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『世界最古の国』日本

#神社仏閣#歴史#都市伝説#グルメ#漫画#アニメ#ゲーム#その他生活にありとあらゆるものなどに関することを書いています。ここに記載するすべて記事の引用素材は誹謗中傷を目的としたものでは無く、著作権を侵害する目的で作成したものではありません。

ある企業との繋がり

今回は『ジャーディン・マセソン商会』の傘下や繋がっている企業についてお伝えしていきたいと思います。

 

 

 

 

と言いますか、意外とみなさんが聞いたこと・行ったことのある企業がたくさん傘下にあるんですね。

 

 

 

 

 

その中で少しだけ抜粋しようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

と言うのも、一度は皆さんが聞いたことがあるような企業が多すぎて全ては書ききれないからです。

 

 

 

 

さて、まず1つ目は「K◯C」です。

 

 

この企業は言わずとと知れた、クリスマスのチキンなどで有名な企業で、大抵の方が一度はクリスマスシーズンに利用したことがあると思います。

 

私も、かれこれ20年以上、毎年この時期になると予約をして、家族みんなで食べています。

 

 

 

 

そして、アメリカでの創業者「カーネル・サンダース」は慈善団体に所属していたことを公言しています。

 

 

 

その慈善団体が『ロータリー・クラブ』と

 

 

 

 

フリーメイソン

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また、『ロータリー・クラブ』にはGHQの最高司令官だった「ダグラス・マッカーサー」も所属、さらには『フリーメイソン』にも所属をしていました。

 

 

 

一説にはマッカーサー元帥が日本に来日しすぐに、『フリーメイソン』の東京支部用の建物を確保するよう指令をだし、それが現在の『日本グランドロッジ』になったのだとか。

 

 

 

 

 

話は戻りまして『K◯C』ですが、こと『日本』に関しては『三菱商事』の子会社になっています。

 

 

 

さらに、コンビニで有名な『ロー◯ソン』も元々は『三菱商事』の子会社でした。

 

 

 

 

『三菱』と言えば、初代総帥の「岩崎弥太郎」と「トーマス・グラバー」は日本でも有数のビール会社である『キリンビール』を共同で立ち上げましたよね。

 

 

 

 

しかも、このキリン=麒麟があの「坂本龍馬」を指していると言う都市伝説もあるくらいです。

 

 

 

 

また、『K◯C』はもともと『ペ◯シ』と提供していましたが、現在は『コ◯カ・コーラボトラーズ』と提供しているそうです。

 

 

 

 

 

そしてアメリカの『コ◯・コーラ』ある財閥の傘下。

 

 

 

 

 

それが、

 

 

 

 

 

ロスチャイルド家

 

 

 

 

 

です。

 

 

 

 

 

さて、コンビニ業界で『日本』においては最も有名な『セ◯ン・イレ◯ン』ですが、この数字を足すと

 

 

 

 

『18』

 

 

 

 

になります。

 

 

 

 

 

『6+6+6=18』

 

 

 

 

 

出ましたね。

 

 

 

 

 

ここでもこの数字がでてくるのです。

 

 

 

 

 

さらに、『セ◯ン・イレ◯ン』の親会社である『セ◯ン&アイ・ホー◯ディングス』は現在、イトー◯ーカ堂・そ◯う・西◯系列を傘下に置いています。

 

 

 

 

西◯系列で有名なのは、あのプロ野球チームの『西◯ライオンズ』。

 

 

 

 

 

ライオンズと言えば、各自治体に『◯◯ライオンズクラブ』と言う慈善団体がありますが、この慈善団体の母体が、

 

 

 

 

フリーメイソン

 

 

 

 

 

 

 

 

また、『フ◯ミリー・マート』はもともと親会社が『西◯系列』です。

 

 

 

 

 

だから、『西◯鉄道』の駅周辺に『フ◯ミリー・マート』が多いんですね。

 

 

 

 

 

