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『世界最古の国』日本

#神社仏閣#歴史#都市伝説#グルメ#漫画#アニメ#ゲーム#その他生活にありとあらゆるものなどに関することを書いています。ここに記載するすべて記事の引用素材は誹謗中傷を目的としたものでは無く、著作権を侵害する目的で作成したものではありません。

芝切通し 『時の鐘』

 

前回、本所の『時の鐘』についてお伝えしましたが、この場所のほど近くに、『スカイツリー』があります。

 

 

 

 

そして、それ以前から電波塔として使用していた東京のシンボル的な存在でもある『東京タワー』。

 

 

 

 

このほど近くに、徳川将軍家菩提寺として、北の『伝通院』・鬼門の『寛永寺』とともに、ここ裏鬼門の『増上寺』があります。

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そして、ちょうど『増上寺』の北側に位置し、『出世の石段』で有名な『愛宕神社』を南側にすすんで、『青松寺』を通り、現在は「正則高等学校」が置かれているあたりの坂が『芝切通り』になります。

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江戸時代には、『増上寺』と『青松寺』の間の坂だっとされたこの場所に、今回の『芝切通し』の『時の鐘』が置かれていました。

 

 

 

 

 

増上寺』は言わずとしれた徳川将軍家菩提寺として由緒ある寺院であり、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますが、その手前の『青松寺』も実は、由緒ある寺院なんです。

 

 

 

 

と、言うのも江戸時代、市中にある『曹洞宗』の寺院を統括する3つの寺院のうちの1つになる寺院なんです。(『江戸三箇寺』と呼ばれている。)

 

 

 

 

また、この寺院は元々は「武蔵国貝塚」あたりにあった寺院で、江戸城拡張にともない、初代将軍・家康の命で現在の地に移転したと伝わっています。

 

 

 

 

そして、まさかの『増上寺』の前身である寺院も元々は「武蔵国貝塚」付近にあった寺院で、この寺院も江戸城拡張の際に、家康の命で現在の地に移転してきました。

 

 

 

 

そんな場所の間にあった『時の鐘』は、江戸時代には『浅草奥山』とともに、見せ物屋や茶屋などがたくさん並ぶ、江戸時代から昭和初期までの代表的な繁華街となっていました。

 

 

 

 

 

 

また、この『時の鐘』自体ももとはほど近くの『西久保八幡神社』に設置されてたものが破損してしまい、新しく作り直した鐘をこの地に移転させたと伝わっています。

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しかし、現在では『時の鐘』はこの場所にありませんが、当時は芝浜のから対岸にある千葉県・木更津までその鐘の音が響いていたそうで、「今鳴るは   芝か上野か  浅草か」と詠まれるほど、江戸庶民たちにとっては親しみのある『時の鐘』でした。

 

 

 

 

さて、話は少しズレますが冒頭にお伝えした『東京タワー』の麓にあるものがあるのを皆さんはご存知でしょうか?

 

 

 

 

都市伝説好きな方でしたらきっとお分かりだと思いますが、それはある秘密結社の『日本 グランドロッヂ』。

 

 

 

そのある秘密結社とは

 

 

 

 

フリーメイソン

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第二次大戦後、日本に介入してきたGHQの最高司令官であった「ダグラス・マッカーサー」は来日した途端にすぐにこの地に向かい、グランドロッヂを建てたそうです。

 

 

 

 

 

こんな歴史や都市伝説の詰まっている『増上寺』周辺は江戸時代から現在にいたるまで、観光スポットとして賑わっています。

 

 

 

 

もう一度、是非訪れてみたい場所のひとつですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

本所横堀 時の鐘

今回は『本所横堀』の時の鐘です。

この場所は墨田区に位置にしており、錦糸町からも徒歩でいける距離にあります。

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この辺りもなかなか面白い話がありまして、1657年に江戸で大火、俗に言う『明暦の大火』が発生してしまいました。

 

 

 

 

この時の被害は、江戸時代最大であり「江戸城」の天守閣を含むなど、「江戸城」自体も大被害にあい、さらにはそのまわりにあった大名屋敷や、江戸市中の市街地までも大半が焼失してしまうという大火災になってしまいます。

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これを契機に江戸市中の都市改革がはじまり、

江戸城内にあった『御三家』の屋敷を城外に置くことになりました。

 

理由は諸説ありますが、万が一同様の大火災が起きて同じ場所にいると、徳川家が滅亡しかないですからね。

 

 

これにともない、大名屋敷や寺社なども移転。

 

 

 

また、江戸市中でも当時は防衛のために「千住大橋」だけしかなかった橋をたて、多数の市民の逃げ道を確保しました。

 

 

 

 

当時、この一本しか橋が無かったために、被災者みんながここに集まり渋滞状態になってしまい、逃げ遅れて亡くなってしまった市民が多数いたためです。

 

 

 

 

これを機に市街地が拡大し「深川」など東側も発展していきました。

 

 

 

 

また、この『明暦の大火』で焼失してしまった江戸城天守閣はこれ以降、再建されることはありませんでした。

 

 

 

現在、この天守閣をもういちど復活させようと言うプロジェクトもあるようですので、個人的にはそれは楽しみですがね!

 

 

 

 

そして、東側の市区整備により、このあたりが碁盤の目状に整備され、さらに運河も水運に利用することになりました。

 

 

 

また、江戸と現在の千葉県を結ぶ街道や大横川・横十間川が交差する場所から物流の拠点となっていきました。

 

 

 

 

そして、時はさかのぼり1634年に日光東照宮の御霊屋の普請を3代将軍・家光から仰せつかった『伊達政宗』が、この大横川に材木置き場をつくりました。

 

 

その時に職人たちに時間を知らせる為に設置したのが、この『本所横堀』の時の鐘だったのです。

 

 

 

また、この辺りの本所には『本所七不思議』と呼ばれる会談の都市伝説があり、「置行橋(おいてけばし)』は、この時の鐘の近くが舞台となっており、落語などで噺のネタにもなるくらい、親しみのある地域でした。

 

 

 

 

 

さらに、明治に入ってからも物流の拠点となっていたこの錦糸町に「総武鉄道」(下総国の「総」と武蔵国の「武」を取った鉄道)の駅を置いたのもこのような背景からになります。

 

 

 

 

 

さて、この本所の『時の鐘』を建てた「伊達政宗」ですが現在の宮城県に「仙台藩」を築きます。

また、政宗も『天海』の影響で風水を好んだのか、仙台にも仙台城や神社仏閣を結ぶと『六芒星』になるようにできています。

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ただ、今回は仙台藩の『六芒星』については長くなってしまうので、割愛しますが必ずいつかご紹介しますので、お楽しみに。

 

 

 

 

さて、『本所』の時の鐘の近くに東京の有名な観光スポットであり、電波塔となっている「スカイツリー」があります。

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そして、2012年に完成するまで電波塔、また東京のシンボルとして未だに人気の観光スポットの「東京タワー」。

 

 

そのすぐ近くの徳川将軍家菩提寺である『増上寺』境内にあった『芝切通し』にも時の鐘があります。

 

 

 

 

 

