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新撰組 その⑤-八月十八日の政変-

さて、「壬生浪士組」が「京都守護職」に就いた会津藩の預りとなり、市中警護を任される事になり、京都の治安を守っていましたが、文久3年の8月18日にとんでもない政変(クーデター)が起こりました。

 

 

 

それが世に言う『八月十八日の政変』です。

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この背景には、京都では黒船来航以来、尊皇攘夷の動きが勢いをまし、さらに『安政の大獄』で斬首された長州藩の「吉田松陰」の門下生たちなどが『桜田門外の変』以降、さらなる発言力を持つ様になりました。

 

 

 

その理由は江戸幕府が『孝明天皇』の勅許を得ずに『日米修好通商条約』などを結んだこと。

 

 

さらに「大老井伊直弼」が討たれた後に、吉田松陰の意思を継ぎ、世を変えようと努力し、朝廷に働きかけていたのが吉田松陰の開いた私塾『松下村塾』の塾生である「久坂玄瑞」など。

 

また塾生では無いものの吉田松陰から直接、藩校である「明倫館」の時代に兵法の講義を受けていた後に『維新の三傑』の1人としても功績を残す『木戸孝允』もしくは『桂小五郎』が中心になり、『尊王攘夷』のなかでもやむ終えない時には戦争をしてでも攘夷を決行すると言うような『破約攘夷』を勧めたのが『長州藩』でした。

 

 

 

そして、もし生きていたら初代・内閣総理大臣になっていたであろうと言われた『土佐勤王党』の盟主であった「武市半平太」率いる『土佐藩』。

 

 

 

この土佐藩と言うのがまた、他の藩とは全然違う藩でして。

 

 

 

当時の土佐藩には『関ヶ原の戦い』以降、徳川方に付いて、この領地を治めた「山内一豊」の家臣を「上士(じょうし)」。

それ以前からこの領地を治め、豊臣方についた「長宗我部氏」の家臣を「郷士(ごうし)」として、差別化をしていました。

 

 

ただし、のちに尊王攘夷論を勧める『土佐勤王党』(郷士中心)の考えと、富国強兵や開国貿易など、『公武合体政策』を勧める上士達と考え方の違いから、土佐勤王党の刺客によって暗殺されてしまう藩政の中心的存在となった「吉田東洋」などの家系は「長宗我部氏」の旧家臣に当たります。

 

 

また、15代将軍・慶喜に『大政奉還』を提議した「後藤象二郎」の義叔父にあたり、後藤の実父が早くに亡くなってしまった事により、吉田東洋が父親代わりになっていました。

 

 

 

さらに、『自由民権運動』の主導者となる「板垣退助」や『三菱財閥』の創立者である「岩崎弥太郎」なども、吉田東洋の門生でした。

 

 

 

 

さて、この土佐勤王党が出来た背景には、武市半平太郷士ではありますが「白札郷士」と呼ばれる、上士格として認められた事。

そして、剣術の面でも優れていた事により、自ら道場を開く事から始まります。

 

 

そこに集まってきた門生はほとんどが郷士・または農民や町人達でした。

 

 

 

この中には『薩長同盟』を仲介役として「坂本龍馬」と共に成功させた「中岡慎太郎」や、京の都を「天誅」として、公武合体派を恐怖のドン底に追い伏せた「人斬り以蔵」こと「岡田以蔵」などがおり、『土佐勤王党』の母体を作っていきました。

 

 

 

 

そんな中、藩命により江戸剣術修行が許され、『幕末の江戸三大道場』のひとつである『鏡新明智流 士学館』の門生となり、塾頭にまでになります。

 

 

 

 

そして、この江戸三大道場で、『神道無念流 練兵館』の塾頭には長州藩桂小五郎がなっており、また『北辰一刀流 玄武館』には『新撰組』の総長である「山南敬助」や八番隊隊長「藤堂平助」などがいます。

 

 

 

 

その後、幕政では次の将軍を一橋慶喜に推薦していた「山内容堂」が「大老井伊直弼」により、隠居・謹慎にさせられ、土佐藩士達は激しく怒り、憤りを隠しきれませんでした。

 

 

 

そんな中でかの有名な『桜田門外の変』が起き、土佐藩士達は『赤穂浪士』のようだと感銘を覚え、次第に尊王攘夷の動きが高まって行った訳です。

 

 

 

 

 

その後、剣術修行の名目で再び江戸に来た武市半平太は、桂小五郎久坂玄瑞、また「高杉晋作」などと交流を持ち、久坂や高杉たちの師である「吉田松陰」の思想に深く共鳴しました。

 

 

 

 

そして、土佐藩尊王攘夷運動に対し、遅れていると痛感し長州藩薩摩藩土佐藩の三藩で朝廷にこの尊王攘夷運動を直訴する計画を立てました。

 

 

 

 

この時期に先程も書いた『土佐勤王党』の刺客による『公武合体派』である吉田東洋の暗殺によって、実質的実権を武市半平太は握って行くようになるのです。

 

 

 

 

 

と、ここまで『八月十八日の政変』の背景をお伝えしてきましたが、まだもう少しあるので次回も是非ご覧下さい。