少し話はズレますが、以前の『西◯鉄道』の列車の色は黄色でその理由は、東京都内から川越など、埼玉西部地方にひとの糞尿を運んでいたからだと言う都市伝説があります。

 

 

 

 

ひとの糞尿はその昔は農作物の肥料として大変貴重なものとして取引されていて、非常に良質は肥料になります。

 

その肥料をつかい、川越特産の『さつまいも』などに使っていたそうですが、さつまいもは良くオナラが出るなどと言われますよね。

 

 

よく、アニメなどではオナラは黄色で表現されています。

 

 

そのような事からもまさに黄色しかないような気がしてなりません。

 

 

 

 

 

 

 

話は戻りまして『日本』いや、世界で一番人気のキャラクターがおり、『夢◯国』とも言われている企業も実はこの財閥の傘下に入っています。

 

 

 

 

 

そう考えてみると、『夢◯国』の自動販売機で売っている飲み物は『コ◯・コーラ』や『キリン・ビール』からの多いですよね。

 

 

 

 

 

ここでも、資金調達をしている訳です。

 

 

 

 

そして、創業者の「ウ◯ルト・デ◯ズニー」は

 

 

 

 

 

フリーメイソン

 

 

 

 

 

のメンバーと公言しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

そう考えると全てがつながっている気がしてきますね。

 

 

 

 

 

 

さて、今回は『世界を牛耳っている』と言われている財閥(一族)と誰もが知っている企業との繋がりをお伝えしましたが、次回は繋がっている人物についてお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

是非ご期待下さい。

 

 

 

ジャーディン・マセソン商会

 

 

さて、今回も「グラバー」についてお伝えしていきたいと思いますが、彼がいなければいまの『日本』は無い!とも思ってしまうくらい、明治維新後も日本経済などに尽力した人物です。

 

 

 

 

 

 

その理由は彼と関わった人物たち。

 

 

 

 

 

 

前回は坂本龍馬陸奥宗光、そして現在も日本を代表する企業である「三菱グループ」の創始者であり、初代統帥の岩崎弥太郎が関わっていたというのをお伝えしました。

 

 

 

 

 

今回はさらに奥深くに行きたいと思いますが、薩摩藩長州藩とも深く関わっていました。

 

 

 

 

 

まず長州藩ですが、のちに「長州五傑」と呼ばれる5人の若い長州藩士たちをイギリスに渡航・留学をさせ、さらにイギリス留学中は『ジャーディン・マセソン商会』(グラバー商会はこの企業の長崎支店でした。)の創業者の1人の甥にあたる会長が、支援をしていました。

 

 

 

 

 

 

さて、その5人の人物とは。

 

 

 

 

1人目は「井上馨(いのうえかおる)」

  →外交の父と呼ばれ、諸外国との不平等条約改正に尽力した。また、それに踏まえて欧化政策をし、「鹿鳴館」や「帝国ホテル」の建設。

また、現在の三井物産の設立するなどをしていたが、大久保利通の死後より、政治のトップとなっていた伊藤博文により、「参議」や外務卿(現在の外務大臣)に就任。

「元老」のひとりとして、死ぬまで内閣総理大臣の推薦に関与していました。

「外交の父」と呼ばれている。

 

 

 

 

 

 

2人目は「遠藤勤助(えんどうきんすけ)」

  →大阪・造幣局造幣局長として就任し紙幣を日本国民に浸透させるなど、尽力した。

また、現在でも大阪の春の風物詩である「桜の通り抜け」は、当時局長だった彼が、「大阪の市民にも楽しんでもらおう!」と言う思いから始まった。

「造幣の父」と呼ばれている。

 

 

 

 

 

3人目は「山尾庸三(やまおようぞう)」

  →国の近代化を求め、欧米諸国に対抗する社会基盤となる「殖産興業」を推奨するための中央機関である「工部省」設立に尽力した。

また、現在の東京大学工学部の前身となる「工部大学校」を設立し、日本で初めての技術者養成機関に尽力した。

「工学の父」と呼ばれている。

 

 

 

 