次回はここをご紹介したいと思いますので、是非お楽しみに!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤坂田町 円通寺 時の鐘

今回は『赤坂田町』にあった『時の鐘』をお伝えしたいと思いますが、これがどうも複雑でして。

 

 

 

と、いうのも赤坂の高台にあった『円通寺』にはじめは『時の鐘』が建てられましたが、その後の大火で寺院が焼失。

 

 

 

その際に、南側の同じ名の寺院に移転したとされています。

 

 

 

 

 

ここも赤坂の高台にあり、鐘の音が遠くまで良く聞こえたそうですが、どのような経緯かは分かりませんが、その後『赤坂見附』付近の『成満寺』に梵鐘は移転し、1678年に8代将軍・吉宗の子で9代将軍・家重の時代から新しく梵鐘をつくり始めました。

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その後、同年の8月28日の明け6つ(午前6時)より幕府からの許可を得て、鐘を撞き始めました。

 

 

 

 

 

 

しかし、その後『成満寺』の鐘楼堂が大破してしてしまい、その時から『時の鐘』は休止されてしまいました。

 

 

 

そしてその後、東京都多摩市に移転をしてしまいましたが、現在でも使用はされていませんが梵鐘は保存さられ残っています。

 

 

 

 

 

また、赤坂の『円通寺』もTBSの坂を登ったすぐ近くにあり、そこに1994年に新たに鐘楼を建ていますので、是非どちらも近くにお寄りの際は拝観下さい。

 

 

 

 

 

さて、話はそれますが東京でも有数の観光スポットである『赤坂』。

 

 

 

 

ここがなぜこのような地名になったかはいくつか説があるようです。

 

 

 

 

まず、江戸城周辺は江戸幕府・開府前は入り江が入り組んでいたと言うのを以前お伝えしました。

 

 

 

 

そして、赤坂周辺は武蔵野台地の東の先端に位置していまして、入り江に向かって流れこむような地形だったことから、江戸城周辺は「坂」が多いんですね。

 

 

 

 

その後、江戸幕府開府からどんどんこの周辺も埋め立てられるようになり、そこに田んぼを作ったところから「田町」と言う地名で呼ばれるようになりました。

 

 

 

また、赤坂は「赤土」の土壌だったという説と「紀伊国坂」だったという説が2つあります。

 

 

 

 

そして「紀伊国坂」の説にも2つあり、1つはその昔、茜の草がたくさん多い茂っていたために「茜坂(あかねさか)」と呼ばれるようになり、それが訛って「赤坂」になったという説。

 

 

 

 

もう1つは染物屋が坂に赤い絹を干していたからという説があります。

 

 

 

 

どちらにしても、江戸城の『赤坂御門(赤坂見附)』と呼ばれるようになった以降は、この地一帯を「赤坂」と呼ぶようになりました。

 

 

 

 

また、ほど近くに『溜池(ためいけ)』という地がありますが、ここは湧水が湧く場所だったために堤防をつくり、文字通り溜池にして上水として利用していました。

 

 

 

しかし、神田上水玉川上水が整備されてからは徐々に埋め立てられ、明治21年には完全に埋め立てられ町名だけが残るようになりました。

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そして、平成に入り「溜池山王駅」が出来る訳ですが、この「山王」とは『山王日枝神社』のことで、江戸城の『裏鬼門』に位置し、『皇城鎮護』の神社となっています。

 

 

 

 

また、『江戸三大祭』のひとつで、『神田祭』ともに『天下祭』と呼ばれた『山王祭』があります。

 

 

 

 

この『天下祭』とは祭の際には、江戸城内に山車が入り将軍に拝謁することが許された唯一の祭になります。

 

 

 

 

さらに一年ごとに交互で現在でもやっている(2020年は新型コロナウィルスの影響で中止しました。)ので、是非一度は見てみたいですね。

 

 

 

個人的には一度、『山王祭』は見たので次は『神田祭』を見てみたいと思っています。

 

 

 

さて、このような歴史の詰まった「赤坂」。

 

 

次回訪れる時はこのようなことを頭の片隅に置きながら、散策するとまた違った景色が見えるような気がします。

 

 

 

ただ、個人的にここより少し先の『国会議事堂』周辺が不気味で息が詰まる感じがしてしまうんですがね…。笑

 

 

 

市谷亀岡八幡宮 時の鐘

今まで『石町』の時の鐘から『上野』・『浅草』と紹介してきましたが、今回は『市谷亀岡八幡宮神社』で鳴らしいていた『時の鐘』をお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

この『市谷亀岡八幡宮』はもともと江戸城を築いた『太田道灌(おおたどうかん)』が城内に江戸城の「西」の守護神として、建立した神社になります。

 

 

 

 

そして、この神社は鎌倉の『鶴岡八幡宮』から分霊を祀りました。

 

 

 

と、ここで何故、鎌倉の『鶴岡八幡宮』から分霊したかと言うと、まず『太田道灌』が室町幕府武蔵国守護代であったことが最大の理由になります。

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八幡宮』とは第15代・天皇の『応神天皇』を祀っている神社で、数多くの武将たちに『八幡神』と呼ばれ、戦の神様として崇拝されていました。

 

 

 

 

 

そして、『鶴』に対して縁起のよい、『亀』として『亀岡八幡宮』と名付けました。

 

 

 

 

その後、豊臣政権時代に「徳川家康」が江戸に入城。

 

 

 

 

そして、江戸で幕府を開きます。

 

 

 

 

江戸城の外堀が完成した際に、現在の地である江戸城の西側に移転することによって、『江戸城 西の鎮護』として『市谷亀岡八幡宮』となっていきます。

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そして、この神社に『時の鐘』が設置されてからは数多くの民衆が訪れるようになり、それにともない例祭など江戸市内の「山の手地域」において江戸の名所として、大いに賑わいました。

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また、3代将軍・家光やその側室でのちの5代将軍・綱吉の母である「桂昌院(けいしょういん)」からも深い信仰を得ることによって、門前町も賑わい、境内では茶屋や人形瑠璃などの芝居小屋なども並ぶようになり、よりいっそう人々の信仰を集めるようになりました。

 

 

 

 

 

さて、「市ヶ谷」といえば幕末ファンではちょっとした有名なスポットがありますが、それが『試衛館跡』です。

 

 

 

『試衛館』とは幕末に幕府側として活躍した『新撰組』の局長、「近藤勇」以下、中心人物たちが自然と集まっていった『天然理心流』の道場ですが、『市谷亀岡八幡宮』からほど近い場所にあります。

 

 

 

 

 

 

また、面白いことにその近藤勇たちが上洛する際にはじめ集められ、「清河八郎」を筆頭とした『浪士組』を結成した場所が『伝通院(でんつういん)』になりますが、この場所は江戸城から見て、ほぼ真北に位置しています。

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そして、北のその先には初代将軍・家康が眠る『日光東照宮』が存在しています。

 

 

 

 

また、『伝通院』とは、家康の生母の法名でそこから院号をとりこの名前になりました。

 

 

 

 

さらに、将軍家の菩提寺として、『増上寺』『寛永時』と並び『江戸の三霊山』と称されるくらい権威のあった寺院になります。

 

