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『世界最古の国』日本

#神社仏閣#歴史#都市伝説#グルメ#漫画#アニメ#ゲーム#その他生活にありとあらゆるものなどに関することを書いています。ここに記載するすべて記事の引用素材は誹謗中傷を目的としたものでは無く、著作権を侵害する目的で作成したものではありません。

田無神社 その①

今年は明治以後初の『生前退位』により現・上皇、上后様が譲位なされ、現・天皇皇后陛下が即位なされ、『即位礼正殿の儀』や一世に一度きりで最も重要な儀式である『大嘗祭』など、さまざまな『儀』が行われて日本、いや、世界的にも注目が集まった年となりました。

 

 

さらに、38年ぶりに世界最大の信者を持ち、世界最小の国を持つキリスト教の中のひとつである『カトリック教会』の最高位聖職者である『ローマ教皇』が訪日したと言うのも、ニュースになり、さらにこの訪日した日が通年であれば『新嘗祭』の儀を行う日と言うのも、なんとも不思議な縁があると言うのも感じ、まさに『新時代』の到来が来たと一年を通してずっと感じていた『令和元年』でしたね。

 

 

 

来年はいよいよ『2020 東京オリンピック』が開催されますが、少し不安な面もあったりはしますがやはり楽しみですね。

 

 

 

と、ここで初詣の参拝よりも実は年末、特に大晦日の参拝の方が良いと言う話をご存知でしょうか?

 

 

12月13日以降、各神社仏閣は「煤払い(すすはらい)」を行い(家庭で言う大掃除ですね。)、その後「大祓(あおはらい・おおはらえ)」と言う、神社では全ての民の罪やけがれを清める為の神事をし、さらに神聖な域になります。

 

 

 

さらに、寺院では「除夜の鐘」を108つ、人の煩悩の数を撞きます。

(ただし、年内に107回で最後の1回は新年に撞きます。また、200回以上も撞く寺院もあったりそもそも除夜の鐘を撞かないなんていう寺院もあるので、現在ではあまり決まり事と言う事では無いようですが。)

 

 

 

と、このように清らかな聖域となるのが大晦日なんです。

 

 

新年を迎え初詣になると場所によっては元日からの三が日だけで、何百万人もの参拝者にもなるので、神様も大忙しになってしまうんですね。

 

 

その点、大晦日の日はまだそれほど参拝者が少ない為に、神様も余裕を持って聞いて下さるそうなのです。ただし、これはどちらかと言うと「一年の感謝の気持ち」を伝えた方が良いそうです。

 

 

さらに昔は、氏神様に家長が代表して大晦日の日に「一年の感謝、そして来年も良い年になりますように。」と祈願する風習がありましたが、現在では中々行われている風景は見ませんね。

 

 

ちなみに私自身も地元にある氏神様に大晦日の日に参拝しようと思っています。

 

 

 

 

さて、話は変わりますが、ここで東京都下にある『田無神社』についてお伝えしたいと思います。

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ここの主祭神は『大国主命オオクニヌシのミコト』や『須佐男之命(スサノオノミコト)』などになります。

 

 

 

そして、この神社には青・白・金・赤・黒の五龍が存在しています。

 

 

これは東西南北・そしてその中央の方位を守護している龍なのです。

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と、ここで余談ですが、この田無神社、実は来年の干支である「子(ね)」に深く関係があるんですね!

 

 

 

その理由は、ここの主祭神であるオオクニヌシスサノオに関係しています。

 

 

 

古事記などに描かれている話では、天照大御神アマテラスオオミカミ)のもとを離れたスサノオ出雲国を統治していましたが、オオクニヌシスサノオの娘である『須世理比売(スセリヒメ)』とお互いに一目惚れしてしてしまうのです。

 

 

そして、スサノオオオクニヌシに様々な試練を与えてますがそれを手助けしたのが「ネズミ」だったのです。

 

 

その後、試練を乗り越えたオオクニヌシスサノオに認められ、見事にスセリヒメと結婚をし、さらにスサノオから「大国主命」と言う名前も貰い、出雲国を治めて行ったのです。

 

 

 

ここからネズミがオオクニヌシの使者となったんですね。

 

 

 

来年は「子年(ネズミどし)」でもあるので、この様にオオクニヌシを祀っている神社にも参拝してみるのも面白いですよ!

 

 

 

さて、ここまで少し長くなってしまったので次回はもう少し詳しく田無神社についてお伝えしたいと思いますので、お楽しみに!f:id:TOTAN:20191230144922j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

デ◯ズニーと神社仏閣

前回まで日本総鎮守としてされて、『日本 中央』に鎮座する『生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)』などについてお伝えしてきましたが、今回はちょっと試行を変えまして。

 

 

今回お伝えしたいのは他でも無い、『デ○ズニー・リ◯ート』についてです。

 

 

 

ここは『夢の国』としても世界的に有名なのは、もはや誰もが周知している事だと思います。

 

 

そして今現在、『STA◯ WARS』の最新作で最終章も公開ですが、フロリダの『デ◯ズニー・ワール◯』内にある「STA◯ WARS エリア」はなんとこのエリアだけで、東京ドーム1.2個分の広さがあり、デ◯ズニー・ワール◯をまわるとなると1週間でも足りないそうです。

 

 

 

それを聞いただけで莫大な広さだと分かりますし、個人的には一生のうちには周りきりたいと願っていますね。

 

 

 

と、私自身、毎年イースターとハロウィンは必ず行っているほどのファンなんですが、実は物凄いパワースポットだったんです。

 

 

その理由はまず、来場者はまず来場する前から、いやここに行く予定を決めた時からウキウキな気分になり、当日も仮にイライラしていたとしても、ゲートをくぐった瞬間に、皆が笑顔になります!

 

 

 

そして、アトラクションやパレード・また沢山のキャラクター達とのグリーディングなど楽しめる場所があり、それこそここだけで1日では全てをまわりきれないほどです。

 

 

 

また、デ◯ズニー・ランドのシンボルでもある「シン◯レラ城」を中心にパーク内を半分にすると面白いことに、右側が宇宙など近未来的要素を、左側が大航海時代やゴールド・ラッシュなど欧米の古き良き時代が表現されています。

 

 

実はこれは「手相」を表していると言う都市伝説があるんです。

 

 

 

手相では一般的に右手が未来・左手が過去と言われていますよね。

 

 

 

このような占いも利用している事も来場者を幸せにしている要因のひとつかもしれませんね。

 

 

 

また、夜になると煌びやかなプロジェクションマッピングやパレードがありますが、この光で邪気を払うというご利益もあると言う都市伝説もあります。

 

 

 

と、ここで改めて場所を見てみると、鬼門の方角に日本神話・最強の神様であるタケミカヅキをお祀りしている『鹿島神宮』があり、裏鬼門には熊野古道世界遺産にもなった『熊野那智大社』があるんです。

 

 

また、真北には以前紹介した『出羽三山神社』があり、西には富士山から強力なエネルギーが通っていて(龍脈)、観光スポットとしても大人気の「高尾山」があります。

 

 

 

ここまでパワースポットがあると言うのは、もはや計算し尽くされた場所であり、この場所自体がパワースポットとして存在しているとしか思えませんね。

 

 

 

さて、今回はちょっと試行を変えての神社仏閣でしたがいかがだったでしょうか。

 

 

次回からはまた通常通りとしたいと思いますのでご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の中央にある神社 その⑤

今回は『生島足島神社』からほど近くで同じ市内にある『北向観音堂(きたむかいかんのんどう)』についてお伝えしたいと思います。

 

 

と言っても、前々回にすでにお伝えしているので本当に少しだけ。

 

