 

 

希しくも、新選組局長・近藤勇と同じ歳で亡くなっています。

 

 

 

 

また、一番隊隊長・沖田総司近藤勇が斬首された1ヶ月後に病死しており、近藤の死は聞かされていなかったようです。

 

 

 

 

 

 

土方歳三の戦死をきっかけに、旧幕府軍側は降伏。

 

 

 

 

 

これにより、『戊辰戦争』が終結します。

 

 

 

 

そして、新政府軍は名実ともに、明治維新という新たな時代が開かれるようになりました。

 

 

 

 

 

 

時代を駆け巡った彼ら、そして残って新政府として、日本を作り上げた彼ら。

 

 

 

 

 

 

どっちが良い悪いと言うのではなく、お互いに『日本』と言う国を守ろうとしたと言うことには変わりが無く、ただ時代に翻弄されたとしか思えません。

 

 

 

 

 

そして、いま世界を脅かしている新型コ◯ナウイルス。

 

 

 

 

このような現状に、再びいま『日本人』が集結し、立ち向かって行かなければ行けないのでは無いでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新選組 17-甲州勝沼の戦い・そして江戸城無血開城

突如として大坂城から江戸へ逃げ出した旧幕府軍の総大将である、「徳川慶喜」。







これで戦意を失うと言うよりは、戦争をする目的もなくなった旧幕府軍は次々と新政府軍に寝返りを始めます。







その中でも「彦根藩」はすでに第二次長州征伐の時に、「大村益次郎」の高い指揮戦略を訓練していた、長州藩によって大敗をし、それ以降新政府軍側に寝返っています。









これには理由がありまして、徳川四天王のひとり『井伊直政』以来、兵を全身赤い甲冑で統一していました。







重くて動きにくい甲冑と、さらにその赤い色から目立ち、格好の標的とされます。






さらに、時代はもはや剣の時代ではなく銃の時代。




しかも、「トーマス・グラバー」から薩摩藩経由で購入したイギリス製の最新の武器です。






そうなると大敗をするのは一目瞭然ですね。









そして、『鳥羽・伏見の戦い』では新政府軍側につき、『東寺』などの守っていました。








また、第二次長州征伐の際に「彦根藩」と一緒に先鋒隊として兵を挙げたのが、これも徳川四天王のひとりである『榊原康政』の末裔の藩である、「越後高田藩」です。










この高田藩はまた後で名前が出てくるので、お楽しみを。









さて、勢いに乗った新政府軍はドンドン東会地方へと遂行していきます。








そして、また徳川四天王のひとりである『本田忠勝』が祖となり、のちに松平家が領地を収めることになった「桑名藩」に新政府軍は進軍していきます。







しかし、桑名藩旧幕府軍最強として名を轟かせており、能力のあるものを優先させた軍隊になっていました。







山県有朋」率いる新政府軍をも撃破すると言う結果を残しますが、周りの藩がつぎつぎと降伏。







これにより徐々に東に追いやられることになってしまい、城も開城せざるを得なくなります。






桑名藩主ではなくなった「松平定敬」はその後も戦い続け、『戊辰戦争』最後の地、「箱館戦争」まで参加していました。












実は松平定敬の実兄が会津藩主・「松平容保」だったということも大きいでしょうし、『大政奉還』で徳川慶喜が政権を返上するまで、幕末期に「一会桑政権」で実権を握っており、さらに薩摩藩とも対立を深めているという背景もありました。




(一会桑政権とは、一橋・会津・桑名の頭文字をとったもの)








また、残った桑名藩庄内藩とともにその後も東北地方で奮闘します。














桑名藩が城を明け渡した事で、いよいよ関東に接近してきた新政府軍。











対して、江戸城を守る最後の要となった「甲府城」を護るために新選組が、『甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)』と名を改め向かいました。
(この時に近藤勇は大名扱いになった。)










しかし、ひと足先に「板垣退助」率いる新政府軍が占領してしまい、これも敗戦。










そして、この敗戦で意見の合わなくなってしまった二番隊隊長・永倉新八と十番隊隊長・原田左之助と今生の分かれをしてしまいます。







その理由は諸説ありますが、近藤は大名扱いになったにも関わらず、この戦いで敗戦をしてしまった。


なんとか、再起をと思いこらえるように命じたに対して、この2人が怒ってしまったんですね。



同じ志を持つ者だとは思うが、決して近藤の手下では無いと。







これにより、さらに新選組は兵力が低下。







そして、いよいよ新政府軍が江戸に総攻撃を決定。










この時、旧幕府軍の全権を任されていたのが、かつての龍馬の師でもあり、西郷に長州征伐の際に「いまは国内同士で戦争をしている時では無い」と頷かせた『勝海舟』です。









また、「ハリー・パークス」と言うイギリスの外交官も諸外国との貿易に悪影響であるとして、中止を求めていました。







このハリー・パークスという人物。








実は彼もある秘密結社に繋がっていたのです。






それが







フリーメイソン








江戸のまちが戦場になったら、どちらが勝っても負けても、復興までに時間がかかり、利益をもたらすことが出来ないと考えていたのでしょう。









当時の新政府にはまだ、諸外国との関係を良い形でむかえなければならなく、また、江戸市中を戦場にかえてしまうのに躊躇すると言う意見もあり、江戸総攻撃を中止にしました。









そして、現在の港区高輪にあった薩摩藩邸で「西郷隆盛」と「勝海舟」が会談。






無血開城の条件として、「江戸城・軍艦や武器の明け渡し。また、徳川慶喜を水戸で謹慎させる。」と言うことで、この会談の終了後、すぐに執り行なわれ、慶喜は水戸にむかいました。








そして、10日後の1868年5月13日に新政府軍の東征大総督である『有栖川宮熾仁親王(あらるすがわのみやたるひとしんのう)』が江戸城へと入城し、新政府軍のものとなりました。













永倉・原田と別れ、試衛館以来の同士がもはや2人になってしまった近藤・土方はそれでもなお再起をかけ北へと移動し、千葉県の流山市にとどまっている際に、新政府軍に見つかってしまいます。








そして、局長である近藤勇は捕縛され、板橋へと連行され、そこで処刑されてしまいます。










それも武士でありながら「斬首」と言うかたちで。







本来、大名にまでのぼりつめた近藤勇でしたら、「切腹」のはずですが、近藤の出生が農民であるのに加えて、『尊王攘夷』派・特に長州藩にとって憎き存在である、新選組の局長・『近藤勇』だったからです。








新政府軍がこの戦争で欲しい首は3つ。





1つは元徳川幕府15代将軍・徳川慶喜・1つは会津藩主・松平容保、そして新選組、局長・近藤勇の首でした。






ただ、もはや慶喜は水戸で謹慎の身。






まさに新政府軍全ての恨みを1人で背負ったと言っても、過言じゃありません。








そして、近藤勇の首は塩漬けにされ、京都の『三条河原』で晒し首にされます。








さて、今ここまでとし次回は江戸城開城のその後についてお伝えしていきたいと思いますので、ご期待ください。

新選組 16 -戊辰戦争のはじまり-

大政奉還』で、政権を返上した徳川慶喜







それを提案した、「坂本龍馬」。






龍馬はこの『大政奉還』を成功させたあと、『薩長同盟』で共に仲介役として尽力を尽くした、「中岡慎太郎」とともに、京都の醤油屋である「近江屋」で暗殺されています。








しかも、『大政奉還』を発足した約1ヶ月後のことです。







この実行犯には色々諸説があり、また確定もされてませんが、個人的には黒幕は「薩摩藩」だと思っています。
いや、もはや当時、薩摩藩を動かしていた、「西郷隆盛」。







何故かと言うと、龍馬が提案した『船中八策』またそれに繋がった、『大政奉還』によって、倒幕の機を失いました。









当時、薩摩藩土佐藩はもはや倒幕派として同盟を組んでいました。
ただし、土佐藩は表立っては、倒幕派にはなりたくない。








このような状況から、龍馬・中岡の居場所はすぐに分かってしまう状況です。









これに利用されたのが京都見廻組










色々な諸説がありますが、通説ではこのようになっています。









ただし、あくまでこれは通説に過ぎず。










そしてひとつ興味深い説があります。








それが『フリーメイソン』陰謀説。









出ましたね!








理由は簡単です。
まず、「トーマス・グラバー」がイギリスの武器商人だったと言う事は、以前お話しました。




そして、グラバーは龍馬の立ち上げた日本初の株式会社「亀山社中」を仲介して、薩摩藩に武器を売り、利益を上げていました。







しかし、『大政奉還』の内容で、金・銀の交換レートの改正などの案を提出した龍馬。







これを良く思わないのが、武器商人である「トーマス・グラバー」だったのです。









それはそうですよね。







世界に合わせたレートになれば、儲けも減ることになる訳ですから。







余計なことしやがって!