 

 

 

『市谷亀岡八幡宮』の『時の鐘』を聞き、例祭などでは足を運び、そして将軍警護(江戸幕府)の為にと、志をもった近藤勇以下、試衛館の人たちの情景が目に浮かぶような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸前寿司と蕎麦、天婦羅

 

前回、『江戸前』と呼ばれる理由とその地域についてお伝えしましたが、今回は特に現在、東京の観光名所などで目にしたり、聴いたりする『江戸前寿司』と『江戸前蕎麦』、そして『天婦羅』についてお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

 

というのも、これには江戸庶民たちの生活習慣が深く関係しています。

 

 

 

 

まず、徳川家康江戸幕府を開いたことで、『日本橋』が物流の中心となり、それにつけ加えて、大名屋敷などの建てるために、幕府からの命で各藩が、もともとは「入り江」だった江戸城周辺を埋め立てるよう指示がありました。

 

 

 

 

そうすると、各藩は土木・建設事業(この時の工事は各藩の実費でした。)で「武士」以外の人手が必要となってきます。

 

 

 

また、『参勤交代』で各藩の大名をはじめ武士たちも集まり、江戸市中の人口はドンドン増えてきます。

 

 

 

 

結果、物流の中心となり『五街道』の起点ともなった『日本橋』は賑わいに溢れてるようになり、さらにそれを聞いた各地の商人たちもたくさん集まり、江戸市中は大変な賑わいになっていきました。

 

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こうして多種多様な店が並ぶ街へと『日本橋』は変化していったのです。

 

 

 

 

 

 

 

それにつけ加えて、江戸時代中期ごろになると、現在の千葉県・野田市周辺で、東側の利根川沿いの大豆や小麦の生産地・また西側の江戸川下流では『行徳の塩』としても当時から有名な塩田があり、『醤油』作りに最適な立地条件から製造が始まりました。

 

 

 

 

 

また、川を通して江戸市中にも流通ができたために、江戸っ子たちに『醤油』が爆発的人気になったのです。

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野田の『醤油』と言えば『キッコーマン』が有名ですよね!

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そして、『日本橋』の魚河岸に集まった江戸湾で獲れた魚介類を、刺身にして醤油につけて食べていました。

 

 

 

 

特に、当時はまだ冷蔵庫がない時代。

生モノは足が早いので、醤油漬けや〆で食べられるようになると、せっかちな江戸っ子はお米を握ったものと一緒に食べるようになり、いまの『江戸前寿司』の原型ができてきました。

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そして、いまのような『江戸前寿司』が高級なイメージがついたのは戦後、一時期衰退していた寿司屋がそれまでは屋台で提供されていましたが、衛生上禁止され、高度経済成長期のときでした。

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また、『蕎麦』に関してもやはり醤油好きでせっかちな江戸っ子。

 

 

ズズッと食べれるのと、「上方」ではうどんが主流だったことから、それなら江戸では『蕎麦』となったという説があります。

 

また、参勤交代で江戸に来ている各藩の忙しい武士たちも、単身赴任であり、簡単で早く食べられる『蕎麦』を好んで食べられるようになるのと同時に、江戸市民も男女比率で男性の方が多かったため、たくさんの屋台が出店しており、それを好んで食べていました。

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そして、「天婦羅」は江戸前で獲れた魚介類を生だと足が早いので、それを衣をつけて揚げて火を通し、少しでも日持ちするよう、またごま油で揚げるのも、生臭さを感じさせないように風味の強い、ごま油で揚げるようになりました。

 

 

 

また「天婦羅」も屋台で出店がされ、「蕎麦屋」の隣に連なっていることが多くなったことで、やはりここはせっかちで醤油好きな江戸っ子。

 

 

 

一緒に食べてしまえ!

 

 

 

ってことで、「蕎麦」と「天婦羅」を一緒に食べられるようになり、いつしか「蕎麦屋」で蕎麦を注文し、それを待っている間に天婦羅をつまむと言うスタイルになっていったそうです。

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せっかちで醤油好きな江戸っ子が現在の『江戸前』というブランドを作って行ったのがよく分かりますね。

 

 

 

 

寿司屋も蕎麦屋も食べ終わったら長居をせずに、サッと帰る。

 

 

 

これが『江戸っ子』の粋で乙ってやつなんですね!

 

 

私も是非こうした振る舞いをしてみたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

江戸前とは

 

前回、前々回と『上野』『浅草』の『時の鐘』をご紹介してきましたが、今回はちょっと話をずらしまして『江戸前』のお話をしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

そもそも、『江戸前』とは江戸城の前にある海のことで、特に今の東京湾近郊で取れた魚介類のことを指しています。

 

 

 

 

 

ただし当時の東京湾江戸城から見えるくらい近くにあったので、本当に『江戸前』と言うのがふさわしいくらい、近い距離にありました。

 

 

 

 

実際に現在の日本橋から銀座にかけては、徳川家康が江戸に入る前までは、神田川隅田川がぶつかって「砂州(さす)」で出来た半島でした。

 

 

 

 

また、江戸城付近も現在の大手町付近まで入り江であり、『日比谷壕』などはその入り江を利用して出来ました。

 

 

 

 

という事は、江戸城の前がほんとうに海だったってことですね!

 

 

 

 

 

そこで取れた魚介類のことを『江戸前』と呼んだわけです!

 

 

 

 

いまの「東京駅」も江戸時代初頭はまだ、海だったというのですから、現在では不思議な感覚になります。

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ただ、そうして考えると『日本橋』が江戸時代から常に活気が溢れていたのが分かります。




なぜなら神田川隅田川がぶつかる場所(半島)であり、そこが物流の中心となっていき、さらに江戸幕府の命により、各藩が自費で土木事業を行い、ドンドンと海を埋め立てていき、そこに大名屋敷をつくってさらに、人口が増えます。

 

 

 

 

そうすると多種多様なものがそこに集まり、さらに活気づくわけです。

 

 

 

 

 

そして、当時の食文化は牛肉を食べることが禁止されており、そうなるとおのずと魚介類が中心になります。

 

 

 

 

そうして、生まれ呼ばれるようになったのが『江戸前』でした。

 

 

 

 

また、家康が「本能寺の変」の直後に自身の城である「岡崎城」に決死の覚悟で戻ろうとした際に、現在の大阪府兵庫県の間を流れる「神崎川」で足止めをしてしまい、その時に佃村の漁師たちに助けられ、無事に「岡崎城」に戻ることができました。

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その後、彼らを江戸に呼び寄せて特別な漁業権を与えました。

 

 

 

 

その場所というのが、隅田川河口の2つの中州であり、「佃島」と名乗り、ここまでが『江戸前』と呼ばれていました。

 

 

 

 

そして、ここで生まれたのが「佃煮」です。

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特に、最初は雑魚やアサリ・海苔などこの近辺でとれた魚介類を醤油や塩で煮込み、漁師たちの非常食用でしたが、その後人気が高まり醤油好きな江戸庶民たちにも受け入れられてきました。

 

 

 

 

