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『世界最古の国』日本

#神社仏閣#歴史#都市伝説#グルメ#漫画#アニメ#ゲーム#その他生活にありとあらゆるものなどに関することを書いています。ここに記載するすべて記事の引用素材は誹謗中傷を目的としたものでは無く、著作権を侵害する目的で作成したものではありません。

田無神社 その④

今回も『田無神社(たなしじんじゃ)』についてお伝えしたいと思いますが、正直ほんとに色々と見所があり、今回でも終わる気がしないんです。

 

 

と、お話しているうちに時間もどんどん経ってしまうので早々とお伝えしていきます。

 

 

 

まず、今回最初にお伝えしたい見所は『撫龍』と言う場所になります。

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この場所は東参道から入るとすぐにある場所で龍の頭と玉を撫でると運気が向上すると言われています。

また、毎年の初辰日は発達につながることから商売繁盛など、縁起の良い日とされとおり、2020年ですと1月2日でした。

 

 

 

次にご紹介したいのは『青龍』の隣に祀られている『楠木正成公像』です。

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なんでこんな所に?

 

 

と思う方もいると思いますが、実は楠木正成の子孫が保谷(現在は保谷市田無市が合併して西東京市になりました。)に移り住み、田無神社の分社である尉殿神社を守護していた経緯から、いつの日か本社である田無神社にお祀りされました。

 

そして、見てもらうとお気づきでしょうが、この像は欠損だらけなんですね。

 

何故かと言うと、地元の若者が戦争に行く際に、この像を削りそれを御守り変わりに持っていったからなんです。

 

 

と言うのも、楠木正成南北朝時代から江戸時代まで一貫して『日本史上最大の軍事的天才』と評価されていました。

 

 

そのような武将だった事から、戦争に出征しても負けずに帰ってこれるようにと言う願いで、この像を削り御守りにしたのです。

 

 

 

そしてこの『楠木正成公像』と『青龍』の奥には『鹽竈神社』や『野分初稲荷大社』があります。

 

 

 

鹽竈神社のこのブログのvol.38・39でもお伝えしましたが、総本社は現在の宮城県陸奥国一宮として鎮座していますが、航海や遠征・また安産祈願や虫封(子供のかんしゃくや寄生虫などの封じる施術で、現在は漢方薬鍼灸治療が有効的になっています。)にご利益があります。

 

 

 

そして、野分初稲荷大社は名前からもわかる様に「お稲荷さん」をお祀りしている神社で、豊作祈願や商売繁盛にご利益があります。

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また、この地域から日露戦争に出征した若者を後世に伝えてる為に記念碑を建て、この文字を書いたのは日露戦争時に元帥陸軍大将として、満州軍総司令官を務め、日本の勝利に大きく貢献した『大山巌(おおやまいわお)』になります。

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さらにその前には、昭和の名横綱大鵬関が寄進した土俵があり、いまでは子供たちのわんぱく相撲の取り組が行われています。

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そして、その左側には『大黒・恵比寿社』があります。

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この二柱の神様は『七福神』でも有名ですが、大黒様はここの主祭神であるオオクニヌシと、恵比寿様はその子の『事代主神(コトヌシのカミ)』と一般的にはなる事が多いが、『少彦名神スクナビコナノカミ)』となる事もあり、田無神社ではスクナビコナとなっています。

 

 

 

そして、ここで面白いのが大黒様は元々インドや中国からやってきた神様であり、さらに2020年の干支であるネズミが使者になっています。

打ち出の小槌や福袋を持っているとこからも、金運や商売繁盛などにご利益があるので、今年はさらにご利益がありそうですね。

 

 

 

また、恵比寿様も鯛を持っている事から「めで鯛」などでもよく言われるように縁起の良い神様です。

そして、七福神の中で唯一の日本古来の神様なんです。

 

 

 

と、ここで思ったのがオオクニヌシは大陸からやってきた渡来人であり、その子は日本で生まれ育っている事から、生粋の日本国籍になり、そこから唯一の日本古来の神様になったんではないでしょうか。

 

 

と、ここで少し都市伝説を。

 

 

恵比寿様がラベルにも貼ってある「エビスビール」ですが、何万本かに1本だけ2つの鯛を持っている恵比寿様があるようです。

ただし、瓶のみみたいですので、これを探しだすのは相当苦労しそうですね。

そもそも、最近は瓶ビール自体をあまり見かけ無くなって来てますから。

 

 

 

と、ここまで田無神社境内をお伝えしてきましたが最後にこれを。

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ここは「参集殿」と言う国の有形登録文化財として保存されている貴重な建築物ですが、そこにあった「九頭竜」ですが、なんとも縁起が良さそうな像ですね!

 

 

 

さて、長々となりましたが、田無神社をお伝えしてきました他にも見所が満載なので、是非一度御参拝下さい。

今年は子年でもあるので、きっとご利益を授かると思いますよ。

 

 

 

 

 

田無神社 その③

前回は『田無神社(たなしじんじゃ)』にお祀りしてある『五龍神』についてお伝えしてきましたが、もう少し詳しくお伝えしたいと思います。

 

 

と言いますのも、この田無神社は元々は『尉殿大権現』と称して創建された当初から『志那都比古命(しなつひこのみこと)』と『志那都比売命(しなとべのみこと)』もお祀りされていました。

 

 

この二柱は奈良県生駒郡にある『龍田大社(たつたたいしゃ)』では、シツナヒコを『天御柱命(あめのみはしらのみこと)』と呼び「男神」として、シナトベを『国御柱命(くにのみはしらのみこと)』と呼び「女神」として、お祀りされています。

 

 

そしてこの二柱の神様は男女一対として、風を司る神様となっており、伊勢神宮では内宮の別宮である『風日祈宮(かざひのみみや)』・外宮の別宮である『風宮』にどちらもお祀りされています。

 

 

 

また、この風日祈宮は元々は『風神社』と称していましたが、鎌倉時代末期の「元寇」襲来の際にこの神様が『神風』を吹かせ、勝利した事から、名称を風日祈宮と宣下され、さらには一般的にも有名な『風神』と呼ばれるようになり、強く信仰をあつめました。

 

 

そして、現在は『五行思想』に基づき、田無神社では本殿にこの二柱を『金龍』として、また境内の東西南北それぞれに『青・白・赤・黒龍』を配祀し五龍として信仰されています。

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さて、ここまで「五龍」についてお話しましたが、この神社には他にもたくさんの龍神様がお祀りされていまして、まずは『龍神の道』と呼ばれる、表参道から一の鳥居・二の鳥居を通り本殿に向かう道があります。

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この道は本殿に真っ直ぐ向かう道であることから、神聖な道となっています。

また、この道の途中に『道祖神』が祀られており、これはこの集落に災いが訪れない様にと願われており、日本神話でのこの道案内をするとして『猿田彦命(さるたひこのみこと)』と同一神となっており、良縁や子孫繁栄にご利益があります。

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そして、二の鳥居をこえると右側に『白龍の水』と呼ばれた手水舎があり、その斜め左側に『龍神池』と呼ばれる池があり、この2つは田無神社境内の深くから汲み取られた水源として、清らかな「御神水」となっています。

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と、ここで少し関心のあるお話が。

 

 

実はこの龍神池は2018年に完全したばかりの池なのですが、これを作った理由は田無神社の宮司さんからNPO法人に「子供たちに生き物と触れ合う場所をつくってほしい。」と言う思いからでした。

