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『世界最古の国』日本

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新撰組 ⑨ -三条大橋-

池田屋騒動』からその名を天下に轟かせた『新撰組』ですが、池田屋の場所からほど近くに『三条大橋』があります。

 

 

 

 

この橋の擬宝珠(ぎぼし)には池田屋騒動の時に『新撰組』と過激な尊皇攘夷派の志士との斬り合いの際に出来た刀傷が残っています。

 

 

 

 

 

それを観るだけで、壮絶な戦いだったと言うのが分かります。

 

 

 

 

そしてここは『東海道』の西の起点になっていて、ここから江戸に向かう事になります。

(東側の起点は言わずと知れた、江戸の『日本橋』になります。)

 

 

 

 

 

また、ここは江戸時代まで「処刑場」になっていまして、『豊臣秀吉(とよとみひでよし)』を暗殺しようとした(結果的には未遂で終わる)罪で捕まってしまった、『天下の大泥棒』としても有名な『石川五右衛門(いしかわごえもん)』が釜茹(かまゆで)で処刑されています。

 

 

この時、石川五右衛門の親類は見せしめとして、生後間もない子供も含め全員が処刑されています。

 

 

 

 

この理由はまず権力者のみを狙った義賊でしたが、当時は豊臣政権が民から嫌われていたと言う事。

 

 

 

また、2代目関白で秀吉の甥である『豊臣秀次(とよとみひでつぐ)』の家臣が石川五右衛門に依頼し、秀吉の寝室にある「千鳥の香炉」を『聚楽亭』に忍びこんで、盗みだそうとしたがそれが鳴きだして、気付かれてしまい捕まってしまってしまいました。

 

そして、その罪も含め数々の罪により、釜茹でにされ処刑にあったなどの伝説が残っており、今でも歌舞伎などではこの描写の演目があります。

 

 

この様な背景から『天下の大泥棒 石川五右衛門』と言うのが江戸時代には広まっていくのです。

 

 

 

 

また、歌舞伎と言えば『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』がありますが、忠義に対するものが人気になり、『新撰組』もそれに習い、ダンダラ模様の羽織にしたそうです。

 

 

 

 

ただし、『忠臣蔵』の羽織は黒色で『新撰組』は浅黄色になっているので、全てを真似したわけではなかったんですね。

 

 

 

 

と、ここで余談ですが『忠臣蔵』の主役?である『大石内蔵助(おおいしくらのすけ)』の家紋が私のうちの家紋と同じなので、どこか親近感が湧いてしまうんですね。

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そして、また話はズレますが歌舞伎などの演者やスタッフが舞台の合間に食べていたものが、「幕の内弁当」なんです。

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舞台の演目と演目の間に食べていたことが由来となるので、客席側から見たら「幕の内」。

 

 

 

ここから名前が来たそうです。

 

 

 

また、当時は冷蔵庫なども無い時代なので、なるべく食材も傷みにくいものを使用しており、焼魚に煮物・漬物にご飯の上に梅干しと言った

、今でもよく見る原型になりました。

 

 

 

 

その後、客席側にも配られるようになり、世間にも広まって行ったのです。

 

 

 

 

こうして見ると、普段食べていたり目にしているものにも、中々歴史を感じてしまいますね。

 

 

 

 

さて、話は戻しますが『三条河原』で処刑されたのとして、一番悲劇だったのは先程も名前が上がった、『豊臣秀次』とその妻や子供・侍女たちです。

 

 

 

 

秀吉は自身の子供が産まれた(のちの『豊臣秀頼(とよとみひでより)』)のをきっかけに、養子として迎えられていた秀次をどんどん邪魔になって来ました。

 

 

 

 

その理由は果たして、自分の子が次の当主になれるのであろうか。

 

 

 

当時、秀次にも嫡男がおり、自分が死んだ後、秀次系列になってしまうのではないかと不安に思った秀吉は「謀反の疑いあり」として、 秀次を拘束するのです。

 

 

 

そして、高野山に幽閉されますが間もなく、秀吉から「切腹」の命が下されます。

 

 

 

 

これでも悲劇と言えることなのですが、さらに秀次の首を三条河原に晒し、その前で秀次に関係のあったものたちを一人残らず処刑すると言う、悲劇が行われました。

 

 

 

その数は39名にも上り、三条河原は真っ赤な血で染まっていたそうです。

 

 

 

 

 

秀次は叔父である秀吉に最後まで翻弄されていた人生だったと思うと何か虚しくなります。

 

 

 

また、江戸時代に入り近くの『瑞雲寺』に遺骨が納められ、今でもそこに皆で眠っています。

 

 

 

 

もし、三条河原周辺を訪れた際にはこの様な悲劇があったと言うのを踏まえて行くと、また違う感覚で訪れる事が出来ると思います。

 

 

 

 

 

そして、秀吉の側近として仕え、『関ヶ原の戦い』実質的西側の総大将となった『石田三成』。

 

 

 

 

かれもまた、六条河原で斬首された後、この三条河原に晒し首にされてしまいました。

 

 

 

 

『勝てば官軍』と言う言葉があるように、勝った方が正義になってしまいますが、これもまたひとつの悲劇として今も語り継がれています。

 

 

 

 

個人的には石田三成は好きな武将の1人であり、忠義を尽くしたと言う意味でも、やはり別格な武将だと思います。

 

 

 

 

 

そして、最後に『新撰組』の局長である『近藤勇』もこの三条河原で晒し首にされてしまいます。

 

 

 

これに関しても悲劇としか言えないですが、『薩長同盟』で手を組んだ、薩摩藩長州藩を中心とした「新政府軍」に、現在の千葉県・流山市で捕まり、東京都の板橋区にある処刑場で斬首された後に、塩漬けにされこの三条河原で晒し首にされます。

 

 

 

 

新撰組』が「新政府軍」から特に長州藩からすごい恨みを買っていたいた事と、元は農民出身と言う事で、武士とは認めて貰えず、「切腹」ではなく、「斬首」になってしまったと言うのが、なんとも言えない虚しい気持ちになってしまいます。

 

 

 

 

最後に、これら全ての人物が『豊臣家』に関わっていたと言うのが分かります。

 

 

 

薩長関ヶ原の戦いで西軍側についた外様大名ですからね。

 

 

 

 

そう言う歴史も知った上で訪れてみると、また新たな発見が出来ると思いますので、是非今度、京都に訪れてる際にはご参考にと思います。

 

 

 

ひとつの場所でここまで、深く掘り下げる事が出来るのは、やはり歴史は面白いですよね。