さて、前回は『生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)』が百済系(出雲系)の神社であり、さらに出雲系の神々が『国津神』と呼ばれている理由が、この神社が『日本総鎮守』の神社として、また『日本全土』の守神として「生島大神」・「足島大神」を祀っている事で少しだけ分かった様な気がしました。
さらに長野市にある『善光寺』と諏訪市にある『諏訪大社』との関係も明るみになった事をお伝えしてきました。
そして今回は数々の武将にも崇拝されていたと言うのをお伝えして行きたいと思います。
まずは、甲斐・信濃国を領土として、「戦国最強」と言われた「甲斐の虎」と言う異名も持つ戦国武将の『武田信玄』です。
信玄はこの神社を強く崇拝しており、「生島足島神社文書」と言う現在、国の重要文化財にもなっているものを納めています。
その中には「武田家家臣起請文」と言う信玄に忠誠を誓わせる起請文や、「越後の龍」としても有名な戦国武将の『上杉謙信』との対決である「川中島の戦い」の戦勝祈願の願書も奉納されています。
また、上田市と言えば数年前に大河ドラマで『真田丸』でも有名な真田信繁(幸村)の父・昌幸、そして兄であり、徳川幕府時代に松代藩(現在の長野市)の初代藩主となった信之にも非常に強く崇拝されており、寄進状や朱印状また、神社の改修・修繕にも寄進しています。
これだけ見てもいかにこの時代の武将達にとって崇拝されていたかがよく分かりますね。
と、ここで少し面白い話がありまして。
武田信玄率いる武田軍団は『赤備え』と言う甲冑や武具などを全て朱色で統一した戦国最強の軍団でした。
そして、そのなかでも特に功績を上げた武将が後世「武田二十四人衆」として称される訳ですが、その中のひとりに真田信之・信繁の父である昌幸も数えられる事があります。
そして、信玄は功績を上げたものには『赤備え』を与え(認められたと言う証拠になり、さらに躍進するよう武将達は努めます)、彼もまた『赤備え』であり、真田氏もこの『赤備え』を受け継ぎます。
(『真田丸』をご覧になった方々はイメージが湧きやすいと思います。)
その子である信繁(幸村)も大阪の陣の際に『赤備え』をつけて奮闘していましたよね。
そして、先程もお伝えした信繁の兄であり、松代藩の初代藩主でありその後、明治維新まで代々続く礎を築いた信之ですが、正室がまさかの『徳川四天王』で最強と言われていた「本田忠勝」の娘なのです。
その後、豊臣秀吉が没したのちに、かの有名な天下分け目の決戦である『関ヶ原の戦い』になりますが、この時に昌幸・信繁は「豊臣側」に、また信之は「徳川側」につきます。
この時代、いかにして自分たちの家系を絶やさずに継いでいくと言うのが最重要であった事から、どちらかが滅んでもどちらかが生き残ると言う考えはごく普通の考え方でした。
また、少し話は前後しますが武田信玄が亡くなった後、「織田信長」が勢力をつけ始め、「長篠の戦い」によって敗退するや一気に衰退し、滅亡してしまうのですが、その『赤備え』の軍団の生き残り(残党)を引き取ったのがあの「徳川家康」でした。
そして、徳川四天王の中でも一番若くて戦好きであった「井伊直政」に彼らを配属させ、武田の兵法を継承する形で、『井伊の赤備え』と呼ばれる様になりました。
その後、直政は「小牧・長久手の戦い」で先鋒を務めその奮戦ぶりから『井伊の赤鬼』と言う異名で呼ばれて恐れられるほどになりました。
この『赤備え』は幕末まで、井伊家が治めていた彦根藩では足軽にまで揃え続きました。
そして、あの「桜田門外ノ変」でめ有名な大老・井伊直弼もまた「井伊の赤鬼」と言う異名を持ち武芸に優れた武士でした。
さて、今回は生島足島神社にまつわる戦国武将の事をお伝えして来ましたが、次回も少しだけその事をお伝えして、今度こそ『北向観音堂』をお伝えしていきたいと思います。