2023年ももう1ヶ月が過ぎました。
大河ドラマの『どうする家康』もわずか2回となり、いよいよ来年に近づいてきたと言う気がしてしまう今日この頃。
そんな、『江戸幕府』創設をした「徳川家康」もその前の『室町幕府』を創設した「足利尊氏」も、最初に『幕府』と言うものを作った「源頼朝」の『鎌倉幕府』も、実は必然的に、むしろ自然発生的に出来たのをご存じでしょうか?
そもそもそも『幕府』と言うのは、何かと言うと、『朝廷』に変わって政治を行うこと。
要は、武士が『天皇』に変わって政治を行っていた時代と言うことになります。
そのきっかけは、歴史の授業でも習うように武家の棟梁であった「源頼朝」を筆頭とした『源氏』が、当時覇権を手中にしていた「平清盛」率いる『平家』を倒したことからでした。
なんで「源頼朝」は、「平清盛」を倒そうかと思ったかと言うと諸説ありますが、結局は『平家』の素行が民衆には受け入れがたい政治をやり過ぎてしまったってことですね。
もちろん、その後には『源氏』も…。
(鎌倉時代にはそれよりもひどい権力争いがあり、ここでの『源氏』と言うのは後の『室町幕府』のことです。)
うーん。ここが凄く難しい所なんです。
簡単に言うと、「源頼朝」の家系と、「足利尊氏」の家系は同じ『源氏』。
だから親戚というか、しっかり由緒正しい親戚筋にある家系なんですよね!
「源」と「足利」と言うのは!
さて、そんな中で『鎌倉時代』末期に『日本史』的にとんでも無い出来事が起こりました。
それが『両統迭立』。
【出典:『世界の歴史まっぷ』公式サイトより。
2023年12月7日利用。】
そのきっかけは、第88代『後嵯峨天皇』のとき。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
2023年12月7日利用。】
この天皇の3男とその弟の4男の皇統争いがきっかけでその後200年以上も続く世を作り出してしまったのです。
と言うのも、まず長男の『宗尊親王』を『鎌倉幕府』の将軍にしたこと。
その背景には「源頼朝」以下、「頼家」・「実朝」と3代続き滅亡すると、『摂政関白』の『九条家(藤原家)』から4代目・5代目と迎え入れました。
この時、『藤原』の勢力を嫌がった『北条家』は、今度は『皇族』からの将軍を!として、『後嵯峨天皇』の長男である『宗尊親王』を迎え入れたのです。
そして、三男を『後深草天皇』へと即位させ、自らは出家し『院政』をスタート。
この時に『後深草天皇』は病にかかってしまった為に、寵愛していた弟の『亀山天皇』に譲位せよ!と強引に要求。
さらに、兄である『後深草天皇』の子ではなく、弟の『亀山天皇』の子を次の『皇太子』に指名はしたものの、次の『治天の君(皇室の当主)』を決めずに崩御してしまいます。
『皇太子』となった『亀山天皇』の子は『後宇多天皇』として、即位。
でも、事実上の長男であった『後深草天皇』はこれだと怒りますよね?
実際、めちゃめちゃ怒って『上皇』という立場を返上して出家する!と言い出しました。
だって、自分の子孫が『皇位継承』出来なくなってしまったんですから。
流石にこれを見て同情した『鎌倉幕府』の『執権』であった「北条時宗」は、『亀山天皇』に兄である『後深草天皇』のことを配慮しるように言い、その結果、『後深草天皇』の子が『伏見天皇』として即位。
さらにその子である『後伏見天皇』が即位すると今度は『亀山天皇』側が不満を抱くようになり、幕府に訴えてかけて、それではその次の『天皇』は『後宇多天皇』の子の『後二条天皇』をとし、今後は交代交代で即位すると取り決められました。
これを『両統迭立』と言い、交代交代で『天皇』に即位すると意味。
事実、『後二条天皇』の後は、『後深草天皇』の家系の『花園天皇』、その次は『亀山天皇』の家系の『後醍醐天皇』となります。
この『後醍醐天皇』は『建武の新政』を打ち出し、約2年後には失敗。
さらに『室町幕府』の祖である「足利尊氏」と対立し、敗北すると吉野に逃亡し、自らが正統な皇統継承者と主張。
『後醍醐天皇』が吉野に逃亡している間に、幕府を開府した「足利尊氏」によって、こっちはこっちで『後深草天皇』家系の『光厳天皇』を即位させため、これによって『南北朝時代』へと突入するわけです。
一般的には『後深草天皇』系を『北朝(『持明院統』)』と呼ばれ、『亀山天皇』系を『南朝(『大覚寺統』)』と呼ばれています。
その由来は『持明院統』は、『伏見天皇』が『後堀河天皇』の住んでいた『持明院』に住み、その子孫もそこに住むようになったからになります。
反対の『大覚寺統』は、『亀山天皇』の子である『後宇多天皇』が『大覚寺』の再興に尽力し、さらに出家してからはここで『院政』を行った事からになります。
その後、「足利義満」の時代になると対立していた『南北』の『朝廷』との間をうまくいくようにとりもち、今後の『皇位継承』は『両統迭立』にするという条件のもと、『南朝(『大覚寺統』)』の『後亀山天皇』から、『北朝(持明院統』)』の『後小松天皇』に『三種の神器』を引き渡されました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80
2023年12月7日利用。】
ここで『南北朝時代』の終焉となるわけですが、実際には『南朝』の方は正式な譲位の儀式も行われなかったり、『北朝』だけがこの後も『皇位継承』を行っていた為に、まだまだその戦いは続くわけです。
ただし、『南朝』は『後亀山天皇』以降、『天皇』という『皇位継承』は行っていないことから、それに不満を持った残党が戦っていること。
それから余談ですが、『北朝』の初代『天皇』となった『光厳天皇』の孫が、『皇室』に世継ぎが出来ない時に養子として迎えられるようにと定めた、『世襲親王家』を創設。
その孫が第102代天皇である『後花園天皇』となり現在の『皇室』へと繋がります。
また、その弟である『貞常親王』の子孫が『最も近い男系共通の祖先』として、戦後まで『伏見宮家』を守ってきました。
こうして紆余曲折あった現在の『皇室』の祖先たち。
このような争いの中でも、『皇位継承』を守り続けたことが、世界最古の王朝として、王族として継承されているのです。
だからこそ、『皇帝=エンペラー』と世界で唯一の称号をもっていのですよ!