「浪士組」から離れた近藤以下・試衛館組と、芹沢一派など総勢24名で「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」・若しくは「精忠浪士組(せいちゅうろうしぐみ)」を結成しました。
当時、現在の『京都御所(きょうとごしょ)』が中心であったので、壬生地区と言うのは少し離れた場所でした。
とは言っても『御所』までは5km程度、また『二条城』までは2.5km程度と今の感覚なら結構近場に感じませんか?
実際、いまの交通整備された状態で歩くと『御所』までは約1時間弱・『二条城』まででも約30分は掛かるのだから、当時はそれよりもっと時間が掛かっていたのが分かります。
しかも、刀装をしながらなので余計遠く感じてしまいますよね。
ただ、この程度の距離や時間は当時の人達にとって本当に遠く感じていたとは分かりませんが。
私自身、実際に夏に行った時『二条城』から『新撰組』の屯所になる「八木邸」まで歩いて行った事がありますが、すごく遠く感じました。
当時はまだスマホも無くガラケーの時代で場所もイマイチ分からなかった分、余計にですね…。
またこの「壬生(みぶ)」と言う意味は「水辺や湿地帯」などの意味があり、水生(みぶ)と言う読み方が転じて、今の字になったそうです。
そう言う所からも都の中心部からはひとつ離れた場所にあるのが分かりますね。
なぜなら、当時も今もそんな場所の近くに政治の中心を置いたら、水害時の度に多大な被害が出てしまいますから。
ただ、その湿地帯を利用し農業が発展し、そこに住んだ農家の人達に「融通念仏(口から口へと広がる念仏)」が発展し、現在では『重要無形民俗文化財』である『壬生狂言』が出来ました。
また、「京の伝統野菜」にもなっている「壬生菜(ミブナ)」もこの地で出来ました。
きっと「壬生浪士組」もこの壬生狂言を観て楽しんだり、ミブナを食べていたのでしょうね!
さて、そんな「壬生浪士組」ですが、当時の京都は『尊皇攘夷』派の志士たちで溢れかえっていました。
中には過激派な志士もたくさんおり、世の為にならない者には『天誅』として何人もの人が殺されていったのです。
中でも長州藩や土佐藩(郷士を中心に)などは過激派が多く、「人斬り以蔵」などが暗躍していました。
そんな治安が悪い京を治安維持を目的としてまかされた『京都守護職』と言う役職に就いたのが、「会津藩主 松平容保(まつだいらかたもり)」でした。
その本陣として選ばれたのが浄土宗の格式の高い寺院で、七大本山・また京都四ヶ所本山のひとつでもある『金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)』です。
この寺院は浄土宗の開祖である『法然(ほうねん)上人』が最初に浄土宗を布教した地となっており、第100代天皇『後小松天皇(ごこまつてんのう)』からも「浄土真宗最初門」を賜わっています。
(ここで言う浄土真宗とはのちに弟子である『親鸞(しんらん)上人』が開いた「浄土真宗」とは別のものになります。)
そして、法然上人の霊廟も『金戒光明寺』にはあるのですが、他にも有名な歴史上の人物達の墓所があります。
例えば、日本で一番気温が高いとして有名な「埼玉県 熊谷市」が出身と言うので、平家物語でも出てくる「熊谷直実(くまがやなおざね)」の一族が眠る墓所。
3代将軍・家光の乳母であり、江戸城の大奥の礎を築いた「春日局」の墓所。
また、面白い所では京都のお土産で人気な「八ツ橋」の名前の由来にもなった「八橋検校(やつはしけんこう)」の墓所もあります。
この八橋検校と言う人物は江戸時代前期に大変活躍した音楽家であり、荘園などを管理する盲人の中では最高位の名称です。
そんな八橋が亡くなったあとに京の民衆がその業績を偲んで、琴の形をした堅焼き煎餅を配った事から始まったそうです。
今では「生八橋」の方が認知度が高くなっている気がしますが、元々ここが起源だったと言うのはやはり、面白いですよね!
また、会津藩士達の供養塔もあるわけですが、この会津藩士達の派遣は年に1000人程度しか出来ませんでした。
実はこの京都守護職の費用はほとんどが会津藩の実費だったんですね。
幕府から無理やり言われ就いた役職なのに、ほぼ実費って。
しかも、今で言ったら福島から京都まで1年に一回交代で藩士を送っていたのですからね。
今で言ったらブラック中のブラックですよ…。
ただ、会津藩訓には初代会津藩主の「保科正之(ほしなまさゆき)」が残した『会津藩たるは将軍家を最後の最後まで守護すべきもの』と言うのがあったので、仕方なく引き受けてしまったのです。
この保科正之と言う人物は3代将軍・家光の異母弟でその子の4代将軍・家綱も2代に渡り補佐してきた人物です。
また、江戸市民の飲料水を安定させた「玉川上水」などの治世を行ったのもこの人物でした。
そんな人手の足りない中、目を付けたのが『壬生浪士組』でした。
言ってしまえば、どこぞの田舎侍(実際は農民出身もいる)に京の守護の元、不定浪士の取締りと市中警護を任せた方が、自国の藩士への負担も減る一方、「壬生浪士組」も会津藩預りになれば、いよいよ自分達の時代が来たと双方の思いが合致したことにより、会津藩の下についたのですね。
これによって、いよいよ「壬生浪士組」が表舞台へと出てくるのです。
次回は、『新撰組』と言う名前を授かるきっかけである『8月18日の政変』からお伝えして行きたいと思いますので、是非ご覧下さい!