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『世界最古の国』日本

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三英傑と明智光秀

前回はだいぶぶっ飛んだ、戦国時代後半のお話を途中までしましたが、今回はその続きを。

 

 

 

 

ちなみに、これは私の想像の範囲、こうだったら面白いなというフィクションですのでご了承ください。

 

 

 

 

 

さて、「豊臣秀頼」の元服までを補佐する役職である『五大老』の筆頭となった「徳川家康」。

 

 

 

 

 

その頃、『天皇家』や公家が住んでいる京の都や「秀頼」の本拠地である大坂(現在は大阪と字が変わっています。)から、かなり離れた場所の江戸に本拠地を移し、着々と領土の開拓に励んでいました。

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そのおかげで現在も首都・東京として成り立っている部分も多いんですね。

 

 

 

 

 

そんなある時に、『五大老』の重鎮でご意見番として担っていた「前田利家」が死去。

 

 

 

 

 

 

「これでもう自分に何も言うヤツはいない!」と悟った「家康」は一気に実力行使に出ます。

 

 

 

 

 

ではなぜ、こんな実力行使に出れたのか。

 

 

 

 

それは『比叡山』出身のある僧と出会ったからです。

 

 

 

 

その僧とは…。

 

 

 

 

 

『天海』

 

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この2人の出会いで時代が動いたんですね。

 

 

 

 

「どのようにして『豊臣政権』を潰そうか。」

 

 

 

 

 

悩んだ末に「家康」は『天海』に相談。

 

 

 

 

 

のちには『徳川幕府』のブレーンにもなる『天海ですが、この時『朝廷』との交渉役を担うんです。

 

 

 

 

 

関ヶ原の戦い』の大義名分を。

 

 

 

 

そして、その後「徳川家康」は『征夷大将軍』に任命され、『江戸幕府』を開府。

 

 

 

 

この時も『天海』が朝廷側との交渉役に。

 

 

 

 

では、なぜここまで『天海』が朝廷側との交渉が出来たのか。

 

 

 

 

 

それは言うまでもない、『天海』が「明智光秀」だったからです。

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前回、『本能寺の変』は実は「信長」のわがままで起こした自作自演の出来事というお話をしました。

 

 

 

 

 

(信長)「もう、色んなプレッシャーで疲れたから社長(織田軍のトップ)辞めて、妻と一緒にどこか静かな場所で暮らしたいなぁ。でも、急に辞めるのもあれだから、副社長の光秀。おれに謀反を起こして、おれを死んだことにしてよ。」

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(光秀)「えー、私がですかぁ。嫌だなぁ、そんな役。」

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(信長)「大丈夫だよ、君には『天皇家』や公家、そして公方様の後ろ盾もあるし、戦術にもたけてるじゃん。それにおれ、チョー嫌われてるし…。」

 

 

 

 

(光秀)「分かりましたよ、やれば良いんでしょやれば。」

 

 

 

 

そこに取締役専務の「秀吉」が登場。

 

 

 

 

(秀吉)「それは流石に他の者たちに示しがつかないんじゃないですか?こうは、どうでしょう。

光秀様が信長様を討って、信長様はどこか違う土地で静かに余生を過ごされる。

信長様を討った光秀様を敵討ちとして、私が討つと見せかけて光秀様を逃す。

そのかわり、家族のいのちの保障は私がします。

そうだなぁ、光秀様は『延暦寺』攻略の時の総大将だったし、向こうとも面識があるから、『延暦寺』に匿ってもらいましょう。

僧侶になったとして。

もちろん、名前は変えてね!」

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これを聞いていた傘下の社長「家康」。

 

 

 

 

(家康)「…。」

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(信長)「よし、んじゃあこの作戦で行こう!」

 

 

 

 

もはや自分のことしか考えていない「信長」の意向と、「秀吉」の思惑にはめられた「光秀」。

 

 

 

それを黙って聞いていた「家康」。

 

 

 

 

 

 