と思ったのでしょう。








さらに、西郷隆盛などは武力倒幕を果たしたいが、それを龍馬の内戦回避のための書状により、結局出来ずじまい。






狙われるのも当然です。






ただ、常に命を狙われていた状態だったので、いったい誰がやったのかは闇の中なんですが。









その後に、相楽総三率いる「赤報隊」が江戸市中で暴れまくり。







それに対して徳川慶喜は旧幕府側に抑制をしていましたが、いよいよ我慢の限界に達してしまいます。







そして、庄内藩が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしてしまうのです。









この焼き討ちにより、『戊辰戦争』のきっかけになってしまいました。









1868年1月27日、京都の南側の郊外にある鳥羽・伏見で、新政府軍と旧幕府軍の衝突によって、戦争が開始されました。
鳥羽・伏見の戦い









旧幕府軍は数でこそ多いものの、しっかりとした指揮が取れておらず、いわば寄せ集めのようなものになっていました。







逆に、薩摩藩は軍服や銃などしっかりと揃えており、指揮管理もしっかりしていたために、その勢いで旧幕府軍を圧倒します。







さらに翌日、『錦の御旗』を掲げた新政府軍はこれによりさらに勢いを増していきます。









それもそのはず。







『錦の御旗』=『朝廷側』。
ひいては『天皇』の勅命により、兵を挙げているので、それに銃を放つ=『朝敵』になってしまうからです。









これに怯んだ旧幕府軍は大阪へと後退せざるを得なくなります。







さて、新選組もこの時に戦闘に参加しているのですが、この時に試衛館時代から「近藤勇」や、「土方歳三」の兄弟子でもあり、大変慕っていた「井上源三郎」が戦死してしまいます。






また、この敗北がきっかけで逃げ出す隊士たちも多く、戦力が一気に低下してします。








さらに、『空海』が建立し、京都の民衆に強い信仰を集めた『東寺(とうじ)』で、新政府軍は陣をはり、指揮をしていました。







この心理的作戦から民衆をも味方につけたのです。







その総指揮を執っていた人物が




西郷隆盛





です。






『東寺』の上へ登り、鳥羽・伏見の戦況を見守っていました。







その後、すぐに薩長は『朝廷』から正式に『官軍』となり、土佐藩も加わりさらに新政府軍は勢いを増していきます。







また、その逆に旧幕府軍は『賊軍』として認知されていくようになり、さらに戦いでも敗北を期します。







そんな中大阪城にいた旧幕府軍の総大将である、「徳川慶喜」が突如、数名の側近のみを連れ江戸に帰ってしまいます。






理由はいくつかありますが、その中で慶喜が出た「水戸徳川藩」の家訓に、「幕府に背くことがあっても、決して『朝廷』に弓を引いてはならない。」といのがあります。





さらに自らが『朝敵』となってしまったこと。










この精神的ショックにより撤退。









これで旧幕府軍は一気にやる気を喪失してしまいます。









こうして、新政府軍は江戸城へ向かい東へとドンドン進んでいきます。






次回は江戸城開城など、にお伝えして行こうと思いますので、よろしくお願いします。

新撰組15 -大政奉還・王政復古の大号令

前回から3回ほど、『新撰組』とは関係の無い記事になりましたが、今回からまた『新撰組』の歴史についてお伝えしていたいと思います。






薩摩藩長州藩が「坂本龍馬中岡慎太郎」の仲介をえて『薩長同盟』を水面化で結ばれ、倒幕にむけて少しずつすすんできている間に、新撰組は内部でのゴタゴタが絶えない状況にありました。







その代表的なものが、「参謀」の役職につき、『池田屋事件後』に加わった「伊東甲子太郎」の脱退です。







新撰組に途中から入った彼は、頭脳明晰としてむかえられますが、実績も無いうえに、『尊王攘夷』と言う考え方も新撰組とは違っていました。







と言うのも、『総長』である「山南敬助」を失ったいま、頭脳で勝るものは無く、むしろ新撰組が野蛮な考え方だと思うようになったのです。






結果的に、第121代天皇の『孝明天皇』の御陵をまもり、さらに薩長の動向を伺うというかたちで『御陵衛士(ごりょうえじ)』を結成。







同じような考えの隊士も引き抜いて行ったのです。







その中には『試衛館』時代からともにした、「藤堂平助」や「斎藤一」など、新撰組のなかでも古参の幹部たちまで引き抜いてしまいました。
斎藤一はスパイとして送り込まれたという説もある。
また、藤堂平助は江戸にいた頃、同じ道場に通っていたという間柄から)






しかも、今後一切、お互いの隊士の引き抜きをしないと言う条件までありました。







その間に15代将軍「徳川慶喜」がまさかの行動をします。







その行動が






大政奉還



これは徳川幕府が『朝廷』に政権を返上すると言うことです。









これを受けた『明治天皇』は勅許をし、1867年11月10日に260年以上も続いた、『江戸幕府』が終焉を迎えました。









なぜ、こんなにいとも簡単に幕府を解体したかと言うと、実は「徳川慶喜」は政権は返上しても、こと外交となると、旧幕府のほうが朝廷側よりも優れていたんですね。






実際、朝廷側の方は全く外交ができず、旧幕府側に協力を得るしかなかったくらい、実力が無かったようです。







さらに、薩長による倒幕での国内内戦を避けるため。






実際に、『大政奉還』を行ったことにより、倒幕の「大義名分」を失った薩長は先手を打たれたと、かなりの動揺があったようです。








しかも、これには龍馬が土佐藩の幹部であった「後藤象二郎」をとおして山内容堂に進言した、『船中八策』をもとに、『大政奉還』後の新国家の体制の基本方針が記されていました。








そこにも、なんだかんだで資産のある『徳川家』を中心に議会などを創設するなどです。








また、不平等条約の改正や、憲法の制定。





金や銀の交換レートの世界と共通にさせることや、海軍の強化。





世襲制ではなく常に良い人材を政治に投与するなど、画期的な案でした。








これを提出し、山内容堂徳川慶喜を説得。






そして、『大政奉還』が行われたのです。










その後、『王政復古の大号令』を『明治天皇』が発足。








これにより、本当の意味で江戸幕府が解体しました。










また、摂政・関白などを廃止し、そのかわりに、「三職」を設置。(総裁・議定・参議)






そして、『天皇』を中心とした新政府が樹立されたのです。









さて、薩長を中心にした倒幕派は、どうしても徳川家・会津藩など旧幕府軍をつぶしたくて仕方ありません。






しかし、もはや江戸幕府は解体しているので、それもかないません。








そこで、「西郷隆盛」が打った策は薩摩藩が中心にとなって、「相楽総三」率いる「赤報隊」なとが江戸市中や関東各地で暴れまくったのです。










江戸城の西の丸までも焼失させてしまうくらいの暴れっぷりでした。









そして、我慢の限界が達した旧幕府側は、庄内藩(当時、江戸市中の警護を担当していた。
さらに庄内藩は「徳川四天王」の筆頭でもある「酒井忠次」の子孫がずっと統治していました。)
に命を下し、江戸にある薩摩藩邸を焼き討ちしてしまいます。







しかも、この時、慶喜の「堪えよ!」と言う命にも従わえないほど、怒りの頂点を超えていたようです。







これで、「大義名分」が出来た薩長を中心とした倒幕派








まんまと罠にはめられた旧幕府軍








そして、旧幕府軍の息の根を絶やさんとばかりに、『戊辰戦争』が勃発していきました。

春分の日

本日は『春分の日』になりますが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか?

 

 

 

 

今年はコロナウィルスの影響によって、外出も自粛している方々も多いと思います。

 

 

 

実際、私の家庭なんかは上の子が小学生なので、その影響をモロに受けている状況ですが、それでもなんとかやっています。

 

 

 

 

さて、そんな本日『春分の日』ですが、なかなか勉強になることを見つけてしまいました。

 

 

 

 

 

 

『彼岸(ひがん)』

 

 

 

 

と言うことばです。

 

 

 

 

よく『お彼岸』と言うことばで、この時期にご先祖さまのお墓参りに行かれる方も多いと思います。

 

 

 

 

『お彼岸』と『お盆』の時期に、家族一同が集まって、お墓参りをしたあとに、みんなでご飯を食べるなんていうのも、まだたまに聞いたりしますが、なかなか良いものですよね!

 

 

 

 

 

 

 

さて、この『彼岸』と言うのは、実は仏教用語になります。

 

 

 

 

 

以前、戦国末期の『織田信長』また『豊臣秀吉』の時代に『浄土信仰』が全国で流行したと言うのをお伝えしました。

 

 

 

 

この『浄土信仰』というのは『南無阿弥陀仏』と唱えれば、『阿弥陀如来』が助けてくれ、また仏門に入らなくても良い。

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さらに、妻子を持つこと、肉・魚も食べもよいなどで、民衆に支持を得たんですね。

 

 

 

 

そんな『阿弥陀如来』が悟りをひらいた『極楽浄土』の場所が、日本からみて西にあります。

 

 

 

 

春分の日』・『秋分の日』は太陽が真東から真西にへと、沈むことから、この『極楽浄土』を思いながら、手を合わせおがんでいたのが始まりになります。

 

 

 

 

 

 

さらに日本人の遥か昔からある、「太陽信仰」・「先祖の霊の供養」するなどの風習から、現在のようなかたちになって行ったのです。

 

 

 

 

 

また、豊作を願って「日願(ひがん)」と言う太陽信仰のことばが仏教の『彼岸』と結びついたという説もあります。

 

 

 

 

そして、天皇陛下がおこなう『宮中祭祀』のひとつに『皇霊祭(こうれいさい)』という行事があります。

 

 

 

 

 

これは『大祭』として、歴代の天皇・皇后・また皇族などの霊をまつるための儀式になります。

 

 

 

 

 

また、これは毎年、「春」と「秋」に行われていて、それぞれ『春分の日』を『春季皇霊祭』。

秋分の日』を『秋季皇霊祭』となります。

 

 

 

 

 

 

さらにむかし民衆たちは「お彼岸」にいちばん近い「戌の日(いぬの日)に、氏神様のいる神社に参拝し、春には『五穀豊穣』を。

秋にはその年の収穫を感謝する『収穫祭』をしていました。

 

 

 

 

 

キリスト教にも、同じようなものがありますね。

 

 

 

 

春の『イースター』と、秋の『ハロウィン』がまさにそうです。

 

 

 

 

いまでは両方もビッグイベントとして、日本でも知れ渡っているのが分かると思います。

 

 

 

 

 

 

さて、『春分の日』に食べると縁起の良い食べ物をご存知でしょうか?