4人目は「井上勝(いのうえまさる)」

  →新橋〜横浜間を初めて鉄道を走らせるなど全国の鉄道事業に尽力した。

また、「小岩井農場」の創業者のひとりで、日本鉄道が「盛岡駅」まで延伸開業した翌年に日本鉄道会社の副社長「小野義眞」・三菱社社長「岩崎彌之助」・鉄道庁長官「井上勝」の共同経営ではじまった。

この3人の頭文字をとったものである。

「鉄道の父」呼ばれている。

 

 

 

 

 

そして5人目が「伊藤博文(いとうひろぶみ)」

  →言わずと知れた「初代・内閣総理大臣」。

生涯のうちに計4回、内閣総理大臣を就任している。

また、初代枢密院議長や「元老」も歴任。

「内閣の父」と呼ばれている。

 

 

 

 

 

とこのように、明治に入り近代化を進めてきた人物たちばかりなのです。

 

 

 

 

 

さらに薩摩藩士では「五代友厚」や「寺島宗則」など、やはり明治時代に近代化を進めた人物たちを海外留学させるなどの支援をしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、明治時代の近代化の礎を築いた(特に長州五傑)に資金援助をしていた、『ジャーディン・マセソン商会』。

 

 

 

 

 

実は前身はあの『東インド会社』なのです。

 

 

 

 

 

以前、『ベンジャミン・ディズレーリ』首相の時にスエズ運河を買収し、それによって『大英帝国』を帝国を築き上げたとお伝えしました。

 

 

 

 

そしてアジアの拠点となったのがこの『東インド会社』なのです。

 

 

 

 

 

 

また、このスエズ運河を買収する資金を援助したのが、

 

 

 

 

 

 

ロスチャイルド家

 

 

 

 

 

ここまで来るともはや必然としか思えませんね。

 

 

 

 

 

ロスチャイルド家

       と

フリーメイソン

 

 

 

 

 

この2つが完全に関わってきているんですね!

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに、『ジャーディン・マセソン商会』と『ロスチャイルド家』は婚姻関係を結ぶなどその関係はどんどん深くなっていったのです。

 

 

 

 

 

 

 

このように、薩長などの明治政府は、実は幕末の時代から『ロスチャイルド家』と深く関係していたのが分かります。

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しかし、そのおかげで近代化が出来たと言うのも事実であり、その後も経済大国として発展していった『日本』。

 

 

 

 

 

 

 

良い、悪いでは無くこのような事実とともに世界を動かしているのは誰なのかを改めて知る必要があるかも知れませんね。

 

トーマス・ブレーク・グラバー

さて、今回はこの題名にもある『トーマス・ブレーク・グラバー』についてお伝えしたいと思います。

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彼はイギリス(スコットランド)出身で『ジャーディン・マセソン商会』という、貿易会社に入社し2年後に、長崎にこの『ジャーディン・マセソン商会』の代理店で『グラバー商会』を設立しました。

 

 

 

 

 

この『グラバー商会』がのちに討幕派や幕府など関係なく武器や弾薬などを売り、莫大な利益をもらします。

 

 

 

 

 

また、この時に「亀山社中」の坂本龍馬とも取引をしており、薩摩藩名義で長州藩が軍艦など武器を購入し、『薩長同盟』を成立させ、その後薩摩と長州を中心とする明治維新へと移っていくのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、この時に「グラバー」に関わった人がすごいと言うこと。

 

 

 

 

まず「亀山社中」では、坂本龍馬やのちに日本の不平等条約を改正させた陸奥宗光など。

 

 

 

 

この陸奥宗光不平等条約を改正させるための資金を援助したのが、フランスの大財閥。

 

 

 

 

 

 

 

 

ロスチャイルド家

 

 

 

 

 

出ましたね。

 

 

 

 

 

この名前。

 

 

 

 

 

 

そして、グラバー本人も実は世界最古の秘密結社に属していたと言う説もあるのです。

 

 

 

 

その秘密結社と言うのが、

 

