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新選組 17-甲州勝沼の戦い・そして江戸城無血開城

突如として大坂城から江戸へ逃げ出した旧幕府軍の総大将である、「徳川慶喜」。







これで戦意を失うと言うよりは、戦争をする目的もなくなった旧幕府軍は次々と新政府軍に寝返りを始めます。







その中でも「彦根藩」はすでに第二次長州征伐の時に、「大村益次郎」の高い指揮戦略を訓練していた、長州藩によって大敗をし、それ以降新政府軍側に寝返っています。









これには理由がありまして、徳川四天王のひとり『井伊直政』以来、兵を全身赤い甲冑で統一していました。







重くて動きにくい甲冑と、さらにその赤い色から目立ち、格好の標的とされます。






さらに、時代はもはや剣の時代ではなく銃の時代。




しかも、「トーマス・グラバー」から薩摩藩経由で購入したイギリス製の最新の武器です。






そうなると大敗をするのは一目瞭然ですね。









そして、『鳥羽・伏見の戦い』では新政府軍側につき、『東寺』などの守っていました。








また、第二次長州征伐の際に「彦根藩」と一緒に先鋒隊として兵を挙げたのが、これも徳川四天王のひとりである『榊原康政』の末裔の藩である、「越後高田藩」です。










この高田藩はまた後で名前が出てくるので、お楽しみを。









さて、勢いに乗った新政府軍はドンドン東会地方へと遂行していきます。








そして、また徳川四天王のひとりである『本田忠勝』が祖となり、のちに松平家が領地を収めることになった「桑名藩」に新政府軍は進軍していきます。







しかし、桑名藩旧幕府軍最強として名を轟かせており、能力のあるものを優先させた軍隊になっていました。







山県有朋」率いる新政府軍をも撃破すると言う結果を残しますが、周りの藩がつぎつぎと降伏。







これにより徐々に東に追いやられることになってしまい、城も開城せざるを得なくなります。






桑名藩主ではなくなった「松平定敬」はその後も戦い続け、『戊辰戦争』最後の地、「箱館戦争」まで参加していました。












実は松平定敬の実兄が会津藩主・「松平容保」だったということも大きいでしょうし、『大政奉還』で徳川慶喜が政権を返上するまで、幕末期に「一会桑政権」で実権を握っており、さらに薩摩藩とも対立を深めているという背景もありました。




(一会桑政権とは、一橋・会津・桑名の頭文字をとったもの)








また、残った桑名藩庄内藩とともにその後も東北地方で奮闘します。














桑名藩が城を明け渡した事で、いよいよ関東に接近してきた新政府軍。











対して、江戸城を守る最後の要となった「甲府城」を護るために新選組が、『甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)』と名を改め向かいました。
(この時に近藤勇は大名扱いになった。)










しかし、ひと足先に「板垣退助」率いる新政府軍が占領してしまい、これも敗戦。










そして、この敗戦で意見の合わなくなってしまった二番隊隊長・永倉新八と十番隊隊長・原田左之助と今生の分かれをしてしまいます。







その理由は諸説ありますが、近藤は大名扱いになったにも関わらず、この戦いで敗戦をしてしまった。


なんとか、再起をと思いこらえるように命じたに対して、この2人が怒ってしまったんですね。



同じ志を持つ者だとは思うが、決して近藤の手下では無いと。







これにより、さらに新選組は兵力が低下。







そして、いよいよ新政府軍が江戸に総攻撃を決定。










この時、旧幕府軍の全権を任されていたのが、かつての龍馬の師でもあり、西郷に長州征伐の際に「いまは国内同士で戦争をしている時では無い」と頷かせた『勝海舟』です。









また、「ハリー・パークス」と言うイギリスの外交官も諸外国との貿易に悪影響であるとして、中止を求めていました。







このハリー・パークスという人物。








実は彼もある秘密結社に繋がっていたのです。






それが







フリーメイソン








江戸のまちが戦場になったら、どちらが勝っても負けても、復興までに時間がかかり、利益をもたらすことが出来ないと考えていたのでしょう。









当時の新政府にはまだ、諸外国との関係を良い形でむかえなければならなく、また、江戸市中を戦場にかえてしまうのに躊躇すると言う意見もあり、江戸総攻撃を中止にしました。









そして、現在の港区高輪にあった薩摩藩邸で「西郷隆盛」と「勝海舟」が会談。






無血開城の条件として、「江戸城・軍艦や武器の明け渡し。また、徳川慶喜を水戸で謹慎させる。」と言うことで、この会談の終了後、すぐに執り行なわれ、慶喜は水戸にむかいました。








そして、10日後の1868年5月13日に新政府軍の東征大総督である『有栖川宮熾仁親王(あらるすがわのみやたるひとしんのう)』が江戸城へと入城し、新政府軍のものとなりました。













永倉・原田と別れ、試衛館以来の同士がもはや2人になってしまった近藤・土方はそれでもなお再起をかけ北へと移動し、千葉県の流山市にとどまっている際に、新政府軍に見つかってしまいます。








そして、局長である近藤勇は捕縛され、板橋へと連行され、そこで処刑されてしまいます。










それも武士でありながら「斬首」と言うかたちで。







本来、大名にまでのぼりつめた近藤勇でしたら、「切腹」のはずですが、近藤の出生が農民であるのに加えて、『尊王攘夷』派・特に長州藩にとって憎き存在である、新選組の局長・『近藤勇』だったからです。








新政府軍がこの戦争で欲しい首は3つ。





1つは元徳川幕府15代将軍・徳川慶喜・1つは会津藩主・松平容保、そして新選組、局長・近藤勇の首でした。






ただ、もはや慶喜は水戸で謹慎の身。






まさに新政府軍全ての恨みを1人で背負ったと言っても、過言じゃありません。








そして、近藤勇の首は塩漬けにされ、京都の『三条河原』で晒し首にされます。








さて、今ここまでとし次回は江戸城開城のその後についてお伝えしていきたいと思いますので、ご期待ください。