前回は祝日であり、どうしてもお伝えしておきたかったと言う事で、『建国記念日』についてと、少し都市伝説染みたのを含んだ内容でしたが、今回はまた『新撰組』を中心に、幕末の動乱期をお伝えして行きたいと思います。
『八月十八日の政変』以降、その活躍ぶりを認められた『壬生浪士組』は京都守護職である会津藩主・「松平容保(まつだいらかたもり)」からの呼び出しにより、筆頭局長である「芹沢鴨(せりざわかも)」と試衛館派の局長である「近藤勇(こんどういさみ)が参上しました。
その時に恩賞と新たな名前を拝命されたのです。
その名前こそが
『新撰組』
いよいよ、会津藩の正式なお預かりになり、また京都の警護をする様に、さらに一説には「松平容保」から直々に名前を拝命されたと言うくらいで、さぞ彼らは喜んだ事が容易に想像でします。
また、これにより組織としてもより強化すべく各組長や担当が決まります。
そして、この名前を拝命されたきっかけで、外見なども変わってきます。
それが『新撰組』のイメージと言うと『誠』の文字が入った旗。
また、浅黄色のダンダラ模様の羽織と言うのが強いと思います。
実はこの時に作られたものなんですね。
そしてこの資金は、大阪の豪商で両替商の『鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)』から200両が、筆頭局長である「芹沢鴨」に献金された形でのものでした。
一説には芹沢が奪い取ったと言う説もありますが、当時の1両=現在の約7千円くらいの相場だと言う所からも、いかに『八月十八日の政変』以降、生活が一変したかが分かると思います。
京に上るまでは一介の浪士に過ぎなかった志士たちですから。
そして、この200両もの大金を献金した(鴻池善右衛門」、代々当主が受け継く名前でして、江戸時代の中で同族集団での両替商として最大の『財閥』になっています。
上方落語(大阪)なんかでは、「鴻池の犬」と言う噺などにも登場するくらいの大豪商となっており、幕府や各藩の大名貸しをし繁栄して行きました。
幕末には、「鴻善(鴻池善右衛門の略)、ひとたび怒れば諸侯、色を失う」とも言われおり、意味は「鴻池善右衛門を怒らせてしまっては、大名ですら青ざめてしまうくらい怖い。」
そのくらい、幕府や大名もお金を借りていたと言う事で、財力も無くなっていたと言う事が分かります。
その後、鴻池財閥は鴻池銀行を経て、第二次世界大戦後の「財閥解体」ののち、元山口財閥と合併し「三和銀行」、東海銀行と合併し「UFJ銀行」、東京三菱銀行と合併して「三菱東京UFJ銀行」となって、現在に至ります。
この200両を使い浅黄色のダンダラ模様の羽織は現・大丸松坂屋百貨店となった「大丸」。
そして、旗は同じく現在も百貨店としてある「高島屋」がつくりました。
いま聞いても分かるような店で作っている事なんかはスゴイ面白いですよね。
さて、話を戻しますが、そんな京都の地でも名が知れ渡るようになった新撰組。
旗印を見るだけで、不逞浪士は恐れていたと言うのですから、しっかりとした警備をしていたんですね。
ただし、試衛館組が中心に。
芹沢派、特に筆頭局長である芹沢鴨は昼間から酒を飲み、時には暴れまわったりなど素行の悪さから、会津藩から「なんらかの処置をせよ!」と試衛館組の「土方歳三」・「沖田総司」らに極秘での命が下ります。
そしてちょうど少し前に『局中法度(きょくちゅうはっと)』と言う新撰組内での鉄の掟が発布されます。
まず、第一に『士道に背く事』が挙げられ、その他には、『脱走する事』・『勝手に隊内の金を使う事』・『プライベートで喧嘩をする事』・『勝手に裁判をする事』となり、これに背いたものは如何なるものも『切腹』をしなければなりませんでした。
まず手始めに芹沢派の2番手であった「新見錦」が切腹させられます。
そして、次は芹沢派のトップである芹沢鴨です。
新撰組主催の宴会に出席にした芹沢は、島原の「角屋」で大いに酔い、その後芹沢派と隊士たちと八木邸に帰宅した後になっても泥酔するほど酒を浴びていました。
そして、泥酔しきった所に土方歳三をはじめ沖田総司・山南敬助・原田左之助が芹沢たちを襲い、芹沢派の『粛清』が終わりました。
この時の刀傷がまだ八木邸に残っており、実際に見た時は壮絶だったんだろうと思いましたね。
粛清された日は大雨だったと言う事からも、足音など聞きづらく、しかも泥酔しきって寝ていたのにも関わらず、抵抗が出来た芹沢鴨はやはり、剣術も相当なものだったと言うのが分かります。
それでも4対1となるとやはり負けてしまいますもんね。
そこまでしなければ勝てなかった芹沢鴨はやはり初代・筆頭局長の器であったのでは無いでしょうか。
この「粛清」により、芹沢派は壊滅。
いよいよ試衛館組が中心となっていくのです。