 

 

 

 

フリーメイソン

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実際に長崎県の観光名所のひとつでもある『グラバー園・邸』には、上記のマークが記されいます。

 

 

 

 

 

ただ、実際は長崎市から贈呈されたそうですが、それでも何かしら繋がっていないと贈呈されないような気がしますね。

 

 

 

 

 

さて、話は戻しましてグラバーに関わった人。

 

 

 

 

龍馬との繋がりでは、なんと言っても土佐藩出身の「岩崎弥太郎」です。

 

 

 

 

この岩崎弥太郎と言う人物は言わずと知れた「三菱財閥」の初代統帥になりますが、龍馬の立ち上げた日本初の株式会社の「亀山社中」が「海援隊」と名前を変えたあたりから、土佐藩とも深く関わり、そのときに事業監督者などの役職についていました。

 

 

 

 

 

のちに、新政府(特に土佐藩出身の後藤象二郎)などの力を得て「三菱商会」を設立。

 

 

 

 

そして、現在でも世界に誇る「三菱グループ」になっていくのです。

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またこの「三菱」のマークは、土佐藩主である「山内家」の「土佐柏」と岩崎家の「重ね三段菱」を足したものになっています。

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さて、この岩崎弥太郎とグラバーが共同で立ち上げたのが日本でも有数のビール会社。

 

 

 

キリンビール』です。

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麒麟の見た目が顔は「龍」、胴体は「馬」のような外見をしており、龍+馬=「龍馬」になることから、この名前がつけられたと言う説があります。

 

 

 

 

 

 

さらに面白いことに、今年2020年に放送しているNHK大河ドラマの題名が『麒麟がくる』。

 

 

 

 

このドラマの主人公は「明智光秀」ですが、光秀が居城としていたのが滋賀県にある「坂本城」です。

 

 

 

 

 

そして、龍馬の先祖はここから土佐に流れついて、商いをはじめたと言う説もあるのです。

 

 

 

 

 

 

さらに、明智光秀=天海上人と言う説があり、天海上人が徳川幕府のブレーンとして江戸時代の礎を築いていきました。

 

 

 

 

 

 

 

また、龍馬の4代前より坂本家は土佐藩郷士に認められました。

 

 

 

 

この郷士と言うのは「長曽我部家」の末裔・また家臣たちの子孫であり、『関ヶ原の戦い』では西軍(豊臣側)についた方です。

 

 

 

 

 

 

 

薩摩藩(島津家)・長州藩(毛利家)もそうでしたよね。

 

 

 

 

 

特に毛利家にいたっては、『関ヶ原の戦い』の西軍の総大将を任せられるくらい、信用度の高いものでした。

 

 

 

 

 

 

 

さて、話はちょっとだけズレますが『キリンビール』のロゴマークに「キ」・「リ」・「ン」という文字が描かれているのをご存知でしょうか?

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よーく見てみるとちゃんと描かれていますので、是非探してみて下さい。

 

 

 

 

 

 

今回はグラバーと三菱、そして龍馬との繋がりについてお伝えしてきましたが、実はずっと前から言いたいことだったので、ようやく言えて何かスッキリしました。

 

 

 

 

次回ももう少しだけグラバーと明治維新後に活躍した人物との関わりについてお伝えしたいと思いますので、お楽しみに!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

唯一無二の神社 寒川神社

前回に引き続き、全国で唯一『春分の日』・『秋分の日』・『夏至』・『冬至』の日に、太陽が通る道に重なる神社である『寒川神社』についてお伝えしようと思います。

 

 

 

 

 

 

太陽の通る道のことを

 

『御来光の道』

 

 

また

 

レイライン

 

と呼ばれることも少なくはありませんが、世界にはこのように呼ばれているものが数多く残っており、またどのようにして出来たかなどは未だに解明されていません。

 

 

 

 

なので、いまだにその謎をめぐって多くの専門家たちが日々研究しているのです。

 

 

 

 

 

 

