それを提案した、「坂本龍馬」。
龍馬はこの『大政奉還』を成功させたあと、『薩長同盟』で共に仲介役として尽力を尽くした、「中岡慎太郎」とともに、京都の醤油屋である「近江屋」で暗殺されています。
しかも、『大政奉還』を発足した約1ヶ月後のことです。
この実行犯には色々諸説があり、また確定もされてませんが、個人的には黒幕は「薩摩藩」だと思っています。
いや、もはや当時、薩摩藩を動かしていた、「西郷隆盛」。
何故かと言うと、龍馬が提案した『船中八策』またそれに繋がった、『大政奉還』によって、倒幕の機を失いました。
当時、薩摩藩と土佐藩はもはや倒幕派として同盟を組んでいました。
ただし、土佐藩は表立っては、倒幕派にはなりたくない。
このような状況から、龍馬・中岡の居場所はすぐに分かってしまう状況です。
これに利用されたのが京都見廻組。
色々な諸説がありますが、通説ではこのようになっています。
ただし、あくまでこれは通説に過ぎず。
そしてひとつ興味深い説があります。
それが『フリーメイソン』陰謀説。
出ましたね!
理由は簡単です。
まず、「トーマス・グラバー」がイギリスの武器商人だったと言う事は、以前お話しました。
そして、グラバーは龍馬の立ち上げた日本初の株式会社「亀山社中」を仲介して、薩摩藩に武器を売り、利益を上げていました。
しかし、『大政奉還』の内容で、金・銀の交換レートの改正などの案を提出した龍馬。
これを良く思わないのが、武器商人である「トーマス・グラバー」だったのです。
それはそうですよね。
世界に合わせたレートになれば、儲けも減ることになる訳ですから。
余計なことしやがって!
と思ったのでしょう。
さらに、西郷隆盛などは武力倒幕を果たしたいが、それを龍馬の内戦回避のための書状により、結局出来ずじまい。
狙われるのも当然です。
ただ、常に命を狙われていた状態だったので、いったい誰がやったのかは闇の中なんですが。
それに対して徳川慶喜は旧幕府側に抑制をしていましたが、いよいよ我慢の限界に達してしまいます。
この焼き討ちにより、『戊辰戦争』のきっかけになってしまいました。
1868年1月27日、京都の南側の郊外にある鳥羽・伏見で、新政府軍と旧幕府軍の衝突によって、戦争が開始されました。
(鳥羽・伏見の戦い)
旧幕府軍は数でこそ多いものの、しっかりとした指揮が取れておらず、いわば寄せ集めのようなものになっていました。
逆に、薩摩藩は軍服や銃などしっかりと揃えており、指揮管理もしっかりしていたために、その勢いで旧幕府軍を圧倒します。
さらに翌日、『錦の御旗』を掲げた新政府軍はこれによりさらに勢いを増していきます。
それもそのはず。
『錦の御旗』=『朝廷側』。
ひいては『天皇』の勅命により、兵を挙げているので、それに銃を放つ=『朝敵』になってしまうからです。
これに怯んだ旧幕府軍は大阪へと後退せざるを得なくなります。
さて、新選組もこの時に戦闘に参加しているのですが、この時に試衛館時代から「近藤勇」や、「土方歳三」の兄弟子でもあり、大変慕っていた「井上源三郎」が戦死してしまいます。
また、この敗北がきっかけで逃げ出す隊士たちも多く、戦力が一気に低下してします。
さらに、『空海』が建立し、京都の民衆に強い信仰を集めた『東寺(とうじ)』で、新政府軍は陣をはり、指揮をしていました。
この心理的作戦から民衆をも味方につけたのです。
その総指揮を執っていた人物が
『西郷隆盛』
です。
『東寺』の上へ登り、鳥羽・伏見の戦況を見守っていました。
その後、すぐに薩長は『朝廷』から正式に『官軍』となり、土佐藩も加わりさらに新政府軍は勢いを増していきます。
また、その逆に旧幕府軍は『賊軍』として認知されていくようになり、さらに戦いでも敗北を期します。
そんな中大阪城にいた旧幕府軍の総大将である、「徳川慶喜」が突如、数名の側近のみを連れ江戸に帰ってしまいます。
理由はいくつかありますが、その中で慶喜が出た「水戸徳川藩」の家訓に、「幕府に背くことがあっても、決して『朝廷』に弓を引いてはならない。」といのがあります。
さらに自らが『朝敵』となってしまったこと。
この精神的ショックにより撤退。
これで旧幕府軍は一気にやる気を喪失してしまいます。
こうして、新政府軍は江戸城へ向かい東へとドンドン進んでいきます。
次回は江戸城開城など、にお伝えして行こうと思いますので、よろしくお願いします。