 

 

 

 

 

やはり、一番有名なのが『ぼた餅』ですよね。

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『ぼた餅』は春のあんころ餅になります。

 

 

 

 

そして、秋のあんころ餅は『おはぎ』。

 

 

 

 

 

この名前の違い。

 

 

 

 

春に咲く「牡丹(ぼたん)」の花と、秋に咲く「萩(はぎ)」の花からきていんです。

 

 

 

 

 

また、『ぼた餅』は「こし餡」で、『おはぎ』は「つぶ餡」となっています。

 

 

 

 

 

この理由も、聞くと中々面白いのですが、小豆(あずき)は秋に収穫ができ、そのまま新鮮なものを使えたので「つぶ餡」になります。

 

 

また、逆に春は収穫から時間が経ってしまい、そのままよりも潰して加工しなければいけなかったので「こし餡」になりました。

 

 

 

 

いずれにしても、昔は「甘味」を摂取できる大変貴重なものだったことから、先祖の墓に感謝の意味を込めて、お供えしたのだと思います。

 

 

 

 

 

また、あずきは赤い色をしているところから「邪気を払い、身を守ってくれる効果」があるものと考えられおり、縁起物として食べられていました。

 

 

 

 

 

次に『春分の日』に食べると良いと言われているのが、『精進料理』です。

 

 

 

 

これは、先祖供養・また仏教の世界では『不殺生戒』ということばがあり、肉や魚を食べないと言うものがあります。

 

 

 

そのかわりに、野菜や海藻などを使ったメニューをかんがえ食べていました。

 

 

 

 

いまでも、寺院の近くの食事処に行くとこのような料理を食べることができる場所もありますので、是非機会があればお食事下さい。

 

 

 

 

それから、「はっさく」や「つくし」、「キヌサヤ」なんかも『春分の日』の縁起物になっています。

 

 

 

 

 

 

さて、『春分の日』・『秋分の日』にだけ太陽の通る、いわゆる『レイライン』をご存知でしょうか?

 

 

 

 

 

これは、千葉県にある上総国一宮である『玉崎神社(たまさきじんじゃ)から始まります。

 

        ↓

古来から唯一、八方除(はっぽうよけ)で、相模国一宮の『寒川神社(さむかわじんじゃ)』

 

        ↓

世界遺産』にもなり日本一の山である『富士山』

 

        ↓

日蓮宗』の総本山である『身延山久遠寺(みのぶさん・くおんじ)』

 

        ↓

その『法華経(ほっけきょう)』を守護神で『七面大明神(しちめんだいみょうじん)』という「女神」をお祀りしている『七面山(しちめんさん)

 

        ↓

日本一の湖である『琵琶湖』に浮かぶ『竹生島(ちくまじま)』

 

        ↓

伊勢神宮と言われて、『皇大神社(こうたいじんじゃ)』・『豊受大神社(とうけだいじんじゃ)』

(それぞれ、元内宮・元外宮とされている。)

 

 

        ↓

そして、言わずと知れた出雲国一宮でもある『出雲大社(いずもおおやしろ)』

 

 

 

 

 

を一直線に太陽が遠っているのです。

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そして、『夏至』・『冬至』もこの中で唯一、『レイライン』が通っている神社があります。

 

 

 

 

それが、

 

 

 

 

寒川神社』⛩

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まだ、GPSなどもない時代に、これほど精密な一直線で建てているというのが、本当に不思議で興味深いですよね!

 

 

 

 

このような事を知りながら本日をお過ごしになると、少しは話のネタともなるので、是非!

 

 

 

 

それでは良い祝日を!

 

大英帝国とある一族

前回は、『世界を牛耳る一族』と呼ばれているある一族がどのように財力を増していったかについてお伝えしました。

 

 

 

今回はさらに財力・権力をつけて行ったかについてお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

まずある一族と言うのは世界を裏で牛耳っていると、ある意味、都市伝説化している一族。

 

 

 

 

 

 

ロスチャイルド家

 

 

 

 

 

 

そのなかでも、5兄弟のなかで『総司令官』とも言われ、この一族の繁栄に大きな影響を及ぼした人物。

 

 

 

 

『ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド

 

 

 

 

 

彼が俗に言う

 

 

 

 

『ネイサンの逆売り』

 

 

 

 

 

と言うイギリス公債の60%以上を手にした事により、莫大な利益を得てその後の一族の繁栄に繋がります。

 

 

 

 

 

そしてその息子で、2代目・ロンドンロスチャイルド家嫡流で当主である

 

 

 

 

『ライオネル・ド・ロスチャイルド

 

 

 

 

 

彼によって、いよいよ確固たる地位を築き上げました。

 

 

 

 

 

まず歴史的背景から説明しますと当時、イギリスでは『ヴィクトリア女王』が統治していました。

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また、『大英帝国初の首相』であった

 

 

 

『ベンジャミン・ディズレーリ』

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彼もまたユダヤ人だったのです。

 

 

 

さらに面白いことに、彼が『ディズレーリ』と名乗る前には、『デ・イズレーリ』。

 

 

 

 

 

また、祖父の前までは『イズレィーリ』だったのです。

 

 

 

 

この、『イズレーリ』と言う意味は

 

 

 

 

 

 

 

イスラエル

 

 

 

 

 

 

そうです。

 

 

 

 

『D  Isuraeri』

 

 

 

 

と書くのです。

 

 

 

 

 

 

ここでも、また出てきましたね。

 

 

 

 

 

『Dの意思』

 

 

 

 

 

 

どうやら、ユダヤ教の「洗礼名」にこの「D」があるみたいですけど、ここまでこのアルファベットにこだわる理由とは。

 

 

 

 

 

 

さて、イギリスでは『産業革命』のあと『ヴィクトリア女王』が即位します。

 

 

 

 

 

そんな中で『ベンジャミン』も選挙で当選します。

 

 

 

 

 

 

また、ある人物も選挙に立候補し、当選しますが「ユダヤ教徒」で「キリスト教徒」ではないと言う理由から議員になれませんでした。

 

 

 

 

 

しかし、同じ「ユダヤ人」であった「ベンジャミン」は猛反対をします。

 

 

 

 

そして、

 

 

 

ユダヤ教キリスト教は兄弟である。」

 

 

 

を信念とし、

 

 

 

 

ユダヤ人は元々保守的な民族である。それにもかかわらず、いつもこの様な迫害を受けている。

 

 

 その結果、保守的政党の逆(革命政党)においやられ、そこで彼らの高い知能を持って、革命政党側のリーダーになってしまうのだ。

 

 

 これは保守的にとっては大変な損失だ!」

 

 

 

 

と演説。

 

 

 

この演説により、他の議員たちから賛成票を獲得。

 

 

 

 

さらに、ユダヤ教徒も議員になれるようになりました。

 

 

 

 

 

さて、このユダヤ人とはいったい誰だかお分かりでしょうか?

 

 

 

 

勘の良い方はもうお気づきでしょうが、そうです。

 

 

 

 

ロンドン・ロスチャイルド家嫡流にして2代目当主。

 

 

 

『ライオネル・ド・ロスチャイルド

 

 

 

 

 

これにより、2人の仲は急接近。

 

 

 

 

 

そして、1875年。

 

 

 

 

エジプトにある「スエズ運河」の株を敵対国である『フランス』に買われそうになったとき、首相になっていた『ベンジャミン』から『ライオネル』に急遽400万ポンドの貸付を頼まれます。

 

 

 

 

 

これにすぐさま用意した『ライオネル』のおかげで、スエズ運河の株を獲得。

 

 

 

 

 

こうして

 

 

 

『陽の沈まない国 大英帝国

 

 

 

が出来上がってくるのです。

 

 

 

 

さらに、このときに『ベンジャミン』が担保としてだしのは

 

 

 

 

『イギリス政府』

 

 

 

 

これにより、『ヴィクトリア女王』は欲していた称号である「女帝」を手に入れ、『ベンジャミン』は『大英帝国』を指導。

 

 

 

 

『ライオネル』は裏でこれを牛耳ることができるという、構造になって行ったのです。

 

 

 

 

 

大英帝国』に関してはその後、第一次世界大戦前までは「帝国主義」としては完全なる『1強』。

 

 

 

 

その後も、第二次世界大戦終結までは「アメリカ」と同じく力を持つようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

こうして、『ロスチャイルド家』は繁栄していき、そして今なおその財力を持って世界を牛耳り続けているのです。

 

 

 

 

 

さて、ここまで『ロスチャイルド家』の発展と繁栄の歴史についてお伝えしてきましたが、最後に1つ不思議な話を。

 

 

 

 

 

ロスチャイルド家』の祖である『マイアー・アムシェル・ロートシルト』(ロートシルトは英語読みでロスチャイルドになります。)は1744.2.23生まれです。

 

 

 

 

そして、令和の『天皇陛下』(『今上天皇』)の誕生日は1960.2.23生まれです。

 

 

 

 

1960−1744=216

 

 

 

216年後に御生誕なされたって事ですよね?

 

 

 

 

この『216』と言う数字。

 

 

 

 

実は6の3乗なんです。

 

 

 

 

 

6×6×6=216

 

 

 

 

 

『6・6・6』

 

 

 

 

 

いよいよ、本当の世界の救世主が現れる日も、もうあとわずかなのかもしれません。

 

 

 

 

 

世界を牛耳る一族

前回、「トーマス・グラバー」はイギリスの武器商人であり、坂本龍馬などが設立した、「亀山社中」が仲介役となり、薩摩藩に軍艦や武器を大量にを売り、それを長州藩横流し

 

 

 

 

実際には、長州藩がお金を支払っていましたが、これにより長州藩幕府軍に勝利し、その後幕府軍は衰退。

 

 

 

逆に薩摩・長州藩はいきおいをまして、戊辰戦争

 

 

 

そして、明治維新につながっていきました。

 

 

 

 

 

 

このグラバーはイギリス商人として、その後の日本の発展を手助けしていくことになりますが、彼にはもうひとつ裏の顔があります。

 

 

 

 

その裏の顔と言うのが、

 

 

 

 

 

フリーメイソン

 

 

 

 

 

 

さらに、フリーメイソンの総本部があるのがロンドン。

 

 

 

 

 

 

そして、このイギリス金融、さらには郵便や鉄道などまでも裏で支配し続ける、ある一族がいます。

 

 

 

 

 

その一族の名が

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロスチャイルド家

 

 

 

 

 

 

 

 

この一族はもともと、『神聖ローマ帝国』時代のフランクフルト出身であり、『マイヤー・ロートシルト』がドイツで銀行家として、成功したことをきっかけに、ヨーロッパ最大の「財閥」としての基礎を築きあげたところからスタートします。

 

 

 

 

 

 

そして、5人の息子たちにヨーロッパ各地に派遣し、さらなる銀行業の拡大に成功させます。

 

 

長男を本拠地であるフランクフルト

 

次男をウィーン

 

三男をロンドン

 

四男をナポリ

 