 

 

まず、『西国三十三所』と言う33ヶ所の観音巡礼をし、その巡礼の『御礼参り』として、長野市にある『善光寺』に参拝すると言うものがあります。

 

それを模範として、鎌倉幕府の初代将軍である「源頼朝」が発願、そしてその子で3代将軍の「源実朝」が制定した『坂東三十三所』がありこれも全て巡礼し終えた後に『御礼参り』として、やはり『善光寺』に参拝するのが慣しになっています。

 

 

しかし、この『善光寺』だけだと「片参り」となってしまうと言われ、もうひとつ参拝しなければ行けない場所があるんです。

 

 

その場所と言うのが今回お伝えする『北向観音』です。

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ここは名前でも分かる通り、観音様が北を向いています。

 

 

それは「北斗七星(北極星)を世界のよりどころになっているように、私(観音様)も全ての生きとし生きるものに、常によりどころになり救済しよう」と言う観音様の誓願によるものだと言われています。

 

 

 

また、善光寺阿弥陀如来が本尊となっていますが、この阿弥陀如来様は南を向いて建てられているのです。

 

 

 

そして、北向観音は『現世のご利益』を、善光寺は『来世のご利益』をもたらすので、両寺院に参拝して、ようやく巡礼が完了するのです。

 

 

 

 

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と、ここでこの寺院の歴史では「木曽義仲」の兵により、焼失してしまうがその後、従兄弟である「源頼朝」によって再興されたとあります。

 

 

 

そして、北極星徳川家康も信仰しており、死後には孫である3代将軍・家光が江戸城の守護神として真北に日光東照宮を建立しました。

 

 

 

日本史上、最初の幕府である鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝に再興されるのと、最後の幕府である徳川幕府の初代将軍・徳川家康がここで繋がると言う歴史の面白さ。

 

 

また、前回・前々回お伝えした、武田軍が滅びた後、その残党を家康が引き取り、それを徳川四天王のひとりである「井伊直政」に預け、「井伊の赤鬼」と異名で呼ばれ、その後幕末のきっかけを作った直政の子孫である「井伊直弼」も「安政の大獄」以後、その粛正による恐ろしさから「井伊の赤鬼」と呼ばれると言う面白さ。

 

 

 

全てが繋がっていると感じました。

 

 

 

それを繋げたのが生島足島神社で、大地(日本本土)の神様と言うのが、なんとも面白く不思議な感覚です。

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やはり神社仏閣・そして歴史は面白いですね!

 

 

 

と、ここまで生島足島神社北向観音についてお伝えしてきましたが、次回からはまた新しい神社仏閣をお伝えしようと思いますので、是非ご期待下さい。

日本の中央にある神社 その④

前回は『生島足神社(いくしまたるしまじんじゃ)』に関連する戦国武将をお伝えし、最後に徳川幕府が幕末に突入したきっかけになった『桜田門外ノ変』で殺害されてしまった『大老井伊直弼(いいなおすけ)』の事を少しだけお伝えしましたが、実はスゴイ人なんです。

 

 

と言うのも、父である近江彦根藩主直中は沢山子供がいまして直弼本人も14番目の男子、しかも庶子(母が正室ではない)だった為に、養子にも行けずに部屋住みと呼ばれる彦根城内でずっと過ごしていました。

 

 

その中で、茶道や国学・また兵学居合術を学び早くからその聡明さを示していました。

 

 

そんな中、兄である直亮が死去してしまった為に、養子になる形で直弼が家督を継ぎ、近江彦根藩の15代藩主となり「名君」と呼ばれていました。

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その後、ペリー来航(黒船来航)により国内は揺れ動き、徳川幕府は開国と言う形を取りました。

 

 

その際に、各藩が江戸湾東京湾)の警護のために配属されましたが、直弼率いる彦根藩は皆、『井伊の赤備え』の装備で警護につきました。

 

 

また、『薩長同盟』の仲介役を務めたり、日本初の株式会社を設立した(亀山社中)事でも有名な「坂本龍馬」もこの時に、土佐藩士として警護についていました。

 

 

この時、その装いに龍馬は一目で彦根藩だと分かったそうです。

 

 

 

その後、水戸藩など攘夷派(外国との通商を反対・または撃退し鎖国を守ろうとする考え)と対立を深めて行きました。

 

 

ここで少し余談ですがなぜ水戸藩が攘夷派の中心かと言いますと、水戸藩と言えば誰もが知っているあの『水戸黄門』こと、「徳川光圀」に由来するのです。

 

 

徳川光圀は初代将軍である「徳川家康」の孫で水戸藩(御三家の一つ)の2代藩主になった人物で、3代将軍・家光の従兄弟です。

 

 

そして、光圀は『大日本史』と言う歴史書を編纂し、その後の水戸藩の重要な事業の一つとして、光圀の死後も200年以上に渡り継続され明治時代になり、ようやく完成しました。

神武天皇から後小松天皇までを編纂)

 

このような背景から「尊皇論」と黒船来航からの「攘夷論」が重なり合い、いつしか水戸藩だけに留まらず、日本各地の志士たちに『尊皇攘夷』と言うスローガンが生まれました。

 

 

 

そして、直弼は孝明天皇の勅令を得ずに「日米修好通商条約」を結んでしまった為に「尊皇攘夷」の動きが急速に進みました。

 

 

しかし、本当はこの条約、なるべく時間を稼いで引き延ばしにしたかったんですね。

 

 

なぜなら天皇からの勅令がまだ来ていなかったからです。

 

当時も今も最終的な判断を決めるのは天皇となっていました。いわゆる『国璽』と言うやつですね!

 

 

 

それは尊皇攘夷派の諸藩の武士達は怒りますよ!

 

 

この怒り狂った志士達を抑えようと(弾圧)したのがあの有名な『安政の大獄』なのです。

 

 

 

これは日米修好通商条約の調印・将軍継嗣を家茂に決定したと言う事から反発をしていた尊皇攘夷派や一橋派の大名や志士など、100名以上が弾圧されました。

 

 

その中には「橋本左内」やのちに明治維新の中心になる数多くの長州藩出身者の思想に影響を与えた「吉田松陰」などは処刑され、また大名では徳川最後の将軍になる「一橋(徳川)慶喜」や越前福井藩の藩主で「坂本龍馬」にも影響を与えた「松平春嶽」などは謹慎の身となりました。

 

 

しかも、この弾圧の決定権は表向きには台命(将軍からの命令)ですが、実際には全て直弼の命令で執り行われました。

それ以降、直弼は「井伊の赤鬼」と言う異名も付けられました。

 

 

 

その結果、水戸藩脱藩志士達を中心とするものに江戸城桜田門外で襲撃され、大老・直弼は暗殺されてしまいます。

 

 

しかも、直弼はこの襲撃されるのを実は知っていたのだとか。襲撃されるのを分かっていたのにも関わらず、警備を強化せずに出発した事は、直弼本人の中でも何か思うところがあったのでしょうね。

 

 

 

その後は、皆さんもご存知の通り幕末・明治時代と言う『新時代』へと進んでいくわけですが、この開国が無ければ今の時代は無かったと言っても過言ではありません。

 

 

明治維新の中心となった薩摩や長州は海外からの最新武器を手に入れ、倒幕を成功されるのはなんとも皮肉な事です。

 

 

また、暗殺された現場のすぐ近くに現在の警視庁本部があることも感慨深いものがあります。

 

 

 

と、今回は井伊直弼の事をお伝えしましたが、現在の日本があるのはやはり直弼からと言うのと、生島足島神社を崇拝していた武田信玄からこのように繋がってくると言う歴史の面白いさを改めて知った回でした。

