前回から3回ほど、『新撰組』とは関係の無い記事になりましたが、今回からまた『新撰組』の歴史についてお伝えしていたいと思います。
薩摩藩と長州藩が「坂本龍馬・中岡慎太郎」の仲介をえて『薩長同盟』を水面化で結ばれ、倒幕にむけて少しずつすすんできている間に、新撰組は内部でのゴタゴタが絶えない状況にありました。
その代表的なものが、「参謀」の役職につき、『池田屋事件後』に加わった「伊東甲子太郎」の脱退です。
新撰組に途中から入った彼は、頭脳明晰としてむかえられますが、実績も無いうえに、『尊王攘夷』と言う考え方も新撰組とは違っていました。
と言うのも、『総長』である「山南敬助」を失ったいま、頭脳で勝るものは無く、むしろ新撰組が野蛮な考え方だと思うようになったのです。
結果的に、第121代天皇の『孝明天皇』の御陵をまもり、さらに薩長の動向を伺うというかたちで『御陵衛士(ごりょうえじ)』を結成。
同じような考えの隊士も引き抜いて行ったのです。
その中には『試衛館』時代からともにした、「藤堂平助」や「斎藤一」など、新撰組のなかでも古参の幹部たちまで引き抜いてしまいました。
(斎藤一はスパイとして送り込まれたという説もある。
また、藤堂平助は江戸にいた頃、同じ道場に通っていたという間柄から)
しかも、今後一切、お互いの隊士の引き抜きをしないと言う条件までありました。
その間に15代将軍「徳川慶喜」がまさかの行動をします。
その行動が
『大政奉還』
これは徳川幕府が『朝廷』に政権を返上すると言うことです。
これを受けた『明治天皇』は勅許をし、1867年11月10日に260年以上も続いた、『江戸幕府』が終焉を迎えました。
なぜ、こんなにいとも簡単に幕府を解体したかと言うと、実は「徳川慶喜」は政権は返上しても、こと外交となると、旧幕府のほうが朝廷側よりも優れていたんですね。
実際、朝廷側の方は全く外交ができず、旧幕府側に協力を得るしかなかったくらい、実力が無かったようです。
さらに、薩長による倒幕での国内内戦を避けるため。
実際に、『大政奉還』を行ったことにより、倒幕の「大義名分」を失った薩長は先手を打たれたと、かなりの動揺があったようです。
しかも、これには龍馬が土佐藩の幹部であった「後藤象二郎」をとおして山内容堂に進言した、『船中八策』をもとに、『大政奉還』後の新国家の体制の基本方針が記されていました。
そこにも、なんだかんだで資産のある『徳川家』を中心に議会などを創設するなどです。
金や銀の交換レートの世界と共通にさせることや、海軍の強化。
世襲制ではなく常に良い人材を政治に投与するなど、画期的な案でした。
そして、『大政奉還』が行われたのです。
これにより、本当の意味で江戸幕府が解体しました。
また、摂政・関白などを廃止し、そのかわりに、「三職」を設置。(総裁・議定・参議)
そして、『天皇』を中心とした新政府が樹立されたのです。
さて、薩長を中心にした倒幕派は、どうしても徳川家・会津藩など旧幕府軍をつぶしたくて仕方ありません。
しかし、もはや江戸幕府は解体しているので、それもかないません。
そこで、「西郷隆盛」が打った策は薩摩藩が中心にとなって、「相楽総三」率いる「赤報隊」なとが江戸市中や関東各地で暴れまくったのです。
江戸城の西の丸までも焼失させてしまうくらいの暴れっぷりでした。
そして、我慢の限界が達した旧幕府側は、庄内藩(当時、江戸市中の警護を担当していた。
さらに庄内藩は「徳川四天王」の筆頭でもある「酒井忠次」の子孫がずっと統治していました。)
に命を下し、江戸にある薩摩藩邸を焼き討ちしてしまいます。
しかも、この時、慶喜の「堪えよ!」と言う命にも従わえないほど、怒りの頂点を超えていたようです。
まんまと罠にはめられた旧幕府軍。