さらに、もうひとつ重要な点がありました。それは江戸時代には、この地域に田無水路と言う水路があり、この辺りの地域の人々は炊事、洗濯そして農作物など様々にこの水路を利用していました。

また、メダカやホタルなど様々な生き物が暮らしていましたが、時代の変化によってコンクリートで埋め尽くされてしまい、この生き物たちも姿を消してしまいました。

そのような経緯から、もう一度以前の自然の姿を取り戻そうと言う働きにより、この池が出来たのです。

 

 

 

何か、少し羨ましい気もしますね。

 

 

この地域の子供たちは物心がついた時にはこのような景色があり、それがまた次の世代の子供たちに受け継いでいけるのですから。

そして、それが神社なら余計に地元愛が深まると思います。

 

 

 

 

さて、今回は『五龍』と『龍神の道』などをお伝えしましたが、次回はその他の見所についてお伝えしたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

田無神社 その②

本日で、2020年の正月・三ヶ日も終わり「初詣」に参拝し終えた方、まだこれから参拝しに行く方も今年が良い年である様願います。

 

 

ちなみに初詣は関東は7日・関西では15日までに済ませば良いみたいなので、焦らずに参拝出来ますよ。

また、神社でも寺院でもどちらでも良いそうです。

ただし、去年の御守りなどは神社は神社に、寺院のは寺院に返すのが礼儀となっているので、そこだけは注意して貰えばとのことです。

 

 

 

 

 

そして、本来初詣と言うのは、住んでいる場所の氏神様、もしくはその年の「恵方」に参拝するのが風習でしたが、今ではどこに参拝しても良いので自分に合う神社仏閣に是非、参拝していただきたいと思います。

 

 

 

 

さて、前々回お伝えした『田無神社(たなしじんじゃ)』について、今回もお伝えして行きたいと思います。

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この神社は鎌倉時代に現在の地の北側約1kmの場所に『尉殿大権現(じょうどのだいごんげん)』と称して、龍神を祀り創建されました。

その後、江戸時代に入り江戸城増改築の為に、漆喰の原料となる石灰を運ぶ為に、江戸幕府により、その地に住む人々を現在の西東京市・田無付近に移り住む様に命令が下りました。

 

 

その理由は、ここに宿場町を作り、石灰の運搬を捗らせる為で、この時に現在でも東京の主要道路である「青梅街道」が出来ました。

(ただし、現在では並行する「新青梅街道」がバイパス道路になっています。)

 

 

この青梅街道は甲州街道を現在の新宿から分かれ、青梅・奥多摩を経由しまた甲州街道に繋がる事から「甲州裏街道」とも呼ばれていました。

 

 

また、田無の位置が新宿から石灰の採取できる青梅までの距離のちょうど半分の距離になる事からも、この地が宿場町として栄えた理由のひとつでもあります。

 

 

 

と、この様な経緯から現在の地に田無神社も遷座されました。

 

 

 

さて、この田無神社に五つの龍神様が祀られていまして、「方位除け」でも有名な五龍神になります。

 

 

まずひとつ目は「春」を象徴している東方を守護する『青龍』ですが、芸能やスポーツなどの技芸の向上・就業成就など、「発展と成長」にご利益があります。

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次に「夏」を象徴している南方を守護する『赤龍』です。これは出世運や勝負運、また努力などを守護し、「先見の明」にご利益があります。

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3つ目は「秋」を象徴する西方を守護する『白龍』です。西の方角は風水でも金運に良く、良縁成就を守護し、「収穫」にご利益があります。

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4つ目は「冬」を象徴する北方を守護する『黒龍』です。これは水回りを守護し、水は流れる事から「新しい気」にご利益があり、また夫婦円満や交際運にもご利益があります。

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そして、最後の5つ目である『金龍』ですが、これは中央に位置し、「基盤づくり」にご利益があり、またこの『金龍』こそがこの神社の御祭神の『尉殿大権現』であり、あらゆる運気の向上と幸福招来にもご利益があるのです。

また、『金龍』は中央の本殿の中に祀られている秘像神で、一年のうちに11月の「酉の市」での特別拝観の時にしか姿を見る事が出来ませんので、是非一度お目に掛かってください。

 

 

と、ここで区切りが良いので、また次回も田無神社の事をお伝えしたいと思いますので、ご期待ください!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福が生まれる場所 『福生』

『謹賀新年』

 

 

 

去年は平成も終わり、新たな元号の『令和』になり本日、令和初めてのお正月を迎えました。

 

 

さて、今回は田無神社の事をお伝えすると前回、お伝えしましたが、その前にお伝えしたい神社が御座いまして。

 

 

新年と言うことで、名前からして縁起の良い『福生神明社(ふっさしんめいしゃ)』です。

 

 

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この神社は以前も少しお伝えした事がありますが、主祭神天照大御神アマテラスオオミカミ)・伊奘諾(イザナギ)・伊奘冉(イザナミ)・豊宇気比毘(トヨウケヒメビ)など全部で7柱をお祀りしている神社です。

 

ここが何故、こんなにも神様が多く鎮座しているかと言いますと、元々江戸時代までは旧福生村(現・福生市)の「清の丘」と呼ばれる神域(現在の福生神明社の地)にイザナギイザナミが祀られていました。

 

 

 

実際、この神社は坂の上にありまして裏参道を階段で下ると小さな公園があり、そこには堂川が流れています。

近くには江戸の水用の要となる「玉川上水」が流れていたり、その下には多摩川が流れていた事により、水が豊かであった為に「清の丘」と呼ばれていたのだと思います。

 

 

 

実はこの神社を下った場所は「長沢地区」と言って、さらにその下の地区は「田園地区」と言い、その地名からも水が豊かであった事が伺えます。

 

 

また、福生神明社のすぐ近くで、縄文時代の遺跡が発見された事からも古代から人々が住みやすい環境にあった事が分かります。

 

 

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そして、裏参道前には「長沢稲荷」がありますが鎌倉時代から創建されていると言われている薬師如来を祀る「薬師堂」もあります。

 

 

 

また、加美地区からのアマテラスなど、各部落から5柱を合祀し、全部で7柱の神様が集まり明治時代になり、地域の安らぎや治水・産業(特に蚕業がこの地域では盛んでした。)・衣食住・学問など、各方面にわたって功徳な神社となり、『福生総鎮守』の神社となりました。

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また、御守りも毎年の干支の根付けがあり結構可愛いですよ。

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そして、この神社の近くには東京でも数軒しかない酒蔵の「田村酒造」が氏子であったり、(ここの酒造のメイン酒が「嘉泉」になり、御神酒としても頂けます。)

山号が「福生山」である臨済宗建長寺派の『清岩院(せいがいん)』があります。

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と、ここまで福生神明社の事をお伝えしてしまいましたが、はじめにもお伝えしましたが、名前からもご利益がありそうなこの神社をよろしければ、是非一度御参拝下さい。

 

 

そして、次回は必ず田無神社についてお伝えしたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

田無神社 その①

今年は明治以後初の『生前退位』により現・上皇、上后様が譲位なされ、現・天皇皇后陛下が即位なされ、『即位礼正殿の儀』や一世に一度きりで最も重要な儀式である『大嘗祭』など、さまざまな『儀』が行われて日本、いや、世界的にも注目が集まった年となりました。

 

 

さらに、38年ぶりに世界最大の信者を持ち、世界最小の国を持つキリスト教の中のひとつである『カトリック教会』の最高位聖職者である『ローマ教皇』が訪日したと言うのも、ニュースになり、さらにこの訪日した日が通年であれば『新嘗祭』の儀を行う日と言うのも、なんとも不思議な縁があると言うのも感じ、まさに『新時代』の到来が来たと一年を通してずっと感じていた『令和元年』でしたね。

 

 

 

来年はいよいよ『2020 東京オリンピック』が開催されますが、少し不安な面もあったりはしますがやはり楽しみですね。

 

 

 

と、ここで初詣の参拝よりも実は年末、特に大晦日の参拝の方が良いと言う話をご存知でしょうか?

