現在、『西本願寺』と『東本願寺』に分かれており、お互いに『世界文化遺産』に選ばれていますが、実はもともとはひとつの寺院だったと言うことをご存知でしょうか。
ここで面白いはなしがありまして、『鎌倉仏教』の開祖のほとんどが『比叡山延暦寺』で修行をした経験があるんです。
むしろ、『時宗』の開祖である『一遍(いっぺん)』だけが唯一、修行の経験がありません。
ただし、『浄土宗』の開祖である『法然』の孫弟子から10年以上も学んでいる所から、間接的になんらかの比叡山延暦寺と繋がりがあったと言うことが想像出来ます。
さて、『浄土真宗』の開祖、『親鸞』ですが実は本人がこの宗派を作ったと言うよりは、弟子たちが親鸞の没後に、確立していったのです。
親鸞自身は師である『法然』の意思を継承し、より一般の民衆に広めて行けるように努めていただけだったみたいです。
この『浄土真宗』の面白いのが、僧(出家)にならくても、『南無阿弥陀仏』と唱えれば『阿弥陀如来様』が救ってくれるというものです。
まさに『他力本願』ですね!
さらに、妻子をもつことも許されています。
そして、「悪人」こそを救うことがこの宗派の真骨頂と言うのですから、面白いですよね。
この「悪人」と言うのも自らがこの気づいた時点で、すでに救われていると言う様なもので、気づいていない方が、まだそこまですら辿り着いてない者であると言うのです。
さらに、肉食をしてもよく、まさに普通の民衆の生活の中に取り入れた宗派となっています。
実際、明治以前にこれを許していたのは『浄土真宗』のみだったそうです。
そうした事から、広く民衆にも信仰されるようになり、室町時代には急速に発展・拡大をして行き、『一向宗』と呼ばれるようになりました。
逆に他の宗派はどんどん衰退していく形となりました。
そんな中で当時は戦国時代真っ只中。
規律などの体制も各地域により取り決められているという、不安定な社会のなかで村人たちは不満をつのらせていました。
その矛先が各大名たちに向けられ、各地で『一向一揆』が起きてしまうのです。
これには徳川家康や上杉謙信なども『一向宗』の禁止命令を出すなど、対応に迫られてるほど勢力が拡大して行きました。
その頃、京都に本拠地を置いていた『一向宗』はその脅威を恐れていた武将が日蓮宗徒と手を組み、『本願寺』を焼き討ちされてしまいます。
本拠地を失った『一向宗』は大阪の地に新たに『石山本願寺』を建立し、本拠地を移転しました。
この焼き討ちの経験から、本拠地の『石山本願寺』は城郭のような、防御施設の役割をもった寺院に発展していくのです。
織田信長と足利義昭の関係が悪化していく中で、『天下布武』を目指す信長と対立していくのです。
この戦いは約10年も続き、『石山本願寺』以外の各地の「一向一揆」はことごとく信長の武力によって、潰されていきました。
そこで、兵力も失ってきた『一向宗』に対し、信長は第106代天皇である『正親町天皇(おおぎまちてんのう)』の仲介により、武力解除・石山本願寺からの退去と言うかたちで、この戦いが終わりました。
(『石山合戦』と呼ばれています。)
その事からもいかに『石山本願寺』が広大な敷地があったと言うのが分かりますね!
そして、秀吉の時代になると現在の『西本願寺』の場所を与えられます。
『石山本願寺』の時の当主の長男である『教如(きょうにょ)』は、そのまま本願寺を継承されると思っていましたが、じつは遺言書に弟の『准如(じゅんにょ)』がつぎの後継者であると書かれていました。
その協議を時の天下人である豊臣秀吉に告げ、秀吉から「10年後に准如に譲るように!」と命が出ました。
これに不満を持った「教如」派のなかでも強硬派が秀吉に直訴。
これに怒った秀吉は「すぐさま、退隠せよ!」と命が下りました。
そこで、「教如」は徳川家康に接近。
その際に石田三成の手のものに襲われたなどとしているのですが、1602年に第107代天皇『後陽成天皇(ごようせいてんのう)』の勅許により、家康からすぐ東の場所を与えられ、『東本願寺』を建立し、西と東に分裂したのです。
これにより、現在までつづく『西本願寺』・『東本願寺』となっていくのです。
また現在でも『西本願寺』は正式名称を『本願寺』というのに対し、『東本願寺』は『真宗本廟(しんしゅうほんびょう)』となっています。
ただ、両寺院とも『親鸞』の廟があるし、『世界文化遺産』にもなっているので、是非とも両寺院とも訪れて欲しいですね。
また、『西本願寺』が秀吉の寄進によって建てられたのに対して、『東本願寺』は家康からの寄進になるというような背景からも、幕末の時代、どちらに本拠地を置くかは大事なことだったと思います。
秀吉側の『西本願寺』には長州藩と深い繋がりがあったようですしね。
『本願寺』だけでここまで語れる日本の歴史はほんとうに面白いものです。