 

 

 

次回は『北向観音堂』についてお伝えしていこうと思いますので、是非ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の中央にある神社 その③

さて、前回は『生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)』が百済系(出雲系)の神社であり、さらに出雲系の神々が『国津神』と呼ばれている理由が、この神社が『日本総鎮守』の神社として、また『日本全土』の守神として「生島大神」・「足島大神」を祀っている事で少しだけ分かった様な気がしました。

 

 

さらに長野市にある『善光寺』と諏訪市にある『諏訪大社』との関係も明るみになった事をお伝えしてきました。

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そして今回は数々の武将にも崇拝されていたと言うのをお伝えして行きたいと思います。

 

 

まずは、甲斐・信濃国を領土として、「戦国最強」と言われた「甲斐の虎」と言う異名も持つ戦国武将の『武田信玄』です。

 

信玄はこの神社を強く崇拝しており、「生島足島神社文書」と言う現在、国の重要文化財にもなっているものを納めています。

その中には「武田家家臣起請文」と言う信玄に忠誠を誓わせる起請文や、「越後の龍」としても有名な戦国武将の『上杉謙信』との対決である「川中島の戦い」の戦勝祈願の願書も奉納されています。

 

 

また、上田市と言えば数年前に大河ドラマで『真田丸』でも有名な真田信繁(幸村)の父・昌幸、そして兄であり、徳川幕府時代に松代藩(現在の長野市)の初代藩主となった信之にも非常に強く崇拝されており、寄進状や朱印状また、神社の改修・修繕にも寄進しています。

 

 

これだけ見てもいかにこの時代の武将達にとって崇拝されていたかがよく分かりますね。

 

 

と、ここで少し面白い話がありまして。

 

武田信玄率いる武田軍団は『赤備え』と言う甲冑や武具などを全て朱色で統一した戦国最強の軍団でした。

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そして、そのなかでも特に功績を上げた武将が後世「武田二十四人衆」として称される訳ですが、その中のひとりに真田信之・信繁の父である昌幸も数えられる事があります。

 

 

そして、信玄は功績を上げたものには『赤備え』を与え(認められたと言う証拠になり、さらに躍進するよう武将達は努めます)、彼もまた『赤備え』であり、真田氏もこの『赤備え』を受け継ぎます。

(『真田丸』をご覧になった方々はイメージが湧きやすいと思います。)

 

 

その子である信繁(幸村)も大阪の陣の際に『赤備え』をつけて奮闘していましたよね。

大河ドラマ真田丸』の話ですが。)

 

そして、先程もお伝えした信繁の兄であり、松代藩の初代藩主でありその後、明治維新まで代々続く礎を築いた信之ですが、正室がまさかの『徳川四天王』で最強と言われていた「本田忠勝」の娘なのです。

 

 

 

その後、豊臣秀吉が没したのちに、かの有名な天下分け目の決戦である『関ヶ原の戦い』になりますが、この時に昌幸・信繁は「豊臣側」に、また信之は「徳川側」につきます。

 

この時代、いかにして自分たちの家系を絶やさずに継いでいくと言うのが最重要であった事から、どちらかが滅んでもどちらかが生き残ると言う考えはごく普通の考え方でした。

 

 

また、少し話は前後しますが武田信玄が亡くなった後、「織田信長」が勢力をつけ始め、「長篠の戦い」によって敗退するや一気に衰退し、滅亡してしまうのですが、その『赤備え』の軍団の生き残り(残党)を引き取ったのがあの「徳川家康」でした。

 

 

そして、徳川四天王の中でも一番若くて戦好きであった「井伊直政」に彼らを配属させ、武田の兵法を継承する形で、『井伊の赤備え』と呼ばれる様になりました。

 

 

その後、直政は「小牧・長久手の戦い」で先鋒を務めその奮戦ぶりから『井伊の赤鬼』と言う異名で呼ばれて恐れられるほどになりました。

 

 

この『赤備え』は幕末まで、井伊家が治めていた彦根藩では足軽にまで揃え続きました。

 

 

そして、あの「桜田門外ノ変」でめ有名な大老井伊直弼もまた「井伊の赤鬼」と言う異名を持ち武芸に優れた武士でした。

 

 

さて、今回は生島足島神社にまつわる戦国武将の事をお伝えして来ましたが、次回も少しだけその事をお伝えして、今度こそ『北向観音堂』をお伝えしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の中央にある神社 その②

今回は、前回もお伝えした『生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)』と、そこから車でほど近くにある「別所温泉」地内にある寺院の『北向観音(きたむかいかんのん)』についてもう少しだけお伝えしていきたいと思います。

 

 

まずは『生島足島神社』からですが、ここの主祭神である「生島大神(いくしまのおおかみ)」は『生きとし生きるもの万物に生命力を与えてる神』。

そして「足島大神(たるしまのおおかみ)」は『生きとし生きるもの万物に満足を与える神』とお伝えしましたが、この2柱の神様は共に日本全体の国の御霊(みたま)として奉祀され、太古から国土の守り神として仰がれている最も極めて古い由緒のある2神でおり、それぞれが『生島魂大神』・『足島魂大神』と称されてもいる大神であります。

 

 

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さて、ここまでは前回にも少しお伝えした事ですが、この神社には摂社がありましてその摂社と言うのが『諏訪神社(すわじんじゃ)』になります。

 

諏訪神社と言うと主祭神である『建御名方富命(タケミナカタトミノミコト)』ですが、実は『国譲り』の際に諏訪の地を目指したタケミナカタは、一時期この地に立ち寄りイクシマ・タルシマオオカミに半年間もの間、米粥を煮て献ぜられて奉仕していたと伝わっています。

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そのような関係からここ『生島足島神社』にも摂社として『諏訪神社』があるのですが、面白い事に『諏訪大社』(諏訪神社の総本社で、信濃国一宮である神社)の祭で有名な「御柱祭(おんばしらさい)」もこの神社で行われているのです。

 

 

また『生島足島神社』の「御柱祭」も『諏訪大社』と同じく7年に一度、寅と申の年に行われています。

 

 

と、ここでちょっとあれ?と思ったのが…。

 

 

長野市にある『善光寺(ぜんこうじ)のご 御開帳も7年でしたね!

ただし、善光寺の方は丑と未の年に行われているのですが。

 

 

 

干支の順番では7年毎に善光寺の御開帳、さらに翌年に生島足島神社諏訪大社御柱祭

 

 

勘の良い方はもうお気づきでしょうが、鬼門である「丑・寅」と裏鬼門である「未・申」に当てはまるのです。

 

 

まさに、鬼門・裏鬼門を護るように行われているんですね。

 

 

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↑上記の①が善光寺、②が生島足島神社、③が諏訪大社上社本宮になります。

 

 

これを見てもらうとあれ?と思いませんか?

 

 

生島足島神社を中心にこの2つの寺社が位置しているのです。

 

 

そして以前、善光寺諏訪大社は『百済系』の人々によって建立されたと言うのをお伝えしましたが、実は生島足島神社も『百済系』の名残りを残している神社だったのです。

 

 

その証拠と言うのが、この神社の様式そのものであり、神池と呼ばれる池に囲まれた島(神島)に御本社を置くと言う「池心宮園地」と呼ばれる出雲式園地で、日本最古の様式のひとつだったのです。

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これで全ての点と点が繋がりましたね!

 

 

そして、出雲系の神々の事を『国津神』と呼ぶ由縁もこの神社から読み取られますよね。

 

なんと言っても、日本全土の神様ですから!