 

 

12月13日以降、各神社仏閣は「煤払い(すすはらい)」を行い(家庭で言う大掃除ですね。)、その後「大祓(あおはらい・おおはらえ)」と言う、神社では全ての民の罪やけがれを清める為の神事をし、さらに神聖な域になります。

 

 

 

さらに、寺院では「除夜の鐘」を108つ、人の煩悩の数を撞きます。

(ただし、年内に107回で最後の1回は新年に撞きます。また、200回以上も撞く寺院もあったりそもそも除夜の鐘を撞かないなんていう寺院もあるので、現在ではあまり決まり事と言う事では無いようですが。)

 

 

 

と、このように清らかな聖域となるのが大晦日なんです。

 

 

新年を迎え初詣になると場所によっては元日からの三が日だけで、何百万人もの参拝者にもなるので、神様も大忙しになってしまうんですね。

 

 

その点、大晦日の日はまだそれほど参拝者が少ない為に、神様も余裕を持って聞いて下さるそうなのです。ただし、これはどちらかと言うと「一年の感謝の気持ち」を伝えた方が良いそうです。

 

 

さらに昔は、氏神様に家長が代表して大晦日の日に「一年の感謝、そして来年も良い年になりますように。」と祈願する風習がありましたが、現在では中々行われている風景は見ませんね。

 

 

ちなみに私自身も地元にある氏神様に大晦日の日に参拝しようと思っています。

 

 

 

 

さて、話は変わりますが、ここで東京都下にある『田無神社』についてお伝えしたいと思います。

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ここの主祭神は『大国主命オオクニヌシのミコト』や『須佐男之命(スサノオノミコト)』などになります。

 

 

 

そして、この神社には青・白・金・赤・黒の五龍が存在しています。

 

 

これは東西南北・そしてその中央の方位を守護している龍なのです。

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と、ここで余談ですが、この田無神社、実は来年の干支である「子(ね)」に深く関係があるんですね!

 

 

 

その理由は、ここの主祭神であるオオクニヌシスサノオに関係しています。

 

 

 

古事記などに描かれている話では、天照大御神アマテラスオオミカミ)のもとを離れたスサノオ出雲国を統治していましたが、オオクニヌシスサノオの娘である『須世理比売(スセリヒメ)』とお互いに一目惚れしてしてしまうのです。

 

 

そして、スサノオオオクニヌシに様々な試練を与えてますがそれを手助けしたのが「ネズミ」だったのです。

 

 

その後、試練を乗り越えたオオクニヌシスサノオに認められ、見事にスセリヒメと結婚をし、さらにスサノオから「大国主命」と言う名前も貰い、出雲国を治めて行ったのです。

 

 

 

ここからネズミがオオクニヌシの使者となったんですね。

 

 

 

来年は「子年(ネズミどし)」でもあるので、この様にオオクニヌシを祀っている神社にも参拝してみるのも面白いですよ!

 

 

 

さて、ここまで少し長くなってしまったので次回はもう少し詳しく田無神社についてお伝えしたいと思いますので、お楽しみに!f:id:TOTAN:20191230144922j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

デ◯ズニーと神社仏閣

前回まで日本総鎮守としてされて、『日本 中央』に鎮座する『生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)』などについてお伝えしてきましたが、今回はちょっと試行を変えまして。

 

 

今回お伝えしたいのは他でも無い、『デ○ズニー・リ◯ート』についてです。

 

 

 

ここは『夢の国』としても世界的に有名なのは、もはや誰もが周知している事だと思います。

 

 

そして今現在、『STA◯ WARS』の最新作で最終章も公開ですが、フロリダの『デ◯ズニー・ワール◯』内にある「STA◯ WARS エリア」はなんとこのエリアだけで、東京ドーム1.2個分の広さがあり、デ◯ズニー・ワール◯をまわるとなると1週間でも足りないそうです。

 

 

 

それを聞いただけで莫大な広さだと分かりますし、個人的には一生のうちには周りきりたいと願っていますね。

 

 

 

と、私自身、毎年イースターとハロウィンは必ず行っているほどのファンなんですが、実は物凄いパワースポットだったんです。

 

 

その理由はまず、来場者はまず来場する前から、いやここに行く予定を決めた時からウキウキな気分になり、当日も仮にイライラしていたとしても、ゲートをくぐった瞬間に、皆が笑顔になります!

 

 

 

そして、アトラクションやパレード・また沢山のキャラクター達とのグリーディングなど楽しめる場所があり、それこそここだけで1日では全てをまわりきれないほどです。

 

 

 

また、デ◯ズニー・ランドのシンボルでもある「シン◯レラ城」を中心にパーク内を半分にすると面白いことに、右側が宇宙など近未来的要素を、左側が大航海時代やゴールド・ラッシュなど欧米の古き良き時代が表現されています。

 

 

実はこれは「手相」を表していると言う都市伝説があるんです。

 

 

 

手相では一般的に右手が未来・左手が過去と言われていますよね。

 

 

 

このような占いも利用している事も来場者を幸せにしている要因のひとつかもしれませんね。

 

 

 

また、夜になると煌びやかなプロジェクションマッピングやパレードがありますが、この光で邪気を払うというご利益もあると言う都市伝説もあります。

 

 

 

と、ここで改めて場所を見てみると、鬼門の方角に日本神話・最強の神様であるタケミカヅキをお祀りしている『鹿島神宮』があり、裏鬼門には熊野古道世界遺産にもなった『熊野那智大社』があるんです。

 

 

また、真北には以前紹介した『出羽三山神社』があり、西には富士山から強力なエネルギーが通っていて(龍脈)、観光スポットとしても大人気の「高尾山」があります。

 

 

 

ここまでパワースポットがあると言うのは、もはや計算し尽くされた場所であり、この場所自体がパワースポットとして存在しているとしか思えませんね。

 

 

 

さて、今回はちょっと試行を変えての神社仏閣でしたがいかがだったでしょうか。

 

 

次回からはまた通常通りとしたいと思いますのでご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の中央にある神社 その⑤

今回は『生島足島神社』からほど近くで同じ市内にある『北向観音堂(きたむかいかんのんどう)』についてお伝えしたいと思います。

 

 

と言っても、前々回にすでにお伝えしているので本当に少しだけ。

 

 

 

まず、『西国三十三所』と言う33ヶ所の観音巡礼をし、その巡礼の『御礼参り』として、長野市にある『善光寺』に参拝すると言うものがあります。

 

それを模範として、鎌倉幕府の初代将軍である「源頼朝」が発願、そしてその子で3代将軍の「源実朝」が制定した『坂東三十三所』がありこれも全て巡礼し終えた後に『御礼参り』として、やはり『善光寺』に参拝するのが慣しになっています。

 

 

しかし、この『善光寺』だけだと「片参り」となってしまうと言われ、もうひとつ参拝しなければ行けない場所があるんです。

 

 

その場所と言うのが今回お伝えする『北向観音』です。

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ここは名前でも分かる通り、観音様が北を向いています。

 

