2022年もすでに3分の1が過ぎ、いよいよ本格的な年末年始へと近づいています。
大掃除や、『クリスマス』・『大晦日』・『正月』で使うの食材調達など何かとバタバタしている時期、まさに『師走』ですね。
『師走』とは「御坊さんもバタバタ走り周るくらい忙しい月」と言う意味です。
『日本』ではその昔『年末』になると各家庭で先祖の供養をするのが風習でした。
特に、『武士』や『商家』・『豪農』など裕福で代々続いている家庭では、先祖に対して「今年も見守って下さり、ありがとうございました。また、来年も『一家繁栄』を御守り下さい。」と言った供養をしていました。
そんな由緒ある家庭である檀家に頼まれたら、御坊さんも御経をあげに行くしかありません。
それが『年末』の12月に何件も続いたら、走り周るしかありませんよね。
今のように車や電車が無い時代なんですから。
だから、『師走』となったんです。
そんな御坊さんじゃなくても、慌ただしい時期に、最早『年末の風物詩』と呼ばれている場所があります。
それが『上野アメ横』。
(上記は『上野アメ横商店街』公式サイト。)
そして、『上野アメ横』がここまで賑わいを見せているのは、ここ『上野』が『北の玄関口』だったからです。
『北の玄関口』と言うのは、東北地方や北陸地方などから東京に来る時の終点駅だった『上野駅』からです。
電車に乗って来て、そこから都内の目的地に向かうことからこのような通称になりました。
では、一体なぜ『上野駅』が終点駅となったのか。
それは『明治時代』初期の都市開発計画によってが理由となります。
『明治』と言う新しい時代に入り、『近代化』を目指していた政府は軍の拡張とともに、鉄道の全国的拡張を目指していました。
そんな中で、『西郷隆盛』率いる反乱士族による『西南戦争』が勃発。
政府はこれを鎮圧こそしましたが、この時に莫大な費用と『明治維新の三傑』のひとり『西郷隆盛』を失います。
ちなみに、『明治維新の三傑』残り2人の『大久保利通』・『木戸孝允』もこの後、わずか8ヶ月で命を失います。
こうして、『幕末』から『明治』初頭を引っ張ってきた重要人物たちが相次いで死んだことで、名実ともに『明治時代』となり、その中で国民一体となって出来たスローガンが『富国強兵』でした。
「国を豊かに、軍事力も高める」をスローガンにしたこの『一大国家プロジェクト』。
でも、政府にはお金がありません。
ここで『伊藤博文』や『岩倉具視』など政府関係者が目をつけたのが、『国営』では無く『民営』にすること。
すなわち、企業によって鉄道を作らせることでした。
もちろん政府からの支援もあったので、『反官反民』とかたちとなった企業が、このおかげで次々と増えていくことになったのです。
そしてこの当時、『富国強兵』の『富国』の源は『絹』を海外に売り、儲けると言う目標と掲げていました。
その主要な拠点となったのが、『世界遺産』にも登録された『富岡製糸場』。
(上記は『富岡市観光ホームページ』より引用。)
ここは、養蚕業・製糸業の国内最大、そして官営施設です。
ここで生産された『絹』は、海外に売って『日本』の資産にする『金の卵』。
だから『絹』を運ぶ鉄道も必要があった。
これに名乗り出たのが、『日本鉄道』(現『JR東日本』)であり、最初は『上野』−『高崎』間を開通させました。
(上記は『JR東日本』公式ホームページより引用。)
もちろん、『半官半民』というかたちで。
その後、『日本鉄道』は『青森』や『新潟』方面まで延ばし、名実ともに『北の玄関口』となっていったのです。
さて、では一体なぜ『上野』までなのか疑問に思うのでは、無いですか?
実は、この当時『私鉄』は『東京市』の内側には入ってはいけないという規則がありました。
そう、『官営』以外の企業は『東京市』の内側に建設してはいけなかったのです。
だから、『上野駅』は、そもそも『東京市』の北の端に『東北』や『北陸』からの始終着駅はとして建設されたんです。
その理由は表向きには2つ。
1つは、『東京市』の外観をそぐわない様にするため。
もう1つは、当時の移動と言えば『馬車』が主流でした。
馬が汽車が通り過ぎるのを踏切で待っている時にビックリして暴れては困るということで禁止されていたんです。
とまぁ、これはあくまでも表向きの禁止。
本当は、いくら『半官半民』とは言え、実際には企業です。
政府としてはその権威を失いたくありませんでした。
また軍用施設の妨げにもなってしまう可能性があったために、こちら側にも気を使わなければならない。
だから、あえて『東京市』の内側には『私鉄』を通すのを禁止したんですね。
敗北した『旧幕府軍』の残党が北へ北へと向かい『会津戦争』・『箱館戦争』と繋がり敗戦しました。
この意味がお分かりでしょうか。
そう、『新政府軍』に刃向かったのは、その残党及び、『会津藩』・『庄内藩』・『越後藩』を筆頭とする『奥羽越列藩同盟』だったからです。
だからこそ、『上野』の地で一旦足止めをさせたんですね。
つい最近まで…。
と、この様に『幕末』から『明治』に掛けて、深い歴史の闇の当事者となった地、『上野』。
昨今のコロナ禍で、観光客も減少し財政難にもなりつつあるようです。
制限が無い今、どの様に客を呼び寄せるかが課題となりますが、やっぱり『上野』は『江戸』の面影と、『昭和』の香りが残っている風情があって良い街だなぁと、常々感じます。