今回は五色不動尊の残り1色2寺院をお伝えしたいと思いますが最後の目黄不動尊だけがなぜか2寺院あるんですね。
まずは⑤の品川区三ノ輪にある『永久寺』ですがここの寺院の歴史は中々面白く、元々建立した時は真言宗(最澄)でさらに名前も「唯識院」と呼ばれていました。
その後戦乱などで焼失、再建などを繰り返し、また名前も「大乗坊」・「蓮台寺」と変遷され宗派も禅宗(臨済宗は栄西が開祖・曹洞宗は道元が開祖でこの2宗派で行われている坐禅を組んで悟りを開くのも)から日蓮宗(日蓮が開祖で法華宗とも言われている) と変遷され、江戸時代に入りようやく現在の天台宗・永久寺になりました。
そして、江戸幕府より五街道が整備されると天海により、日光街道に面していた永久寺が(古くからあるお寺の中から)『目黄不動尊』が選ばれました。
また、この近くには五千円札の肖像にもなった『樋口一葉』の銅像や記念館があるので、ここに訪れた際には是非寄りたい場所でもあります。
そして、最後の『目黄不動尊』がある⑥の江戸川区にある『最勝寺』ですが、ここは天台宗で明治維新前までは『牛島神社(本所総鎮守)』の別当も務めいた由緒ある寺院でした。特に3代将軍・家光からの崇拝が厚く、その後の将軍達が鷹狩りの際の休憩所である「仮の御殿」も設けられ、江戸市民たちにも広く信仰を集めて行きました。
また、五色不動尊のなかでもこの目黄不動尊は中心的な意味を持つ由緒があるとして、五街道の守護の中心にも「黄」が置かれています。これは、四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)に加え黄龍もしくは麒麟を加えた「五神」から来ていてるものです。
と、ここまで五色不動尊についてお伝えしてきて気づいた事は全ての不動尊で天海と3代将軍・家光が関わっている事。
そして、江戸市民たちによって広く信仰されていた事が今日まで残る『五色不動尊』の信仰となっているのです。
また大日如来の化身でもある不動明王は毎月28日に縁日が開かれいるので日取りを合わせて参拝するのがオススメです。
さて、話は変わりまして次にお伝えしたい江戸幕府が置いた結界ですが、その結界と言うのは以前にもお伝えした『平将門』に関係のある神社を並べてみると不思議な事に『北斗七星』になると言うものです。
(↑上図が手書きで分かりにくくてすみません。)
でも、ひとつずつ説明して行きたいと思いますのでご勘弁を。
まず①にある神社は『鳥越神社(とりこえじんじゃ)』と言って主祭神は『日本武尊(ヤマトタケルノミコト』です。
元々はヤマトタケルが東国征討の際にこの地に立寄ってそれを見た人々がこの地にヤマトタケルを祀っていて、白鳥神社と称していました。
ここでヤマトタケルの事を少しお話しますと、第12代天皇・景行天皇(けいこうてんのう)の子で、子供に第14代天皇・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)がいます。また、その子の第15代天皇・応神天皇(おうじんてんのう)は『八幡宮様』としても、全国各地にお祀りされているのは、以前お話をしました。
また、妃の一人に「吉備武彦」の娘がいますがこの吉備武彦が昔話でも有名な「桃太郎」のモチーフになった人と言われています。
そして、九州の熊襲征討・東国征討(この時に伊勢で三種の神器でもある『草薙剣』を授かる)を経て、伊吹山(現在の滋賀県・岐阜県の境にある山)の神を征討しに向かいます。その際、ヤマトタケルは草薙剣を持たずに素手で挑むと言い、妻に預けています。
伊吹山を登っていると白いイノシシが現れたが、これは山の神の使いなので大した事は無いと思いそのまま進みましたが、これが山の神自身だったのです。山の神は怒り、大氷・大雨を降らせこれを受けたヤマトタケルは大きな深手をおおってしまい、やがて病にかかり伊吹山を下りました。
その後、大和に帰路しようとするが疲れ果て足が三重に折れ曲がり嘆き悲しみました。「わが足、三重の勾りして、いと疲れり」と語った場所から今の三重県の由来になっています。
そして、能褒野に着きここで終焉を迎えるのですが、それを聞いた妃たちがこの地に陵(墓)を造りました。そして、妃たちが嘆き悲しんでいると一羽の白鳥が陵から空へ舞い上がり、大和に向かっていたと言う日本神話のお話です。
と、この事からヤマトタケルを祀る神社には『白鳥神社』が多くなった訳です。
ここで少々長くなってしまったので次回はもう少しだけヤマトタケルのお話と話を戻して、平将門に関係する神社のお話をして行きたいと思います。