 

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そして、日本の中央に位置し太古より『日本総鎮守』の神社となっている生島足島神社、是非皆さんも訪れみてください。

 

こういう歴史も踏まえつつの参拝だと、また違った角度から見えて楽しいですよ。

 

実際、自分は雰囲気も良くなぜかウキウキした気分で終始参拝させて頂きました。

きっと七五三のシーズンでもあったと言うのだと思いますがね。

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さて、今回もやはり少し長くなってしまったので、次回はまた少しだけ生島足島神社の事をお伝えして、その後に北向観音堂についてお伝えしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

日本の中央にある神社 その①

さて、前回までは天皇陛下が即位され、それに関連する儀式についてお伝えしましたが2019年12月4日を以って全ての『儀』が終了致しました。

 

 

そこで今回は江戸や天皇陛下とあまり密接はしていない、しかし『神社』としては決して無視の出来ない『生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)』についてお伝えしたいと思います。

 

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と言うのも写真で見て頂いても分かる様に、『日本 中央』と書いてあります。

 

それだけでも、何か御利益がありそうですが、この『生島足島神社』の主祭神は神社の名前にもある『生島大神(いくしまのおおかみ)』と『足島大神(たるしまのおおかみ)』の2柱になります。

 

 

はじめ聞いた方もいると思いますので、説明致しますとまず、『生島大神』は「生きとし生きるものの万物に生命力を与える神」。

足島大神』は「生きとし生きるものものの万物に満足を与える神」なのです。

 

 

これを聞いて何かさらに凄そうと思った方。

 

 

 

ほんとにスゴイんです。

 

 

 

本殿の内部で、一番神聖とされ御神体が安置されている内陣と呼ばれる場所、またその外にある一般の参拝者のための場所で外陣と呼ばれる場所があります。

 

その場所は通常、床がありその上に座り御祈祷などをされますよね?

また、御神体はその奥にあり一段高い場所に上がった所に安置されていると思います。

 

多分、これが一般的な神社の構図になっていますので、皆さんも想像し易いと思います。

 

 

しかし、この『生島足島神社』にはこの床が無いんです。

 

 

 

どういう事?と思う方もいらっしゃると思いますが、床が無く直接「土間」になっているのです。

 

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そして、この土間こそが御神体と言う事であり、つまり大地(国土)そのものが御神体になっているのです。これを「国魂(くにたま)」と呼びますが、これは神道では国自体が御神体となっていると言う意味があります。

 

 

 

と言う事は、我が国である『日本』いや、強いてはこの『地球』自体が神様であるとおっしゃっているのです。

 

 

 

壮大すぎて、今までの概念が吹っ飛びますね!

 

 

そしてこの神社は長野県上田市にあります。

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また、長野県が出て来ましたねぇ。

以前、お伝えした長野市にある『善光寺(ぜんこうじ)』は『西国三十三所』や『東国三十三所』などは巡礼した一番最後に訪れる場所となっています。

 

 

いわゆる『聖地』と言うやつですね!

 

 

ここで、少し面白い話が!

 

 

と言うのも、同じ上田市内に温泉地としても有名な「別所温泉」があります。

 

 

その地区に天台宗の宗派である『北向観音(きたむきかんのん)』と言う寺院があります。

 

ここは名前の如く、お堂が北向きに向いているのでこの名前になっていますが、実は『善光寺』のお堂は南向きになっているのです。

 

 

 

そして『北向観音』は千手観音を御本尊として『現世の御利益』を、逆側の『善光寺』は阿弥陀如来を御本尊として『来世の御利益』を願いまたもたらしているのです。

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したがって、実は善光寺だけを参拝するだけでは『片参り』になってしまうのです。

 

 

皆さん、ご存知だったでしょうか?

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ですので、もし善光寺にご参拝する際には是非この北向観音にもご参拝下さい。

 

 

今回は少し長くなってしまったので、本当に少しだけ北向観音別府温泉)にもちょっとした「都市伝説(怪談)」みたいのもあるので、それは次回にお伝えしたいと思います。

また、少し話は戻って『生島足島神社』についてもお伝えしたいと思いますので、是非ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖なる日『11月23日』 その②

前回、お伝えした『11月23日』に現在一般公開をしている『大嘗宮(だいじょうきゅう)』を見学する日取りとして、選んだ理由をもう少しだけあるので、それをお伝えして行きたいと思います。

 

 

前回まで、3つの理由についてお伝えしましたが、今回はあと2つ。

 

 

まず、4つ目はちょうどこの日に天皇皇后両陛下が伊勢神宮(内宮)の皇祖神である天照大御神アマテラスオオミカミ)に『即位礼』と『大嘗祭』を終えた事を『剣璽(けんじ)』(八尺瓊勾玉草薙剣の『三種の神器』の2つ)を伴い御奉告をしに御参拝された日で、前日の22日は外宮で『豊受大神トヨウケビメ)』に御参拝されました。

 

 

この儀式の事を『親謁の儀(しんえつのぎ)』(新謁とは天皇陛下、御自らが御参拝される事」と呼びますが、その時の御束帯は天皇陛下平安時代以降、天皇陛下の正装である『黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう』に天皇陛下のみしかかぶる事が出来ない、最も格式の高い冠である『立纓御冠(りゅうえいのおんかんむり)』などをお召しになりなされました。

 

 

また、皇后陛下も『十二単(じゅうにひとえ)』に『釵子(さいし)』と呼ばれるかんざしを『大垂髪(おすべらかし)』と呼ばれる髪形に刺すなどをお召しになされました。

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そして、この御束帯は『即位礼正殿の礼』の際にもお召しになりましたが、この『親謁の儀』実は100年あまりしか歴史的には無いんですねぇ。なので、今回の『親謁の儀』がいかに重要であると言うことが分かります。

 

 

さらにこの『新謁の儀』は神武天皇陵などにも御奉告されたのちに全ての儀式が終了します。

 

 

通常、『新嘗祭』を行う11月23日に伊勢神宮(内宮)に『親謁の儀』をなされたのはこのような重要な日である日だからこその意味合も含めていると思うと納得出来ます。

 

 

さて、ここまで11月23日に『大嘗宮』を見学しに行った理由を4つお伝えしてきましたが、いよいよ最後の一つです。

 

 

5つ目の理由は、『ローマ教皇』が来日した日だったからです。

それも38年ぶりの来日です。

 

 

と言う事は『平成』の時代には一度も来日していないと言う事になりますね。

しかも、今上天皇ローマ教皇も先代が生前退位をなされた後に即位をしたと言う非常に境遇が似ているんです。

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と、ここまでこの日になぜ『大嘗宮』を見学しに行ったかの真意をお伝えしたいと思います。

 

 

それは以前にお伝えした天皇は実は「イエス・キリスト」の子孫と言う事をお伝えしました。

 

 

日本の神仏習合の考えでは『天照大御神大日如来』となっています。

そして、ちょっと話はズレますが鬼門は北東に位置し、日本でも馴染みが深い干支では「丑・寅」がその方角になります。これが鬼は角が生えて虎のパンツを履いているイメージに繋がっているんですね。

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また、裏鬼門は反対側は「未・申」になりますが昔話で1番と言っても過言では無い「桃太郎」では「サル・トリ・イヌ」を率いて鬼退治に行っており、まさに真逆に位置する構図となっています。

そして、こ先頭に立っているのが「未」であり、実はキリスト=羊としてキリスト教では例えとして使われているのです。

また、「未年」の守護神は「大日如来」になっているのです。

 

 

これでちゃんと繋がってきましたよね。

 

 

天照大御神大日如来=キリスト」

 

 

