前回、前々回と『上野』『浅草』の『時の鐘』をご紹介してきましたが、今回はちょっと話をずらしまして『江戸前』のお話をしていきたいと思います。
そもそも、『江戸前』とは江戸城の前にある海のことで、特に今の東京湾近郊で取れた魚介類のことを指しています。
ただし当時の東京湾は江戸城から見えるくらい近くにあったので、本当に『江戸前』と言うのがふさわしいくらい、近い距離にありました。
実際に現在の日本橋から銀座にかけては、徳川家康が江戸に入る前までは、神田川と隅田川がぶつかって「砂州(さす)」で出来た半島でした。
また、江戸城付近も現在の大手町付近まで入り江であり、『日比谷壕』などはその入り江を利用して出来ました。
という事は、江戸城の前がほんとうに海だったってことですね!
そこで取れた魚介類のことを『江戸前』と呼んだわけです!
いまの「東京駅」も江戸時代初頭はまだ、海だったというのですから、現在では不思議な感覚になります。
ただ、そうして考えると『日本橋』が江戸時代から常に活気が溢れていたのが分かります。
なぜなら神田川と隅田川がぶつかる場所(半島)であり、そこが物流の中心となっていき、さらに江戸幕府の命により、各藩が自費で土木事業を行い、ドンドンと海を埋め立てていき、そこに大名屋敷をつくってさらに、人口が増えます。
そうすると多種多様なものがそこに集まり、さらに活気づくわけです。
そして、当時の食文化は牛肉を食べることが禁止されており、そうなるとおのずと魚介類が中心になります。
そうして、生まれ呼ばれるようになったのが『江戸前』でした。
また、家康が「本能寺の変」の直後に自身の城である「岡崎城」に決死の覚悟で戻ろうとした際に、現在の大阪府と兵庫県の間を流れる「神崎川」で足止めをしてしまい、その時に佃村の漁師たちに助けられ、無事に「岡崎城」に戻ることができました。
その後、彼らを江戸に呼び寄せて特別な漁業権を与えました。
その場所というのが、隅田川河口の2つの中州であり、「佃島」と名乗り、ここまでが『江戸前』と呼ばれていました。
そして、ここで生まれたのが「佃煮」です。
特に、最初は雑魚やアサリ・海苔などこの近辺でとれた魚介類を醤油や塩で煮込み、漁師たちの非常食用でしたが、その後人気が高まり醤油好きな江戸庶民たちにも受け入れられてきました。
そして、『参勤交代』で江戸にくる武士たちが江戸のお土産にと各地に持ち帰り、全国に広がっていったという説があります。
もとは非常食用なので、当時は冷蔵庫が無い時代。
お土産には最適だったんですね。
さて、話は江戸市中中心に戻しまして、『江戸前』から獲れた魚介類を『日本橋』の魚河岸で流通していました。
その魚介類を生では「寿司」に、そしてそれを加工し揚げたものが「天婦羅」となり、江戸庶民たちにも人気がでてくるわけですが、少し長くなるので、また次回にしたいと思います。