五男をパリに。

 

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兄弟が一丸となり、情報伝達の共有することで資産を増やしてきましたが、いちばん最初のきっかけは『フランス革命』以降、ドイツに綿製品が高騰していました。

 

 

 

 

しかし、『産業革命』で綿製品を大量に作れるようになったイギリスに移った三男である「ネイサン・ロスチャイルド」がこれを安価で大量に購入。

 

 

 

 

これをドイツに送り莫大な利益を得ることになります。

 

 

 

 

 

さらに、『フランス革命』後に『皇帝』となった「ナポレオン」がヨーロッパをの大半を勢力下におくようになると、敵対するイギリスに対して、貿易を禁止するようになりました。

 

 

 

 

 

これにより、イギリス本土やイギリスの植民地で生産していた綿製品・コーヒー・砂糖などの物資がヨーロッパ諸国で高騰。

 

 

 

 

イギリスでは逆に暴落し、安価で手に入るために、ネイサンが大量に購入しヨーロッパ各地にいる兄弟たちに独自のネットワークを駆使し、売りさばく事によって、『ロスチャイルド家』は莫大な利益を得ることになりました。

 

 

 

 

さらに、物資不足に悩まされていたヨーロッパ諸国の民衆はこれにより、物資が手に入るようになり、大変喜ばれることになりました。

 

 

 

 

 

これで、資産も信用も手に入ることが出来たのです。

 

 

 

 

 

 

そして、最大の利益を得たきっかけは「皇帝・ナポレオン」率いるフランス軍とイギリスなどの連合国軍・ドイツ軍との最後の戦争となる『ワーテルローの戦い』です。

 

 

 

 

 

 

この戦いでイギリスが負ければイギリス公債が大暴落。

 

 

 

 

勝てば高騰するという状況でした。

 

 

 

 

 

この時、すでに「ネイサン・ロスチャイルド」は投資家たちには『先見の明』がある者として、知れ渡っていました。

 

 

 

 

また、『ロスチャイルド家』のネットワークでいち早く情報を得ることが出来ると知れ渡っていた投資家たちは、彼の動向を常に伺っていました。

 

 

 

 

実際に、いち早くイギリスが勝利したという情報を得た「ネイサン・ロスチャイルド」は、これを利用し、まずイギリスが負けたとし、イギリス公債を売りに出します。

 

 

 

 

これを信じた投資家たちも一気に売りに出します。

 

 

 

 

 

これにより、イギリス公債が大暴落。

 

 

 

 

 

そこで、「ネイサン」はイギリス公債を買い占め、当時のロンドン証券の公債の株を1日で、60%買い占めました。

 

 

 

 

 

その後、イギリスが勝ったという正確な情報が入ると、イギリス公債が大高騰。

 

 

 

 

それにより、『ロスチャイルド家』はさらに莫大な利益をもたらすのです。

 

 

 

俗に言う

 

 

『ネイサンの逆売り』

 

 

 

 

これにより、「ネイサン」は兄弟の中でも『総司令官』と呼ばれ、他の兄弟は『師団長』と呼ばれるようになりました。

 

 

 

 

 

さらに、フランスの元々、貴族に与えたられた『de』と言う称号を得ます。

 

 

 

 

 

出ましたね。

 

 

 

 

 

 

『Dの意思』

 

 

 

 

 

これにより莫大な資金を手にした『ロスチャイルド家』は金融などで利益を拡大。

 

 

 

 

その後、影に隠れ世界を動かしていくことになるなのです。

 

 

 

 

それを証拠に、現アメリカ合衆国大統領アメリカ合衆国商務長官などに過去支援していました。

 

 

 

 

 

アメリカ合衆国=世界の警察

 

 

 

 

 

それに支援している『ロスチャイルド家

 

 

 

 

 

 

まさに世界を牛耳っていますよね!

 

 

 

 

そして、日本にも繋がりをもらたしてきますが、それはまた次回に。

 

 

 

 

新撰組 14 -薩長同盟②-

坂本龍馬中岡慎太郎の尽力により、ようやく結ばれた『薩長同盟』ですが、その内容は以下のようにになります。

 

 

 

長州藩が幕府との戦闘になった際には、すぐさま薩摩藩は出兵し味方になる。

 

 

長州藩が不利な状況になっても、薩摩藩は朝廷に対して申し出て、長州藩を救うように尽力する事。

 

 

長州藩が幕府との戦いで負けが濃厚になってもあきらめずに、尽力して欲しい。

 

 

長州藩が幕府に勝っても負けても、もしくは引き分けになっても、「朝敵」と言う冤罪を晴らす為に薩摩藩は朝廷に対して尽力して欲しい。

 

 

⑤万が一、幕府が兵力を増強し、会津や桑名なども長州藩に対して、強硬をし続ける時は、薩摩藩が手助けする。

 

 

長州藩の「朝敵」と言う冤罪が晴れた時には、薩長ともに、天皇に奉じるのに尽力すること。

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これは『薩長同盟』時には、書き残されてはいませんでしたが、後日に桂小五郎から坂本龍馬宛に書いた『薩長同盟』の内容を書いたもので、龍馬はそれを了解するように、朱色で裏に書き記しました。

 

 

 

 

今もこの手紙は現存しており、『宮内庁』に保存されています。

 

 

 

 

 

 

 

この同盟により、幕府が第二次長州征伐の命を出したのですが、薩摩藩は参加を拒否。

 

 

 

 

また、第14代将軍・家茂も幕府軍の士気を高めるために上洛し大阪城に入りましたが、元々病弱ぎみ。

 

正室は第121代天皇孝明天皇』の異母妹である『和宮親子親王』。

 

さらに前将軍である13代将軍・家定の正室は前々薩摩藩の義娘の『天璋院』と『公武合体』のなかの狭間で悩み苦しめられていた人物でした。

 

 

そして家茂は、「平和な時代が限りなく続いて欲しい、それにいまは国内で争っている場合では無い。外国とに備えて国力を強化した方が良い!」

と考えていました。

 

 

 

 

しかし、一橋慶喜松平容保などは、それよりもまずは長州藩を潰すこととし、押し通し第二次長州征伐になってしまったのです。

 

 

 

 

この心労と元々、病弱であった家茂は大阪城に何ヶ月も留まってしまいます。

 

 

 

 

将軍が動かずには諸藩の士気も下がりだしましたが、その諸藩に対しケツを叩くように、一橋慶喜が朝廷に長州征伐の命の建白書を献上しましたが、薩摩藩の工作により、これも認められませんでした。

 

 

 

 

 

 

そして、薩摩藩名義によりイギリスから買いつけた武器や軍艦を手に入れた(実際には長州藩がお金を支払いました)長州藩は、最新の武器を手に、まさかの幕府側に勝利してしまうのです。

 

 

 

 

これにより、一気に全国的にも倒幕という風潮になって行くんですね。

 

 

 

 

 

諸藩は幕府に対しての不信感、そして民衆はこの第二次長州征伐での諸藩が米を買い占めたことにより、米の物価が高騰。

 

 

 

 

それにより農民たちによる「世直し一揆」や、民衆たちによる「ええじゃないか運動」などで、世は混乱の時代になってしまいました。。

 

 

 

 

 

その間に、将軍・家茂は大阪城内で死去。

 

 

 

これで、幕府軍は江戸に引き返し、さらに倒幕運動が活発になって行きますが、 その前にちょっと面白い話を。

 

 

 

 

 

 

 

薩長同盟』を仲介役として、働いた2人を覚えているでしょうか?

 

 

 

とは言ってもこのブログを読んで下さっている方はだいたい歴史好きだと思いますので、知っているとは思いますが、知らない方にも分かるように。

 

 

 

実は龍馬も中岡も土佐藩出身だったんですね!

 

 

 

 

当時、龍馬はすでに脱藩し、のちに中岡も脱藩。

 

 

 

 

しかも、龍馬は「亀山社中」と言う日本で初の株式会社を作り上げて、のちに「海援隊」と言う貿易・私立の海軍・などの役割をする商社をつくり上げます

 

 

 

また、中岡はそれに続けと言わんばかりに倒幕運動のための武力集団「陸援隊」を創立。

 

 

 

 

 

この2人が仲介役になり、『薩長同盟』を結ばせたのは必然的だったのです。

 

 

 

 

 

 

この同盟により、イギリスの武器商人である「グラバー」から龍馬率いる亀山社中が仲介し薩摩に軍艦や武器を購入。

実際には長州が支払っていましたが、これで長州藩は勢いを再びもどし、倒幕へと繋がって行ったのです。

 

 

 

 

イギリスと言えば、『薩英同盟』によりもはや繋がっていますよね。

 

 

 

 

その武器商人である「グラバー」。

 

 

 

 

実は彼は

 

 

 

 

フリーメイソン

 

 

 

 

なんです!

 

 

 

 

明治に入り、初代内閣総理大臣伊藤博文はグラバーの手助けにより、ヨーロッパに渡航をしました。

 

 

 

 

そして、イギリスの武器商人を一挙にまとめていたのは

 

 

 

 

ロスチャイルド

 

 

 

 

 

出ましたね。

 

 

 

 

世界を牛耳ると言われている一族。

 

 

 

 

 

そして、明治に入りようやく諸外国に対し不平等を平等条約にまでもっていけた陸奥宗光も、「亀山社中」・「海援隊」の出身です。

 

 

 

 

陸奥は龍馬に「俺に以外に他の者と交渉出来るのは、アイツだけだ。」

と言わしめていた人物であり、またフランスの大財閥にも繋がっていました。

 

 

 

 

そこからの支援により、ようやく日本も世界に対等に渡りあえるようになったのです。

 

 

 

 

そして、その支援をしたのが

 

 

 

 

 

 

 

ロスチャイルド

 

 

 

 

こちらはフランスですが、同じ一族です。

 

 

 

 

 

中々、シビれる話ですよね。

 

 

 

 

薩長同盟』を仲介した龍馬は『フリーメイソン』の会員である「グラバー」から武器を買っていた。

 

 

 

 

そのイギリスの武器商人の総元締めでもあるのが、『ロスチャイルド』。

 

 

 

 

そして、明治に入り不平等条約を平等条約に働いた陸奥宗光は元々、亀山社中海援隊のメンバーでした。

 

 

 

 

 

それを支援したフランスの『ロスチャイルド』。

 

 

 

 

これにより、新政権・そして発展していった日本。

 

 

 

 

 

 

皆さんはどう思いますか?