 

それは「北斗七星(北極星)を世界のよりどころになっているように、私(観音様)も全ての生きとし生きるものに、常によりどころになり救済しよう」と言う観音様の誓願によるものだと言われています。

 

 

 

また、善光寺阿弥陀如来が本尊となっていますが、この阿弥陀如来様は南を向いて建てられているのです。

 

 

 

そして、北向観音は『現世のご利益』を、善光寺は『来世のご利益』をもたらすので、両寺院に参拝して、ようやく巡礼が完了するのです。

 

 

 

 

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と、ここでこの寺院の歴史では「木曽義仲」の兵により、焼失してしまうがその後、従兄弟である「源頼朝」によって再興されたとあります。

 

 

 

そして、北極星徳川家康も信仰しており、死後には孫である3代将軍・家光が江戸城の守護神として真北に日光東照宮を建立しました。

 

 

 

日本史上、最初の幕府である鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝に再興されるのと、最後の幕府である徳川幕府の初代将軍・徳川家康がここで繋がると言う歴史の面白さ。

 

 

また、前回・前々回お伝えした、武田軍が滅びた後、その残党を家康が引き取り、それを徳川四天王のひとりである「井伊直政」に預け、「井伊の赤鬼」と異名で呼ばれ、その後幕末のきっかけを作った直政の子孫である「井伊直弼」も「安政の大獄」以後、その粛正による恐ろしさから「井伊の赤鬼」と呼ばれると言う面白さ。

 

 

 

全てが繋がっていると感じました。

 

 

 

それを繋げたのが生島足島神社で、大地(日本本土)の神様と言うのが、なんとも面白く不思議な感覚です。

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やはり神社仏閣・そして歴史は面白いですね!

 

 

 

と、ここまで生島足島神社北向観音についてお伝えしてきましたが、次回からはまた新しい神社仏閣をお伝えしようと思いますので、是非ご期待下さい。

日本の中央にある神社 その④

前回は『生島足神社(いくしまたるしまじんじゃ)』に関連する戦国武将をお伝えし、最後に徳川幕府が幕末に突入したきっかけになった『桜田門外ノ変』で殺害されてしまった『大老井伊直弼(いいなおすけ)』の事を少しだけお伝えしましたが、実はスゴイ人なんです。

 

 

と言うのも、父である近江彦根藩主直中は沢山子供がいまして直弼本人も14番目の男子、しかも庶子(母が正室ではない)だった為に、養子にも行けずに部屋住みと呼ばれる彦根城内でずっと過ごしていました。

 

 

その中で、茶道や国学・また兵学居合術を学び早くからその聡明さを示していました。

 

 

そんな中、兄である直亮が死去してしまった為に、養子になる形で直弼が家督を継ぎ、近江彦根藩の15代藩主となり「名君」と呼ばれていました。

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その後、ペリー来航(黒船来航)により国内は揺れ動き、徳川幕府は開国と言う形を取りました。

 

 

その際に、各藩が江戸湾東京湾)の警護のために配属されましたが、直弼率いる彦根藩は皆、『井伊の赤備え』の装備で警護につきました。

 

 

また、『薩長同盟』の仲介役を務めたり、日本初の株式会社を設立した(亀山社中)事でも有名な「坂本龍馬」もこの時に、土佐藩士として警護についていました。

 

 

この時、その装いに龍馬は一目で彦根藩だと分かったそうです。

 

 

 

その後、水戸藩など攘夷派(外国との通商を反対・または撃退し鎖国を守ろうとする考え)と対立を深めて行きました。

 

 

ここで少し余談ですがなぜ水戸藩が攘夷派の中心かと言いますと、水戸藩と言えば誰もが知っているあの『水戸黄門』こと、「徳川光圀」に由来するのです。

 

 

徳川光圀は初代将軍である「徳川家康」の孫で水戸藩(御三家の一つ)の2代藩主になった人物で、3代将軍・家光の従兄弟です。

 

 

そして、光圀は『大日本史』と言う歴史書を編纂し、その後の水戸藩の重要な事業の一つとして、光圀の死後も200年以上に渡り継続され明治時代になり、ようやく完成しました。

神武天皇から後小松天皇までを編纂)

 

このような背景から「尊皇論」と黒船来航からの「攘夷論」が重なり合い、いつしか水戸藩だけに留まらず、日本各地の志士たちに『尊皇攘夷』と言うスローガンが生まれました。

 

 

 

そして、直弼は孝明天皇の勅令を得ずに「日米修好通商条約」を結んでしまった為に「尊皇攘夷」の動きが急速に進みました。

 

 

しかし、本当はこの条約、なるべく時間を稼いで引き延ばしにしたかったんですね。

 

 

なぜなら天皇からの勅令がまだ来ていなかったからです。

 

当時も今も最終的な判断を決めるのは天皇となっていました。いわゆる『国璽』と言うやつですね!

 

 

 

それは尊皇攘夷派の諸藩の武士達は怒りますよ!

 

 

この怒り狂った志士達を抑えようと(弾圧)したのがあの有名な『安政の大獄』なのです。

 

 

 

これは日米修好通商条約の調印・将軍継嗣を家茂に決定したと言う事から反発をしていた尊皇攘夷派や一橋派の大名や志士など、100名以上が弾圧されました。

 

 

その中には「橋本左内」やのちに明治維新の中心になる数多くの長州藩出身者の思想に影響を与えた「吉田松陰」などは処刑され、また大名では徳川最後の将軍になる「一橋(徳川)慶喜」や越前福井藩の藩主で「坂本龍馬」にも影響を与えた「松平春嶽」などは謹慎の身となりました。

 

 

しかも、この弾圧の決定権は表向きには台命(将軍からの命令)ですが、実際には全て直弼の命令で執り行われました。

それ以降、直弼は「井伊の赤鬼」と言う異名も付けられました。

 

 

 

その結果、水戸藩脱藩志士達を中心とするものに江戸城桜田門外で襲撃され、大老・直弼は暗殺されてしまいます。

 

 

しかも、直弼はこの襲撃されるのを実は知っていたのだとか。襲撃されるのを分かっていたのにも関わらず、警備を強化せずに出発した事は、直弼本人の中でも何か思うところがあったのでしょうね。

 

 

 

その後は、皆さんもご存知の通り幕末・明治時代と言う『新時代』へと進んでいくわけですが、この開国が無ければ今の時代は無かったと言っても過言ではありません。

 

 

明治維新の中心となった薩摩や長州は海外からの最新武器を手に入れ、倒幕を成功されるのはなんとも皮肉な事です。

 

 

また、暗殺された現場のすぐ近くに現在の警視庁本部があることも感慨深いものがあります。

 

 

 

と、今回は井伊直弼の事をお伝えしましたが、現在の日本があるのはやはり直弼からと言うのと、生島足島神社を崇拝していた武田信玄からこのように繋がってくると言う歴史の面白いさを改めて知った回でした。

 

 

 

次回は『北向観音堂』についてお伝えしていこうと思いますので、是非ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の中央にある神社 その③

さて、前回は『生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)』が百済系(出雲系)の神社であり、さらに出雲系の神々が『国津神』と呼ばれている理由が、この神社が『日本総鎮守』の神社として、また『日本全土』の守神として「生島大神」・「足島大神」を祀っている事で少しだけ分かった様な気がしました。

 

 