そして、『参勤交代』で江戸にくる武士たちが江戸のお土産にと各地に持ち帰り、全国に広がっていったという説があります。

 

 

 

もとは非常食用なので、当時は冷蔵庫が無い時代。

 

 

 

お土産には最適だったんですね。

 

 

 

 

さて、話は江戸市中中心に戻しまして、『江戸前』から獲れた魚介類を『日本橋』の魚河岸で流通していました。

 

 

 

その魚介類を生では「寿司」に、そしてそれを加工し揚げたものが「天婦羅」となり、江戸庶民たちにも人気がでてくるわけですが、少し長くなるので、また次回にしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浅草『時の鐘』

江戸の『時の鐘』は石町や上野など、合計で10箇所ありましたが今回は『浅草』にある『時の鐘』をご紹介していきたいと思います。

 

 

 

 

石町の『時の鐘』は2代将軍・秀忠が、そして上野の『時の鐘』は3代将軍・家光の命により設置されましたが、『浅草』にある『時の鐘』は5代将軍・綱吉の命でこの地に建てられました。

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そして、『浅草』といえば『雷門』や『浅草寺(せんそうじ)』など、日本でも有数の観光スポットとしても人気ですが、この『時の鐘』は『浅草寺』の敷地内にあり、いまもなお、毎日午前6時に鐘がつかれています。

 

 

 

 

 

また、浅草の『時の鐘』は綱吉の命で作られて以来、戦火などで多少焼けてしまった箇所はありますが、現在も最初に作られた形のまま、残されています。

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また、第二次世界大戦中、鉄の不足のために数多くの寺院の鐘が当時の政府によってほぼ強制的に回収されてしまう中、ここの『時の鐘』は特に由緒があるとして、残されました。

 

 

 

 

この時、もし回収されていたら毎年大晦日の深夜にNHKの『ゆく年、くる年』という番組での除夜の鐘もまた、違う音色になっていたと思うと、なんとも感慨深くなりますね。

 

 

 

 

 

 

さらに、前回の上野『寛永寺』の『時の鐘』を鋳造した旧称『谷中 感應寺(かんのうじ)』は「富くじ」といっていまでいう「宝くじ」を江戸幕府から認可され興行していましたが、浅草の『時の鐘』ある場所もカネ=金に深く関係のある場所にあるのです。

 

 

 

 

 

その場所というのが『浅草寺』の敷地内にある、少し小高い丘に弁天様を祀っている弁天堂がある、『弁天山』です。

 

 

 

 

弁天様は『弁財天』ともいわれており、『七福神』の一員で唯一女性でありとても縁起の良い神様です。

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そして、『弁財天』の字からも分かるように「財」の文字が入っており、さらには「巳の日」が縁日になっていることから、『財運』のご利益がある神様となっています。

 

 

 

 

 

そうしたところからも「鐘=カネ=金」と掛け、江戸時代以降いまもなお、人々に親しまれてきたのでしょうね。

 

 

 

 

 

また、『弁財天』が『古事記』や『日本書紀』に登場する『イチキシマヒメ』と神仏習合により同一視されるようになり、『イチキシマヒメ』は水の神でもあることにより、池や泉・海や川のほとりなどに祀られることが多くなりました。

 

 

 

 

池や泉は水が溢れて出ることから、昔の人々にとっては生活に欠かせない存在であり、また海や川沿いでは漁師や農民たちにも生活をするうえで欠かせない存在でした。

 

 

 

 

そのような関係性からもやはり「財」の文字がある『弁財天』が数多く祀られる理由になったのでしょうね。

 

 

 

 

 

浅草寺』の弁天山にもかつては池があり、そこに祀られていましたが、そもそもこの『浅草寺』自体もその昔、ある兄弟が川で漁をしていると観音さまが網にかかり、それを祀ったのがはじめとされる寺院です。

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そういった関係からもこの地に『時の鐘』が出来たというのが必然な気がします。

 

 

 

 

 

また、この『浅草寺』の創建は『推古天皇』の時代であり、『坂東三十三箇所』では「13」番目の礼所となっています。

 

 

 

 

推古天皇といえば『聖徳太子』。

 

 

 

 

聖徳太子』は別名、『厩戸皇子(うまやどのみこ)』であり、『イエス=キリスト』は馬小屋で生誕したと言われています。

 

 

 

 

 

そして、『推古天皇』は第33代目の天皇

 

 

 

 

ここで「13」「33」『イエス=キリスト』で浮かび上がるのは…。

 

 

 

 

 

フリーメイソン

 

 

 

 

もかしたら、最早この時から『日本』と『フリーメイソン』は深く関わっていたのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上野の時の鐘

現在、東京都台東区にある『上野公園』内に『上野の鐘』が現存しています。

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この『時の鐘』は『石町 時の鐘』のつぎに建てられた『時の鐘』になります。

 

 

 

そもそも、上野公園は『寛永寺』の跡地で徳川家の菩提寺であり、江戸城から見て北東になる「鬼門」の位置にあります。

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そう言った場所ですからかなりこの公園内もバカデカイんですね。

 

 

 

 

さらに、この『寛永寺』は徳川将軍15人中、6人が現在も眠っており、徳川時代には「裏鬼門」である『増上寺』とともに、最大の権威を振るっていた場所にありました。

 

 

 

 

そんな場所の『時の鐘』ですから余計、江戸市民たちにも親しまれていたと言うのが分かります。

 

 

 

 

さらに、約30年後には江戸市中の庶民たちにも花見が許されるようになったので、さらに活気で溢れてる場所になり、江戸最大の花見見物の場所となりました。

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そうなると余計、『時の鐘』が大事な存在になってきますね!

 

 

 

 

 

江戸時代に『奥のほそ道』としても有名な俳人である『松尾芭蕉』で

 

 

『花の雲 鐘は上野か 浅草か』

 

 

と言う俳句があります。

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芭蕉が聞いている鐘の音は、上野の『時の鐘』なのか浅草の『時の鐘』なのかと言う俳句になります。

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距離も近いだけに、この時代の情景が目に浮かぶような気がしてきますね。

 

 

 

 

 

さらに『寛永寺』の門前町として発展していきました。

 

 

 

 

 

現在は上野公園内の「精養軒」と言う西洋料理店でフランス料理の草分け的存在のお店がすぐ近くにあり、このお店を目指して行くと迷わずに行けると思います。

 

 

 

 

たまにはこのようなお店で贅沢をしてみたい気もしますが、個人的には江戸時代から続いている蕎麦屋にも行ってみたい気がします。

 

 

 

 

一説には江戸市中に6000以上あったお店のうち、その半分以上が蕎麦屋だったと言われており、その中で現在も続いているお店もあると言うのだから、是非はじめはこっちの方をいただいてみたいですね。

 

 

 

 

 

話は戻りましてこの、『上野の時の鐘』ですが、この『時の鐘』が鋳造されたのは『寛永寺』のほど近くにある『護国山 尊重院 天王寺』になります。

 

 

 

面白いのがこの寺院は江戸幕府公認の「富くじ」が興行されていて、『江戸の三富』として、『湯島天神』・『目黒不動尊』とともに、たいへん賑わっていました。

 

