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『世界最古の国』日本

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新撰組 13 -薩長同盟-

新撰組が『西本願寺』に屯所を移している最中、薩摩藩長州藩にも動きを起こすようになって来ました。

 

 

 

 

 

そもそも、新撰組が『西本願寺』に屯所を移した理由のひとつには、隊士が増え壬生の屯所では手狭になったと言う事。

 

 

 

 

もうひとつは『八月十八日の政た変』『禁門の変』により、『朝敵』となった長州藩とつながっているとの噂があったからです。

 

 

 

 

 

さて、この時に水面化では天地がひっくり返るほどの同盟が結ばれます。

 

 

 

 

 

それが

 

 

 

 

薩長同盟

 

 

 

 

この同盟により、最終的には幕府を倒し新しい政権を迎えるわけですが、じつはまだこの時はそこまでのことはお互いに考えてはいなかったようです。

 

 

 

 

 

その後の幕府の対応により世の中が倒幕への風潮を迎えてしまうわけですが、それは追々としまして。

 

 

 

 

今回はなぜ薩摩と長州が手を結んだかについてお伝えしようと思います。

 

 

 

 

 

まず、長州藩は先ほどもお伝えしたように『八月十八日の政変』以降、京都を追われ、その後イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合国軍艦と『下関戦争』で敗北。

 

 

 

その結果、多大な賠償金を払うことになり、さらに『池田屋騒動』・『禁門の変』により状況は悪化していきます。

 

 

 

 

さらに追い討ちをかけるように、『朝敵』となり幕府の命により、長州征伐がはじまります。

 

 

 

これにより、家老三人が切腹させられてしまうと言うボロボロの状態になってしまいます。

 

 

 

 

しかし、こんな状況でもまだまだ倒幕へと野心を燃やしているのが、高杉晋作率いる『奇兵隊』やいまだ京都に潜伏している桂小五郎などです。

 

 

 

 

 

ただ、『朝敵』となってしまった長州藩は武器の購入が一切出来なくなってしまったんですね。

 

 

 

 

武器もなく、藩内はボロボロ。

 

 

 

 

それでも、倒幕という野心だけは未だに燃え続けている状態でした。

 

 

 

 

 

 

さて、一方の薩摩藩もイギリスと戦争をし敗北してしまいますが、この戦争によりイギリスとの関係が良好な状態になります。

 

 

 

 

いわゆる『薩英同盟』ですね。

 

 

 

 

これにより、イギリスから大量の武器を購入出来るようになるなどで財力が大変潤います。

 

 

 

この時に薩摩は幕政に対しても、多大な影響力を持っており、幕府の中には『雄藩否定論』と言う風潮になっていました。

 

 

 

 

その中心となっていたのが一橋慶喜松平容保会津藩主)です。

 

 

 

 

 

簡単に言えば、財力を持つ大名を潰し発言権も持てなくして、より徳川家に近いものだけで政権を取り決めようとすることです。

 

 

 

 

 

それに目をつけられたのが薩摩藩

 

 

 

 

第二次長州征伐により薩摩藩の財力・兵力を奪おうと、また長州藩の息の根を止めようと言う幕府にとっては「一石二鳥」だったわけです。

 

 

 

 

 

しかし、ことわざとは面白いもので、「二兎追うものは一兎も得ず」と言うことばがあるように、さいごにはまさに対義語のような結果に幕府はなってしまったんですね。

 

 

 

 

このような長州征伐と幕府内で話題になっている中で西郷隆盛幕臣勝海舟と出会います。

 

 

 

 

勝海舟はかつて「神戸海軍操練所」を創設した人物で、塾頭には坂本龍馬、またのちに外務大臣となる陸奥宗光などがこの塾生でした。

 

 

 

 

そんな勝海舟は西郷に対して「今は国内で争っている場合でじゃねえ!

