茹だる様な暑さで、外に出るのも嫌になってくる今日この頃。
特に『山手』から内側の『都心』に住んでいる方は大変だと思います。
と言うのも、『東京都』で『山手』より内側と言うのは、地形的に見て、めちゃめちゃ坂が多い土地となっています。
『東京都』を含む関東平野は古くても約160万年前もはるか昔は、海の中にありました。
それを証拠に約160万年前の『クジラ』の化石が、『東京都』の西部、『昭島市』で見つかっているんですよ。
その後、火山の噴火や山の隆起・沈降を繰り返しさらに、多摩川や東京湾の波などで浸食で凸凹な地形になって、いまのような坂や谷が多い地域になっていったんです。
そんな坂や谷が多い『東京都』。
特に起伏の激しい、23区ではなんと坂が900ヶ所以上も存在しており、中でも『港区』・『新宿区』・『文京区』などいわゆる『山手』にそれが集中しています。
逆に隅田川や荒川などがあるいわゆる『下町』の方は比較的少ない数になっています。
中でも有名な坂は『九段坂』や『神楽坂』、そして最近ではアイドルグループの『乃木坂』・『欅坂』・『櫻坂』・『日向坂』になりますが、もう一つ『日本』で当時の歴史をひっくり返すような事件があった坂があります。
それが『紀尾井坂』。
では『紀尾井坂』で一体何が起きたかと言うと、『大久保利通』がこの地で殺害されたのです。(実際には『紀尾井坂』ではなく、紀尾井町清水谷。)
『大久保利通』と言うと、倒幕・維新に尽力した中でも特に尽くした3人のひとりで『維新の三傑』になります。
その中でも、特に『大久保利通』は初代『内務卿』、第3代、そして殺害された当時も第5代『内務卿』を務めていた人物です。
『内務卿』と言うのは、『明治時代』の『太政官』制度における、実質的『首相』。
『内閣』制度が開始される1885年(明治18年)12月22日までこの役職は続いています。
そんな、『明治時代』初期の現職トップオブザトップが暗殺されるなんて事件は、スタートしたばかりの近代『日本』に激震が走りました。
何か、現在の『日本』と似ていますねぇ。
さて、この坂は元は『江戸時代』に『紀州徳川家』・『尾張徳川家』、そして『彦根藩井伊家』の藩邸があった場所になります。
だから、その頭文字を取って『紀尾井坂』となったんです。
(上記は『国際日本文化研究センター』より引用。)
上記の図の赤い部分がちょうど、『紀州徳川家』・『尾張徳川家』・『彦根藩井伊家』の藩邸があることがお分かりになると思います。
現在、この地はどうなっているかと言うと、
『紀州徳川家』藩邸跡
→清水谷公園・東京ガーデンテラス紀尾井町・参議院宿舎など。
『尾張徳川家』藩邸跡
→上智大学
『彦根藩井伊家』藩邸跡
→ホテルニューオオタニ
となっています。
となっています。
『彦根藩井伊家』の上屋敷が『江戸城』の『桜田門』のすぐにあり、現住所が「東京都千代田区永田町1-1」になっていることをみると、いかに『彦根藩井伊家』が『江戸時代』を通して、重要な『譜代大名』であり、『明治維新』後も、それを現在も含めて重要な地と置いていると言うのが分かりますね。
なぜならそこには、『大日本帝国』時代の旧陸軍『参謀本部』跡があり、戦後『日本』の『三権分立』の象徴である、『三権分立の時計塔』があるから。
(上記は『東京とりっぷ』より『三権分立の時計塔』 引用。)
このように、ひとつの坂を取ってみても、現在にも繋がる『日本』の歴史を見ることができる『紀尾井坂』。
『東京』には『日本』には、もっとさまざまな坂が存在し、そのひとつひとつが歴史に繋がる坂となっています。
東京観光も、少しちょっと斜め横の目線から見てみると、また違った光景が見えてくると思いますよ。