 

 

富くじ」いうのは現在でいう「宝くじ」のことで、『カネをつくる』場所が

   (鐘を造る)

   (金の作る)

という洒落好きな江戸っ子たちにも親しまれて、たくさんの人々がその縁にあやかり、訪れたのではないでしょうか。

 

 

 

 

現在でも、毎日午前6時・正午・午後6時に『時の鐘』がつかれ、さらに毎年大晦日にもつかれているので、またコロナ渦が落ち着いたら聞いてみたいと思います。

 

 

 

 

そのときは是非、江戸前そばでも食べながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石町時の鐘

前回、江戸時代以前まではまだ日本には「時刻」という概念がなく、朝太陽が昇ったら起き、夜に太陽が沈んだら寝るという生活が当たり前でした。

 

 

 

 

実際、この時の人口のほとんどが農民であり、いまでは有名な数々の武将たちですら戦(いくさ)になると、普段は農民として生活しているモノたちを雇い兵力として、戦に向かわせていました。

 

 

 

 

そして、時は流れて戦国の世が終わった江戸幕府・初代将軍『徳川家康』の時代に、はじめは「時刻」を告げるために、江戸城の二の丸付近に、『時の鐘』が設置されます。

 

 

 

 

 

 

この時、「辻源七」と言う男が鐘役を任命され、代々江戸の市中に『時刻』を知らせる役に就きました。

 

 

 

 

しかし、この鐘の音があまりにも近いために、政務に支障が出るとして、太鼓を打つようになりました。

 

 

 

 

 

こうなると困るのは江戸市民たちです。

 

 

 

今まで、この鐘の音でいま何時かを判断していたのが太鼓の音になってはほとんど聞こえなくなってしまったわけですから。

 

 

 

 

特に、「将軍のお膝元」とも呼ばれていた日本橋あたりでは江戸時代初期から活気に溢れており、賑わっていることから江戸城内で打った太鼓の音なんて、全く聞こえなくなってしまったんですね。

 

 

 

 

そこで江戸市民の訴えを聞き、2代将軍・秀忠のときに1626年に日本橋石町に『時の鐘』を移したわけです。

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ちょっと話はズレますが、この年に『寛永通宝』と言う、全国共通のお金が鋳造されることになりました。

 

 

 

ただ、この時はまだ「公銭」としての役目は果たしていないですが、その後江戸時代を通してこの通貨が使われていました。

 

 

 

 

さらに驚いたことにこの通貨は『昭和』28年の途中まで、法的に通用していました。

 

 

 

 

ただ、実際に使用されていたのは明治中期ごろまでだったそうです。

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また、1659年までに鋳造されたものを『古寛永(こかんえい)』とよび、それ以降一時期鋳造されなくなりましたが、人口とともに利用するのが増えてきたことにより、1668年以降再度、鋳造されるようになりました。

それを『新寛永(しんかんえい)』と呼ばれています。

 

 

 

 

 

さて、話はだいぶズレましたが、この『石町』の『時の鐘』は公費での運営のために、鐘の音が聞こえる範囲を江戸市民から徴収をしていました。

 

 

 

 

 

そこで読まれた川柳で

「石町は 江戸を寝たり 起こしたり」

というのがあります。

 

 

 

 

いかに、当時この鐘の音で時間を把握していたかが分かりますね。

 

 

 

 

また、『石町(こくちょう)』は『本石町(ほんこくちょう)』とも呼ばれています。

 

 

 

 

その理由は、『石町』自体は当時からこの地にありましたが、その後神田に『新石町』と言う地が出来たために、本家を示す意味をこめて、『本石町』と呼ばれるようになったそうです。

 

 

 

 

そして、江戸市民の数もどんどんと増えてきたために、ひとつの『時の鐘』では賄いきれなくなり、江戸の各地に9ヶ所、設置するようになりました。

 

 

 

 

また、当時の『石町時の鐘』の場所も移動され、現在は近くの「十思公園」内に現存しており、毎年大晦日の時にだけ、鐘の音を鳴らします。

 

 

 

 

 

是非、機会があれば一度聞いてみたいものですね。

 

 

 

 

 

さて、今回は『石町』の『時の鐘』をご紹介しましたが、次回は残りの江戸の『時の鐘』について、お伝えしていこうと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時の鐘

先日、2020年6月21日は『夏至の日』と『父の日』そして日本では『部分日食』があり、さらに日曜日ということで、ご家族をお持ちの方は普段よりも少し特別な日をお過ごしなされたのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

春分秋分の日』は太陽が昇っている時間がほぼ同じ、『夏至の日』は一番長く、逆に『冬至の日』は一番短くなっています。

 

 

 

また、この時期に食べる風習が各地にあり、これは基本的には『五穀豊穣』を願ってのものとなっています。

 

 

 

 

 

江戸時代までは農業、特に武家の世界では『米』が給料として支払われており、「石高」というもので家臣たちを養い、さらにこれが武力にも直結するものなので、我が国『日本』ではいかに農業というものが大切だったかが、分かると思います。

 

 

 

 

 

 

さらに江戸時代まえまでは「時刻」と言うものがほとんど存在しておらず、朝になったら起き、夜になったら寝るというなんとも単純な生活様式でした。

 

 

 

 

そして話は現在。

 

 

 

 

イギリスのロンドンにある「旧グリニッジ天文台」を0時とした基準に東経135度線が日本の基準時間となっています。

 

 

 

 

 

 

その時差は8時間。

 

 

 

 

ここでも『8』という数字、そして13+5=『18』という数字が出てくるんですね。

 

 

 

 

 

さらに、この基準地は兵庫県の淡路島に存在します。

 

 

 

 

淡路島といったら『伊奘諾(イザナギ)』・『伊奘冉(イザナミ)』が『日本』という島々を作ったさいに一番最初に作った場所でもあります。

 

 

 

 

 

イギリスと日本はやはり、古い時代から繋がっているとしか思えませんね。

 

 

 

 

 

なぜなら、ロンドンには『ロイヤルファミリー』が。

 

 

 

 

そして、我が国『日本』には『天皇陛下』をはじめとする『皇族』が存在しています。

 

 

 

 

 

一説にはあのアメリカ大統領が来米した際に、わざわざ出迎えに行くのは、『ローマ教皇』・『エリザベス女王』・そして『天皇陛下』のみだそうです。

 

 

 

 

 

また、その中でも最上位の敬意を払われるのが『天皇陛下』だと言われています。

 

 

 

 

英語だと唯一『天皇陛下』のみ、『Emperor(エンペラー)』と呼ばれている意味が分かる気がしますね。

 

 

 

 

 

 

さらに、世界最古の秘密結社である『フリーメイソン』のグランドロッヂはイギリス・ロンドンにあります。

 

 

 

 

 

また、『イエス・キリスト』の子孫が実は存在していて、それが『日本』にいると言う都市伝説もあります。

 

 

 

 

こうしてみると、すべてが偶然ではなく必然的に出来ている様な気がならないですね。

 

 

 

 

 

 

さて、話が大分ずれてしまったので戻しますが、この「時刻」を市民に伝えるために出来たのが江戸では9箇所ある『時の鐘』でした。

 

 

 

 

 

いまでは埼玉県・川越市の『時の鐘』が有名ですが、実は東京都にもまだあるんですね。

 

 

 

 

 

そして、一番最初に出来たのが現存はしていませんが、日本橋にあった『時の鐘』です。

 

 

 

その後日本橋石町に移動し、『石町・時の鐘』として、江戸時代の市民に「時刻」を知らせていました。

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今回は、ちょっと話がズレている話が長くなってしまったので、次回はしっかりとお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年の夏至の日

前回は、『夏至の日』に太陽が通る道、『レイライン』についてお伝えしましたが、今回はこの夏の季節に旬な食べ物について、少しだけお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

 

まず、夏の旬と言って思い出されるのがなんといっても「うなぎ」ですよね!