さらに長野市にある『善光寺』と諏訪市にある『諏訪大社』との関係も明るみになった事をお伝えしてきました。

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そして今回は数々の武将にも崇拝されていたと言うのをお伝えして行きたいと思います。

 

 

まずは、甲斐・信濃国を領土として、「戦国最強」と言われた「甲斐の虎」と言う異名も持つ戦国武将の『武田信玄』です。

 

信玄はこの神社を強く崇拝しており、「生島足島神社文書」と言う現在、国の重要文化財にもなっているものを納めています。

その中には「武田家家臣起請文」と言う信玄に忠誠を誓わせる起請文や、「越後の龍」としても有名な戦国武将の『上杉謙信』との対決である「川中島の戦い」の戦勝祈願の願書も奉納されています。

 

 

また、上田市と言えば数年前に大河ドラマで『真田丸』でも有名な真田信繁(幸村)の父・昌幸、そして兄であり、徳川幕府時代に松代藩(現在の長野市)の初代藩主となった信之にも非常に強く崇拝されており、寄進状や朱印状また、神社の改修・修繕にも寄進しています。

 

 

これだけ見てもいかにこの時代の武将達にとって崇拝されていたかがよく分かりますね。

 

 

と、ここで少し面白い話がありまして。

 

武田信玄率いる武田軍団は『赤備え』と言う甲冑や武具などを全て朱色で統一した戦国最強の軍団でした。

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そして、そのなかでも特に功績を上げた武将が後世「武田二十四人衆」として称される訳ですが、その中のひとりに真田信之・信繁の父である昌幸も数えられる事があります。

 

 

そして、信玄は功績を上げたものには『赤備え』を与え(認められたと言う証拠になり、さらに躍進するよう武将達は努めます)、彼もまた『赤備え』であり、真田氏もこの『赤備え』を受け継ぎます。

(『真田丸』をご覧になった方々はイメージが湧きやすいと思います。)

 

 

その子である信繁(幸村)も大阪の陣の際に『赤備え』をつけて奮闘していましたよね。

大河ドラマ真田丸』の話ですが。)

 

そして、先程もお伝えした信繁の兄であり、松代藩の初代藩主でありその後、明治維新まで代々続く礎を築いた信之ですが、正室がまさかの『徳川四天王』で最強と言われていた「本田忠勝」の娘なのです。

 

 

 

その後、豊臣秀吉が没したのちに、かの有名な天下分け目の決戦である『関ヶ原の戦い』になりますが、この時に昌幸・信繁は「豊臣側」に、また信之は「徳川側」につきます。

 

この時代、いかにして自分たちの家系を絶やさずに継いでいくと言うのが最重要であった事から、どちらかが滅んでもどちらかが生き残ると言う考えはごく普通の考え方でした。

 

 

また、少し話は前後しますが武田信玄が亡くなった後、「織田信長」が勢力をつけ始め、「長篠の戦い」によって敗退するや一気に衰退し、滅亡してしまうのですが、その『赤備え』の軍団の生き残り(残党)を引き取ったのがあの「徳川家康」でした。

 

 

そして、徳川四天王の中でも一番若くて戦好きであった「井伊直政」に彼らを配属させ、武田の兵法を継承する形で、『井伊の赤備え』と呼ばれる様になりました。

 

 

その後、直政は「小牧・長久手の戦い」で先鋒を務めその奮戦ぶりから『井伊の赤鬼』と言う異名で呼ばれて恐れられるほどになりました。

 

 

この『赤備え』は幕末まで、井伊家が治めていた彦根藩では足軽にまで揃え続きました。

 

 

そして、あの「桜田門外ノ変」でめ有名な大老井伊直弼もまた「井伊の赤鬼」と言う異名を持ち武芸に優れた武士でした。

 

 

さて、今回は生島足島神社にまつわる戦国武将の事をお伝えして来ましたが、次回も少しだけその事をお伝えして、今度こそ『北向観音堂』をお伝えしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の中央にある神社 その②

今回は、前回もお伝えした『生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)』と、そこから車でほど近くにある「別所温泉」地内にある寺院の『北向観音(きたむかいかんのん)』についてもう少しだけお伝えしていきたいと思います。

 

 

まずは『生島足島神社』からですが、ここの主祭神である「生島大神(いくしまのおおかみ)」は『生きとし生きるもの万物に生命力を与えてる神』。

そして「足島大神(たるしまのおおかみ)」は『生きとし生きるもの万物に満足を与える神』とお伝えしましたが、この2柱の神様は共に日本全体の国の御霊(みたま)として奉祀され、太古から国土の守り神として仰がれている最も極めて古い由緒のある2神でおり、それぞれが『生島魂大神』・『足島魂大神』と称されてもいる大神であります。

 

 

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さて、ここまでは前回にも少しお伝えした事ですが、この神社には摂社がありましてその摂社と言うのが『諏訪神社(すわじんじゃ)』になります。

 

諏訪神社と言うと主祭神である『建御名方富命(タケミナカタトミノミコト)』ですが、実は『国譲り』の際に諏訪の地を目指したタケミナカタは、一時期この地に立ち寄りイクシマ・タルシマオオカミに半年間もの間、米粥を煮て献ぜられて奉仕していたと伝わっています。

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そのような関係からここ『生島足島神社』にも摂社として『諏訪神社』があるのですが、面白い事に『諏訪大社』(諏訪神社の総本社で、信濃国一宮である神社)の祭で有名な「御柱祭(おんばしらさい)」もこの神社で行われているのです。

 

 

また『生島足島神社』の「御柱祭」も『諏訪大社』と同じく7年に一度、寅と申の年に行われています。

 

 

と、ここでちょっとあれ?と思ったのが…。

 

 

長野市にある『善光寺(ぜんこうじ)のご 御開帳も7年でしたね!

ただし、善光寺の方は丑と未の年に行われているのですが。

 

 

 

干支の順番では7年毎に善光寺の御開帳、さらに翌年に生島足島神社諏訪大社御柱祭

 

 

勘の良い方はもうお気づきでしょうが、鬼門である「丑・寅」と裏鬼門である「未・申」に当てはまるのです。

 

 

まさに、鬼門・裏鬼門を護るように行われているんですね。

 

 

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↑上記の①が善光寺、②が生島足島神社、③が諏訪大社上社本宮になります。

 

 

これを見てもらうとあれ?と思いませんか?

 

 

生島足島神社を中心にこの2つの寺社が位置しているのです。

 

 

そして以前、善光寺諏訪大社は『百済系』の人々によって建立されたと言うのをお伝えしましたが、実は生島足島神社も『百済系』の名残りを残している神社だったのです。

 

 

その証拠と言うのが、この神社の様式そのものであり、神池と呼ばれる池に囲まれた島(神島)に御本社を置くと言う「池心宮園地」と呼ばれる出雲式園地で、日本最古の様式のひとつだったのです。

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これで全ての点と点が繋がりましたね!

 

 

そして、出雲系の神々の事を『国津神』と呼ぶ由縁もこの神社から読み取られますよね。

 

なんと言っても、日本全土の神様ですから!