このような流れで、始まった『本能寺の変』と『豊臣政権』ですが、「秀吉」も高齢になり、子供もいないということで、「家康」に次を頼むと言われます。

 

 

 

 

 

それを承諾した「家康」でしたが、「秀頼」が生まれた途端、その考えを180度変え「秀頼」補佐し、『豊臣政権』を守ってくれ!と言われます。

 

 

 

 

 

どこまでもずる賢い「秀吉」ひいては『豊臣政権』に対して怒った「家康」が「光秀=天海」に相談し、『関ヶ原の戦い』で勝利し、ようやく『天下人』になったんです。

 

 

 

 

 

まさに、『鳴かぬなら 鳴くまでまとう 時鳥』ですね!

 

 

 

 

その後も武家としてではなく、公家(関白)として存在し続ける「秀頼」。

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「家康」は上洛するたびに何度も「秀頼」と直接会う機会を設けてますが、それを嫌がる母「淀姫」。

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その理由は、さまざまですが「家康」に屈服するのを嫌がったなどとあります。

 

 

 

 

 

 

「淀姫」側としては、いまだ『関白』である「秀頼(『豊臣政権』)を維持していきたいと言う母親の親心があったんでしょうね。

 

 

 

 

 

 

しかし、そんな逃げの姿勢も束の間。

 

 

 

 

「家康」の『天皇』攘位という名目でいよいよ「秀頼」と「家康」が直接会うことになります。

 

 

 

 

そして、いざ対面してみると「家康」はビックリしました。

 

 

 

 

 

「秀頼」の容姿を。

 

 

 

 

それがなぜかと言うとあまりにも身体が大きかったからです。

 

 

 

 

当時の平均身長は150cmほど。

 

 

 

 

しかし、「秀頼」の身長はなんと197cm、約200cm近くもあったんです。

 

 

 

 

今ですらこんな身長があったら驚きますが、それが『戦国時代』だとしたら…。

 

 

 

 

 

腰を抜かすほど驚きますよね。

 

 

 

 

ここで「家康」は『豊臣政権』を根こそぎ滅亡させようと決意するのです。

 

 

 

 

『光秀=天海』と共に。

 

 

 

 

 

こうして2回の『大坂の陣』で、『豊臣政権』は滅亡するのですが、実は「秀頼」は生き延びて、九州に行ったと言う説があります。

 

 

 

 

 

さらに九州で子供までおり、鹿児島ではある有名な人物の名が「豊臣秀綱(ひでつな)」だったと言う古文書が寺院に残っているのです。

 

 

 

 

 

では、その人物とは。

 

 

 

 

 

 

天草四郎時貞

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その理由は「馬印」という、戦において大将がそこにいると知らしめる旗が「千成瓢箪」だったのです。

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しかも、『江戸幕府』の筆頭老中など12万の戦力で全滅させているのです。

 

 

 

 

『豊臣政権』滅亡のために。

 

 

 

 

そしてそれ以降、江戸時代を通して三桁を越える戦争がないことから、江戸時代最後の戦いとなり、平和な時代が230年も続くことになったのです。

(『戊辰戦争』は『大政奉還』後なので、実際は江戸幕府は解体している。)

 

 

 

 

 

 

まさに、『徳川の世』になったわけです。

 

 

 

 

 

そして、『天海』は『江戸幕府』のブレーンとして、江戸市中を中心に陰陽道など風水を駆使して、さまざまなものを設計し平和な世を作りあげていったんです。

 

 

 

 

 

 

こうして、一時代をを築いた『三英傑』と「明智光秀」。

 

 

 

 

歴史で習う事だけでなく、色々な角度から視ることによってまた、新たな発見が見つかるのではないでしょうか。

 

 

 

また、「コロナ禍」により今まさに新たな時代へと移り変わっています。

 

 

 

このような時代だからこそ、先人たちが生き抜いた知恵を駆使し、より良い時代にしていかなければいけません。

 

 

 

 

次の世代のために!