新撰組の隊士が大所帯となり、壬生の屯所から『西本願寺』に屯所を移しました。
『西本願寺』といえばいまや『世界文化遺産』として毎日多くの観光客が訪れていますが、実は私も10年くらいに訪れたことがあります。
この時に感じたのがまず最初にデカイ!
そして、すごく落ち着いているんですね。
もちろん広大な敷地と言うのもありますが、何かガチャガチャしていないと言うか、単純に行って良い場所と言うのを感じました。
そして、『御影堂(ごえいどう)』や『阿弥陀堂』、京都三名閣のひとつにも選ばれている『飛雲閣(ひうんかく)』など、『国宝』が数多く残っている事でも知られています。
また、重要文化財にも指定されている『太鼓楼(たいころう)』には新撰組がここに屯所を移した際、隊士達が鍛錬をしている中で刀傷をつけてしまったと伝わっているものがあり、是非ここに訪れた際には見てほしいモノのひとつになっています。
さて、何故新撰組がこの『西本願寺』を屯所として選んだかと言うと、実はこの寺院に長州藩をはじめとする過激な尊皇攘夷派と繋がっていると言う噂があったんですね。
これに圧力を掛けようとした新撰組はここに屯所を置いたと言う説があります。
これは『参謀』として「池田屋騒動」後に入隊し、のちの「御陵衛士(ごりょうえじ)」のトップと「伊東甲子太郎」ですが、彼が『西本願寺』を推奨。
その逆に、試衛館時代からの古参で『総長』の役割に就いていた「山南敬助」は『東本願寺』に屯所を設置しようと推奨していました。
それはなぜか。
『西本願寺』は「豊臣秀吉」が、『東本願寺』は「徳川家康」が作るように命じたんですね!
しかし、京都守護を任せられている新撰組は少しでも、敵に圧力を掛けられるようにと結局は『西本願』に屯所を選びました。
この論争に敗北してしまった総長である山南敬助は、その後脱走してしまい、一番隊隊長である「沖田総司」に見つかり、帰還。
この時、起立を守らなければいけない『局長 近藤勇』・『副長 土方歳三』。
それに対して、試衛館時代からの古参メンバーの同情で「もう一度逃げよ!」と言う隊士たち。
さらには沖田が一番慕っていたという意味で派遣した、近藤や土方。
もしかしたら、近藤や土方は見つけられないと言う名目で、逃そうと言うのがあったかもしれません。
しかし結局は捕り、しかも新撰組の規律である『局中法度』を土方と一緒に作った山南は、これを期に、全ての隊士が『局中法度』を破れば
切腹すると言うものを示したのでしょう。
新撰組の形式的にはトップが局長、次が総長、その次が副長と言う形になっていましたから。
これにより、さらに新撰組は規律が厳しくなるのですが、山南敬助が死去した際に、古参メンバーで幹部である試衛館メンバーは一同に悲しんだと伝わっています。
この山南の死によって、少しやりにくいと感じた伊東甲子太郎が『御陵(御所)』を護るとい名目で新撰組を離れますが、のちに新撰組に殺害されます。
と言う事で次回は、少し『西本願寺』の歴史についてお伝えしたいと思いますので是非ご期待下さい。