さて、話は、『寒川神社』に戻りますが、『春分の日』に参拝しに行ったこと、そして時間帯も早めに着いたので、御神域である『神嶽山神苑(かんたけやましんえん)』から頂いた、浄め土と、霊水が無料で配布してありました。

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これも何かのご縁なのかと、ひとつずつ頂きまして帰宅後、自宅の四隅にそれぞれ散布しました。

 

 

 

 

また、『春分の日』限定での御守りも授与してたので、それも奉納して頂きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

本殿の左側には「八方除の羅針盤」があり、参拝者はみんな手を合わせて願い事をしてました。

 

 

 

私も、「家族が幸せでいますように。」とお願いをしました。

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もちろん、本殿での願い事も同じでしたけどね。笑

 

 

 

 

 

そして、本殿を出る時に神門からもう一度一礼をして、今度は「ありがとうございます。おじゃましました。」と心の中で感謝し、神門を出ます。

 

 

 

 

出るとまさかの日本の国旗が風で波を打っていて、かっこよかったんですね、これが!

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NHKの放送で流れているのは島根県にある

 

 

 

出雲大社

 

 

 

 

の日本の国旗になります🇯🇵

 

 

 

 

 

 

 

また、その下には国歌の『君が代』の歌詞に出てくる「さざれ石」などがあります。

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さらにこの左側には旧神門と、旧狛犬がありました。

 

 

 

 

 

そして、屋台も何軒かならんでおり、人も少なかったので、座る場所にも余裕があり、とても過ごしやすかったです。

 

 

 

 

 

しかも、わたあめを1個買ったらもう1個おまけをしてくれたり、チョコバナナは当たりを出して4つ貰ったりと良いことばかり続きました。

 

 

 

 

 

 

そして最後に、『春分の日』と言うことで、「八福餅」を買って帰宅しました。

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ちょっと話はズレますが、『寒川神社』に行く前にローソンで、からあげクンを買ったらまさかのからあげクンのキャラクターが描かれているのが出ました♫

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この3日まえに、実は娘から作ってもらったミサンガが切れて、その願い事が「何か良いことがありますように!」と言う願いだったので、これかっ!と思いました。

 

 

 

 

 

ただ、全部食べ物だったので「これかいっ!」と思いましたけどね。笑

 

 

 

 

 

 

と、このように『寒川神社』もすごく雰囲気が良く、さらに良いことがたくさん重なったので、すごく良い日となりました。

 

 

 

 

 

 

いま、世界的に危機的状況にはなっていますが、もしこれが落ち着いたら、是非一度は訪れて下さい♫

全国唯一の八方除 寒川神社

前回、『寒川神社』が全国で唯一の「八方除(はっぽうよけ)」の神社であると言うことと、全国で唯一『春分の日』・『秋分の日』・『夏至』・『冬至』の日に太陽が通る道があります。

 

 

 

 

それが

 

 

 

 

 

 

レイライン

 

 

 

 

 

この道は『ご来光の道』とも言われており、一直線になっているんです。

 

 

 

 

 

 

 

そして、この神社の御祭神は『寒川比古命(さむかわひこのみこと)』と『寒川比女命(さむかわひめのみこと)』。

 

 

 

 

 

この2柱を合わせて『寒川大明神(さむかわだいみょうじん)』と総称されています。

 

 

 

 

 

また、『寒川大明神』は近くに川が近いこと、弥生時代までは相模湾に面していたことなどから、百済系の渡来人(出雲国)出身の『国津神』の系列だと思われます。

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さて、今回はこの『寒川神社』を紹介していきますが、まず一の鳥居・ニの鳥居・を越えて、三の鳥居に進むと、「神池」がありそれに掛けられている「神池橋」を通ります。

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ここから三の鳥居に正面にすると、左側に晴れている時は『富士山』が見えますので、是非ご覧ください。

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そして、三の鳥居の前は撮影スポットとしてもオススメです。

 

 

 

 

 

また、ちょっと面白かったのが境内での禁止事を書いてある「制札」。その中に、

 

