前回お伝えした、「近藤勇」率いる試衛館の面々は「清河八郎」が発案した将軍上洛の為の将軍警護と言うかたちで募集した「浪士組」に参加しました。
その理由は、世の中は目まぐるしい速さで動いているのに、江戸の小さな道場の主で終わってしまうのは悔しいと日々思い、近藤勇に惹かれて集まった食客達もそれを支えようとした結果からだと思います。
京に上れば、何かきっかけが生まれるかもしれないと。
このように熱い志を持って「浪士組」に参加したんですね。
そして、この「浪士組」には後の『新撰組 初代筆頭局長 芹沢 鴨』など、いわゆる芹沢派の面々も、参加していました。
また「浪士組」の参加者は計234人になっており、これら全ての参加者が『伝通院(でんつういん)』に集まりました。
この伝通院と言うのは江戸幕府・初代将軍「徳川 家康」の母を埋葬した寺院で、この母が晩年は伝通院と名乗っていたことからこの名前に改称しました。
その後も、徳川家ゆかりの菩提寺となり『増上寺・寛永寺』とともに、『江戸三霊山』と称し、特に2代将軍・秀忠の娘で『豊臣秀頼(とよとみひでより)』の正室であった『千姫』や、3代将軍・家光の正室や息子など数多くが眠っており、増上寺に次ぐ徳川将軍家菩提寺次席にもなった由緒のある寺院です。
また、清河八郎もこの寺院に眠っている事から、志半ばで倒れた思いが伝わってきますね。
と、ここで一度集められた志士達は解散し、身支度を済ませもう一度、この伝通院に集まり、京へと『中山道』を通って上洛します。
なぜ、『東海道』では無く、中山道を選んだかと言うと、険しい山道が続く「箱根峠」や、船で渡る事が許されていない川を人の足で渡らなければならないと言うような交通面で不便な東海道より、遠回りではあるが比較的楽な道のりで、さらに旅籠の代金も東海道よりも2割程度安いと言う理由からになりました。
それもそのはず。
「浪士組」は幕府が発足した隊で、234名分の宿泊代となると、それだけで大変な金額になってしまいますからね。
ただ、このようなことからも幕府がもはや力を失いつつある事が分かりますが…。
そんなこんなで、東山道を通り京に着いた『浪士組』一向ですが、ここからドンドン歴史の表舞台へと巻き込まれて行く事になるのです!