前回、江戸時代以前まではまだ日本には「時刻」という概念がなく、朝太陽が昇ったら起き、夜に太陽が沈んだら寝るという生活が当たり前でした。
実際、この時の人口のほとんどが農民であり、いまでは有名な数々の武将たちですら戦(いくさ)になると、普段は農民として生活しているモノたちを雇い兵力として、戦に向かわせていました。
そして、時は流れて戦国の世が終わった江戸幕府・初代将軍『徳川家康』の時代に、はじめは「時刻」を告げるために、江戸城の二の丸付近に、『時の鐘』が設置されます。
この時、「辻源七」と言う男が鐘役を任命され、代々江戸の市中に『時刻』を知らせる役に就きました。
しかし、この鐘の音があまりにも近いために、政務に支障が出るとして、太鼓を打つようになりました。
こうなると困るのは江戸市民たちです。
今まで、この鐘の音でいま何時かを判断していたのが太鼓の音になってはほとんど聞こえなくなってしまったわけですから。
特に、「将軍のお膝元」とも呼ばれていた日本橋あたりでは江戸時代初期から活気に溢れており、賑わっていることから江戸城内で打った太鼓の音なんて、全く聞こえなくなってしまったんですね。
そこで江戸市民の訴えを聞き、2代将軍・秀忠のときに1626年に日本橋石町に『時の鐘』を移したわけです。
ちょっと話はズレますが、この年に『寛永通宝』と言う、全国共通のお金が鋳造されることになりました。
ただ、この時はまだ「公銭」としての役目は果たしていないですが、その後江戸時代を通してこの通貨が使われていました。
さらに驚いたことにこの通貨は『昭和』28年の途中まで、法的に通用していました。
ただ、実際に使用されていたのは明治中期ごろまでだったそうです。
また、1659年までに鋳造されたものを『古寛永(こかんえい)』とよび、それ以降一時期鋳造されなくなりましたが、人口とともに利用するのが増えてきたことにより、1668年以降再度、鋳造されるようになりました。
それを『新寛永(しんかんえい)』と呼ばれています。
さて、話はだいぶズレましたが、この『石町』の『時の鐘』は公費での運営のために、鐘の音が聞こえる範囲を江戸市民から徴収をしていました。
そこで読まれた川柳で
「石町は 江戸を寝たり 起こしたり」
というのがあります。
いかに、当時この鐘の音で時間を把握していたかが分かりますね。
また、『石町(こくちょう)』は『本石町(ほんこくちょう)』とも呼ばれています。
その理由は、『石町』自体は当時からこの地にありましたが、その後神田に『新石町』と言う地が出来たために、本家を示す意味をこめて、『本石町』と呼ばれるようになったそうです。
そして、江戸市民の数もどんどんと増えてきたために、ひとつの『時の鐘』では賄いきれなくなり、江戸の各地に9ヶ所、設置するようになりました。
また、当時の『石町時の鐘』の場所も移動され、現在は近くの「十思公園」内に現存しており、毎年大晦日の時にだけ、鐘の音を鳴らします。
是非、機会があれば一度聞いてみたいものですね。
さて、今回は『石町』の『時の鐘』をご紹介しましたが、次回は残りの江戸の『時の鐘』について、お伝えしていこうと思いますので、ご期待下さい。