一、車馬ヲ乗リ入ルコト

 

と記してあったのです。

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この時代に中々、馬で入ってくる人っていませんよね。

 

 

 

 

 

しかも、神社の「制札」にはちょいちょい書いてあるんですよね。

 

 

 

 

ただ、2019年に即位した際に『天皇・皇后両陛下』が『伊勢神宮』に『大嘗祭』の終えたことを外宮にお祀りしているトヨウケヒメビや、皇祖神である内宮のアマテラスに報告をする『親謁の儀』の際には、『天皇陛下』は馬車で御参拝なされました。

 

 

 

 

 

 

 

このような事例もあるので、禁止しているんですかねぇ。

 

 

 

 

 

さて、三の鳥居⛩で、「お邪魔致します。」と一礼をしたあとすぐ左側に出てきたのが、『愛子内親王様』が御生誕なされたときの記念樹がありました。

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その少し先の逆側には「安政の大地震」で倒壊してしまった石造りの鳥居が残されていました。

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こんなに大きな鳥居をも倒壊してしまう大地震のさまがいかに恐ろしいものだったのが、分かりますね。

 

 

 

 

 

 

そして、そのまま参道を進んで行くとひらけたところになり、左側に手水舎があります。

 

 

 

 

今回はコロナウィルス対策として、普段はどこの神社にもある柄杓がなく、そのかわりに細い竹を使い、水が流れるようにしていたので、それで手や口を清めてから本殿へと向かいました。

 

 

 

 

 

それを見た時に、何かこんな状況のなかでも風情があり、これが日本人の感覚なんだなぁとあらためて感じる事が出来た気がします。

 

 

 

 

 

 

そして、いざ本殿へと向かう前に神門を通るのですが、ここの狛犬のデカさにビックリ‼️

 

 

 

 

 

 

なかなかここまで大きいのは見たことが無いレベルでした。

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この狛犬は近くによってみるとさらに大きさを感じ、むしろ威圧感すらも感じてしまうくらいでしたが、神門をくぐる前に一礼をし、いざ中に入ってみると広くて自分の感覚的にすごい良い雰囲気。

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これも自分の感覚ですが何かこの神社に招待されたのではないかと思ってしまう程、雰囲気が良かったです。

 

 

 

 

 

以前にも一度訪れたことがありましたが、その時はそうでも無かったですし、他にも色々と神社仏閣をまわっていますが、なかなかこの感覚になる事が無い、なんとも言えない雰囲気なんですね。

 

 

 

 

 

直感的に良い❗️

 

 

 

 

 

 

たまたま、この日のこの時間に波長があっていたのか、ちょっと説明がむずかしいんですがね。

 

 

 

 

言うなれば、普通、神社仏閣に参拝するとその広さや装飾の絢爛さを見て「すごいなぁ」と言う事はありませんか?

 

 

 

 

この時はそうではなく、何か家族や友達などで花見をしている時の感覚と同じような、楽しいと言う感覚だったんです。

 

 

 

 

 

そして、本殿でしっかりと参拝をし、ふと右手側を見てみると、まさかの無料で「『神嶽山』の浄め土」(この神嶽山はもともとは「禁足地」になっており、寒川神社とも深い関係のある「難波の小池」を中心に、本殿の裏にある山です。)

と、「難波の小池」から引いてきたと言われる霊水を頂くことが出来ました。

 

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しかもこの無料配布も最後の1つでした。

 

 

 

 

たまたま見つけたのもそれを手にしたのも、何かこの日は縁があったのではないかと感じてしまう出来事だったと思わざるを得ない気がします。

 

 

 

さて、少し長くなってしまったので次回もう少しだけ『寒川神社』についてお伝えしようと思いますので、是非ご覧下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全国唯一の神社

 

先日、『春分の日』も終わり、これからどんどん陽も延びて、暖かくなってきますが、それでも2020年は日本各地で暖冬により、東北地方などの雪がつもる土地では、経済的打撃を受けたかと思います。

