前回、『疫病退散』のご利益があると言われている『アマビエ』と『ゲゲゲの鬼太郎』第5期でその『アマビエ』とともに準レギュラー扱いとされていた『カワウソ』についてお伝えしました。
そして、この『カワウソ』は津軽地方では精魂を奪いヒトのやる気を失ってしまうと言う伝承があり、さらに津軽藩の歴代城主である「津軽氏」は「南部氏」から独立をして城持大名となりました。
また、南部地方には『遠野物語』として有名な妖怪にまつわる話がたくさん残っていますが、この遠野地方には、江戸時代に入り「南部氏」の御三家と言われる「八戸氏」がずっと守っており、「南部遠野家」とも呼ばれていました。
(ただし、江戸時代に独立した「八戸藩」の藩主とは直接的な関係はありません。)
そして、明治維新後の『廃藩置県』により、津軽藩と南部藩、そして元々は会津藩の士族たちが移り住んだ斗南藩とともに、「青森県」を成立しました。
無茶苦茶、中が悪いのです。
しかも、未だに…。
その理由は南部藩から独立したと言いましたが、その経緯から来ています。
実は、津軽家の初代藩主である「津軽為信(つがるためのぶ)」は南部氏の家臣だったんですね。
しかも、今の津軽地方の領土あたりを束ねていましたが、『豊臣政権』時代に工作をはかり、「石田三成」を介して「豊臣秀吉」に大名として認めてさせました。
ようは、南部氏を裏切った上に、上洛要請の際、南部氏よりも早く着き、その間に津軽地方の領地を治めている大名だと認めてさせたんですね。
しかも、秀吉などが好んでいた「鷹狩り」の為の鷹を津軽産のものを贈ったり、一早くから『豊臣政権』に対して恭順な姿勢を示すなどの工作をはかり領土安堵となったとみられています。
さらに、これには石田三成を通じて一連の工作を行なっており、その恩赦から三成の死後、三女の辰姫(豊臣秀吉の死後、正室である高台院の養女となっています。)を2代目藩主の正室(のちに側室と降格となる)としてむかえます。
そして、この2人の子が3代目となり以降、江戸時代を一貫して三成の子孫が跡を継いでいます。
上記で話し側室となった辰姫も、特に問題を起こしたわけではなく、「徳川家康」の養女を妻(正室)として迎えなければ行けなくなってしまったので、あえなく降格させることになりました。
また、三成の次男の「石田重成」も『関ヶ原の戦い』後に津軽に逃げ、「杉山八兵衛」と改名し、津軽氏の重臣となり子孫は家老として、江戸幕府解体まで存続していました。
いわば、石田三成の子孫たちが名前を変え、場所を変え脈々とその血を受け継いでいったのです。
さらに、弘前城(津軽藩城)の敷地内に「館神」と言われる社を初代藩主が建立し、その中には豊臣秀吉の木像が入っていました。
先日、大阪の『大宮神社』で見つかった国内最大級の秀吉像もそうですが、徳川時代でもやはり、『太閤様』信仰が秘密裏に続いていたと言うのが、分かりますね!
さて、はなしは戻しまして青森県には津軽弁と南部弁、さらに下北半島に移り住んできた旧会津藩士たちからなる、下北弁といものがあります。
今回は津軽と南部のお話を取り上げているので、そちらのお話をしますが、実は日本で唯一旧藩境と、方言の境界線が一致している場所があるのです。
それが、南部側が野辺地町
津軽側が平内町
です。
これは、現在でも市町村が違うために、通う学校も違うために、方言の境界が守られている日本で唯一の場所で、かなり貴重なものとなっています。
これからも、このような場所はずっと保存していきたいですよね。
さて、今回はなぜ現在まで対立いまだにしているのかのきっかけなどをお伝えしまたが、次回はちょっとしたに面白話を含めて、もう少しだけお伝えしようと思います。
なかなか笑えますよ!笑