 

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そして、日本の中央に位置し太古より『日本総鎮守』の神社となっている生島足島神社、是非皆さんも訪れみてください。

 

こういう歴史も踏まえつつの参拝だと、また違った角度から見えて楽しいですよ。

 

実際、自分は雰囲気も良くなぜかウキウキした気分で終始参拝させて頂きました。

きっと七五三のシーズンでもあったと言うのだと思いますがね。

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さて、今回もやはり少し長くなってしまったので、次回はまた少しだけ生島足島神社の事をお伝えして、その後に北向観音堂についてお伝えしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

日本の中央にある神社 その①

さて、前回までは天皇陛下が即位され、それに関連する儀式についてお伝えしましたが2019年12月4日を以って全ての『儀』が終了致しました。

 

 

そこで今回は江戸や天皇陛下とあまり密接はしていない、しかし『神社』としては決して無視の出来ない『生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)』についてお伝えしたいと思います。

 

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と言うのも写真で見て頂いても分かる様に、『日本 中央』と書いてあります。

 

それだけでも、何か御利益がありそうですが、この『生島足島神社』の主祭神は神社の名前にもある『生島大神(いくしまのおおかみ)』と『足島大神(たるしまのおおかみ)』の2柱になります。

 

 

はじめ聞いた方もいると思いますので、説明致しますとまず、『生島大神』は「生きとし生きるものの万物に生命力を与える神」。

足島大神』は「生きとし生きるものものの万物に満足を与える神」なのです。

 

 

これを聞いて何かさらに凄そうと思った方。

 

 

 

ほんとにスゴイんです。

 

 

 

本殿の内部で、一番神聖とされ御神体が安置されている内陣と呼ばれる場所、またその外にある一般の参拝者のための場所で外陣と呼ばれる場所があります。

 

その場所は通常、床がありその上に座り御祈祷などをされますよね?

また、御神体はその奥にあり一段高い場所に上がった所に安置されていると思います。

 

多分、これが一般的な神社の構図になっていますので、皆さんも想像し易いと思います。

 

 

しかし、この『生島足島神社』にはこの床が無いんです。

 

 

 

どういう事?と思う方もいらっしゃると思いますが、床が無く直接「土間」になっているのです。

 

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そして、この土間こそが御神体と言う事であり、つまり大地(国土)そのものが御神体になっているのです。これを「国魂(くにたま)」と呼びますが、これは神道では国自体が御神体となっていると言う意味があります。

 

 

 

と言う事は、我が国である『日本』いや、強いてはこの『地球』自体が神様であるとおっしゃっているのです。

 

 

 

壮大すぎて、今までの概念が吹っ飛びますね!

 

 

そしてこの神社は長野県上田市にあります。

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また、長野県が出て来ましたねぇ。

以前、お伝えした長野市にある『善光寺(ぜんこうじ)』は『西国三十三所』や『東国三十三所』などは巡礼した一番最後に訪れる場所となっています。

 

 

いわゆる『聖地』と言うやつですね!

 

 

ここで、少し面白い話が!

 

 

と言うのも、同じ上田市内に温泉地としても有名な「別所温泉」があります。

 

 

その地区に天台宗の宗派である『北向観音(きたむきかんのん)』と言う寺院があります。

 

ここは名前の如く、お堂が北向きに向いているのでこの名前になっていますが、実は『善光寺』のお堂は南向きになっているのです。

 

 

 

そして『北向観音』は千手観音を御本尊として『現世の御利益』を、逆側の『善光寺』は阿弥陀如来を御本尊として『来世の御利益』を願いまたもたらしているのです。

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したがって、実は善光寺だけを参拝するだけでは『片参り』になってしまうのです。

 

 

皆さん、ご存知だったでしょうか?

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ですので、もし善光寺にご参拝する際には是非この北向観音にもご参拝下さい。

 

 

今回は少し長くなってしまったので、本当に少しだけ北向観音別府温泉)にもちょっとした「都市伝説(怪談)」みたいのもあるので、それは次回にお伝えしたいと思います。

また、少し話は戻って『生島足島神社』についてもお伝えしたいと思いますので、是非ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖なる日『11月23日』 その②

前回、お伝えした『11月23日』に現在一般公開をしている『大嘗宮(だいじょうきゅう)』を見学する日取りとして、選んだ理由をもう少しだけあるので、それをお伝えして行きたいと思います。

 

 

前回まで、3つの理由についてお伝えしましたが、今回はあと2つ。

 

 

まず、4つ目はちょうどこの日に天皇皇后両陛下が伊勢神宮(内宮)の皇祖神である天照大御神アマテラスオオミカミ)に『即位礼』と『大嘗祭』を終えた事を『剣璽(けんじ)』(八尺瓊勾玉草薙剣の『三種の神器』の2つ)を伴い御奉告をしに御参拝された日で、前日の22日は外宮で『豊受大神トヨウケビメ)』に御参拝されました。

 

 

この儀式の事を『親謁の儀(しんえつのぎ)』(新謁とは天皇陛下、御自らが御参拝される事」と呼びますが、その時の御束帯は天皇陛下平安時代以降、天皇陛下の正装である『黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう』に天皇陛下のみしかかぶる事が出来ない、最も格式の高い冠である『立纓御冠(りゅうえいのおんかんむり)』などをお召しになりなされました。

 

 

また、皇后陛下も『十二単(じゅうにひとえ)』に『釵子(さいし)』と呼ばれるかんざしを『大垂髪(おすべらかし)』と呼ばれる髪形に刺すなどをお召しになされました。

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そして、この御束帯は『即位礼正殿の礼』の際にもお召しになりましたが、この『親謁の儀』実は100年あまりしか歴史的には無いんですねぇ。なので、今回の『親謁の儀』がいかに重要であると言うことが分かります。

 

 

さらにこの『新謁の儀』は神武天皇陵などにも御奉告されたのちに全ての儀式が終了します。

 

 

通常、『新嘗祭』を行う11月23日に伊勢神宮(内宮)に『親謁の儀』をなされたのはこのような重要な日である日だからこその意味合も含めていると思うと納得出来ます。

 

 

さて、ここまで11月23日に『大嘗宮』を見学しに行った理由を4つお伝えしてきましたが、いよいよ最後の一つです。

 

 

5つ目の理由は、『ローマ教皇』が来日した日だったからです。

それも38年ぶりの来日です。

 

 

と言う事は『平成』の時代には一度も来日していないと言う事になりますね。

しかも、今上天皇ローマ教皇も先代が生前退位をなされた後に即位をしたと言う非常に境遇が似ているんです。

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と、ここまでこの日になぜ『大嘗宮』を見学しに行ったかの真意をお伝えしたいと思います。

 

 

それは以前にお伝えした天皇は実は「イエス・キリスト」の子孫と言う事をお伝えしました。

 

 

日本の神仏習合の考えでは『天照大御神大日如来』となっています。

そして、ちょっと話はズレますが鬼門は北東に位置し、日本でも馴染みが深い干支では「丑・寅」がその方角になります。これが鬼は角が生えて虎のパンツを履いているイメージに繋がっているんですね。

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また、裏鬼門は反対側は「未・申」になりますが昔話で1番と言っても過言では無い「桃太郎」では「サル・トリ・イヌ」を率いて鬼退治に行っており、まさに真逆に位置する構図となっています。

そして、こ先頭に立っているのが「未」であり、実はキリスト=羊としてキリスト教では例えとして使われているのです。

また、「未年」の守護神は「大日如来」になっているのです。

 

 

これでちゃんと繋がってきましたよね。

 

 

天照大御神大日如来=キリスト」

 

 

また、ルネッサンス時代の天才である「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の代表作である「モナリザ」は実はキリストの子を身篭ったマグダラのマリアだと言われているのです。

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それも分かる人には分かる様にと。

 

 

 

