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『世界最古の国』日本

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新撰組 その③

さて、京に着いた『浪士組』一向ですが、実は発案者の「清河八郎」は将軍警護の為に集めた訳ではありませんでした。

 

 

その本当の目的は『尊王攘夷』だったのです。

 

 

 

この『尊王攘夷』とは「天皇を尊び、外国人を斥(しりぞ)けようとする思想」で、黒船来航以来、幕府や外国人に不満を持った志士達が溢れていました。

 

 

 

その先鋒隊として、実行しようとしたのがこの「浪士組」の発案者、清河八郎だったのです。

 

 

 

しかし、芹沢鴨一派や近藤勇土方歳三など試衛館組などはそれ反対し、あくまで将軍警護の為にと意向を見せ、「浪士組」から離れました。

 

 

 

翌日、清河八郎は残った「浪士組」200名近くを引き連れて朝廷に「建白書」を申し出て、それがまさかの受理されたんですね。

 

 

 

この、背景には当時の天皇である第121代目天皇の『孝明天皇(こうめいてんのう)』は大の異国嫌い。

 

 

 

その理由は開国を許可していないのに、幕府が勝手に『日米修好通商条約』を調印してまった事などが原因になります。

 

 

 

これには大変激怒されたそうで、この他にもロシアやイギリスなどと勅許(天皇の許可)が無いまま、勝手に調印されました。

 

 

 

ここまで悪化した朝廷と幕府の間の打開策としてなされたのがいわゆる『公武合体(こうぶがったい)』です。

 

 

 

これは孝明天皇の異母妹である『和宮(かずのみや)』を14代将軍・『徳川家茂(とくがわいえもち)』に「降嫁(こうか)」する事で、なんとか関係性が保たれました。

 

 

 

そして、家茂と和宮の関係はそれは良い関係だったと言うのが、なんとも微笑ましく思ってしまいますね。

 

 

 

と、この様な時代背景があり、朝廷に「建白書」を提出した清河八郎ですが、このような行動を不安に思った幕府方は「浪士組」を江戸に呼び戻し、帰ってきてからは幕府の刺客に命を狙われて、のちに斬殺されてしまいます。

 

 

 

その後、尊王攘夷派の同志であった「石原周造(いしはらしゅうぞう)」が首を奪還し、清河塾の門生であり、「浪士組」の最初の取締役に就任していた、「山岡鉄舟(やまおかてっしゅう」の妻が『伝通院』に葬りました。

 

 

そして、後に遺族の元に引き渡され今も伝通院に眠っているのです。

 

 

 

また、江戸に戻った「浪士組」は「新徴組(しんちょうぐみ)」と名を改め、庄内藩の預りになりました。

 

 

 

庄内藩と言うのは『徳川四天王』の筆頭である『酒井忠次(さかいただつぐ)』の子孫が江戸時代を一貫して統治していた藩で、老中を出すなど、江戸幕府に対しかなり信用度の高い藩です。

 

 

 

そして「新徴組」は江戸の取締につく訳ですが、これによって江戸の治安は回復しだし、江戸市民にはかなり喜ばれていたそうです。

 

 

その様子を『酒井なくてはお江戸はたたぬ、おまわりさんには 泣く子もだまる』などと謳われていたとか。

 

 

また、「新徴組」の組頭に『新撰組』の一番隊隊長『沖田総司』の義兄である「沖田林太郎」がいたことなど交流もありました。

 

 

 

そして、この「新徴組」が江戸にある薩摩藩邸を焼打ちにしたことがきっかけで世に言う『戊辰戦争(ぼしんせんそう)』が勃発するのです。

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その背景には、最期の将軍・『徳川慶喜』が先手を打って『大政奉還(たいせいほうかん)』をし、幕府こそ無くなりはしましたが、未だに有力は存在では違いありませんでした。

 

 

 

しかし、これでは何も変わらない!と考えていた『薩長』は根こそぎ旧幕府方を取り潰したいと考え、藩士達に「町中で暴れろ!」などと指示。

それを聞いた「新徴組」は薩摩藩を監視しだしたわけですが、その中で薩摩藩の志士が「新徴組」の屯所を襲撃し、使用人が殺害された事によって起こったのです。

 

 

 

この様に考えると、良くも悪くもやはり清河八郎がきっかけで時代が動いたのだと言うのが分かりますね!

 

 

そして明治に入り、清河は『正四位 贈位』をされるくらいの素晴らしい人物でした。

 

 

 

さて、少し脱線はしましたがかなり歴史上の繋がりには重要なので、今回書かせてもらいましたが、次回からは『新撰組』に焦点を戻しお伝えしていきたいと思います。