『江戸城開城』を開城した旧幕府軍ですが、未だにそれに納得していない、強硬派もまだまだ残っています。
そんな中で、唯一江戸で戦場になってしまったのが、『上野戦争』です。
これは新政府軍に反抗する「彰義隊」が上野にある徳川家の菩提寺である『寛永寺(かんえいじ)』周辺にたてこもり、新政府軍と戦争をし、惨敗すると言う結果になりました。
それもそのはすですね。
なんと言っても新政府軍は最新の兵器をもち勢いづいている。
さらに、軍事戦略の天才である長州藩の「大村益次郎」が指揮を執っていたことにより、たったの1日で終焉してしまいます。
また、この戦いの作戦会議の中、西郷隆盛が大村に「皆殺しにするつもりですか?」と問うと、「そうです。」と即答したというほど、大村は軍事に優れている人物ではあるが、非情にもなれる男でした。
この中に、徳川四天王のひとりである『榊原康政(さかきばらやすまさ)』の子孫が領土を平定していた「越後高田藩」の脱藩藩士たちも参加します。
『戊辰戦争』が始まった時にはすでに「高田藩」は討幕派となっていましたが、これに反発した藩士たちが脱藩。
そして、『榊原家』の『榊』の文字を2つに分けた「神木隊」を結成するのです。
その後、彼らが彰義隊に合流して『上野戦争』に発展していきます。
また、甲州で『新選組』と別れた「原田左之助」もこの戦いに加わり戦死したとも、その後生き延びて大陸にわたり、馬賊の頭になり『日清・日露戦争』の際に『大日本帝国』に一矢報いたなどの伝説があります。
さて、『上野戦争』がたったの1日で決着がつき、新政府軍は関東より西側を制圧。
逆に旧幕府軍は東北地方に追いやられて行くようになります。
そして、新政府軍はいよいよ憎き敵である『会津藩』に向けて兵を進行していきます。
『朝敵』とされた会津藩・庄内藩を守ろうと『奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)』を結成し、罷免を求めた。
また、会津藩と庄内藩の同盟である『会庄同盟』も結成され、『会津戦争』では奮闘をしますが、新政府軍の圧倒的な強さに、会津藩は降伏。
副長の「土方歳三」は仙台藩などに応援を求め走っていましたが、この間に会津藩が降伏することによって、最後の戦地である、箱館まで行くことになります。
この戦いで、予備隊であった「白虎隊(びゃっこたい」」が、13歳から16歳で構成された部隊がありましたが、会津にある「飯盛山」で、鶴ヶ城が焼けていると勘違いをして、もはやここまでと悟り集団自決をすると言う悲劇が生まれます。
この時の新政府軍の司令官が「人斬り半次郎」という異名も持っていた、「中村半次郎」のちの「桐野利秋」ですが、開城の際に男泣きをしたと伝わっており、その後の処理も会津藩に対して、解体はするものの、藩主である「松平容保」は江戸で謹慎と言う、軽い処分でした。
ただし、家老のひとりが責任をとり「切腹」、藩士たちは現在の青森県むつ市に移住させられ、特に冬は極寒になり、生活も非常に大変だったといいます。
それとは逆に、庄内藩は西郷隆盛の意向もあり、藩自体の処罰も非常に軽いものになり、その後の庄内地方の人びとは西郷隆盛を敬愛しています。
その後、秋田や岩手でも戦いが行われ、最後の戦いになった「箱館戦争」が始まります。
この時の新政府軍の指揮官である「黒田清隆」は、敵将である「榎本武揚」の助命に尽力をつくし、その後、黒田清隆が内閣総理大臣になると、文部大臣や逓信大臣・農商務大臣を務めるなと、盟友となりました。
さて、箱館五稜郭で、旧幕府軍の軍事治安部門の責任者となった土方歳三ですが、蝦夷共和国(旧幕府軍側)が樹立したときも、ほかの幹部たちが祝杯をしているときでも、「いまは浮かれている時ではない!」と言い放つなど、ひとり冷静な判断をしていました。
また、部下たちには「この戦況のなか、あまり飲みすぎると戦えなくなってしまうので、一杯だけな。」と言い、酒を振る舞うと言う、新選組時代には有り得ないほど、部下に対して気遣いをするくらいまで、温厚になっていました。
そして、土方歳三は「二股口の戦い」で、腹部に銃弾を受けて戦死。
また、一番隊隊長・沖田総司は近藤勇が斬首された1ヶ月後に病死しており、近藤の死は聞かされていなかったようです。
そして、新政府軍は名実ともに、明治維新という新たな時代が開かれるようになりました。
時代を駆け巡った彼ら、そして残って新政府として、日本を作り上げた彼ら。
どっちが良い悪いと言うのではなく、お互いに『日本』と言う国を守ろうとしたと言うことには変わりが無く、ただ時代に翻弄されたとしか思えません。
そして、いま世界を脅かしている新型コ◯ナウイルス。
このような現状に、再びいま『日本人』が集結し、立ち向かって行かなければ行けないのでは無いでしょうか。