今回は令和の『大嘗祭』に関連して、もうひとつ御朱印をいただきました台東区にある『小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)』についてお伝えして行きたいと思います。
この神社は元々は主祭神である『小野篁(おのたかむら)』が、上野の照崎(現在の上野公園)の地に父の岑守(みねもり)が東征を朝廷から命じられ一緒に東北に向かいその時、一時住んでいた縁から篁が逝去した際に創建されました。
その後、徳川幕府の時代にこの上野の地に寛永時(徳川の菩提寺)を建立すると言う国策によって現在の地に遷座されました。
と、ここで少し話はずれますが、この主祭神である『小野篁』について面白い話をお伝えしたいと思います。
まず、祖先が名前からご察しのつくように、あの第33代推古天皇の時に摂政として活躍していた厩戸皇子の命で、隋(現在の中国)に派遣された「遣隋使」でも有名な「小野妹子」になります。
何かと、妹子は出てきますねぇ。
そして、父の岑守は「征夷副将軍」として、現在の関東・東北地方など北方の地域(蝦夷)を征伐する官職につき、陸奥守に任じられていました。
その際一緒に篁も父に従い陸奥国に赴いていたのですが、その時期は弓や馬をよく練習し、帰京後もそればかりしか精を出さずに、学問を一切しないようになってしまったので、時の天皇である第52代天皇・嵯峨天皇に「なぜ、このようになってしまったのか?」と嘆き悲しまれました。
それを聞いた篁は深く恥じらい、悔い改めて学問を志すようになり、律令制の官僚候補生たちに歴史を教える(当時は主に中国史)教授にまでになりました。
また、「明法道(みょうほうどう)」と言う明経法(儒学)と数学の2つで構成された学科にも非常に長けており、『令義解(りょうぎのげ)』にも深く関与するなど、政務能力に優れていました。
(令義解とは「大宝令」・「養老令」と律令をまとめた解説書で、法的に効果があった)
さらに、平安初期屈指の詩人・和歌も優れており「古今和歌集」など天皇や上皇の命で編纂された歌集である「勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)」には14首も選ばれています。
その中で自分が一番親しみやすかったのが「小倉百人一首」の11番目である「わたの原 八十島(やそしま)かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまの釣船」
ですかね。
これは嵯峨天皇の怒りを買い、流刑になった際に読まれた和歌で、意味は「広い大海原をたくさんの島を目指して漕ぎ出していったよ、と都にいる人々に伝えてくれ、漁師の釣り船よ。」と言う意味になり、何か寂しげな心情が伝わってくる様な気がしますね。
ただし、この2年後には帰京が許され、本来の才能から官位にまで上り積めるわけですが、ここで面白いのがあの「秋田美人」の由来ともなり、「小倉百人一首」では9番目の和歌にもなっている『小野小町(おののこまち)』は篁の孫と言う説があるのです。
なんと言う因果関係なのでしょうか。
また、それまで中国的な書風から和様的書風(日本的)の基礎を築いた『小野道風(おのみちかぜ)』も篁の孫になります。
この道風の作品は『智証大師諡号勅書(ちしょうだいししごうちょくしょ)』など、国宝になっているものが幾つもあります。
一族で和歌や書に優れているのがこれを見てもよく分かりますね。
さて、今回は区切りが良いのでここまでにしまして次回はもう少しだけ小野篁の話をしたいと思います。本当に面白いですよ。