感の良い人はもうお分かりでしょうが、天照大御神=キリストだとすると、その子孫であり世界で唯一のエンペラーである天皇陛下と、世界で最も信者の多い「カトリック教(キリスト教)」での最高位聖職者であり、「キリストの代理人」とも称され、さらに世界で一番小さく、世界で一番人が集まる国(バチカン市国)の国家元首であるローマ教皇がこの『日本』に揃うと言う奇跡の日だったのです。

 

 

また、11月25日には皇居内の宮殿の「竹の間」で会談をしており、ここで何を話されたが大変気になる所です。

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さて、ここまで『11月23日』に『大嘗宮』を見学しに行った理由をお伝えしましたが、12月8日まで一般公開がされていまして、まだ間に合うのでまだ訪れていない方も、一度訪れた方も是非ともご覧になってみて下さい。

 

 

 

 

 

 

 

聖なる日『11月23日』 その①

今回で「神社仏閣に引き寄せられ」もようやく50回目を迎えられる事になりました。

 

そして、この記念すべき回にお伝えしたいと思っているのが、先日、11月14日から15日に掛けて行われた、天皇陛下が即位して一世一度しか行われない最重要の儀式『大嘗祭(だいじょうさい)』が行われました。

その最重要な儀式が行われた場所、『大嘗宮(だいじょうきゅう)』です。

 

12月8日まで一般公開されていると言うので、家族全員で見学に行って来ました。

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『大嘗宮』の見学の日は必ずこの日にしようと思っていたので、予定を合わせて行った訳ですが、その日と言うのが『11月23日』です。

 

 

その理由はいくつかあるわけですが、まず1つ目は以前にもこの『大嘗祭』をお伝えした時にも少し触れましたが、『大嘗祭』の儀式を終えた翌年以降は『新嘗祭(しんじょうさい)』の儀式を古くから毎年11月23日に行う事になっています。

 

そして、明治維新後にはこの日を「祭日」としており、たくさんの神社でもこの日に『新嘗祭』を行っているのを見た事があると思います。

 

 

さて、この11月23日は何の日かお分かりでしょうか?

 

 

勤労感謝の日』です。

 

 

勘の良い方はお気づきでしょうが、元々は「祭日(さいじつ)」と言う日が出来た明治時代以降、この日に『新嘗祭』の儀式を行う天皇陛下に対しての『感謝』する日だったんですねぇ。

 

しかし、第二次世界大戦以降はGHQの介入により『日本国憲法』によって『象徴』としてに過ぎなくなってしまった天皇陛下と、第二次世界大戦以前にあった『大日本帝国憲法』の時の『現人神(あらひとがみ)』の思想を完全に切り離す為に、この11月23日を国民の為の『勤労感謝の日』にしたのです。

 

 

ただし、この『新嘗祭』は変わらずに毎年、天皇陛下が国民の安寧と五穀豊穰の感謝の為に、皇祖神でもある『天照大御神アマテラスオオミカミ)』に祈祷するのは変わりありません。

 

そして、この日が我々国民の勤労を感謝する日も変わりありませんので、是非皆さんも骨を休めていただきたいと思います。(この日が休日でない方もたくさんいらっしゃるとは思いますが…。そこはご勘弁を(^^;;)

 

 

と、ここでちょっとだけ面白い話をしたいと思います。

 

 

いま、「祭日・祝日」と言うのが休日になっていると言う方々もいると思いますが、実は「祭日」で休日になっている日は1日も無いんですねぇ。

これは、日本国憲法にも定められている事でもあり、今のカレンダーで赤字のところ(休日)は全て「祝日」になっているんです。

 

理由は「祭日」とは『宗教儀礼上の重要な祭祀を行う日』で、日本では『皇室祭祀』の事になる為です。

 

こうしてみると身近にあったものでも、深く掘り下げてみると時代によって変わり移り、中々面白いですよね。

 

 

そして2つ目の理由は「天赦日(てんしゃにち)」と言う日本の暦の上で、全ての事において吉日になっていると言う最強の吉日の日です。

 

さらに3つ目は、「干支(えと)」と言う十二支と十干(こちらはあまり馴染みがありませんが。)

を組み合わせる事によって60種になるうち、一番はじめに来る「甲子(きのえ)」の日になり、暦の上で最大の吉日が重なる、とても縁起の良い日だったのです。

 

 

さて、ここまで『新嘗宮』を見学する日を「11月23日」に決めた理由をお伝えしましたが、あと少しあるので、それは次回にお伝えしたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大嘗祭 特別御朱印 その⑤

前回、前々回と『小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)』の主祭神である『小野篁(おのたかむら)』についてお伝えしてきましたが、今回はこの神社の境内について、お伝えしていきたいと思います。

 

 

さて、まず始めにこの神社に参拝しようと思ったきっかけは、いまちょうど皇居内で一般公開が行われている『大嘗宮(だいじょうきゅう)』で天皇陛下が即位した際に一世に一度きりしか行われない『大嘗祭』の特別御朱印を配布していると言うの知り、これは頂きたいと思いました。

 

 

それがこの御朱印になります。

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その理由はもちろんまず、この御朱印自体が『即位礼正殿の儀』と『大嘗祭』が行われた日付けが金・銀で書かれていると言う事。

また、この御朱印にはイラストもあり、そのイラスト上部には『鳳凰』や『龍』、また縁起の良い動物達が描かれているので、そのままでもかなり縁起の良いものとなっています。

 

 

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しかし、このイラストを拝見した瞬間に『マジかっ!』と思ってしまったのです。

 

 

それは実は私の子供達の干支が『酉年』と『辰年』なんですが、この『鳳凰』と『龍』が一致かしていたんです。

 

これにはさすがに、この神社に間違いなく引き寄せられている!と感じてしまい、必ずこの御朱印を頂こうと思い参拝をしに訪れたのです。

 

 

そして、参拝しに訪れた訳ですが、本殿に参拝後に社務所に行き目的の御朱印を頂こうと待っていた際に、この境内を散策していたのですが、そこでさらに驚かされました。

(この特別御朱印以外、実は何も下調べをして行きませんでした。)

 

 

それはまず1つ目に『下谷坂本富士』と言う実際の富士山の溶岩で築かれた富士塚です。

 

これは江戸時代、誰でもが富士山に登れなかった時代に庶民が気軽に登れる様にと築かれたものです。

この背景には当時はすでに戦国の世も終わっており、庶民の間では富士山信仰やお陰参り(お伊勢参り)など数えきれない程、様々な信仰がありました。

そして、この地に築かれたのがこの富士塚であり、一合目から十合目などしっかりと記されていたり、途中に修験道の開祖である『役子角(えんおづの)』の尊像や『南無妙法』と書かれた石碑があったりとまさにミニチュア版の富士山がそこにあったのです。

また、この富士塚は「国指定重要有形民俗文化財」にも指定されています。

そして毎年、大祓と富士山の開山日の6月30日・7月1日には一般の方にも登拝が許されているので是非是非。

 

と、ここで少しこの名称にある「坂本」と言うところを覚えておいて下さい。

 

あとで、面白い事になりますよぉ!