 

 

新撰組 13 -薩長同盟-

新撰組が『西本願寺』に屯所を移している最中、薩摩藩長州藩にも動きを起こすようになって来ました。

 

 

 

 

 

そもそも、新撰組が『西本願寺』に屯所を移した理由のひとつには、隊士が増え壬生の屯所では手狭になったと言う事。

 

 

 

 

もうひとつは『八月十八日の政た変』『禁門の変』により、『朝敵』となった長州藩とつながっているとの噂があったからです。

 

 

 

 

 

さて、この時に水面化では天地がひっくり返るほどの同盟が結ばれます。

 

 

 

 

 

それが

 

 

 

 

薩長同盟

 

 

 

 

この同盟により、最終的には幕府を倒し新しい政権を迎えるわけですが、じつはまだこの時はそこまでのことはお互いに考えてはいなかったようです。

 

 

 

 

 

その後の幕府の対応により世の中が倒幕への風潮を迎えてしまうわけですが、それは追々としまして。

 

 

 

 

今回はなぜ薩摩と長州が手を結んだかについてお伝えしようと思います。

 

 

 

 

 

まず、長州藩は先ほどもお伝えしたように『八月十八日の政変』以降、京都を追われ、その後イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合国軍艦と『下関戦争』で敗北。

 

 

 

その結果、多大な賠償金を払うことになり、さらに『池田屋騒動』・『禁門の変』により状況は悪化していきます。

 

 

 

 

さらに追い討ちをかけるように、『朝敵』となり幕府の命により、長州征伐がはじまります。

 

 

 

これにより、家老三人が切腹させられてしまうと言うボロボロの状態になってしまいます。

 

 

 

 

しかし、こんな状況でもまだまだ倒幕へと野心を燃やしているのが、高杉晋作率いる『奇兵隊』やいまだ京都に潜伏している桂小五郎などです。

 

 

 

 

 

ただ、『朝敵』となってしまった長州藩は武器の購入が一切出来なくなってしまったんですね。

 

 

 

 

武器もなく、藩内はボロボロ。

 

 

 

 

それでも、倒幕という野心だけは未だに燃え続けている状態でした。

 

 

 

 

 

 

さて、一方の薩摩藩もイギリスと戦争をし敗北してしまいますが、この戦争によりイギリスとの関係が良好な状態になります。

 

 

 

 

いわゆる『薩英同盟』ですね。

 

 

 

 

これにより、イギリスから大量の武器を購入出来るようになるなどで財力が大変潤います。

 

 

 

この時に薩摩は幕政に対しても、多大な影響力を持っており、幕府の中には『雄藩否定論』と言う風潮になっていました。

 

 

 

 

その中心となっていたのが一橋慶喜松平容保会津藩主)です。

 

 

 

 

 

簡単に言えば、財力を持つ大名を潰し発言権も持てなくして、より徳川家に近いものだけで政権を取り決めようとすることです。

 

 

 

 

 

それに目をつけられたのが薩摩藩

 

 

 

 

第二次長州征伐により薩摩藩の財力・兵力を奪おうと、また長州藩の息の根を止めようと言う幕府にとっては「一石二鳥」だったわけです。

 

 

 

 

 

しかし、ことわざとは面白いもので、「二兎追うものは一兎も得ず」と言うことばがあるように、さいごにはまさに対義語のような結果に幕府はなってしまったんですね。

 

 

 

 

このような長州征伐と幕府内で話題になっている中で西郷隆盛幕臣勝海舟と出会います。

 

 

 

 

勝海舟はかつて「神戸海軍操練所」を創設した人物で、塾頭には坂本龍馬、またのちに外務大臣となる陸奥宗光などがこの塾生でした。

 

 

 

 

そんな勝海舟は西郷に対して「今は国内で争っている場合でじゃねえ!

諸外国に対しての国力をつけなければ、日本が食い物にされ、他のアジアの国と同じように植民地にされちまう。

お前が一番よく分かっているだろっ!」

 

 

と論じたのです。

 

 

 

 

 

西郷は薩英戦争でのイギリスの強さは嫌と言うほど知っていました。

 

 

 

 

また、長州を討ったあとは次に狙われるのは薩摩だと恐れた西郷は、家老である小松帯刀や旧知の仲である大久保利通にこの旨を伝えてます。

 

 

 

 

さらには薩摩もじつは幕府を倒して、外国と渡りあえるような新体制をつくりたいという思惑もありました。

 

 

 

 

こうした中で、絶好の相手が長州藩だったわけです。

 

 

 

 

 

長州藩

①倒幕の為に武器が欲しい。

②しかし、幕府の命により買えない。

 

 

 

 

薩摩藩

①財力を使いたくない。

②しかも、実は倒幕をして実権を握りたい。

③しかし、表立っての行動は出来ない。

④なので、長州藩の倒幕のうしろに隠れてるかたちで実行していきたい。

⑤また、第二次長州征伐の幕命によってお米の値段も高騰してしまったので、お米も欲しい。

 

 

 

 

 

と言ったお互いの藩が利害が一致したのです。

 

 

 

 

しかし、『八月十八日の政変』以降、犬猿の仲の状態。

 

 

 

 

それもそのはず。

 

 

 

 

薩摩藩は先頭に立って『八月十八日の政変』『第一次長州征伐』と長州藩を攻撃してきた藩です。

また長州藩もこの報復として薩摩藩を攻撃しています。

 

 

 

 

 

こんな状況の中で仲介役を買って出たのが、坂本龍馬中岡慎太郎です。

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龍馬は江戸に剣術修行時代、『幕末江戸三大道場』のひとつで『技の千葉』といわれた玄武館の創設者である千葉周作の弟の千葉定吉がつくった道場(通称・小千葉)の塾頭でした。

 

 

 

また、盟友で親戚であった『土佐勤王党』の盟主・武市半平太は『位の桃井』といわれ、これまた『幕末江戸三大道場』のひとつであった士学館の塾頭でした。

 

 

 

 

 

そしてもうひとつの『幕末江戸三大道場』である『力の斎藤』と呼ばれた練兵館の塾頭に桂小五郎がなっていたのです。

 

 

 

 

このような繋がりから長州藩と関係を持っていた龍馬。

 

 

 

 

 

さらに、京都で幕府によって襲われた(寺田屋事件)ときに、保護してもらったのが薩摩藩でした。

 

 

 

この時に龍馬は日本人初の「新婚旅行」をしたと伝わっています。

 

 

 

 

 

これにより、薩摩・長州の両方に繋がる手立てが出来たのです。

 

 

 

 

さらに、中岡慎太郎も『土佐勤王党』の一員で尊皇攘夷派であり、桂小五郎久坂玄瑞と交流を持ち、その後もずっと長州藩と繋がっていました。

 

 

 

 

 

この2人の土佐藩士(龍馬は脱藩したので元土佐藩士)が協力し合い、『薩長同盟』へと結びつくのです。

 

 

 

 

両藩を説得し、ようやく会談にまでいき代表として長州側は桂小五郎薩長側は西郷隆盛でしたが、まさかの西郷がドタキャン!

 

 

 

 

これには桂も仲介役の龍馬・中岡も怒りました。

 

 

 

 

そしてなんとかもう一度、会談にまでこぎつけたのですが、ここでも桂を怒らせてしまう事態になってしまうのです。

 

 

 

その理由は、薩摩藩の家老・小松帯刀邸で行われたからです。

 

 

 

 

龍馬たちはこれに対して、薩摩藩はまだ幕府に信用されているから、目をつけられにくいと桂を説得します。

 

 

 

 

ようやく会談が実現しますが、ここでもまたお互いのプライドが邪魔をして話が進みません。

 

 

 

 

 

そこで龍馬が一喝ッ‼︎

 

 

 

「お互いにそんな事言うとる場合じゃないだろ!どっちもこのままじゃ幕府に潰されてるぞ!」

 

 

 

 

と。

 

 

 

この一喝に正気を取り戻し、ようやくここで『薩長同盟』が結ばれるのです。

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さて、今回は『薩長同盟』が何故結ばれたかまでをお伝えしましたが、次回はその内容と、少し都市伝説などについてお伝えしたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新撰組 12-西本願寺②-

現在、『西本願寺』と『東本願寺』に分かれており、お互いに『世界文化遺産』に選ばれていますが、実はもともとはひとつの寺院だったと言うことをご存知でしょうか。

 

 

 

 

 

浄土真宗』の開祖の『親鸞』の廟堂として開山されました。

 

 

 

ここで面白いはなしがありまして、『鎌倉仏教』の開祖のほとんどが『比叡山延暦寺』で修行をした経験があるんです。

 

 

 

 

むしろ、『時宗』の開祖である『一遍(いっぺん)』だけが唯一、修行の経験がありません。

 

 

 

 

ただし、『浄土宗』の開祖である『法然』の孫弟子から10年以上も学んでいる所から、間接的になんらかの比叡山延暦寺と繋がりがあったと言うことが想像出来ます。

 

 

 

 

 

さて、『浄土真宗』の開祖、『親鸞』ですが実は本人がこの宗派を作ったと言うよりは、弟子たちが親鸞の没後に、確立していったのです。

 

 

 

親鸞自身は師である『法然』の意思を継承し、より一般の民衆に広めて行けるように努めていただけだったみたいです。

 

 

 

 

この『浄土真宗』の面白いのが、僧(出家)にならくても、『南無阿弥陀仏』と唱えれば『阿弥陀如来様』が救ってくれるというものです。

まさに『他力本願』ですね!

