本格的な『夏』となり、暑い日が続いてますが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?
『夏』と言えば、夕涼みを楽しむ『花火』などが風物詩となります。
そして、中でも代表的な『花火』と言えば、『隅田川花火大会』が有名なのではないでしょうか。
(上記は『名所江戸百景』 「歌川広重 作」より引用。)
その歴史は古く、江戸時代中期の享保18年に『徳川吉宗』の命で始まったとされています。
当初は隅田川の川開きの始まりの日に行われたこの行事。
茹だる様な暑さを少しでも涼しく過ごすために、屋台舟に乗って楽しむといった『江戸時代』の人々。
その川開きの最初の日に、当時、花火師『玉屋』・『鍵屋』が自身の宣伝のために大々的に『花火』を打ち上げたのが由来となっているんです。
冷房などが無い当時、いかにして暑い『夏』を過ごそうかと考えて始まったイベントだったんですね。
よく、『花火』が打ち上がる時の掛け声で「た〜まや〜、か〜ぎや〜!」と言うのは、交互に打ち上げ、その花火師たちの腕前を競ったことから来ているんですよ。
そんな『玉屋』・『鍵屋』ですが、もともとは7代目の『鍵屋』の番頭だった「玉屋市兵衛」という人物が暖簾分けをしたのが『玉屋』となりました。
だから、そもそもは同門同士の競い合いだったんですね。
そして、当時人気だった方が『玉屋』だった事から、先に「た〜まや〜」、後に「か〜ぎや〜」と言う掛け声が誕生していきました。
ただ、そんな人気を誇った『玉屋』もある時、半丁(約54.5㎡)ほどの街並みを焼失させる火事を起こしてしまい、そのせいで『江戸』の町から追放されてしまいます。
逆に『鍵屋』の方とは言うと、現存する『最古』の花火株式会社である『株式会社宗家花火鍵屋』として、今も尚その技術を伝承・教育などと行い、江戸川区で運営しています。
そんな隅田川で開催されていた『花火大会』。
その場所は『両国』で開催されており、ここは『国技』である『大相撲』の施設である『両国国技館』やそのきっかけとなった『両国回向院』など、『江戸時代』好きにはたまらないスポットが集結しています。
(上記は『Googleマップ』より引用。)
ここで面白いのが『両国』にある『回向院』はもともと『明暦の大火』によって亡くなった死者のために建てられたのが始まりで、この大火をきっかけに、作られたのが『両国橋』や『永代橋』になります。
当時、『江戸城』防衛のために、隅田川には『千住大橋』しか掛けられていませんでした。
また当時は全て、木造建築になります。
そう言った条件の下、火事になると火が一気に広がり、ひとつしか無い橋を目当てに逃げ遅れた人々はなんと10万8000人。
なんとも悲惨な事件です。
『明暦の大火』は『江戸時代』最大の火災であり、これをきっかけに掛けられた橋を渡って武家屋敷や寺社などが移転。
それに伴い、隅田川の東側に民衆も移動するようになり、『深川』などが発展していきました。
『深川』にある『冨岡八幡宮』は『江戸三大祭』のひとつ『深川祭』として、『江戸幕府』の命により始まったこともあり、保護され370年以上も続く、由緒ある祭となっています。
大火災の復興によって、発展してきた『江戸の町』と『江戸の文化』。
それを肝に銘じて、守り続けることが、大事なんですね。
また『両国』とは『武蔵国』と『下総国』にまたがる橋が出来たことから、両方の国にまたがると言う意味で、この地名が付けられました。
そんな歴史があった場所で開かれた隅田川の『花火』。
『徳川吉宗』の時代には『享保の大飢饉』もあり全国でたくさんの死者を出しました。
その死者の供養のために、隅田川で『花火大会』が始まったとされていますが、実は関係は無いようです。
それでも、その様な話が出ること自体、死者の供養ともなるし、またそれだけ食べ物はもちろん、楽しみにも飢えていたという分かります。
春には隅田川の『花見』が有名ですが、これも隅田川の開発のために、桜の木を植え、それを名所として命じたのも『徳川吉宗』です。
その理由は植えたばかりの桜の木の土を、観光客に歩かせ、踏ませて固くするため。
倹約家『徳川吉宗』ならではのアイディアですね。
そんな現在では『四季』を感じる代表的になった隅田川の『花火』と『花見』。
今年は中止と決定しましたが、来年こそは開催を期待したいですね。
どちらも『日本』の『風物詩』ですから。