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『世界最古の国』日本

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江戸三大刑場

夏本番となり、茹だるような暑さの皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

 

 

 

 

『日本人』は島国という特異な地形から『夏』は高温多湿の時期から、さまざまな方法でその暑さを乗り切るために工夫を凝らし生活してきました。

 

 

 

 

 

そんな中でも今回はいわゆる『心霊スポット』として、有名な『江戸三大処刑場』跡地についてご紹介していきたいと思います。

 

 

 

 

 

まず、1つ目は多分、『江戸時代』の中でもきっての有名な処刑場、『鈴ヶ森刑場』跡。

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(上記は『Googleマップ』より引用。)

 

 

 

 

ここは地図からも分かる様に、『江戸市中』の南の玄関口、『品川区南大井』に置かれた処刑場で、『東海道』沿いに設置されていました。

 

 

 

 

これは当時、『東海道』から入ってくる『浪人』たちの犯罪が多発したために、その警告の意味でこの地に設置されたとなっています。

 

 

 

 

ここで処刑された最も有名なのが、『八百屋お七』。

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(上記は『月岡芳年』作 『松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)』より引用。)

 

 

 

 

 

坂本冬美」が歌う、『夜桜お七』のモチーフとなった人物です。

 

 

 

 

この話は現在、さまざまな芸能・文学などの形で取り入れられている作品になりますが、それはそれは悲しい物語であり、また実際いた人物でもあります。

 

 

 

 

 

この物語は、5代将軍『徳川吉綱』の時代。

 

 

 

 

『天和の大火』によって、八百屋の娘であった『お七』と家族は『正仙院』と言う寺院に避難しました。

 

 

 

そこで出会った若者に恋い焦がれてしまい、もう一度火事になれば、再びこの若者に逢う事が出来ると考えます。

 

 

 

 

そして、自らの手で放火をしてしまいその罪で捕まってしまいます。

 

 

 

 

 

その時の火事は、小火程度の大した火事には至りませんでしたが、今も昔も放火は重罪に当たります。

 

 

 

 

その罪によって『火あぶりの刑』となり、それを見た『江戸』の民衆たちは同情したと言うものとなっています。

 

 

 

 

なんとも儚い娘の、そして哀れな描写を描いているこの作品ですが、それでも「悪いものは悪い!」と教訓にもなっている作品になっているんですね。

 

 

 

 

だからこそ、未だに人気な物語なんです。

 

 

 

 

 

次に、有名な『江戸』の処刑場として、現在の

荒川区南千住』に置かれた『小塚原刑場』跡。

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(上記は『Googleマップ』より引用。)

 

 

 

 

 

ここは『江戸市中』の北の玄関口として、『日光街道』沿いに設置された刑場です。

 

 

 

 

 

やはりこの地も『鈴ヶ森刑場』と同様、『日光街道』の最初の宿場町(『東海道』の最初の宿場町は『品川宿』)として、外から入ってくる浪人たちへの警告の意味として、この地に設置されたとなっています。

 

 

 

 

 

また、この近くの『千住大橋』は『江戸幕府』最初の大橋として、隅田川に架けられたものであり、この大橋以外は防衛上、隅田川に架ける橋は認めないとしていましたが、『明暦の大火』以後、交通上・安全上のためにいくつかの橋を架けるよう『江戸幕府』が認めました。

 

 

 

 

 

それだけ、重要な拠点だったと言うことですね。

 

 

 

 

そんな、『小塚原刑場』ですが『鈴ヶ森刑場』とは違い、刑死者を解剖したり、刀の試し斬りをしたり、また国の反勢力である『国事犯』を埋葬する場所となっていました。

 

 

 

 

あの『安政の大獄』で処刑された『吉田松陰』やかた『橋本左内』などもこの地に一時、埋葬されるというくらい、『江戸幕府』との繋がりが深かった場所です。

 

 

 

 

さらに、『杉田玄白』などで有名な『解体新書』の翻訳のために、この地の刑死者を使い、解剖しその正確さを調べていた場所となり、その結果のちに、その後の『日本』で西洋医学が大いに役立つものとなったのは言うのは、言うまでもありません。

 

 

 

 

 

ただ、通常の刑死者の埋葬は、申し訳程度に土をかけるなどで、『夏』になると周辺には悪臭が漂い、野犬やカラス、イタチなどがそれを食い散らし、まさにその光景は『地獄絵図』のようだったそうです。

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(上記は『地獄絵図』『西福寺 蔵』より引用。)

 

 

 

 

そんな経緯もあり、両国にある『本庄回向院』の住職の弟が、死者の埋葬と供養を行うために創建したお堂が、後の『南千住回向院』となります。

 

 

 

 

 

最後は『東京都八王子市』にある『大和田刑場』。

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ここも『江戸』の重要な街道である『甲州街道』沿いにあります。

 

 

 

 

そして、『甲州街道』から『江戸市中』に入る防衛ライン。

 

 

 

 

この地を防衛していたのが『八王子千人同心』ですが、そこから程近くの『浅川』の河原が『大和田刑場』になっていると言うのも、やはり『江戸幕府』は『甲州街道』から出入りする浪人、また多摩地域の人々にと警告する目的で設置されたというのが伺えます。

 

 

 

 

事実、『甲州街道』は将軍家に『有事の際』に甲府まで避難するための最終防衛ライン。

 

 

 

 

一番重要な街道とされているので、鉄砲隊や足軽など数多くの兵をここ、『八王子』に置きました。

 

 

 

 

現在の『八王子市千人町』はそんな守備を固める兵を集めた『八王子千人同心』から付いた地名となっています。

 

 

 

 

 

だから、『八王子市』周辺の多摩地区では、普段は農家として生計を立て暮らしているが、一度戦が起こるとすぐに戦闘態勢に慣れるよう日々訓練し、そのような地域の歴史的背景から、幕末に多摩地区出身の『新撰組』が登場したのでしょう。

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(上記は『新撰組Wikipediaより引用。)

 

 

 

 

 

このように、『江戸市中』にとって全て重要な街道沿いにあった『江戸三大刑場』。

 

 

 

 

 

いかに、当時その警告としての意味をもち、『江戸市中』を護ってきていたかが、分かります。

 

 

 

さて、皆さんはこの3カ所の『刑場』、『刑場』以外に跡地が共通なものがあります。

 

 

 

それがなんだか分かりますか?

 

 

 

 

答えは、『江戸三大刑場』跡地が『三角形』になっていること。

 

 

 

 

そして『風水』で、『三角形』の土地を見てみると…。

 

 

 

 

 

『大凶相』

 

 

 

 

だったんです。

 

 

 

 

 

『風水』では「尖った所には殺気がある。」とされており、そう言った点を見ても、元『刑場』という場所には良い気が流れていないんですね。

 

 

 

 

 

だから余計に『心霊現象』など不可解な現象が起き、それが広まって『心霊スポット』になるんですね…。

 

 

 

 

 

今ではその面影は残っていなかったり、『跡地』という石碑すら無い場所もありますが、決して遊び半分で行かないことをオススメします。

 

 

 

もちろん、歴史的資料などで行く事は、良いと思いますが、それ以外の目的でむやみやたらと足を踏み入れては…。

 

 

 

 

何が起こっても知りませんよ。

 

 

 

 

自己責任でお願いします。

 

 

 

 

ただ、間違いなくこういう場所が過去に実際にあったんだと言うことと、それが主要な街道沿いにあったと言うこと、そしてその目的は『江戸幕府』を守るためということは忘れないでください。

 

 

 

 

そして、だからこそ『江戸幕府』は260年以上も続いたということも!