 

 

さらに、妻子をもつことも許されています。

 

 

 

 

 

そして、「悪人」こそを救うことがこの宗派の真骨頂と言うのですから、面白いですよね。

 

 

 

 

この「悪人」と言うのも自らがこの気づいた時点で、すでに救われていると言う様なもので、気づいていない方が、まだそこまですら辿り着いてない者であると言うのです。

 

 

 

 

さらに、肉食をしてもよく、まさに普通の民衆の生活の中に取り入れた宗派となっています。

 

 

 

 

実際、明治以前にこれを許していたのは『浄土真宗』のみだったそうです。

 

 

 

 

 

 

そうした事から、広く民衆にも信仰されるようになり、室町時代には急速に発展・拡大をして行き、『一向宗』と呼ばれるようになりました。

 

 

 

 

 

逆に他の宗派はどんどん衰退していく形となりました。

 

 

 

 

そんな中で当時は戦国時代真っ只中。

 

 

 

規律などの体制も各地域により取り決められているという、不安定な社会のなかで村人たちは不満をつのらせていました。

 

 

 

その矛先が各大名たちに向けられ、各地で『一向一揆』が起きてしまうのです。

 

 

 

 

これには徳川家康上杉謙信なども『一向宗』の禁止命令を出すなど、対応に迫られてるほど勢力が拡大して行きました。

 

 

 

 

その頃、京都に本拠地を置いていた『一向宗』はその脅威を恐れていた武将が日蓮宗徒と手を組み、『本願寺』を焼き討ちされてしまいます。

 

 

 

 

 

本拠地を失った『一向宗』は大阪の地に新たに『石山本願寺』を建立し、本拠地を移転しました。

 

 

 

 

この焼き討ちの経験から、本拠地の『石山本願寺』は城郭のような、防御施設の役割をもった寺院に発展していくのです。

 

 

 

 

そんな中で、室町幕府の最後の将軍「足利義昭」を擁護。

 

 

 

 

織田信長足利義昭の関係が悪化していく中で、『天下布武』を目指す信長と対立していくのです。

 

 

 

この戦いは約10年も続き、『石山本願寺』以外の各地の「一向一揆」はことごとく信長の武力によって、潰されていきました。

 

 

 

 

そこで、兵力も失ってきた『一向宗』に対し、信長は第106代天皇である『正親町天皇(おおぎまちてんのう)』の仲介により、武力解除・石山本願寺からの退去と言うかたちで、この戦いが終わりました。

(『石山合戦』と呼ばれています。)

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この跡地に豊臣秀吉が建てたのが「大阪城」になります。

 

 

 

 

その事からもいかに『石山本願寺』が広大な敷地があったと言うのが分かりますね!

 

 

 

 

そして、秀吉の時代になると現在の『西本願寺』の場所を与えられます。

 

 

 

 

 

石山本願寺』の時の当主の長男である『教如(きょうにょ)』は、そのまま本願寺を継承されると思っていましたが、じつは遺言書に弟の『准如(じゅんにょ)』がつぎの後継者であると書かれていました。

 

 

 

 

その協議を時の天下人である豊臣秀吉に告げ、秀吉から「10年後に准如に譲るように!」と命が出ました。





これに不満を持った「教如」派のなかでも強硬派が秀吉に直訴。





これに怒った秀吉は「すぐさま、退隠せよ!」と命が下りました。






そこで、「教如」は徳川家康に接近。

 

 

 

 

その際に石田三成の手のものに襲われたなどとしているのですが、1602年に第107代天皇後陽成天皇(ごようせいてんのう)』の勅許により、家康からすぐ東の場所を与えられ、『東本願寺』を建立し、西と東に分裂したのです。

 

 

 

 

 

これにより、現在までつづく『西本願寺』・『東本願寺』となっていくのです。

 

 

 

 

 

また現在でも『西本願寺』は正式名称を『本願寺』というのに対し、『東本願寺』は『真宗本廟(しんしゅうほんびょう)』となっています。

 

 

 

 

 

 

ただ、両寺院とも『親鸞』の廟があるし、『世界文化遺産』にもなっているので、是非とも両寺院とも訪れて欲しいですね。

 

 

 

 

 

また、『西本願寺』が秀吉の寄進によって建てられたのに対して、『東本願寺』は家康からの寄進になるというような背景からも、幕末の時代、どちらに本拠地を置くかは大事なことだったと思います。

 

 

 

 

 

秀吉側の『西本願寺』には長州藩と深い繋がりがあったようですしね。

 

 

 

 

 

 

本願寺』だけでここまで語れる日本の歴史はほんとうに面白いものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新撰組 11-西本願寺①-

新撰組の隊士が大所帯となり、壬生の屯所から『西本願寺』に屯所を移しました。

 

 

 

 

西本願寺』といえばいまや『世界文化遺産』として毎日多くの観光客が訪れていますが、実は私も10年くらいに訪れたことがあります。

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この時に感じたのがまず最初にデカイ!

 

 

 

 

そして、すごく落ち着いているんですね。




もちろん広大な敷地と言うのもありますが、何かガチャガチャしていないと言うか、単純に行って良い場所と言うのを感じました。






そして、『御影堂(ごえいどう)』や『阿弥陀堂』、京都三名閣のひとつにも選ばれている『飛雲閣(ひうんかく)』など、『国宝』が数多く残っている事でも知られています。

 

 

 

 

(京都三名閣の残りは『金閣寺』・『銀閣寺』)

 

 

 

 

また、重要文化財にも指定されている『太鼓楼(たいころう)』には新撰組がここに屯所を移した際、隊士達が鍛錬をしている中で刀傷をつけてしまったと伝わっているものがあり、是非ここに訪れた際には見てほしいモノのひとつになっています。

 

 

 

 

 

さて、何故新撰組がこの『西本願寺』を屯所として選んだかと言うと、実はこの寺院に長州藩をはじめとする過激な尊皇攘夷派と繋がっていると言う噂があったんですね。

 

 

 

 

これに圧力を掛けようとした新撰組はここに屯所を置いたと言う説があります。

 

 

 

 

 

これは『参謀』として「池田屋騒動」後に入隊し、のちの「御陵衛士(ごりょうえじ)」のトップと「伊東甲子太郎」ですが、彼が『西本願寺』を推奨。

 

 

 

 

その逆に、試衛館時代からの古参で『総長』の役割に就いていた「山南敬助」は『東本願寺』に屯所を設置しようと推奨していました。

 

 

 

それはなぜか。

 

 

 

 

 

西本願寺』は「豊臣秀吉」が、『東本願寺』は「徳川家康」が作るように命じたんですね!

 

 

 

 

 

新撰組は本来なら徳川幕府派。

 

 

 

 

しかし、京都守護を任せられている新撰組は少しでも、敵に圧力を掛けられるようにと結局は『西本願』に屯所を選びました。

 

 

 

 

この論争に敗北してしまった総長である山南敬助は、その後脱走してしまい、一番隊隊長である「沖田総司」に見つかり、帰還。

 

 

 

そののちに切腹を命じられ、介錯を沖田に頼み切腹致します。

 

 

 

 

この時、起立を守らなければいけない『局長 近藤勇』・『副長 土方歳三』。

 

 

 

 

それに対して、試衛館時代からの古参メンバーの同情で「もう一度逃げよ!」と言う隊士たち。

 

 

 

 

さらには沖田が一番慕っていたという意味で派遣した、近藤や土方。

 

 

 

 

もしかしたら、近藤や土方は見つけられないと言う名目で、逃そうと言うのがあったかもしれません。

 

 

 

しかし結局は捕り、しかも新撰組の規律である『局中法度』を土方と一緒に作った山南は、これを期に、全ての隊士が『局中法度』を破れば

切腹すると言うものを示したのでしょう。

 

 

 

 

新撰組の形式的にはトップが局長、次が総長、その次が副長と言う形になっていましたから。

 

 

 

 

これにより、さらに新撰組は規律が厳しくなるのですが、山南敬助が死去した際に、古参メンバーで幹部である試衛館メンバーは一同に悲しんだと伝わっています。

 

 

 

 

この山南の死によって、少しやりにくいと感じた伊東甲子太郎が『御陵(御所)』を護るとい名目で新撰組を離れますが、のちに新撰組に殺害されます。

 

 

と言う事で次回は、少し『西本願寺』の歴史についてお伝えしたいと思いますので是非ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新撰組⑩-禁門の変-

池田屋騒動』の後に、新撰組は一気に知名度を上げましたが、この事件をきっかけに長州藩を中心とした過激な尊皇攘夷派が一気にその熱を高めてしまいました。

 

 

 

 

 

そもそも『八月十八日の政変』で京都から追い払われてしまった長州藩だったのですが、その後も「久坂玄瑞」は長州藩の罪を回復して貰うよう嘆願書を朝廷に提出していました。

 

 

 

 

また、長州藩内でも慎重派と積極派に分かれおり、「高杉晋作」など慎重派は積極派をなだめていましたが、それにも応じずに家老3名が挙兵をしてしまったのです。

 

 

 

 

 

朝廷の中には久坂の嘆願書に同情する者も少なくなかったのですが、「断じて長州の入京を許さない!」と言う薩摩藩土佐藩などの連著の意見書を朝廷に建白。

 

 

 

 

また、会津藩の「松平容保」を一貫して擁護していた『孝明天皇』も長州藩の入京は許さないと断言!