また、ルネッサンス時代の天才である「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の代表作である「モナリザ」は実はキリストの子を身篭ったマグダラのマリアだと言われているのです。

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それも分かる人には分かる様にと。

 

 

 

感の良い人はもうお分かりでしょうが、天照大御神=キリストだとすると、その子孫であり世界で唯一のエンペラーである天皇陛下と、世界で最も信者の多い「カトリック教(キリスト教)」での最高位聖職者であり、「キリストの代理人」とも称され、さらに世界で一番小さく、世界で一番人が集まる国(バチカン市国)の国家元首であるローマ教皇がこの『日本』に揃うと言う奇跡の日だったのです。

 

 

また、11月25日には皇居内の宮殿の「竹の間」で会談をしており、ここで何を話されたが大変気になる所です。

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さて、ここまで『11月23日』に『大嘗宮』を見学しに行った理由をお伝えしましたが、12月8日まで一般公開がされていまして、まだ間に合うのでまだ訪れていない方も、一度訪れた方も是非ともご覧になってみて下さい。

 

 

 

 

 

 

 

聖なる日『11月23日』 その①

今回で「神社仏閣に引き寄せられ」もようやく50回目を迎えられる事になりました。

 

そして、この記念すべき回にお伝えしたいと思っているのが、先日、11月14日から15日に掛けて行われた、天皇陛下が即位して一世一度しか行われない最重要の儀式『大嘗祭(だいじょうさい)』が行われました。

その最重要な儀式が行われた場所、『大嘗宮(だいじょうきゅう)』です。

 

12月8日まで一般公開されていると言うので、家族全員で見学に行って来ました。

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『大嘗宮』の見学の日は必ずこの日にしようと思っていたので、予定を合わせて行った訳ですが、その日と言うのが『11月23日』です。

 

 

その理由はいくつかあるわけですが、まず1つ目は以前にもこの『大嘗祭』をお伝えした時にも少し触れましたが、『大嘗祭』の儀式を終えた翌年以降は『新嘗祭(しんじょうさい)』の儀式を古くから毎年11月23日に行う事になっています。

 

そして、明治維新後にはこの日を「祭日」としており、たくさんの神社でもこの日に『新嘗祭』を行っているのを見た事があると思います。

 

 

さて、この11月23日は何の日かお分かりでしょうか?

 

 

勤労感謝の日』です。

 

 

勘の良い方はお気づきでしょうが、元々は「祭日(さいじつ)」と言う日が出来た明治時代以降、この日に『新嘗祭』の儀式を行う天皇陛下に対しての『感謝』する日だったんですねぇ。

 

しかし、第二次世界大戦以降はGHQの介入により『日本国憲法』によって『象徴』としてに過ぎなくなってしまった天皇陛下と、第二次世界大戦以前にあった『大日本帝国憲法』の時の『現人神(あらひとがみ)』の思想を完全に切り離す為に、この11月23日を国民の為の『勤労感謝の日』にしたのです。

 

 

ただし、この『新嘗祭』は変わらずに毎年、天皇陛下が国民の安寧と五穀豊穰の感謝の為に、皇祖神でもある『天照大御神アマテラスオオミカミ)』に祈祷するのは変わりありません。

 

そして、この日が我々国民の勤労を感謝する日も変わりありませんので、是非皆さんも骨を休めていただきたいと思います。(この日が休日でない方もたくさんいらっしゃるとは思いますが…。そこはご勘弁を(^^;;)

 

 

と、ここでちょっとだけ面白い話をしたいと思います。

 

 

いま、「祭日・祝日」と言うのが休日になっていると言う方々もいると思いますが、実は「祭日」で休日になっている日は1日も無いんですねぇ。

これは、日本国憲法にも定められている事でもあり、今のカレンダーで赤字のところ(休日)は全て「祝日」になっているんです。

 

理由は「祭日」とは『宗教儀礼上の重要な祭祀を行う日』で、日本では『皇室祭祀』の事になる為です。

 

こうしてみると身近にあったものでも、深く掘り下げてみると時代によって変わり移り、中々面白いですよね。

 

 

そして2つ目の理由は「天赦日(てんしゃにち)」と言う日本の暦の上で、全ての事において吉日になっていると言う最強の吉日の日です。

 

さらに3つ目は、「干支(えと)」と言う十二支と十干(こちらはあまり馴染みがありませんが。)

を組み合わせる事によって60種になるうち、一番はじめに来る「甲子(きのえ)」の日になり、暦の上で最大の吉日が重なる、とても縁起の良い日だったのです。

 

 

さて、ここまで『新嘗宮』を見学する日を「11月23日」に決めた理由をお伝えしましたが、あと少しあるので、それは次回にお伝えしたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大嘗祭 特別御朱印 その⑤

前回、前々回と『小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)』の主祭神である『小野篁(おのたかむら)』についてお伝えしてきましたが、今回はこの神社の境内について、お伝えしていきたいと思います。

 

 

さて、まず始めにこの神社に参拝しようと思ったきっかけは、いまちょうど皇居内で一般公開が行われている『大嘗宮(だいじょうきゅう)』で天皇陛下が即位した際に一世に一度きりしか行われない『大嘗祭』の特別御朱印を配布していると言うの知り、これは頂きたいと思いました。

 

 

それがこの御朱印になります。

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その理由はもちろんまず、この御朱印自体が『即位礼正殿の儀』と『大嘗祭』が行われた日付けが金・銀で書かれていると言う事。

また、この御朱印にはイラストもあり、そのイラスト上部には『鳳凰』や『龍』、また縁起の良い動物達が描かれているので、そのままでもかなり縁起の良いものとなっています。

 

 

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しかし、このイラストを拝見した瞬間に『マジかっ!』と思ってしまったのです。

 

 

それは実は私の子供達の干支が『酉年』と『辰年』なんですが、この『鳳凰』と『龍』が一致かしていたんです。

 

これにはさすがに、この神社に間違いなく引き寄せられている!と感じてしまい、必ずこの御朱印を頂こうと思い参拝をしに訪れたのです。

 

 

そして、参拝しに訪れた訳ですが、本殿に参拝後に社務所に行き目的の御朱印を頂こうと待っていた際に、この境内を散策していたのですが、そこでさらに驚かされました。

(この特別御朱印以外、実は何も下調べをして行きませんでした。)

 

 

それはまず1つ目に『下谷坂本富士』と言う実際の富士山の溶岩で築かれた富士塚です。

 

これは江戸時代、誰でもが富士山に登れなかった時代に庶民が気軽に登れる様にと築かれたものです。

この背景には当時はすでに戦国の世も終わっており、庶民の間では富士山信仰やお陰参り(お伊勢参り)など数えきれない程、様々な信仰がありました。

そして、この地に築かれたのがこの富士塚であり、一合目から十合目などしっかりと記されていたり、途中に修験道の開祖である『役子角(えんおづの)』の尊像や『南無妙法』と書かれた石碑があったりとまさにミニチュア版の富士山がそこにあったのです。

また、この富士塚は「国指定重要有形民俗文化財」にも指定されています。

そして毎年、大祓と富士山の開山日の6月30日・7月1日には一般の方にも登拝が許されているので是非是非。

 

と、ここで少しこの名称にある「坂本」と言うところを覚えておいて下さい。

 

あとで、面白い事になりますよぉ!

