前回、前々回とお伝えしてきた『大嘗祭(だいじょうさい)』ですが、お伝え忘れた事が少しあったので、もう少しだけお付き合い下さい。
『大嘗祭』の神饌(しんせん)の中で最も重要なものは稲になります。(神饌とは神様に供える酒や食物の事を言います。)
その稲を収穫する田んぼのことを「斎田」と言い、大嘗祭を始めるにあたって、まずこの「斎田」を選ぶ事から始めます。
そして、この祭祀は同じ所作(しょさ)を2回繰り返して行われる事からこの「斎田」も2カ所あります。(所作とは振る舞いや踊る事を意味しています。)
この2カ所の事を『悠紀(ゆき)』・『主基(すき)』と呼び、前者が大嘗宮(大嘗祭が行われる場所)の東の悠紀殿・後者が西の主基殿に神饌されます。
さらに、原則として悠紀は西国から、主基は東国から選ばれていましたが、古代はその選定の場所は吉凶をあらわす占いによって選ばれていました。(この占いの事を「ト定」と呼びます。)
また平安中期の第59代目天皇である『宇多天皇』以降は京都から見て東にある悠紀は近江国(現・滋賀県)から、また西にある主基は丹波国(現・京都府など)と備中国(現・岡山県)から選ばれていました。この悠紀・主基に選ばれた国を『斎国』と言い、明治時代以降は京都から東・南の18都道県の地方を悠紀、西・北の29府県の地方を主基と定められました。
さらにこの場所は亀の甲羅に熱を加えそのヒビを見て占い場所を決めているのです。(この占いを「亀ト」と呼びます。)
と言う事は、亀トを行い斎田をト定すると言うことですね。
(要約すると亀の甲羅に熱を加え、悠紀・主基の場所になる斎田を占いで選ぶと言う事になります。
さて、ここまで悠紀・主基についてお伝えしてきましたが最後に大嘗祭の流れについてお伝えしていきます。
まず、大嘗祭の前日に『鎮魂祭』と呼ばる天皇陛下の霊を大嘗祭と言う重要な祭祀を行う前に魂を強化させる儀式を行います。
そして、大嘗祭当日は悠紀殿・主基殿に斎田から持ち込まれた米を炊き両殿に用意します。その後、天皇陛下は内裏を出て廻立殿に向かい帷(とば)と言われる祭服を着用したまま、沐浴をしその後湯に入ったまま脱ぎ捨てて新しい帷に着替えます。(廻立殿の儀)
その後、廻立殿から悠紀殿に渡御(天皇陛下やかつては将軍がお出ましになる)します。その際、天皇陛下が通る通路に真薦(まこも)と呼ばる天皇陛下が通る時のみに使われるものが敷いてあり、通る直前に従者によって広げてられます。また、『三種の神器』のうち『八尺瓊勾玉』と『草薙剣』(この2つで『剣璽』と言います。)を持った従者、天皇陛下、天皇陛下の祭服を持った従者がここを通り終わった直後にこれは終われます。
この時に現れる道を『御筵道(ごえんどう)』と呼びます。
その後、天皇陛下は悠紀殿の外で着御し、剣璽は上座に奉安(安置)されます。その際にこれに付き添った皇太子も含めた男性皇族は『古忌幄舍』に入り、続いて皇后陛下・女性皇族が進み、皇后陛下は『帳殿』、女性皇族は『殿外古忌幄舎』に入ります。(ただし、女性皇族の列席は大正以降からになります。
そして、この日に参列者がここに入り、古風(古代から吉野に伝わる歌)・悠紀国・主基国の国つ神からの寿歌(その地に古代から伝わる歌)などの行事が行われ、その後『神饌行立』が行われます。
天皇陛下は神饌が用意されると古代から伝わる方法で、自ら箸をとり規定の数だけを神供(神に供物を献上する)すると、『御告文』(歴代の天皇の霊に告げる文)を奉すります。この時は参列者全員が起立をしています。
その後、天皇陛下自らが神饌を聞き召さられ(飲食をする)、それを聞き召さられた後に撤下され、天皇陛下も廻立殿に還御(還る)します。(この時も渡御と同様に御筵道が現れます。)
そして次に、主基殿に渡御しますが全く同じ祭礼が行われます。また、天皇陛下はこの全ての行事が終えてもこの日は内裏には戻らず、大極殿(正殿)で朝を向え、全ての儀式が終わります。また、神座も全ての儀式が終えた後に全て撤去します。
と、ここまで一連のの流れをお伝えしましたが聞いているだけでも大変な儀式であり、伝統的で古来から重要視されてきた儀式だと言うのが分かります。それは『新嘗祭』が『勤労感謝の日』の祭日になる訳だと思いました。
また、今回の令和の悠紀国は栃木県で「ちちぎの星」・主基国は京都府で「キヌヒカリ」が精米で180Kg・玄米で7.5Kgが奉納されました。
とここまでかなり長くなってしまいましたが、最後に大嘗祭後の11月21日から12月8日まで、この儀式が行われる『大嘗宮』が一般公開されるそうなので是非足をお運びください。