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『世界最古の国』日本

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家康と三成、そして…

2023年(令和5年)のNHK大河ドラマは『どうする家康』。

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【出典:NHK大河ドラマ『どうする家康』より】

 

 

 

 

今までのでっぷりとして、歯に衣着せぬ物の言い方などの態度を示す、いわゆる「狸親父」のイメージを払拭させるようなキャラクターの『徳川家康』。

 

 

 

これからどのようにして成長していき、のちに260年以上の『天下泰平な世』を築く祖となっていくかが楽しみですよね。

 

 

 

 

そしてもう一人、『徳川家康』がその泰平な世をつくる事が出来るようになったきっかけを引き起こしたのが、『石田三成』。

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【出典:『石田三成』像 東京大学史料編纂所所蔵より】

 

 

 

三成も三成で、ドラマや映画では「嫌味な奴」というイメージが定着している武将。

 

 

 

 

でも、実はこの2人には、現在でも続くなぜか切っても切れない関係があることをご存知でしょうか?

 

 

 

 

そもそも、家康は『桶狭間の戦い』で『今川義元』が『織田信長』に負けたあと、『岡崎城』に入り、同盟を結びます。

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【出典:『織田信長』像 長興寺蔵より】

 

 

その後、『天下』を目前にした信長はナンバー2の配下であった『明智光秀』に、京都・本能寺にて敗れました。

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【出典:『明智光秀』像 本徳寺蔵より】

 

 

その報復によって光秀は『豊臣秀吉(当時は羽柴性)』に敗れ、秀吉は『天下統一』を成し遂げ、いわゆる『豊臣政権』となります。

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【出典:『豊臣秀吉』像 狩野光信画より】

 

 

 

 

 

この時、秀吉は『征夷大将軍』という武士の中でも最高位の役職よりも、公家として『太政大臣』・『関白』となり、『朝廷』から『豊臣』という新たな姓を賜ります。

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【出典:『豊臣氏』 家紋より】

 

 

 

 

この頃より三成は側近として、政務を執るようになりました。

 

 

 

いくらトップに秀吉という強大な力があるとはいえ、血の気の多い武将たちを執り仕切るというのは、さぞ苦労が多かったことだと思います。

 

 

 

小姓時代から苦楽を共にした『加藤清正』や『福島正則』ら武闘派には、政務しか執らない三成のことを煙たがっていたという文献も存在していますし、仲間なのに敵という狭間に押しやられ、それを思うだけで同情したくなります。

 

 

 

どちらも秀吉のひいては『豊臣政権』のために頑張っていることだけは間違いないんですけどね。

 

 

 

 

そんな秀吉が死に、息子である『豊臣秀頼』を中心とした政権を維持したかった三成。

 

 

 

 

でも、秀吉についてきた武将たちの心はすでに『豊臣政権』にはありません。

 

 

 

 

その理由は、家康が裏で糸を引いて、家康側に付けば恩賞と安堵の土地を与えるとしたから。

 

 

 

 

このようにして、どんどんと家康側に付く武将と未だ豊臣側についている武将の武力衝突が1600年に勃発します。

 

 

 

 

それがかの有名な『関ヶ原の戦い』。

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【出典:『関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)』
関ケ原町歴史民俗資料館より】

 

 

 

 

これは、秀頼が成人になるまで『豊臣政権』を補佐すると約束した家康とそれに賛同し裏切った武将たちを正すためのもの。

 

 

 

 

『西軍』の総大将を『毛利輝元』とおいた三成と、その毛利に対して、この戦いにおいて手を出さないように書状を送り、納得させていた『東軍』の総大将、家康。

 

 

 

 

どちらが勝利するかは目に見えています。

 

 

 

さらに、この戦の勝敗を決めるきっかけとなった『小早川秀秋』は、もともと『豊臣氏』を継ぐはずだったのに、秀頼が生まれてからと言うもの、その約束も解消・さらには待遇も粗末なものとドンドンなっていったといいます。

 

 

 

 

それは裏切るわ!って話ですよね。

 

 

 

 

でもね、本当はこのことを三成・そして秀吉の側室である『淀殿』は知っていたんです。

 

 

 

 

秀吉亡き後、ドンドンと家康側についていくかつての臣下や仲間たちを目の当たりにし、どの道『豊臣政権』は続かないと、なら大義名分がある今こそ、戦うべきと判断したのです。

 

 

 

 

だから、『淀殿』は裏切った臣下も何も行動を起こさなかった総大将である毛利にも、何も罰を与えていません。

 

 

 

 

そして、三成はこの戦で見事に散り、『悪』の顔として京都・六条河原で晒し首となります。

 

 

 

 

さぞ、悔しかったでしょうね。

 

 

 

 

でも、その気持ちは晴れ渡っていたのかも…。

 

 

 

 

と、このように『関ヶ原の戦い』で勝利した家康は、『朝廷』から『征夷大将軍』の称号を賜り、『江戸幕府』を開府します。

 

 

 

 

ここで不思議なのが、三成の子供たちが全く処刑の対象とならなかったこと。

 

 

 

 

『敵側の将』である三成の子供をですよ?

 

 

 

普通であったら今後、反逆しないようと皆殺しになります。

 

 

 

それどころか、次女の『小石殿』の孫である『お振の方』を自分の孫である3代将軍『徳川家光』に側室として嫁がせています。

 

 

 

 

そして、その子供が『尾張徳川藩』の3代目当主となり、さらにその子孫が…。

 

 

 

 

 

 

 

昭和天皇

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【出典:『天皇旗』Wikipediaより】

 

 

 

 

これは『大正天皇』の皇后である『貞明皇后』がその血を継いでいたからです。

 

 

 

 

さらに驚くべきことに、『貞明皇后』は秀吉の姉の血まで継いでいることから、直接的では無いものの、『豊臣』の血も継いでいるのです。

 

 

 

だから『織田』・『豊臣』・『徳川』・『浅井』、それから『石田三成』の血を継いでいるんですね。

 

 

 

 

いまの『皇族』の方々は‼︎

 

 

 

 

そしてそのもっと先には、世界で最も有名な人物の血も…。

 

 

 

 

それが分かるのは、あと数年先の話でしょう。

 

 

 

ヒントは「世界で最も読まれている本に登場する人物‼︎」です。

 

 

 

誰でしょーね⁉︎