 

 

さて、2つ目ですがこの「下谷坂本富士」を背に向けた所にある『庚申塚(こうしんづか)』です。

何故この庚申塚に驚いたかと言うと、ここがまさかの「日本三大庚申塚」のひとつだったのです。

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と言っても、あまりピンと来ない方もいるとおもいますがこれは日光東照宮でも有名な「見ざる、聞かざる、話ざる」のサルを祀り、夜には慎ましく静かにして眠らずに過ごし、神や仏(神仏習合)を供養することにより現世での御利益を授かると言う信仰です。

(この信仰も江戸時代に入りかなりの数になった信仰のひとつです。)

 

 

 

さて、ここで勘の良い方はお気づきだとは思いますが、お分かりでない方ももう少しで「うわっ!」となりますよ。笑

 

 

と、この神社で発見した最後の驚きはここにまさかの『三峯神社(みつみねじんじゃ)』・『御嶽神社(みたけじんじゃ)』が社務所(鳥居を入ってすぐ左側)の斜め前にありました。

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これにはさすがに目を疑いました。

なぜこんな所にと!

 

 

三峯神社』は言わずと知れた日本でもパワースポットとして最も有名な神社のひとつなのでお伝えするのはいつかの機会にと思いますが、ここを守る狛犬は大変珍しく『狼』なんですね。

 

 

そして、自分的には凄く身近であった『御嶽神社』。ここも実は『狼』が狛犬なんですね。(私が知っているのは東京都青梅市にある「武蔵御嶽神社」ですが。)

 

また、御嶽神社の総本社は修験道の神である「蔵王権現」を祀っている奈良県吉野にある世界遺産のひとつにも含まれている『金峯山寺(きんぷせんじ)』あり、創立者は先程も出てきた「役子角」と伝えてられています。

さらに、この金峯山寺は江戸時代には徳川家康の命で『天海』が創建した『日光輪王寺』(天台宗)の傘下になりました。

 

 

と、ここでお気づきでしょうか?

先程も上げた「坂本」・「見ざる・聞かざる・花ざる」で有名な『日光東照宮』・そして『天海』。

 

そうです。来年の大河で主役の『明智光秀』が浮かび上がってくるのです!

 

 

何故かと言うと、「坂本」とは明智光秀が城主であった坂本城から取ったとされ、さらには日光東照宮は天海が創建した徳川家康の霊廟であり、小野照崎神社は元々は現・上野公園内に創建されており、天海が『寛永寺』の創建の際に今の場所に遷座したと言う事。

 

天海は実は明智光秀と言う都市伝説みたいなものが絶えず知れ渡っているのはご存知だと思いますが、こうしてみると中々面白い気がします。

 

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実際に、山手線の「鶯谷駅」を挟んで目と鼻の先に位置し、寛永寺江戸城の鬼門にも位置しています。

 

また、ちょっと面白いのが上記の地図の寛永寺と小野照崎神社のちょうど真ん中辺りに『旧陸奥宗光邸』と書かれているのがお分かりでしょうか?

 

この陸奥宗光は、あの薩長同盟を仲介した言わずと知れた英雄『坂本龍馬』と一緒に日本初の株式会社を立ち上げ、さらには明治維新後、外務大臣などを歴任し、「条約改正」(徳川幕府時代に行われた海外との不平等条約)を果たした人物です。

 

 

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(↑上図が「旧陸奥宗光邸」ですが、実際に見た時には少しショックを受けてしまうくらいに廃墟化していました。すみません、個人的な意見なので御勘弁を。)

 

 

と、この様に歴史も感じられた今回の参拝でしたが、実は寛永寺にも足を運んだので中々面白い神社仏閣巡りになりました。

 

 

最後にひとつ。

 

 

この小野照崎神社を江戸幕府が残したのは江戸城から「鬼門」の位置に元々はあり、寛永寺創建後にも近くに置いたのも主祭神である「小野篁」が閻魔大王の補佐役で『冥界の官神』とされおり、それにあやかり江戸城また江戸市内の守護神として祀られていたのではないかと思ってしまうTOTANでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大嘗祭 特別御朱印 その④

 

今回も『小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)』の主祭神である小野篁(おのたかむら)について、そして小野照崎神社について、お伝えしていきたいと思います。

 

 

まず主祭神である小野篁なのですが、本当に面白い逸話が御座いまして、それがなんと昼は朝廷で官吏(かんり)を、夜は地獄(他には冥界やあの世と言われています。)の主(あるじ)である『閻魔大王』のもとで裁判を補佐していたと言う事です。

 

 

なんじゃそりゃ!

ですよね。

 

 

これ、本当に平安後期から鎌倉時代に掛けての説話集で『江談抄(こうだんしょう)』や『今昔物語集』・『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』などに書かれており、その後もたくさんの書物でこのことが紹介されています。

 

 

例えば日本最も有名な小説の一つで、現・二千札にも描かれている『源氏物語』の著者でもある『紫式部』の先祖でもあり、「正一位」も後に贈られた『藤原高藤(ふじわらのたかふじ)』が急死した際に閻魔庁にいる篁が冥土から生還させたと記述されていたり、これもまた後に「正一位」を贈られ、私邸で「平仮名」で墨書が書かれた土器が発見され、国風文化の広まりを示す貴重な発見をされた『藤原良相(ふじわらのよしみ)』が病死した際に、篁のはからいによって蘇生したと記されています。

 

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少し余談ですが『源氏物語』に登場する「光源氏」と「明石の御方」の恋模様のモデルとなったとされるのが、祖先であるこの藤原高藤夫婦になります。

 

 

さらに『元亨釈書』と言う日本で初の仏教の歴史書にもなる書物には「矢田地蔵縁起」と言う物語が描かれており、京都の矢田寺(やたでら)を「送り鐘」・六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)を「迎え鐘」として死者の霊が迷わずにあの世へ送れるようにと鐘をつく信仰があるのです。

 

 

また、この六道珍皇寺は死の世界に行く道(井戸)と京都の嵯峨にあった福正寺は生に帰ってくる道(井戸)があったとされており、六道珍皇寺には篁作といわれている「閻魔大王」の木像が安置されています。

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そして、この閻魔大王は日本の仏教では『地蔵菩薩』と同一視されているのです。

その理由は閻魔大王は地獄の番人(裁判長)であり、地蔵もまた「地」と言う字からの連想によって大地や地下(地獄)を守るする菩薩であり、それによって「閻魔大王地蔵菩薩」と言う信仰が生まれました。

 

 

また、地蔵菩薩は『賽の神』であり、この賽とは賽の河原の事で、不慮などにより親よりも先に亡くなってしまった子供が三途の河原で石を積むのを鬼に崩されてしまうのを守るのがこの地蔵菩薩なのです。

 

 

この為に、地蔵菩薩に子供を亡くした親御さん達などがよだれ掛けをしたり周りに風車を指して、子供が安らかにあの世に行けるように願うと言う信仰になったのです。

 

今でも日本三大霊山のひとつの『恐山』ではその模様がある意味での代表的なものとなっていますよね。

何も知らずに見るとやはり少し異様な光景で怖い雰囲気ですが、このような背景を知るとまた違った見方になってしまうのが不思議な感覚になります。

 

(七五三もある意味では同じような事で、7歳までは神の子として、いついなくなってもおかしくないとして扱われていて、日本では奇数が良い数字と言う風潮があり、その為に7歳・5歳・3歳と言う節目でのお祝い事が現在でも行われている行事事なのです。

ちなみに自分の子供も2019年の今年、七五三が長女と長男であり、出費が激しいので頭が痛い思いをしています。泣)

 

 

さて、話を戻しますがこのような小野篁主祭神としている『小野照崎神社』ですが、もう少し面白い話があり、それがいくつかあるのでこれは次回にまたお伝えしたいと思います。

(何故なら、毎回のごとく話が長くなり過ぎてしまった為。申し訳ありません。)

 