 

 

 

 

 

朝廷の退去命令に従おうとしていた久坂でしたが、それに反対し挙兵してしまった者に押される形で久坂も一緒に挙兵してしまいました。

 

 

 

 

 

現在の『京都御所』の西側にある『蛤御門』のまえで会津藩桑名藩そして新撰組長州藩が激突。

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しかし、薩摩藩もこの戦闘にかけつけ一気に劣勢になってしまった長州藩はやむなく退去せざるを得なくなります。

 

 

 

 

また、この時に長州藩は『京都御所』(蛤御門)に向けて、発泡してしまったのです。

 

 

 

 

この時の銃弾が蛤御門に当たった実際の傷痕は今も見る事が出来るので、是非『京都御所』に訪れた際には見学してみて下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

これを見るだけでも、当時の様子が思い浮かぶ気がしますね。

 

 

 

 

 

 

そして、久坂たちは朝廷に長州藩の罪を回復する為の嘆願を要請する為に『鷹司』邸に侵入しました。

 

 

 

 

しかし、これを鷹司卿に拒否されてしまいます。

 

 

 

 

 

それもそのはずですよね。

 

 

 

 

京の町、しかも『京都御所』前で戦闘をしだし、さらには『京都御所』に向けて発泡してしまうのですから。

 

 

 

 

 

鷹司卿と言う擁護してくれていた公家も失い、挙兵してさらに敗北してしまったと言う責任から、久坂玄瑞たちはここで「自害」してしまいます。

 

 

 

 

また、ここから脱出した「入江九一」(久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿を含め「松下村塾」の松門四天王と称されていた。)も、この途中で敵に殺害されてしまいました。

 

 

 

 

 

 

そしてこの後、御所に向けて発泡してしまったなどの理由で長州藩は『朝敵』になってしまったのです。

 

 

 

 

 

この事件で活躍した新撰組は、会津藩から多額の恩賞をもらい、またしても京都の町を守ったのです。

 

 

 

 

 

これにより、土方などの幹部たちは一度江戸に帰り、隊士の募集を行いました。

 

 

 

 

その時に八番隊隊長「藤堂平助」と同じ道場でのちに新撰組の『参謀』となる「伊東甲子太郎」らが加入します。

 

 

 

 

これらの活動のおかげで、隊士の数も200人を超えるくらいの大所帯にまで成長して行きました。

 

 

 

 

 

これにより、手狭となった壬生の地から『西本願寺』に本拠を移転するのです。

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さて、ここで現在の『西本願寺』と『東本願寺』には面白い過去があるので、次回ご紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天長節

本日は、令和の元号となり今上天皇の初の誕生日となり、祝日になっています。

 

 

 

 

特に本日は日曜なので、翌日(明日)の月曜日も振替休日になっていますね!

 

 

 

 

そして、本来であれば『一般参賀』が行われる予定ではありましたが、今回は世界の情勢から見送る事になってしまいました。

 

 

 

 

しかし、これは我々国民に対しての配慮をしてとの事なので、また違うかたちで『一般参賀』が出来るように、そして現在流行っている感染症が1日でも早く消息するのを、期待し個人個人でも予防していきましょう。

 

 

 

 

 

さて、この『天皇陛下の誕生日』と言う祝日ですが、第二次世界大戦以前は『天長節(てんちょうせつ)』と呼ばれていました。

 

 

 

 

その歴史は古く、平安時代初頭にはすでに行われていたと言うのですから、改めて日本の歴史の長さを実感しますね。

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そして『伊勢神宮』をはじめ、本日はたくさんの神社で御祝いがなされています。

 

 

 

 

私も氏神である神社に参拝してきましたが、日曜だからなのかそれとも、『天長節祭』だからなのかは分かりませんが、意外と参拝者がおり、少しビックリしました。

 

 

 

 

 

さて、ここで少し面白いと言うかやはり何か縁があるのだと思った事があります。

 

 

 

 

それは先々代の『ローマ教皇』が1981年の2月23日に『ローマ教皇』として初来日した事です。

 

 

 

 

その後2019年11月23日に現『ローマ教皇』になるまで来日はありませんでしたが、この日は『天皇・皇后両陛下』が『伊勢神宮』に即位したことを報告しに『親喝の儀』執り行なわれた日です。

 

 

 

 

 

また、通常であれば『新嘗祭』が執り行なわれている日でもあるので、やはりたまたまこの日になったとは考えにくい部分もあります。

 

 

 

 

さらに、イギリス王室の勲章で、騎士団の最高位の勲章のひとつでもある『ガーター勲章』と言うのをご存知でしょうか。

 

 

 

これは、現在存続している騎士団の中でも最も古い歴史を持っているものの勲章です🎖

 

 

 

騎士団と言えば、フリーメイソンのルーツともなったと言う都市伝説がある『テンプル騎士団』などが有名ですが、この『テンプル』とは英語では「Temple=神社」になるんです。

 

 

 

 

日本で神社と言えば、まさに皇祖神である『天照大御神アマテラスオオミカミ)』など、皇室に関係のあるものですよね。

 

 

 

 

テンプル騎士団』と言う名前は、『ソロモン王』の作った『エルサレム神殿』の神殿の丘を、宿舎として与えられたことから、この名前がついたとされています。

 

 

 

 

 

旧約聖書ではダビデ王やソロモン王の子孫が『イエス・キリスト』とされている事はご存知でしょうか。

 

 

 

 

また、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』の作品で『モナ・リザ』と共に最も有名な作品である『最後の晩餐』の場所は、ソロモン王の墓の上にあったとされています。

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そして、レオナルド・ダ・ヴィンチフリーメイソンの総長であった事でも知られていますが、『テンプル騎士団』の歴代総長のほとんどが真ん中に『D』の文字がついているのです。

 

 

 

 

一説には、彼らは『聖杯』見つけたなど言われており、それを伝承していく為に現在、世界最古の秘密結社である『フリーメイソン』を創設したなどと言われています。

 

 

 

 

 

『Dの意思』

 

 

 

 

何か聞いた事ありますよね。

 

 

 

 

 

世界的に大ヒットしている漫画『ワンピース』でもこの言葉が良く使われています。

 

 

 

 

そして、『テンプル騎士団』の最後の総長である『ジャック・ド・モレー』。

 

 

 

彼は第23代になります。

 

 

 

また、『テンプル騎士団』が弾圧にあい処刑された後に、残っていたものが『ジャック・ド・モレーン 』の頭蓋骨と2本の骨を持ち出し、今のイングランドまで流れ着いたと言う都市伝説もあります。

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この海賊旗を通称『ジョリー・ロジャー』。

 

 

 

 

どんどん繋がって来ましたね。

 

 

 

 

また、本日は日曜。

 

 

 

8チャンネル(フジテレビ)の9時半からの放送は『ワンピース』。

 

 

 

そして、『ワノ国編』。

 

 

 

 

8を真ん中で割ると「33」の数字が見えてくると思います。

 

 

 

またフジテレビのロゴマークにはなぜか目のマークがあります。

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この目とフジを足したら…。

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プロビデンスの目』

 

 

 

になるんです。

 

 

 

 

と、だいぶ話はそれてしまったので、話を戻しますが、先程お伝えした「ガーター勲章」。

 

 

 

 

実は幾度もイギリス王室以外の王室に与えられましたが、その反面もちろん剥奪もあります。

 

 

 

かつて、第二次世界大戦で敵国となった日本(昭和天皇陛下)もその中の1人になりましたが、戦後「名誉回復」と言う事で復帰しています。

 

 

 

しかも、一度剥奪されて「名誉回復」を果たし再び復帰したのは、約600年間と言う長い歴史の中で、『昭和天皇』のみになっています。

 

 

 

 

その後、『平成天皇』(現・上皇陛下)も授与されていますので、近いうちにきっと『今上天皇』も授与される事でしょう。

 

 

 

 

また、基本的にはキリスト教信者である事が条件と言う中で唯一、キリスト教では無いのも『天皇陛下』のみなのです。

 

 

 

不思議ですよね。

 

 

 

 

 

やはり何かもっと深い関係があるとしか思えません。

 

 

 

 

そしてこの『23』と言う数字にも何か深いわけがあるとしか…。

 

 

 

 

 

さて、そんなこんなで本日は東京都福生市にある『福生神明社』に参拝してきたわけですが、

ここはアマテラスなどが主祭神になっている神社です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『福が生まれる』

 

 

と言うのでも、縁起の良さそうな場所ですが。

 

 

 

 

『ふっさ=23』

 

 

 

 

なんなんですかね。

 

 

 

 

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そして、『23』のエンジェルナンバーは『才能を活かし、その才能をもって貢献していく』

です。

 

 

 

 

と言うことで、3連休の中日にもなっていますので、皆さんも是非それぞれ良い休日をお過ごしください!

 

 

新撰組 ⑨ -三条大橋-

池田屋騒動』からその名を天下に轟かせた『新撰組』ですが、池田屋の場所からほど近くに『三条大橋』があります。

 

 

 

 

この橋の擬宝珠(ぎぼし)には池田屋騒動の時に『新撰組』と過激な尊皇攘夷派の志士との斬り合いの際に出来た刀傷が残っています。

 

 

 

 

 

それを観るだけで、壮絶な戦いだったと言うのが分かります。

 

 

 

 

そしてここは『東海道』の西の起点になっていて、ここから江戸に向かう事になります。

(東側の起点は言わずと知れた、江戸の『日本橋』になります。)

 

 

 

 

 

また、ここは江戸時代まで「処刑場」になっていまして、『豊臣秀吉(とよとみひでよし)』を暗殺しようとした(結果的には未遂で終わる)罪で捕まってしまった、『天下の大泥棒』としても有名な『石川五右衛門(いしかわごえもん)』が釜茹(かまゆで)で処刑されています。

 

 

この時、石川五右衛門の親類は見せしめとして、生後間もない子供も含め全員が処刑されています。

 

 

 

 

この理由はまず権力者のみを狙った義賊でしたが、当時は豊臣政権が民から嫌われていたと言う事。

 

 

 

また、2代目関白で秀吉の甥である『豊臣秀次(とよとみひでつぐ)』の家臣が石川五右衛門に依頼し、秀吉の寝室にある「千鳥の香炉」を『聚楽亭』に忍びこんで、盗みだそうとしたがそれが鳴きだして、気付かれてしまい捕まってしまってしまいました。

 

そして、その罪も含め数々の罪により、釜茹でにされ処刑にあったなどの伝説が残っており、今でも歌舞伎などではこの描写の演目があります。

 

 

この様な背景から『天下の大泥棒 石川五右衛門』と言うのが江戸時代には広まっていくのです。

 

 

 

 

また、歌舞伎と言えば『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』がありますが、忠義に対するものが人気になり、『新撰組』もそれに習い、ダンダラ模様の羽織にしたそうです。

 

 

 

 

ただし、『忠臣蔵』の羽織は黒色で『新撰組』は浅黄色になっているので、全てを真似したわけではなかったんですね。

 

 

 

 

と、ここで余談ですが『忠臣蔵』の主役?である『大石内蔵助(おおいしくらのすけ)』の家紋が私のうちの家紋と同じなので、どこか親近感が湧いてしまうんですね。

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そして、また話はズレますが歌舞伎などの演者やスタッフが舞台の合間に食べていたものが、「幕の内弁当」なんです。

