前回、『江戸前』と呼ばれる理由とその地域についてお伝えしましたが、今回は特に現在、東京の観光名所などで目にしたり、聴いたりする『江戸前寿司』と『江戸前蕎麦』、そして『天婦羅』についてお伝えしたいと思います。
というのも、これには江戸庶民たちの生活習慣が深く関係しています。
まず、徳川家康が江戸幕府を開いたことで、『日本橋』が物流の中心となり、それにつけ加えて、大名屋敷などの建てるために、幕府からの命で各藩が、もともとは「入り江」だった江戸城周辺を埋め立てるよう指示がありました。
そうすると、各藩は土木・建設事業(この時の工事は各藩の実費でした。)で「武士」以外の人手が必要となってきます。
また、『参勤交代』で各藩の大名をはじめ武士たちも集まり、江戸市中の人口はドンドン増えてきます。
結果、物流の中心となり『五街道』の起点ともなった『日本橋』は賑わいに溢れてるようになり、さらにそれを聞いた各地の商人たちもたくさん集まり、江戸市中は大変な賑わいになっていきました。
こうして多種多様な店が並ぶ街へと『日本橋』は変化していったのです。
それにつけ加えて、江戸時代中期ごろになると、現在の千葉県・野田市周辺で、東側の利根川沿いの大豆や小麦の生産地・また西側の江戸川下流では『行徳の塩』としても当時から有名な塩田があり、『醤油』作りに最適な立地条件から製造が始まりました。
また、川を通して江戸市中にも流通ができたために、江戸っ子たちに『醤油』が爆発的人気になったのです。
野田の『醤油』と言えば『キッコーマン』が有名ですよね!
そして、『日本橋』の魚河岸に集まった江戸湾で獲れた魚介類を、刺身にして醤油につけて食べていました。
特に、当時はまだ冷蔵庫がない時代。
生モノは足が早いので、醤油漬けや〆で食べられるようになると、せっかちな江戸っ子はお米を握ったものと一緒に食べるようになり、いまの『江戸前寿司』の原型ができてきました。
そして、いまのような『江戸前寿司』が高級なイメージがついたのは戦後、一時期衰退していた寿司屋がそれまでは屋台で提供されていましたが、衛生上禁止され、高度経済成長期のときでした。
また、『蕎麦』に関してもやはり醤油好きでせっかちな江戸っ子。
ズズッと食べれるのと、「上方」ではうどんが主流だったことから、それなら江戸では『蕎麦』となったという説があります。
また、参勤交代で江戸に来ている各藩の忙しい武士たちも、単身赴任であり、簡単で早く食べられる『蕎麦』を好んで食べられるようになるのと同時に、江戸市民も男女比率で男性の方が多かったため、たくさんの屋台が出店しており、それを好んで食べていました。
そして、「天婦羅」は江戸前で獲れた魚介類を生だと足が早いので、それを衣をつけて揚げて火を通し、少しでも日持ちするよう、またごま油で揚げるのも、生臭さを感じさせないように風味の強い、ごま油で揚げるようになりました。
また「天婦羅」も屋台で出店がされ、「蕎麦屋」の隣に連なっていることが多くなったことで、やはりここはせっかちで醤油好きな江戸っ子。
一緒に食べてしまえ!
ってことで、「蕎麦」と「天婦羅」を一緒に食べられるようになり、いつしか「蕎麦屋」で蕎麦を注文し、それを待っている間に天婦羅をつまむと言うスタイルになっていったそうです。
せっかちで醤油好きな江戸っ子が現在の『江戸前』というブランドを作って行ったのがよく分かりますね。
寿司屋も蕎麦屋も食べ終わったら長居をせずに、サッと帰る。
これが『江戸っ子』の粋で乙ってやつなんですね!
私も是非こうした振る舞いをしてみたいものです。