と言う事で、次回もお楽しみにして頂きたいと思いますので、よろしくお願いします。

 

 

 

大嘗祭 特別御朱印 その③

 

今回は令和の『大嘗祭』に関連して、もうひとつ御朱印をいただきました台東区にある『小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)』についてお伝えして行きたいと思います。

 

この神社は元々は主祭神である『小野篁(おのたかむら)』が、上野の照崎(現在の上野公園)の地に父の岑守(みねもり)が東征を朝廷から命じられ一緒に東北に向かいその時、一時住んでいた縁から篁が逝去した際に創建されました。

 

 

その後、徳川幕府の時代にこの上野の地に寛永時(徳川の菩提寺)を建立すると言う国策によって現在の地に遷座されました。

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と、ここで少し話はずれますが、この主祭神である『小野篁』について面白い話をお伝えしたいと思います。

 

まず、祖先が名前からご察しのつくように、あの第33代推古天皇の時に摂政として活躍していた厩戸皇子の命で、隋(現在の中国)に派遣された「遣隋使」でも有名な「小野妹子」になります。

何かと、妹子は出てきますねぇ。

 

そして、父の岑守は「征夷副将軍」として、現在の関東・東北地方など北方の地域(蝦夷)を征伐する官職につき、陸奥守に任じられていました。

その際一緒に篁も父に従い陸奥国に赴いていたのですが、その時期は弓や馬をよく練習し、帰京後もそればかりしか精を出さずに、学問を一切しないようになってしまったので、時の天皇である第52代天皇嵯峨天皇に「なぜ、このようになってしまったのか?」と嘆き悲しまれました。

それを聞いた篁は深く恥じらい、悔い改めて学問を志すようになり、律令制の官僚候補生たちに歴史を教える(当時は主に中国史)教授にまでになりました。

 

また、「明法道(みょうほうどう)」と言う明経法(儒学)と数学の2つで構成された学科にも非常に長けており、『令義解(りょうぎのげ)』にも深く関与するなど、政務能力に優れていました。

(令義解とは「大宝令」・「養老令」と律令をまとめた解説書で、法的に効果があった)

 

さらに、平安初期屈指の詩人・和歌も優れており「古今和歌集」など天皇上皇の命で編纂された歌集である「勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)」には14首も選ばれています。

 

 

その中で自分が一番親しみやすかったのが「小倉百人一首」の11番目である「わたの原 八十島(やそしま)かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまの釣船」

ですかね。

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これは嵯峨天皇の怒りを買い、流刑になった際に読まれた和歌で、意味は「広い大海原をたくさんの島を目指して漕ぎ出していったよ、と都にいる人々に伝えてくれ、漁師の釣り船よ。」と言う意味になり、何か寂しげな心情が伝わってくる様な気がしますね。

 

 

ただし、この2年後には帰京が許され、本来の才能から官位にまで上り積めるわけですが、ここで面白いのがあの「秋田美人」の由来ともなり、「小倉百人一首」では9番目の和歌にもなっている『小野小町(おののこまち)』は篁の孫と言う説があるのです。

なんと言う因果関係なのでしょうか。

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また、それまで中国的な書風から和様的書風(日本的)の基礎を築いた『小野道風(おのみちかぜ)』も篁の孫になります。

この道風の作品は『智証大師諡号勅書(ちしょうだいししごうちょくしょ)』など、国宝になっているものが幾つもあります。

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一族で和歌や書に優れているのがこれを見てもよく分かりますね。

 

さて、今回は区切りが良いのでここまでにしまして次回はもう少しだけ小野篁の話をしたいと思います。本当に面白いですよ。

 

大嘗祭 特別御朱印 その②

 

さて、今回は前回同様、品川区にある『蛇窪神社(へびくぼじんじゃ)』、そして行けたら台東区下谷にある『小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)』についてお伝えしたいと思います。

 

 

まず初めに前回お伝えした蛇窪神社ですが、この神社の創建は鎌倉幕府の第2代執権(執権とは鎌倉殿の補佐をして政務を統轄していた官職の事を言います。また、鎌倉殿とは鎌倉幕府を統轄していた武家の棟梁のことで、当時の武士は鎌倉殿=鎌倉幕府を指していました。

また、『平家物語』では鎌倉殿=「源頼朝」のことを指しています。)

北条義時の三男の重時の五男が仏門に入り「法圓上人」となり、現東京都の大田区大森にある「厳正寺(ごんしょうじ)」を開山しました。

そして、その家臣たちがこの蛇窪付近に移り住みこの為、現在でもこの地域付近では厳正寺の檀家が多く見られます。

 

 

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(↑上記の写真は鎌倉の鶴岡八幡宮

 

とここで少し話はズレますが、この法圓上人の兄弟で長女の「葛西殿」は5代執権北条時頼正室となり、後に8代執権北条時宗などを産んでいます。

 

また、時頼は得宗専制(伊勢平家一門である、北条氏一門で鎌倉幕府の実権を握り政務を執り仕切る事)の先駆けとなり、その子の時宗の時代に最盛期を迎えます。

 

そして、鎌倉幕府の最後の執権・北条守時赤橋守時)や、室町幕府初代将軍・足利尊氏(尊氏の正室はこの北条守時の娘)も法圓上人の父である北条重時の玄孫になります。

 

その為、重時の子孫が鎌倉幕府室町幕府の実権を握っていた事になり、またその祖先である伊勢平氏には武家政権を初めて確立した「平清盛」がいる事から、豊臣政権以前では源頼朝以外は全ての時代でこの伊勢平氏が政権を握っている事になります。

(2代将軍頼家・3代将軍実朝は頼朝と妻である北条昌子の子供の為)

 

 

 

さて話は戻しまして、蛇窪神社ですが法圓が厳正寺を創建してから半世紀後の2代目当主で法圓の甥である法密上人の時にこの辺り一帯が大飢饉に襲われるのが必至な程の旱魃(かんばつ)になりました。

そこで厳正寺の北西(戌亥)の方角にある龍神社に雨乞いの断食祈願したところ、大雨が降りこの危機を免れることが出来ました。

これに感動した法圓の旧家臣たちは蛇窪の地に神社を観請(神社を移す事)し、現在の地に蛇窪神社が創建されました。

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余談ですがこの戌亥(北西)の方角は陰陽道では、怨霊や魑魅魍魎(山や川の妖怪)などの災いが出入りする方角と言われおり、「天門」と呼ばれています。その為、この方角の神社で祈願しました。

 

 

また、その後この神社に湧き水が出る洗い場に白い蛇が住んでいましたが、時が過ぎ洗い場が干上がってしまった為に現在の戸塚公園の池に移り住んでしまいました。

ある時にこの地に古くから住んでいる森谷氏の夢枕に白蛇が現れ「一日も早くもとの住みかに帰して欲しい」と懇願し、そのことを神社の宮司に話し、宮司は弁天社を創建する事に決め白蛇を祀る事にしました。

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そして、この神社の主祭神はアマテラスとなっており、配祀はタケミカヅキの子の天児屋命アメノコヤネノミコト)・応神天皇になっています。

 

その為に、令和の大嘗祭の際にも特別御朱印を配布したわけですね。(これは自分の見解なので、あしからず。)

ただ、個人的にはかなり気に入っている御朱印になっています。

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また、この神社は『東京福めぐり』と言う特別御朱印も頂ける神社となっていまして、先程も上がった戸越公園の近くの戸越八幡神社もこの中に入っています。

何か『福』に縁があるのがこれを見ても分かります。

 

 

