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『世界最古の国』日本

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佃島・石川島

先日の8月4日〜7日までの4日間、『江戸幕府』に許可をされた由緒ある祭の『住吉神社』の『例大祭』が催されました。

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【出典:『住吉神社例大祭』より。

https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=4183

2023年8月17日利用。】

 

 

 

 

今年は3年に一度の『本祭』として、コロナ禍での規制も無くなったことも相まって、大いに盛り上がりを見せたお祭。

 

 

 

 

中でも、『佃囃子(ばやし)』は『江戸三大囃子』のひとつとして認知されているほど有名な『お囃子』。

 

 

 

 

 

『江戸』の風情を覗かせる、とても粋なものとなっています。

 

 

 

 

でも、なんで『江戸幕府』に許可をされるほどの祭となったかというのが不思議に感じますよね。

 

 

 

 

実はこれには、『江戸幕府』の初代将軍・『徳川家康』に深く関係しているんです。

 

 

 

 

それは、『明智光秀』が『織田信長』を討った『本能寺の変』の事。

 

 

 

 

徳川四天王などを含めた家康一向はその時に、当時『日本』で一番発展していた貿易街、『堺』にいました。

 

 

 

 

信長を討った光秀は、同時に同盟を組んでいた家康を討とうとしたのです。

 

 

 

 

この軍勢から逃れるために、自国の『岡崎』まで必死に逃げる家康一向。

 

 

 

 

この時に『摂津国佃村』の名主と漁師たちの力を借りて川を渡り、その結果『岡崎』まで逃げ切ることが出来ました。

 

 

 

 

このことを覚えていた家康は『江戸幕府』開府後に、彼らを『江戸』に呼び寄せて、『隅田川』の河口にある2つの中州のひとつを埋め立てここに住まわせました。

 

 

 

 

『佃村』からやって来た漁師たちは『江戸幕府』に自由に漁業をしてもよいと言う許可や、年貢免除の特権を得て、発展していったのです。

 

 

 

 

そして、『佃村』の人々が信仰していた『住吉大社』の分霊を経て、『住吉神社』が始まり現在のお祭へと繋がっていくのです。

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【出典:『佃しま住吉乃祭』

歌川広重』作 『名所江戸百景』より。】

 

 

 

 

ただし、『江戸幕府』から漁業や年貢免除などただ恩恵を受けて基盤を作っていただけでは無くて『幕府』からもそれなりに使命を与えられていました。

 

 

 

 

それはこの土地ならではの使命。

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【出典:『Googleマップ』より】

 

 

 

 

現在でこそ、隅田川の河口はその先にある『お台場』がありますが当時はここが最河口部分。

 

 

 

 

だから、売買出来る魚の他にも、小魚や小エビなどがたくさん獲れる場所でした。

 

 

 

 

魚は『江戸幕府』へとその都度献上させ、さらに小魚や小エビなどは『鷹狩り』に使う鷹のエサにすること。

 

 

 

 

そして、もう一つ。

 

 

 

 

最大の目的は隅田川に入ってくる敵から『江戸市中』を護るための防壁となることです。

 

 

 

 

また、隅田川が氾濫した時には他の漁師たちの手助けをすること。

 

 

 

 

これが『佃島』に移り住んだ漁師たちの任された任務だったんです。

 

 

 

 

いわば、隠密(偵察)部隊だったんですね。

 

 

 

 

ちなみに、小魚や小エビなど余った食材を無駄にしないように、醤油や砂糖で煮詰め、保存食としたのが『佃煮』です。

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【出典:『新橋 玉木屋』公式ホームページより。

https://tamakiya-shop.jp/view/item/000000000009

2023年8月17日利用。】

 

 

 

この保存性の高さと値段の安さから『江戸市民』にも庶民的となり、さらに『参勤交代』で自国へ戻る武士にとっては『江戸土産』となって名物になった為、全国に広がっていったのです。

 

 

 

 

それからもうひとつの中州があります。

 

 

 

 

その島というのが『石川島』。

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【出典:『石川島と佃島』 『葛飾北斎』作。】

 

 

 

 

この『石川島』は『佃島』の北側に位置していました。

 

 

 

 

今では、埋め立て地となっており1つの島となっていますが、『江戸時代』にはちゃんと分かれいたんですよ。

 

 

 

 

そんな『石川島』は『江戸時代』の初期、『徳川家光』の時代に『船手頭』という、幕府の船舶の管理と海上運輸を掌っていた役職に就いていた『石川八左衛門』という人物が、この島を拝領(頂いた)したことから、その名前をとって『石川島』と呼ばれるようになりました。

 

 

 

 

 

その後11代将軍・『徳川家斉』の時に、『江戸市中』を徘徊していた、家を持たない者や定職に就かずにいる者たちを集めて、仕事を与え強制的に生計を立てさせる『人足寄場』をここに設置します。

 

 

 

 

面白いのが、ここで働く人々にはもちろん給料は支払られるけど、強制的にその3分の1の給料を積み立てさせ、しっかりと仕事が身について自立できるようになった時に、『生業復興資金』として手渡していたということです。

 

 

 

 

治安も守りつつ、今後その人がしっかりと生活出来るように『幕府』がそれを実践して取りまとめていたというのが、『江戸時代』にはすでに存在していたという事が、『社会保障』があったという事が分かる事例ですね。

 

 

 

 

そんな『石川島』にも世間をひっくり返すような事件が起こります。

 

 

 

 

 

それが…。

 

 

 

 

『ペリー提督』率いる、『黒船来航』。

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【出典:『黒船来航』Wikipediaより。】

 

 

 

 

神奈川県横須賀市浦賀沖に、『黒船』がやって来たのです。

 

 

 

 

これに対応するために、『石川島』には『水戸藩』が造船所を設立。

 

 

 

 

同時に、その先の現在の『お台場』に大砲を配備する台場を作りました。

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【出典:『Googleマップ』より。】

 

 

 

 

だから、隅田川から『石川島』・『佃島』を経てその先には『お台場』が存在しているんですよ。

 

 

 

 

そんな『石川島』の造船所は『明治』に入り、『日本』で最初の民間造船企業として、払い下されます。

 

 

 

これがのちの現『IHI』となり、『日本』でも屈指の重工業企業として、一角を成しています。

 

 

 

 

また、『石川島』にあった『人足寄場』は『明治』に入り、『警視庁監獄所』と改称し、のちに『巣鴨監獄所』に移転。

 

 

 

 

この『巣鴨監獄所』というのが、あの『巣鴨プリズン』となり、のちに『府中刑務所』に移転となり、現在に至ります。

 

 

 

 

そして、『IHI』は『東芝』の再建に携わっており、『府中市』には『東芝』の工場が。

 

 

 

 

地名としてもあるほど、『府中市』を潤しているんです。

 

 

 

全て、歴史は繋がっているんですね。

 

 

 

 

ちなみに、現在では埋め立てられ拡張された『佃島』・『石川島』は『東京名物』でも有名な『月島』や超高層マンションのイメージの強い『勝どき』などが続いています。

 

 

 

 

このように『江戸時代』はたった2つの島だったのが、現在では『日本』を代表するような地域・企業を生み出していたという事。

 

 

 

 

歴史とは深いですね。

 

 

 

 

他にももっと面白い地理が必ずあります。

 

 

 

 

今後もこのような地理の歴史があれば、どんどん紹介して行こうと思いますので、その時は是非ご覧下さい。

 

 

 

 

ちょっと怖い地理もあるかもよ…。