 

 

さて、2つ目ですがこの「下谷坂本富士」を背に向けた所にある『庚申塚(こうしんづか)』です。

何故この庚申塚に驚いたかと言うと、ここがまさかの「日本三大庚申塚」のひとつだったのです。

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と言っても、あまりピンと来ない方もいるとおもいますがこれは日光東照宮でも有名な「見ざる、聞かざる、話ざる」のサルを祀り、夜には慎ましく静かにして眠らずに過ごし、神や仏(神仏習合)を供養することにより現世での御利益を授かると言う信仰です。

(この信仰も江戸時代に入りかなりの数になった信仰のひとつです。)

 

 

 

さて、ここで勘の良い方はお気づきだとは思いますが、お分かりでない方ももう少しで「うわっ!」となりますよ。笑

 

 

と、この神社で発見した最後の驚きはここにまさかの『三峯神社(みつみねじんじゃ)』・『御嶽神社(みたけじんじゃ)』が社務所(鳥居を入ってすぐ左側)の斜め前にありました。

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これにはさすがに目を疑いました。

なぜこんな所にと!

 

 

三峯神社』は言わずと知れた日本でもパワースポットとして最も有名な神社のひとつなのでお伝えするのはいつかの機会にと思いますが、ここを守る狛犬は大変珍しく『狼』なんですね。

 

 

そして、自分的には凄く身近であった『御嶽神社』。ここも実は『狼』が狛犬なんですね。(私が知っているのは東京都青梅市にある「武蔵御嶽神社」ですが。)

 

また、御嶽神社の総本社は修験道の神である「蔵王権現」を祀っている奈良県吉野にある世界遺産のひとつにも含まれている『金峯山寺(きんぷせんじ)』あり、創立者は先程も出てきた「役子角」と伝えてられています。

さらに、この金峯山寺は江戸時代には徳川家康の命で『天海』が創建した『日光輪王寺』(天台宗)の傘下になりました。

 

 

と、ここでお気づきでしょうか?

先程も上げた「坂本」・「見ざる・聞かざる・花ざる」で有名な『日光東照宮』・そして『天海』。

 

そうです。来年の大河で主役の『明智光秀』が浮かび上がってくるのです!

 

 

何故かと言うと、「坂本」とは明智光秀が城主であった坂本城から取ったとされ、さらには日光東照宮は天海が創建した徳川家康の霊廟であり、小野照崎神社は元々は現・上野公園内に創建されており、天海が『寛永寺』の創建の際に今の場所に遷座したと言う事。

 

天海は実は明智光秀と言う都市伝説みたいなものが絶えず知れ渡っているのはご存知だと思いますが、こうしてみると中々面白い気がします。

 

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実際に、山手線の「鶯谷駅」を挟んで目と鼻の先に位置し、寛永寺江戸城の鬼門にも位置しています。

 

また、ちょっと面白いのが上記の地図の寛永寺と小野照崎神社のちょうど真ん中辺りに『旧陸奥宗光邸』と書かれているのがお分かりでしょうか?

 

この陸奥宗光は、あの薩長同盟を仲介した言わずと知れた英雄『坂本龍馬』と一緒に日本初の株式会社を立ち上げ、さらには明治維新後、外務大臣などを歴任し、「条約改正」(徳川幕府時代に行われた海外との不平等条約)を果たした人物です。

 

 

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(↑上図が「旧陸奥宗光邸」ですが、実際に見た時には少しショックを受けてしまうくらいに廃墟化していました。すみません、個人的な意見なので御勘弁を。)

 

 

と、この様に歴史も感じられた今回の参拝でしたが、実は寛永寺にも足を運んだので中々面白い神社仏閣巡りになりました。

 

 

最後にひとつ。

 

 

この小野照崎神社を江戸幕府が残したのは江戸城から「鬼門」の位置に元々はあり、寛永寺創建後にも近くに置いたのも主祭神である「小野篁」が閻魔大王の補佐役で『冥界の官神』とされおり、それにあやかり江戸城また江戸市内の守護神として祀られていたのではないかと思ってしまうTOTANでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大嘗祭 特別御朱印 その④

 

今回も『小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)』の主祭神である小野篁(おのたかむら)について、そして小野照崎神社について、お伝えしていきたいと思います。

 

 

まず主祭神である小野篁なのですが、本当に面白い逸話が御座いまして、それがなんと昼は朝廷で官吏(かんり)を、夜は地獄(他には冥界やあの世と言われています。)の主(あるじ)である『閻魔大王』のもとで裁判を補佐していたと言う事です。

 

 

なんじゃそりゃ!

ですよね。

 

 

これ、本当に平安後期から鎌倉時代に掛けての説話集で『江談抄(こうだんしょう)』や『今昔物語集』・『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』などに書かれており、その後もたくさんの書物でこのことが紹介されています。

 

 

例えば日本最も有名な小説の一つで、現・二千札にも描かれている『源氏物語』の著者でもある『紫式部』の先祖でもあり、「正一位」も後に贈られた『藤原高藤(ふじわらのたかふじ)』が急死した際に閻魔庁にいる篁が冥土から生還させたと記述されていたり、これもまた後に「正一位」を贈られ、私邸で「平仮名」で墨書が書かれた土器が発見され、国風文化の広まりを示す貴重な発見をされた『藤原良相(ふじわらのよしみ)』が病死した際に、篁のはからいによって蘇生したと記されています。

 

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少し余談ですが『源氏物語』に登場する「光源氏」と「明石の御方」の恋模様のモデルとなったとされるのが、祖先であるこの藤原高藤夫婦になります。

 

 

さらに『元亨釈書』と言う日本で初の仏教の歴史書にもなる書物には「矢田地蔵縁起」と言う物語が描かれており、京都の矢田寺(やたでら)を「送り鐘」・六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)を「迎え鐘」として死者の霊が迷わずにあの世へ送れるようにと鐘をつく信仰があるのです。

 

 

また、この六道珍皇寺は死の世界に行く道(井戸)と京都の嵯峨にあった福正寺は生に帰ってくる道(井戸)があったとされており、六道珍皇寺には篁作といわれている「閻魔大王」の木像が安置されています。

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そして、この閻魔大王は日本の仏教では『地蔵菩薩』と同一視されているのです。

その理由は閻魔大王は地獄の番人(裁判長)であり、地蔵もまた「地」と言う字からの連想によって大地や地下(地獄)を守るする菩薩であり、それによって「閻魔大王地蔵菩薩」と言う信仰が生まれました。

 

 

また、地蔵菩薩は『賽の神』であり、この賽とは賽の河原の事で、不慮などにより親よりも先に亡くなってしまった子供が三途の河原で石を積むのを鬼に崩されてしまうのを守るのがこの地蔵菩薩なのです。

 

 

この為に、地蔵菩薩に子供を亡くした親御さん達などがよだれ掛けをしたり周りに風車を指して、子供が安らかにあの世に行けるように願うと言う信仰になったのです。

 

今でも日本三大霊山のひとつの『恐山』ではその模様がある意味での代表的なものとなっていますよね。

何も知らずに見るとやはり少し異様な光景で怖い雰囲気ですが、このような背景を知るとまた違った見方になってしまうのが不思議な感覚になります。

 

(七五三もある意味では同じような事で、7歳までは神の子として、いついなくなってもおかしくないとして扱われていて、日本では奇数が良い数字と言う風潮があり、その為に7歳・5歳・3歳と言う節目でのお祝い事が現在でも行われている行事事なのです。

ちなみに自分の子供も2019年の今年、七五三が長女と長男であり、出費が激しいので頭が痛い思いをしています。泣)

 

 

さて、話を戻しますがこのような小野篁主祭神としている『小野照崎神社』ですが、もう少し面白い話があり、それがいくつかあるのでこれは次回にまたお伝えしたいと思います。

(何故なら、毎回のごとく話が長くなり過ぎてしまった為。申し訳ありません。)

 

と言う事で、次回もお楽しみにして頂きたいと思いますので、よろしくお願いします。