と、ここまで蛇窪神社についてお伝えして来ましたが次回は台東区にある『小野照崎神社』について、お伝えして行きたいと思いますので、ご期待お願い致します。

(やはり、行けなかったかぁ。)

 

 

 

 

 

 

 

 

大嘗祭 特別御朱印 その①

今回は令和の『大嘗祭』に合わせて特別な御朱印を配布していると言う神社(今しか頂く事が出来ない)に行って来ましたので、それをお伝えしたいと思います。

 

 

と言うのも少し前にTwitterを始めまして、きっとハッシュタグ「#」から引っかかったんでしょうがいくつかの神社が「おすすめユーザー」と言うので出てきたんですねぇ。

その中でいくつかフォローさせて頂きさらにフォローして頂きまして、そのフォローして頂いた神社(きっと広報部だと思いますが)は他の神社もフォローしていまして。

 

そしてその中で気になってしまった大嘗祭限定の御朱印がいくつかあり、デザインも気に入りこれはどうしても欲しいと言うよりも、何か行かなければ行けない様な思いが強くなり、今回2つの神社に参拝させて頂き御朱印を授与させて頂きました。

 

 

その2つの神社と言うのは品川区にある『蛇窪神社(へびくぼじんじゃ)』と台東区にある『小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)』です。

 

 

まず最初に品川区にある蛇窪神社に参拝しに行って来ました。

ここは事前に調べたのですと最寄駅が東京メトロ浅草線の「中延駅」にありました。

何か遠い気が…。

と言うのも浅草線はそれこそ浅草に行く為には使った事はありますが、逆側には一度も使った事が無い。さらに品川区と言うのがほとんど土地勘が無いので余計に遠く感じてしまいました。

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しかし、そんな事を言っていてはどこにも行けないし腹をくくろうと思い、まさかの1人で強行突破で向かったわけです。

(正直、今まで家族としか神社を巡った事が無かったのですが、初めて1人で神社に参拝しました。)

 

 

 

そして、蛇窪神社に向かったわけですが自宅を出た時間帯により少し経路が変わってしまいました。それがなんと新宿から湘南ライナーに乗り換え4つ目の駅にある「西大井駅」だったのです。

どこそこ?と言う方も沢山いると思いますが、実はこの駅は非常に縁の深い駅でありまして。

 

そこがNSC吉本総合芸能学院)‼︎

 

実は私、お笑い芸人を目指していたんですねぇ。高校卒業後にすぐに行ったのでかれこれ18年前にもなりますが…。笑

高校生の時から文化祭で漫才、コントをやっていた私が最初に1人でやったネタ見せの時に同期から爆笑を取った事、そして講師から言われた一言は今でも忘れる事が出来ません。

その一言と言うのが「キミ、芸人みたいやなぁ。それやとアカンで。今いる芸人と一緒や。もっと違うもん考えんと。」

 

これには衝撃を受けましたね。

 

 

痺れました。

 

 

その後も井の頭恩賜公園などでゲリラライブをやったり色々と技を磨いていたのですが、私自身が大学を2回留年してしまいまして本格的に仕事に専念出来なかったと言う事で解散してしまいました。

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(↑当時の養成所跡。いまは保育園になっていました。)

 

と、ここから歩いて5分程で蛇窪神社に着きました。

Googleの経路案内だと8分と表示されていました。)

 

 

この神社は名前の如く、蛇を祀っている神社でしかも「白蛇」と言う縁起も良く金運にはとてもご利益があると言う神社です。

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この日はちょうど『七五三』でたくさんの地元(多分ですが)の方々がいらしてました。

その様子を見ているだけで何故か心が穏やかになってしまいますよね。

(私の長女も今年、七五三をやるので特に着物には気になってしまいました。私も含め妻と義母が和服が大好きなもんで。)

 

そんなこんなで子供の晴着姿を見て鳥居を潜ると、いきなり白龍神様が出て参りました。

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これは本当にご利益ありそう。

 

 

ちょっとここまで私的な話が長くなってしまったので、次回はもう少し詳しく蛇窪神社について、そして2つ目に行った小野照崎神社についてお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大嘗祭 その④

 

今回は『大嘗祭』についてもう少しだけお伝えして、と言うのは大嘗祭の直後に行われる『大饗の儀』と言う、参列者に向けて酒や食事や、悠紀国・主基国の芸能(舞など)を振舞う会です。

これは、悠紀国・主基国の風俗舞(これは大嘗祭ごとに新作)を両国の地名の入った歌を披露したり、両国から推薦された15種類の農林水産物を献物として会の開かれる所の正面に並べて、その色目を式部官長(宮内庁の儀式や雅楽を担当する部署の長)がこれを奉上します。

 

そして最後に天皇皇后両陛下が挿花を参列者に供します(贈る)。

 

また、古来では大嘗祭が11月の2回目の「卯の日」に行われいたので、翌辰・巳・午日にこれが行われおり、辰・巳日は直会(なおらい)の意味を目的としており(神社に於ける最後に祭祀に参加者一同でお神酒や神饌を食する事)、3日目の午日はこれよりも少しくだけた宴会の様な形で行われいました。

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(↑上記の御朱印は品川区の蛇窪神社で2019年11月9日から3000枚限定で配布しています。)

 

そして、大嘗祭がこの様な儀式として明確に行われ始めたのは第40代天武天皇・第41代持統天皇の頃時代になります。

 

天武天皇は歴史の授業にも取り扱われいる様に、「壬申の乱」で勝利した大海人皇子が即位して天武天皇になりました。そして、『元号』を始めて使い、「大化改新」を成し遂げた天智天皇の弟でもあり、自ら政務を行い天皇史上、まれな権力を集中させ、地方豪族を排除し皇族を要職に就かせる『皇親政治(こうしんせいじ)』を行い、古代天皇専制の頂点を極めました。

 

さらに、『日本』と言うことばを始めて使う他、『天皇』と言うことばも始めて使う人物でありました。

その皇后であり、第41代天皇である『持統天皇』。この天皇は「小倉百人一首」の2番目の歌でも有名ですが1番目の天智天皇の娘になります。

と言う事は、叔父と姪の結婚と言う訳ですね。

 

そして夫である天武天皇の方がイメージが強すぎてあまり知られてませんが、『飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)』と言う日本で最初の律令体制の体系を編纂した人物なのです。

 

これは天武天皇が元は行なっていた事業でその意思を継ぎ編纂され、班田収授など律令制の骨格を本格化させ、孫である第42代文武天皇が完成させた『大宝律令』によってこのプロジェクトを成功させています。(この制度により初めて国号を『日本』になりました。)

 

さらに天武天皇の念願であった『伊勢神宮』の『神宮式年遷宮』を持統天皇は成功させ、(第一回神宮式年遷宮)さらに藤原京(ここが初めて碁盤の目状の都市作りになりました。)や、史上初の『太上天皇上皇)』になった人物です。

 

何か、ここ数年にあった事と似ている様な気がしませんか?

2013年の神宮式年遷宮(この年は『出雲大社遷宮もあり、かなり話題になりました)・2019年の先代天皇(現・上皇陛下)からの譲位継承と現天皇の即位(即位後の儀式なども含め)とおよそ1300年も継承されています。

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今まであまり気にしていなかった持統天皇を今回の大嘗祭によって深く知ることが出来たのも何かの巡り合わせなのかなと感じました。

(実は小倉百人一首は小学生の頃からやっており、去年の正月にこれを買って子供と一緒に楽しんだ所でした。)

 

と、この様に日本人の中に自然と入っていたものも過去の歴史があり、それを皆が共有していると言うのがなんとも言えない面白さ。

これが伝承やら伝統と言うんですかね。

 

日本人に生まれ良かった!