 

 

 

 

 

そして、今回の新型ウイルスで『東京オリンピック 2020』も延期。

 

 

 

 

 

さらにこの新型ウイルスで世界的にも経済が傾いてきており、いよいよ人類が手を合わせて協力合いし、この先の見えない状況という局面に立ちました。

 

 

 

 

 

 

 

さて、そんな世界が混乱している中、古来から唯一『八方除(はっぽうよけ)』の守護神として、「北・北東・東・東南・南・南西・西・西北」すべての方角を不吉から防いでくれる神社があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

これだけでも、とても御利益のあるありがたい神社と思えますが、もうひとつ凄いことがあるんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

そのキーワードが

 

 

 

 

 

 

 

 

レイライン

 

 

 

 

 

 

 

 

この『レイライン』は古代の遺跡や神社仏閣などが、なぜが地図上に一直線に並んでいるラインのことを言います。

 

 

 

 

 

日本では、その『レイライン』も太陽が通る道になっている事が多く、それを『ご来光の道』とも言われることもあります。

 

 

 

 

 

 

さて、そのなかでも有名なのが、「東」の千葉県にある一宮の『玉前神社(たまさきじんじゃ)』から「西」の『出雲日御碕神社(いずもひのさきじんじゃ)』まで、一直線になっている『レイライン』です。

 

 

 

 

 

 

しかも、このラインは『春分の日』・『秋分の日』に太陽が通る道となっているんですね。

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さらにこのライン上にある神社の中で、『夏至』・『冬至』の時に太陽が通る道にある神社があります。

 

 

 

 

 

 

それが

 

 

 

 

 

 

寒川神社』⛩

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ここは相模国の一宮で、『延喜式内社』という平安時代の「官社」となっており、その中でも位の高い「明神大社」になっています。

 

 

 

 

 

 

 

そして、ここの主祭神は『寒川比古命(さむかわひこのみこと)』・『寒川比女命(さむかわのひめのみこと」』であり、この2柱を総称して、『寒川大明神(さむかわだいみょうじん)』と呼ばれています。

 

 

 

 

 

 

この2柱の詳細は『記紀』(古事記日本書紀」』には記載されていませんが、素戔嗚命スサノオ)と櫛名田比売クシナダヒメ)という説などがあります。

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私も、実はこの2柱の神様は、出雲から流れてきた国津神系(百済系)の神様だと思っています。

 

 

 

 

 

 

なぜなら、以前にもお伝えした通り、近くには

相模川という大河が流れており、弥生時代には近くまで相模湾があったとされているので、河川の土木事業にたけていた百済系の渡来人がいちばん有力だと思うからです。

 

 

 

 

 

 

スサノオが倒したヤマタノオロチの中から出てきた『三種の神器』のひとつ。

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草薙剣(くさなぎのつるぎ)』

 

 

 

 

 

 

それを『天照大御神アマテラスオオミカミ)』に献上し、その後出雲の国を統治していきますが、このヤマタノオロチ島根県にある「斐伊川(ひいかわ)」と言う大河のことなんです。

 

 

 

治水事業に長けていた百済系の渡来人は、幾度も氾濫する大河を整備。

 

 

 

 

 

さらに、百済系の渡来人たちは製鉄の技術にも長けており、斐伊川の上流や砂鉄などで製鉄をし、剣や武具などを製造して、敵対していた新羅系(天津神系)に献上しました。

 

 

 

 

 

 

これが神話となり、スサノオ百済系)は出雲の国を統治していきますが、その後スサノオクシナダヒメの子の時代となり、『大国主神オオクニヌシノミコト)』が統治しているときに、いわゆる『国譲り』をします。

 

 

 

 

 

『国譲り』と言ってキレイな言い方ですが、実際のところ力ずくで略奪したって事ですね。

 

 

 

 

 

古事記』などにもその様子が描かれており、『天津神』・『国津神』お互いに力がある同士の『健御雷神(タケミカヅキ)』と『建御名方(タケミナカタ)』が相撲をとり力比べをし、勝った天津神系に出雲の国を渡すことになりました。