 

 

 

 

 

 

うなぎは土用の丑の日でも有名ですが、これは平賀源内が知り合いに頼まれて、口コミで広めたと言う説があります。

 

 

 

 

でも、実際ものすごく栄養価のある魚で滋養強壮に効く食材になっていますし、個人的にも大好きですし、これからどんどんと暑くなってくるので、シーズン中に2〜3回は食べたいものです。

 

 

 

 

 

また、同じうなぎ目で夏の旬な魚といえば「ハモ」があります。

 

 

 

 

日本では中部以南に生息している魚で、関西圏などではスーパーにも売っているそうで、意外とポピュラーな魚になります。

ただ、やはり高級魚なのでなかなか手は出しにくいですがね。

 

 

 

 

 

私自身は10年ほど前に京都に旅行に行った際に、先斗町(ぽんとちょう)の納涼床で鴨川を眺めながら、食べた記憶があります。

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ただ、暑さと値段の高さであまり味の記憶は無いんですがね…。笑

 

 

 

 


それよりも、『池田屋事件』の跡地や『豊臣秀次』の墓地のある『瑞泉寺(ずいせんじ)』。

 

 

 

 

また、『織田信長』が討たれた『本能寺(ほんのうじ)』を周ったことの方が記憶に残っています。

 

 

 

 

 

と言うのも、先斗町周辺をまわった時間も夜になっており、歴史が動いた場所と言うのも相まって何か怖かったと言う記憶があるんですね。

 

 

 

 

 

なので、情けない話ですが時間帯的にも、前を通ってすぐに帰ったと記憶しています。

 

 

 

 

 

さて、京都では『水無月(みなつき)』と言う和菓子を『夏の大祓(なつのおおはらえ)』の際に食べる風習があります。

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これは、平安時代から宮中で氷室から取り出した氷を食べて暑気払いをすると言う風習がありました。

また、氷をういろうに見立て、四角を半分に切った形が三角形になります。それを一年の半分としました。

 

 

さらに、小豆の赤色が厄払いの意味があり、それを上に乗せたことにより、この和菓子のかたちが出来ました。

 

 

 

 

さて、『夏至の日』に話を戻しますが、実は6月21日は日本では『部分日食』になります。

 

 

 

 

東京では16時過ぎに始まり、最大になるのが17時10分です。

 

 

 

 

この日は日曜日で、父の日でもあるので是非ご家族がいらっしゃる方はみんなで見て頂きたいですね。

 

 

 

 

ただし、肉眼や望遠鏡などでは絶対に見ないでください。

 

 

 

ちゃんと、必ず日食専用の道具を使って下さいね。

 

 

 

 

これは絶対に‼︎

 

 

 

 

 

6月21日は『夏至の日』・『父の日』・『部分日食』と盛り沢山なので、是非有意義な一日をお過ごしください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月21日 

最近、日中の暑さと新型コロナウィルスの影響により、いまだにマスクを着用しての生活を強いられている方が多いと思います。

 

 

 

気温が30°cを超えるこの時期のマスクの中の湿度はほぼ100%となっているらしいので、余計息苦しさを感じる方や、2歳未満のお子さんに限ってはあまりマスクをすると熱中症にかかってしまう可能性もあるなどとも言われているので、対策も大変だと思います。

 

 

 

 

ちなみに、うちの下の子まだ2歳ですが、保育園内では先生方たちは着けていますが、園児たちは着けてないそうです。

 

 

 

 

 

 

 

さて、話は変わりますが2020年の6月21日は何の日か皆さんはご存知でしょうか?

 

 

 

 

 

一年の中で世界中、太陽が一番長い日照時間がある日。

 

 

 

 

夏至の日』

 

 

 

 

 

 

になります。

 

 

 

 

 

 

そして、この日に太陽が通る場所、いわゆる『レイライン』と言うものがあります。

 

 

 

 

 

その中で、『春分の日』でも取り上げた神奈川県にある『寒川神社(さむかわじんじゃ)は、夏至冬至春分秋分の日すべてを通る神社となっています。

 

 

 

 

 

 

それだけでも、ご利益がありそうですね。

 

 

 

 

そしてその『レイライン』は、

 

鶴岡八幡宮』→『寒川神社』→『諏訪大社 上社本宮』となっているんです。

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さらに他にも『レイライン』がありまして、これも不思議と思ってしまうくらい、重要な拠点を『夏至の日』に通っているのです。

 

 

 

 

 

そのラインとは

 

鹿島神宮』→『皇居(江戸城天守閣)』→『富士山』→『伊勢神宮』→『霧島神宮

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このラインは『夏至の日』の日出・『冬至の日』の日没と重なっていることから、太陽神である『天照大御神アマテラスオオミカミ)』と深い関係のある場所になっているんです。

 

 

 

 

 

 

そして、さらに面白いことに、『伊勢神宮』参拝の順路として、始まりの神社である『二見輿玉神社』。

 

 

 

 

 

この神社で有名な『夫婦岩』の間から、『夏至の日』前後2週間だけ、太陽が昇るような位置にもなっているのです。

 

 

 

特に晴れた日はそのあいだから小さくではありますが富士山も見えて、そこから太陽が昇るように見えると言う、なんとも絶景ポイントにもなっています。

 

 

 

 

私がこの時期に見に行った時は、ガスってて全く見えませんでしたがね。

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ただ、これを見に朝の4時半前からたくさんの観光客がいましたので、皆さんも一度は是非この体験をしてみて下さい。

 

 

 

 

きっと一生の記念になると思います。

 

 

 

 

私もまた必ず行って、一度この『御来光』を拝みたいと思っています。

 

 

 

 

 

さて、2020年の『夏至の日』6月21日ですが、その前日の6月20日は『一粒万倍日』と『天赦日』と言う日が重なる日で、年に2〜3回しか無い特に良い日となっています。

 

 

 

そして、さらに『父の日』と『大安』と言う良い日が重なっているんですね。

 

 

 

 

しかも、2020年は土日がこの日2つの日と重なっており、さらに観光としては訪れやすい日となっているんです。

 

 

 

 

 

ただ、今年は「不要不急」の外出は控えてとの要請がある中でなので、中々そうゆう訳にも行かないとは思いますが、この事を知っているだけでも何かご利益がある気がします。

 