諸外国に対しての国力をつけなければ、日本が食い物にされ、他のアジアの国と同じように植民地にされちまう。

お前が一番よく分かっているだろっ!」

 

 

と論じたのです。

 

 

 

 

 

西郷は薩英戦争でのイギリスの強さは嫌と言うほど知っていました。

 

 

 

 

また、長州を討ったあとは次に狙われるのは薩摩だと恐れた西郷は、家老である小松帯刀や旧知の仲である大久保利通にこの旨を伝えてます。

 

 

 

 

さらには薩摩もじつは幕府を倒して、外国と渡りあえるような新体制をつくりたいという思惑もありました。

 

 

 

 

こうした中で、絶好の相手が長州藩だったわけです。

 

 

 

 

 

長州藩

①倒幕の為に武器が欲しい。

②しかし、幕府の命により買えない。

 

 

 

 

薩摩藩

①財力を使いたくない。

②しかも、実は倒幕をして実権を握りたい。

③しかし、表立っての行動は出来ない。

④なので、長州藩の倒幕のうしろに隠れてるかたちで実行していきたい。

⑤また、第二次長州征伐の幕命によってお米の値段も高騰してしまったので、お米も欲しい。

 

 

 

 

 

と言ったお互いの藩が利害が一致したのです。

 

 

 

 

しかし、『八月十八日の政変』以降、犬猿の仲の状態。

 

 

 

 

それもそのはず。

 

 

 

 

薩摩藩は先頭に立って『八月十八日の政変』『第一次長州征伐』と長州藩を攻撃してきた藩です。

また長州藩もこの報復として薩摩藩を攻撃しています。

 

 

 

 

 

こんな状況の中で仲介役を買って出たのが、坂本龍馬中岡慎太郎です。

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龍馬は江戸に剣術修行時代、『幕末江戸三大道場』のひとつで『技の千葉』といわれた玄武館の創設者である千葉周作の弟の千葉定吉がつくった道場(通称・小千葉)の塾頭でした。

 

 

 

また、盟友で親戚であった『土佐勤王党』の盟主・武市半平太は『位の桃井』といわれ、これまた『幕末江戸三大道場』のひとつであった士学館の塾頭でした。

 

 

 

 

 

そしてもうひとつの『幕末江戸三大道場』である『力の斎藤』と呼ばれた練兵館の塾頭に桂小五郎がなっていたのです。

 

 

 

 

このような繋がりから長州藩と関係を持っていた龍馬。

 

 

 

 

 

さらに、京都で幕府によって襲われた(寺田屋事件)ときに、保護してもらったのが薩摩藩でした。

 

 

 

この時に龍馬は日本人初の「新婚旅行」をしたと伝わっています。

 

 

 

 

 

これにより、薩摩・長州の両方に繋がる手立てが出来たのです。

 

 

 

 

さらに、中岡慎太郎も『土佐勤王党』の一員で尊皇攘夷派であり、桂小五郎久坂玄瑞と交流を持ち、その後もずっと長州藩と繋がっていました。

 

 

 

 

 

この2人の土佐藩士(龍馬は脱藩したので元土佐藩士)が協力し合い、『薩長同盟』へと結びつくのです。

 

 

 

 

両藩を説得し、ようやく会談にまでいき代表として長州側は桂小五郎薩長側は西郷隆盛でしたが、まさかの西郷がドタキャン!

 

 

 

 

これには桂も仲介役の龍馬・中岡も怒りました。

 

 

 

 

そしてなんとかもう一度、会談にまでこぎつけたのですが、ここでも桂を怒らせてしまう事態になってしまうのです。

 

 

 

その理由は、薩摩藩の家老・小松帯刀邸で行われたからです。

 

 

 

 

龍馬たちはこれに対して、薩摩藩はまだ幕府に信用されているから、目をつけられにくいと桂を説得します。

 

 

 

 

ようやく会談が実現しますが、ここでもまたお互いのプライドが邪魔をして話が進みません。

 

 

 

 

 

そこで龍馬が一喝ッ‼︎

 

 

 

「お互いにそんな事言うとる場合じゃないだろ!どっちもこのままじゃ幕府に潰されてるぞ!」

 

 

 

 

と。

 

 

 

この一喝に正気を取り戻し、ようやくここで『薩長同盟』が結ばれるのです。

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さて、今回は『薩長同盟』が何故結ばれたかまでをお伝えしましたが、次回はその内容と、少し都市伝説などについてお伝えしたいと思いますので、ご期待下さい。