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新撰組 その⑥-八月十八日の政変(2)-

土佐藩山内容堂の側近であった、吉田東洋を暗殺した『土佐勤王党』は事実上の実権を握ったまで、前回お伝えしました。

 

 

そして、『土佐勤王党』の盟主である武田半平太は尊王攘夷派である長州藩薩摩藩土佐藩で密約を交わしそれを実現する為に、坂本龍馬長州藩久坂玄瑞に派遣するなど、様々な働きをしていました。

 

 

 

坂本龍馬はこのあたりから様々な人物に会い、考え学び後に『薩長同盟』を仲介役として成功させる人物になっていきます。

 

 

 

 

そんな中、薩摩藩の国父(藩主の父で隠居しているが実権は握っている)である「島津久光(しまづひさみつ)兵を率いて上京しました。

 

 

 

この時、京にいる尊王攘夷派の藩士たちは歓迎し、「寺田屋」で迎えいれる格好になりましたが、実はこの過激な尊王攘夷派を「粛清」する為のものだったのです。

 

 

 

これが世に言う「寺田屋事件」です。

 

 

この寺田屋、実はもうひとつ「寺田屋事件」がありまして、それは坂本龍馬が幕府から狙われて妻である「お龍」の機転のおかげで、なんとか助かって、後に薩摩藩に匿わられ、その後『薩長同盟』へとつながって行くと言う、貴重な場所になります。

 

 

 

 

この島津久光の考えは実は『公武合体』であったと言うことから、この事件は起きますが、これは先代の「島津斉彬」の意思でもあり、開国派でもありました。

 

 

 

いわゆる、『桜田門外の変』以前の幕府派の考えですね。

 

 

この中で、当時の開国派であった、土佐藩山内容堂や、『前・越前藩 松平春嶽(まつだいらしゅんごく)』、一橋慶喜など処分を受けていた諸侯が幕政に復帰。

 

 

 

朝廷にも開国論に転じて貰おうとする働きの中で、松平春嶽を代表にしました。

 

 

 

開国論を朝廷に理解して貰うには「将軍の上洛があってこそだ!」

と言う松平春嶽の条件を幕府も容認し、将軍上洛の予告を発表。

 

 

これがきっかけで集まったのが「浪士組」だったのです。

 

 

 

こうして一時期は、尊王攘夷派の動きも足が重くなっていくわけですが、長州藩や『土佐勤王党』、また薩摩藩の一部の尊王攘夷派が公武合体派である人物たちに「天誅」を加えるなかで、京のなかでも尊王攘夷派が盛り返してきました。

 

 

 

 

そんな中で、公武合体派の考え方の山内容堂は『土佐勤王党』を露骨に不快に思い始めます。

 

 

 

そして、彼らに対して「他藩士との政治的交際を禁ずる。」と藩命を出し始めます。

 

 

 

 

これがきっかけで、土佐藩は少しずつ歯車が合わなくなっていくのですが、長州藩も「独断で外国船などを撃ってはならない」と言う幕命を無視し、アメリカ商船を無勧告で襲撃するという「破約攘夷)を決行してしまいました。

 

 

 

 

これを機に長州藩アメリカ・フランス連合国との戦い(いわゆる「下関戦争」)が勃発。

 

 

 

その中で産まれたのが、吉田松陰の門生である「高杉晋作」率いる『奇兵隊(きへいたい)』でした。

 

 

この奇兵隊のシステムが、後に幕府を倒す官軍の前身となりその考え方は「武士などの身分などにとらわれず、志しがあるものなら誰でも採用する。」

と言う考えで、明治維新後はたまたま、現在でもその考え方には通ずる様なものでした。

 

 

 

「能力さえ有れば、上に上がれる」と言った実力主義システム。

また、ちょっと『豊臣秀吉』のような考え方ですね。

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そして、志願者には制服も身分を問わず統一していたと言うのも、現在も変わらないものがあります。

 

 

 

 

 

話は戻りますが、この「下関戦争」で土佐藩命を無視し、長州藩の襲撃に関わっていた『土佐勤王党』の幹部達が逮捕され、土佐藩でも尊王攘夷派の弾圧が始まるのです。

 

 

 

 

この結果、長州藩は幕府から孤立し始め、また、『孝明天皇』にも

攘夷論者ではあるが破約攘夷派の公家や長州は好まない。むしろ、開国を勧めて平和的な条約改正を推す薩摩などの方が良い。」

と思われて始め、完全に孤立していったのです。

 

 

 

 

そんな中で薩摩とイギリスとの間で「薩英戦争」が勃発。

 

 

しかし、これは幕命にもある「敵が襲来した際には、打ち払え」と言うのに従っただけで再三注意勧告を出したのに入国(侵略)してきたので攻撃をしたと言うものでした。

 

 

これで薩摩は称賛され、長州は賛同を得られないと言う、雲泥の差の立場になりました。

 

 

 

これはすぐさま攘夷を決行しなければいけないと言う状況に立たされた長州藩は、破約攘夷派の公家に迫り、朝廷からの攘夷決行の勅定を貰うべき、挙兵し京に入ることになりました。

 

 

 

そんな状況の中、『孝明天皇』が『大和行幸の詔』(初代天皇神武天皇陵、春日大社伊勢神宮行幸する)と言うのが発布されました。

 

 

 

これは『孝明天皇』自らの考えでは無く、破約攘夷派の公家達による計画であり、このハードなスケジュールの中で『孝明天皇』は寝る間も無く、憔悴しきっていた。

その間に攘夷決行の勅定を貰い、さらには天皇を長州に迎え入れてしまおうとしたのです。

 

 

 

 

そんな中で薩摩藩は越前藩に代わる新たな提携相手として『京都守護職』に就いていた『会津藩』と急接近しました。

 

 

 

そして、薩摩藩会津藩は念密に計画をし、京都に残っていた公家を説得。

 

 

孝明天皇』にはこの計画の概念だけを伝えると言う形とり、その夜には『兵力をもって、この災いを払うべし!』と決断し、京に残る公家達も賛同。

 

 

そして、翌日の文久3年8月18日の午前4時に会津藩薩摩藩を中心に『京都御所』を固め、さらに京都にいた諸藩主にも参内を命じ、参内した諸藩も兵を固めました。

 

 

 

 

これに『壬生浪士組』も『御所』を護るべく、参加したのです。

 

 

 

そんな一報を受けた長州藩はすぐさま『鷹司』邸に破約攘夷派の公家『三条実美(さんじょうさねとも)』などと集まり、『堺町門』に繰り出しますが、そこを陣取っていた会津藩薩摩藩と睨み合いが続きます。

 

 

 

そんな最中、宮中では長州藩の警備担当を解き、京都から退去するようにと言う勧告が出されます。

 

 

 

睨み合いは夕方まで続きますが、京都東山にある『妙法院(みょうほういん)』まで三条ら公家と共に退去。

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これにより長州藩と7人の公家は京都から追放(『七卿落ち』)となったのです。

 

 

 

ここまで、ざっくりと『八月十八日の政変』についてお伝えして来ましたが、いかがだったでしょうか?

 

 

この政変がきっかけで更なる時代の変化になって行きますので、次回もお楽しみ!