 

 

 

 

ちなみに私は地元の神社に参拝しようかと思っています。

(地元の神社は『伊勢神宮』を総本社としている神社なので。)

 

 

 

 

 

さて、話は『夏至の日』に戻しますが、『冬至の日』のように全国で行われるような有名な風習があまり無いんですよね。

 

 

 

 

ただ、関西ではタコを、関東では小麦を使った小麦餅を食べる風習があります。

 

 

 

 

 

これは、前者は稲の根が「タコの足」のように根強く、さらに8本の足があることから広く根付くようにと願いを込められて、「タコ」を食べるそうです。

 

 

 

 

また、後者の関東地方では二毛作が広く行われており、この時期に小麦を収穫し、さらに田植えをしていました。

 

 

 

 

こうしてみると、全国各地で食べる物は違えど「稲作」という共通の、生きていくために必須な農耕というのが原点にあるんですね。

 

 

 

 

 

次回は、『夏至の日』あたりに食べられる旬な食べ物についてもう少しだけお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

坂東三十三箇所、そして。

今回は関東にある、『坂東三十三箇所』についてお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

 

と、言うのも『西国三十三所』は奈良時代あたりからスタートをし始め、院政期にその前身となるものが最盛期となりました。

 

 

 

 

 

しかし、この当時の民衆にはまだまだ外への巡礼(旅)をするのは難しく、これが広まったのは江戸時代に入ってからでした。

 

 

 

 

また、江戸時代、江戸からの巡礼者は最初に『伊勢神宮』を巡って、その次に第一番の『青岸渡寺』に向かって、途中に高野山比叡山に参拝して、結願(巡礼の最後)である第三十三番の『華厳寺』を目指しました。

 

 

 

 

そして、お礼参りとして、長野県にある『善光寺』と『北向観音』に参拝して帰路すると言うのが通例になっています。

 

 

 

 

ただ、『善光寺』などにはあえてよらずに帰路する人々もおり、その理由としては巡礼が終わってしまうと死を急ぐことになると言うことからきたそうです。

 

 

 

 

 

さらに、江戸など東日本以外の人々は当時は『善光寺』に立ち寄るのは大変だったために、

西日本の人々は『高野山 金剛峯寺 奥の院』・『比叡山 延暦寺 根本中堂』・『東大寺 二月堂』・『四天王寺』もお礼参りの対象となっています。

 

 

 

 

と、ここでようやく今回の題名にもある『坂東三十三箇所』のお話ですが、これは鎌倉幕府・初代将軍である『源頼朝』が初願し、そのこどもである3代将軍『源実朝』が『西国三十三所』を模範として、礼所を制定したとせれています。

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そして、少し余談ですが、前々回にお伝えした『小倉百人一首』でなぜか気になった『藤原敏行』が字を書いたと伝わっている梵鐘(『三絶の鐘』と称されています。)がある、京都の『神護寺』に上記の『伝源頼朝像』があるのです。

 

 

 

 

そして、どちらも『国宝』としてなっているので機会があれば、是非拝見してみたいですね。

 

 

 

 

 

さて、『坂東三十三箇所』は神奈川県の鎌倉市にある『杉本寺』からスタートします。

 

 

 

 

この『杉本寺』には通常、格子戸の奥に安置されている3体の観音像があり、拝観は出来ませんが、毎月1日と18日だけご開帳をし、拝観することが出来ます。

 

 

 

 

 

また、『1』と『18』と言う数字が出てきましたね。

 

 

 

 

 

そしてなんと『13』番目のお寺は東京にあり、観光地としても、最も有名な寺院のひとつ『浅草寺』になります。

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浅草寺』はお寺自体も人気ですが、なんと言っても『雷門』や、その参道である「仲見世通り」が人気ですよね。

 

 

 

今のコロナ渦が終息したら私自身もまた行きたい場所のひとつです。

 

 

 

 

そして、海老や穴子などの「天婦羅」が食べたいなあ。

ちょうど、旬な季節ですし。

 

 

 

ゴマ油で揚げる天婦羅はなんであんなに美味いんですかね。

これに日本酒と蕎麦と塩があれば、最高の至福の時間ですね!笑

 

 

 

 

 

 

話がだいぶ私事になってしまったので、戻しますが巡礼の『18』番目になるのが、栃木県・日光市にある『中禅寺』です。

 

 

 

 

 

ここももはや、言わずと知れた観光スポットとして、日光に行った際には『日光東照宮』とともに訪れる方も多いのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

そして、最後の33番目の礼所として訪れるのが千葉県・館山市にある『那古寺』ですが、この巡礼を終えたら、こちらも長野県の『善光寺』と『北向観音』にお礼参りをするのが通例になっています。

 

 

 

 

 

これは、どちらか片方だけだと『片道参り』と呼ばれ、両方行くことにより終了すると伝えられています。

 

 

 

 

 

ここまで、前回の『西国三十三所』、今回の『坂東三十三箇所』と『数字』についてお伝えしてきましたが、ここでもうひとつ巡礼として有名な『四国八十八ヶ所』が…。

 

 

 

 

 

何故か、気になってしまいして調べていたところ、高知県にある『33』番目の礼所『雪蹊寺(せっけいじ)』。

 

 

 

 

 

この寺院で注目すべきは『北緯』。

 

 

 

 

ここはなんと

 

 

 

『北緯33度30分3秒』

 

 

 

 

なんです。

 

 

 

 

これは偶然なのかそれとも分かっていてここに建立をし、33番目の礼所にしたのか。

 

 

 

 

 

考えるだけで、不思議で面白いですよね!

 

 

 

 

 

 

皆さんもこのような数字に注目して、神社仏閣を回ってみるとまた新たな発見が出来るかもしれまへんよ。

西国三十三所

日本には神社とともに、奈良時代から発展してきた寺社が多くあるのはお分かりだと思います。

 

 

 

その中でも、巡礼として有名なのが『西国三十三所』と『坂東三十三箇所』ですよね。

 

 

 

 

 

 

ここで少し数字にまつわる面白い話があるんですね。

 

 

 

 

題名にもある通り、『西国三十三所』と『坂東三十三箇所』は『33』と言う数字が出てきます。

 

 

 

 

これは、日本が仏教を取り入れた『聖徳太子』の時代に『法華経』のなかの『観音経』から由来しています。

 

 

 

 

この『観音経』と言うのは、『般若心経』とともに日本人には、とても慣れ親しんでいたお経で、宗派を問わずに活用されています。

 

 

 

 

そして、ここに出てくる観音様が、『33の姿を変えて、その人それぞれにあった姿で現れ教えを説いてくれて、人々を救ってくれる。』という教えです。

 

 

 

 

 

人によっては仏様で現れたり、仁王様として現れたりと、その人の『心』しだいで見える姿も違って見えるという事です。

 

 

 

 

この『33』の姿から『観音様』を祀っているお寺を巡礼する場所が『33』箇所となりました。

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↑上記は『法隆寺・夢殿』にある『救世観音菩薩像』です。

 

 

 

 

さて、一方でキリスト教では『イエス・キリスト』は33歳で召されたとなっています。

 