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舞台の演目と演目の間に食べていたことが由来となるので、客席側から見たら「幕の内」。

 

 

 

ここから名前が来たそうです。

 

 

 

また、当時は冷蔵庫なども無い時代なので、なるべく食材も傷みにくいものを使用しており、焼魚に煮物・漬物にご飯の上に梅干しと言った

、今でもよく見る原型になりました。

 

 

 

 

その後、客席側にも配られるようになり、世間にも広まって行ったのです。

 

 

 

 

こうして見ると、普段食べていたり目にしているものにも、中々歴史を感じてしまいますね。

 

 

 

 

さて、話は戻しますが『三条河原』で処刑されたのとして、一番悲劇だったのは先程も名前が上がった、『豊臣秀次』とその妻や子供・侍女たちです。

 

 

 

 

秀吉は自身の子供が産まれた(のちの『豊臣秀頼(とよとみひでより)』)のをきっかけに、養子として迎えられていた秀次をどんどん邪魔になって来ました。

 

 

 

 

その理由は果たして、自分の子が次の当主になれるのであろうか。

 

 

 

当時、秀次にも嫡男がおり、自分が死んだ後、秀次系列になってしまうのではないかと不安に思った秀吉は「謀反の疑いあり」として、 秀次を拘束するのです。

 

 

 

そして、高野山に幽閉されますが間もなく、秀吉から「切腹」の命が下されます。

 

 

 

 

これでも悲劇と言えることなのですが、さらに秀次の首を三条河原に晒し、その前で秀次に関係のあったものたちを一人残らず処刑すると言う、悲劇が行われました。

 

 

 

その数は39名にも上り、三条河原は真っ赤な血で染まっていたそうです。

 

 

 

 

 

秀次は叔父である秀吉に最後まで翻弄されていた人生だったと思うと何か虚しくなります。

 

 

 

また、江戸時代に入り近くの『瑞雲寺』に遺骨が納められ、今でもそこに皆で眠っています。

 

 

 

 

もし、三条河原周辺を訪れた際にはこの様な悲劇があったと言うのを踏まえて行くと、また違う感覚で訪れる事が出来ると思います。

 

 

 

 

 

そして、秀吉の側近として仕え、『関ヶ原の戦い』実質的西側の総大将となった『石田三成』。

 

 

 

 

かれもまた、六条河原で斬首された後、この三条河原に晒し首にされてしまいました。

 

 

 

 

『勝てば官軍』と言う言葉があるように、勝った方が正義になってしまいますが、これもまたひとつの悲劇として今も語り継がれています。

 

 

 

 

個人的には石田三成は好きな武将の1人であり、忠義を尽くしたと言う意味でも、やはり別格な武将だと思います。

 

 

 

 

 

そして、最後に『新撰組』の局長である『近藤勇』もこの三条河原で晒し首にされてしまいます。

 

 

 

これに関しても悲劇としか言えないですが、『薩長同盟』で手を組んだ、薩摩藩長州藩を中心とした「新政府軍」に、現在の千葉県・流山市で捕まり、東京都の板橋区にある処刑場で斬首された後に、塩漬けにされこの三条河原で晒し首にされます。

 

 

 

 

新撰組』が「新政府軍」から特に長州藩からすごい恨みを買っていたいた事と、元は農民出身と言う事で、武士とは認めて貰えず、「切腹」ではなく、「斬首」になってしまったと言うのが、なんとも言えない虚しい気持ちになってしまいます。

 

 

 

 

最後に、これら全ての人物が『豊臣家』に関わっていたと言うのが分かります。

 

 

 

薩長関ヶ原の戦いで西軍側についた外様大名ですからね。

 

 

 

 

そう言う歴史も知った上で訪れてみると、また新たな発見が出来ると思いますので、是非今度、京都に訪れてる際にはご参考にと思います。

 

 

 

ひとつの場所でここまで、深く掘り下げる事が出来るのは、やはり歴史は面白いですよね。

 

 

新撰組 ⑧-池田屋騒動-

 

芹沢派を一掃して、『新撰組』を掌握した試衛館組は「近藤勇」を中心に京都の警備をしていました。

 

 

 

とは言っても、『京都御所』や『二条城』などを警護するのではなく『祇園』周辺などの警護を担当していました。

 

 

 

と少し話は戻りますが、芹沢鴨を宴会に誘い出した「角屋」と言う料亭。

 

 

 

実は長州藩薩摩藩などの志士たちも利用していたんですね。

 

 

 

 

そして江戸時代の支払い方法も、面白いんですが、一般的には「ツケ」になっていました。

 

 

 

それも回収するのは『お盆』と『大晦日』のみ!

 

 

 

 

なのでその日に回収が出来ないと、また半年後の回収になってしまったんですね。

 

 

 

 

店側も誰がいくら購入したと言うのを「台帳」に記しており、それを元に集金をすると言うシステムが一般的でした。

 

 

 

 

ここで生まれた言葉が「徳政令」などで借金をチャラにすることを「帳消し」と言いいます。

 

 

 

まさに台帳に書いてたのを消さなければいけないと言う、店側に取ってみれば相当厳しいものでした。

 

 

 

今でも使われている言葉がこのような形から出来たと思うと、面白いですよね!

 

 

 

 

 

さて、話は戻りますが、長州藩薩摩藩などの志士たちはこの「ツケ」のシステムで、料亭などに通っていました。

 

 

 

 

しかし、新撰組は「ツケ」の支払いがダメだったと言うのをご存知でしょうか?

 

 

 

藩士たちは身元も分かっていて信用性が高い。

 

 

 

一方、新撰組は「烏合の集」、いわゆる寄せ集めみたいな奴らなのでと思った方もいらっしゃると思いますが、実はそうではありません。

 

 

 

 

不逞浪士の見回りなど京都の治安維持が任務の彼らは、いつ何時死んでもおかしく無い状態でした。

 

 

 

 

死んだ人からは集金が出来ないですもんね。

 

 

 

 

 

そんな彼らを一躍有名にしたのが題名にもある『池田屋騒動』です。

 

 

 

 

八月十八日の政変』で失脚した長州を支援していると言う情報を聞きつけた『新撰組』は炭薪商をしていた「古高俊太郎」の存在を突き止めます。

 

 

 

そして、店の中を捜索中に大量の武器と長州と繋がっていた手紙を発見。

 

 

 

 

すぐに捕らえ、古高を拷問にかけた「土方歳三」はとんでもない事を耳にします。

 

 

 

 

それは「祇園祭の前の風の強い日に、京の街に火を放ち、その混乱に乗じて松平容保一橋慶喜を暗殺。さらに、孝明天皇を奪い、長州に連れて去ろう」と言う計画でした。

 

 

 

 

 

 

そして、この古高を奪還すべく、長州・土佐・肥後などの『尊皇攘夷派』の志士たちが「池田屋」か「四国屋」どちらかで襲撃をするかしないかと言う会合があると言うことも突き止めました。

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そして、祇園祭宵山の夜、現在の『八坂神社(やさかじんじゃ)』近くの祇園の会所に集まった新撰組の隊士達が近藤組と土方組に別れて、捜索が始まりました。

 

 

 

 

当時の状況からすると、どうやら片っ端からしらみつぶしに当たっていたみたいですね。

 

 

 

 

そして、池田屋で発見した近藤組。

 

 

 

 

近藤勇沖田総司永倉新八藤堂平助の4名

が『御用改め』として踏み込み、残りの隊士は外を固めました。

 

 

 

 

この時に舞台や映画などで有名な「階段落ち」(実際にはフィクション)が始まりであり、ここから壮絶な奮闘が繰り広げられます。

 

 

 

 

尊皇攘夷派は約20名、対して新撰組は4名となると明らかに不利な状況と思いますが、試衛館組の4名ですので、少数先鋭でさらに普段から真剣を使い日々鍛錬していた、彼らにとってはこっちの方がやりやすかったのではないかと思います。

 

 

 

 

そんな中、過激尊皇攘夷派の中心人物であった「宮部鼎蔵(みやべていぞう)」や吉田松陰の門下生で、久坂玄瑞高杉晋作入江九一とともに『門下四天王』と称された「吉田稔麿(よしだとしまろ)」も必死に応戦しましたが、のちに自刃。

 

 

 

 

また、新撰組の方では沖田総司が、奮闘中に病に倒れ吐血。

 

 

藤堂平助も油断していた鉢金を外した時に額を斬られ、一時は近藤勇永倉新八の2人のみが戦闘が出来ると言う状態になってしまいました。

 

 

 

 

その後、すぐに土方組も駆けつけて数で有利になった新撰組は、次々と過激尊皇攘夷派の志士たちを捕縛していき、終焉を向かえます。

 

 

 

 

終焉後には会津藩桑名藩も駆けつけてますが、手柄の横取りをされないようにと土方は一歩も近づけさせなかったと言うくらい、圧倒し奮闘していた様子が分かります。

 

 

 

 

また、桂小五郎池田屋におり、新撰組到着後、すぐさま屋根から逃げた説や、池田屋に桂が到着した時間が早くまだ、会合が出来るほどの十分な人が集まっていなかったので、いったんここを出て対馬藩邸に行っている間に、事件が起きたと言う説があります。

 

 

 

 

いずれにしても難を逃れた桂小五郎はのちに『薩長同盟』を始め、『維新の三傑』となって時代を動かしていく様になります。

 

 

 

 

また、この事件が維新を10年遅らせたとか逆に早めたなど、言われていますが当時、火を放つなど尊皇攘夷派はテロ。

 

 

 

そのテロ行為を未然に防ぎ、また京都の治安を護った新撰組はこの事件がきっかけで、一気に天下に名を轟かせるようになります。

 

 

 

 

また、近くには長州藩邸(現在の京都ホテルオークラ)や土佐藩邸なども近くにあるなど、のちに時代を動かす事になる人物たちが、この周辺に、集まっていたことが分かります。

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さて、次回はこの事件がきっかけで起きた『禁門の変』についてお伝えしていきたいと思います。