 

 

 

そして、この33歳というのが『イエス・キリスト』が人間として成熟しきった年となっており、この年に絶頂を迎えて身を捧げたともなっています。

 

 

 

 

 

そのようなところから、キリスト教でも『33』という数字は、『最上級』を意味する数字なっているのです。

 

 

 

 

 

さて、秘密結社『フリーメイソン』でも、『33』という数字は『最上級』の数字となっています。

 

 

 

 

 

また、

『1』は、『太陽』

 

『3』は、キリスト教では『父なる神』とその『子のキリスト』と『聖霊』からなる『三位一体(唯一の神)』と言う考え。

 

 

さらに仏教などでも、安定的な数字から非常に良い数字として扱われています。

 

 

 

日本でも、「三大◯◯」など秀でたものに対して良く使われていますよね。

 

 

 

 

『6』と言う数字は、『不完全』を意味しており、そういった意味からも3つの不完全な数字『6・6・6』が『悪魔の数字』と呼ばれているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

ただし、この『6・6・6』を足した『18』と言う数字。

 

 

 

 

 

ユダヤ教や仏教の世界では『聖数』としてされています。

 

 

 

 

 

特に仏教の世界では『阿弥陀如来』が人に対して約束(本願)が48願あり、そのなかでも『18』番目の願が本心を誓われると言われています。

 

 

 

 

 

その『阿弥陀如来』の願とは、

「すべての人を絶対に助けて、幸せにする。」

と言うものです。

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↑上記は『高徳寺』の阿弥陀如来像。

鎌倉の大仏様として知られています。

 

 

 

また、旧ヘブライ語では『人生』ということばが『18』という数値を含んでおり、そういったところからも、『聖数』となっています。

 

 

 

 

 

そうゆう所からも日本では、『18番』と言われているいわゆる「オハコ」と言うことばや、プロ野球の投手でエースナンバーにもなっているで(真打)のだと思います。

 

 

 

 

 

また、『西国三十三所』の18番目は『頂法寺(ちょうほうじ)』になっています。

 

 

 

 

 

このお寺は『華道』や『池坊』(生け花の語源)の発祥の地にもなっているお寺ですが、ここの開基はまさかの『聖徳太子』と伝わっているのです。

 

 

 

 

聖徳太子』と言えば、第33代天皇の『推古天皇』の摂政ですよね。

 

 

 

 

 

 

そして、『聖徳太子』は『厩戸皇子(うまやどのみこ)』としても呼ばれています。

 

 

 

 

 

イエス・キリスト』も馬屋で生誕したと言われており、これを見ても関係してる気がしますよね。

 

 

 

 

 

 

と、少し話が長くなってしまったので、次回は

坂東三十三箇所』についてお伝えしていこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小倉百人一首

2020年5月26日、午前0時を以ってとりあえずはようやく『緊急事態宣言』が解除されましたが、まだまだ気の抜けない状態が続くと思います。

 

 

 

 

 

そんな中、特にお子さんがいる家庭ではトランプやウノなど、アナログ版のゲームを楽しむ家族も増えたのではないでしょうか。

 

 

 

 

我が家でも、『小倉百人一首』を去年買い、それをみんなで楽しんでいました。

 

 

 

 

 

そして、ちょっと調べると中々面白いように繋がっていくことが分かりました。

 

 

 

 

 

と言うのも、何故か18番目の『藤原敏行(ふじわらのとしゆき)と言う人物が気になってしまい、ちょっと調べるとまたか!と思ってしまうほど、ある場所や人物につながってくるのです。

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彼は平安時代の和歌の名人である『三十六歌仙』にも選ばれるほどの人物で、書道の大御所で『三跡(さんせき)』のひとりである『小野道風(おのみちかぜ)』にも、古今最高の能書家として、『空海』ともに賞された人物です。

 

 

 

 

 

 

『住(す)みの江の 

      岸によるなみ  

            夜さへや  

   夢の通(かよ)ひ路(ぢ) 

            人目もくらむ』

 

 

 

 

現代語に訳すと

『住の江(今の大阪府住吉区)の海岸によせる波ではないけど、昼だけでなく夜までも、どうしてあの人は夢の中の通い路ですら、人目をさけているのだろうか。』

 

 

 

 

と言う意味になります。

 

 

 

とは言っても少し分かりづらいかもしれません。 

 

 

 

通い路と言うのは、通い道と言ったほうが分かりやすくなります。

 

 

 

夢の中だと、基本的には思い通りのはずなのに、それですらもあの人(想いを寄せている人)は人目をさけているのはなぜだろうか?

 

 

 

 

と言うことですね。

 

 

 

 

海岸に打ち寄せる波は昼も夜も変わらずに打ち寄せていますから、これに「昼も夜ですら」と言うことばを掛けているのです。

 

 

 

 

 

想像してみると、海の波と言う自然現象と恋愛(?)と言う想いを馳せているだけでうまくいかないと様子が目に浮かぶ気がします。

 

 

 

 

現代社会でも、失恋をしたらよく海に行ったりするのがドラマや映画に描かれているのはこういった所からの島国『日本』で生まれた日本人としての遺伝子でもあるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

また、藤原敏行は京都にある『神護寺(じんごじ)』にある梵鐘は国宝になっていますが、現在は一般公開はされていません。

 

 

 

この梵鐘は詞を「橘広相(たちばなのひろみ)」と言う文章博士や参議を務めていた文人が、銘は「菅原是善(すがわらのこれよし)」

がつくり(菅原道真の父です。)、字を藤原敏行が書いたことから、『三絶の鐘』と呼ばれています。

 

 

 

 

さらに、この書法は『小野篁(おのたかむら)』などの流れをくんでいて、兄弟は藤原敏行の妻にもなっています。

 

 

 

 

ちなみに先述した「小野道風」は小野篁の孫にあたり、小野篁自身も『小倉百人一首』に選ばれています。

 

 

 

 

 

 

ここで、あれ?

 

 

 

と思ったわけです。

 

 

 

 

 

小野篁といえば以前、『小野照崎神社』と言う神社を参拝させて頂いたことを伝えましたが、ここで繋がってくるんですね。

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↑(上記の御朱印は、令和元年の『即位礼の儀』と『大嘗祭』を記念した『小野照崎神社』

特別御朱印です。)

 

 

 

 

 

 

そして、藤原敏行陸奥出羽按察使(むつでわのあぜち)とよばれる、陸奥国出羽国を監督する官職に就いています。

 

 

 

 

 

出羽国と言えば、これも以前お伝えした『出羽三山神社』ですね。

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この山を登って辿り着いた神社なので、余計身近に感じてしまうんです。

 

 

 

 

 

そして、ここは(特に『月山神社』)は『伊勢神宮』と『陰と陽』の関係になっています。

 

 

 

 

このように、なぜかポイント、ポイントで繋がってくるんですね。

 

 

 

 

 

 

さて、本日5月27日は「百人一首の日」でもあります。

 

 

 

 

これを機会にみなさんも『小倉百人一首』にふれ、歌人の生い立ちなどを調べてみてはいかがでしょうか。