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そして、天津神系が『日本』を統一していくわけですが、負けた『タケミナカタ』は長野県に諏訪湖に逃げ『諏訪大社』で祀られるようになりました。

 

 

 

 

 

また、それを見張るように『タケミカヅキ』が『鹿島神宮』に祀られるようになったのです。

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それを証拠にこの2社は一直線になっています。

 

 

 

 

 

 

そして諏訪湖には日本でも有数の氾濫川である天竜川があり、さらに長野市にある『戸隠神社』の周辺では百済系の人びとが戸隠山にそって流れる川から製鉄を行っていました。

 

 

 

 

 

また、西国三十三所などの最後に訪れる無宗派の寺院である『善光寺』の場所を川の氾濫などから現在の場所に移動させたのも百済系の人びとになります。

 

 

 

 

 

 

また、埼玉県や東京都を流れる「荒川」の周辺には『氷川神社』と言う名前の神社がたくさんあります。

 

 

 

 

 

その総本社が埼玉県にある『武蔵国一宮 氷川神社(ひかわじんじゃ)』があります。f:id:TOTAN:20200331160225j:image

 

 

 

 

 

 

 

ここも主祭神スサノオになり、百済系の渡来人が名前でも分かるように、荒れている川(荒川)を整備したことにより、氷川神社がこの地域にひろまっていきました。

(氷川信仰と呼ばれています。)

 

 

 

 

 

 

そして、この氷川(ひかわ)は斐伊川(ひいかわ)から来ていると伝わっています。

 

 

 

 

 

さらに、木曽三川や「七里の渡し(しちりのわたし)のほど近くにある『熱田神宮』。

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ここにはスサノオがアマテラスに献上した『草薙剣』が祀られていますが、ここでもやっぱり川が関連しているんです。

 

 

 

 

 

 

七里の渡しに関しては『東海道五十三次』の中でも、唯一の水路となっています。

 

 

 

 

 

と、ここまで川と関係があるところから、『寒川大明神』の2柱はスサノオクシナダヒメではないかと思っているのです。

 

 

 

 

 

 

さて、次回からは本格的にこの『寒川神社』についてお話していきたいと思いますので、是非ご期待ください!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新選組 18-上野戦争・会津戦争・そして最後の戦い、箱館戦争

江戸城開城』を開城した旧幕府軍ですが、未だにそれに納得していない、強硬派もまだまだ残っています。

 

 

 

 

 

そんな中で、唯一江戸で戦場になってしまったのが、『上野戦争』です。

 

 

 

 

 

 

これは新政府軍に反抗する「彰義隊」が上野にある徳川家の菩提寺である『寛永寺(かんえいじ)』周辺にたてこもり、新政府軍と戦争をし、惨敗すると言う結果になりました。

 

 

 

 

 

 

 

それもそのはすですね。

 

 

 

 

 

なんと言っても新政府軍は最新の兵器をもち勢いづいている。

さらに、軍事戦略の天才である長州藩の「大村益次郎」が指揮を執っていたことにより、たったの1日で終焉してしまいます。

 

 

 

 

また、この戦いの作戦会議の中、西郷隆盛が大村に「皆殺しにするつもりですか?」と問うと、「そうです。」と即答したというほど、大村は軍事に優れている人物ではあるが、非情にもなれる男でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、旧幕府軍側の彰義隊

 

 

 

 

 

この中に、徳川四天王のひとりである『榊原康政(さかきばらやすまさ)』の子孫が領土を平定していた「越後高田藩」の脱藩藩士たちも参加します。

 

 

 

 

 

 

戊辰戦争』が始まった時にはすでに「高田藩」は討幕派となっていましたが、これに反発した藩士たちが脱藩。

 

 

 

 

 

そして、『榊原家』の『榊』の文字を2つに分けた「神木隊」を結成するのです。

 

 

 

 

 

その後、彼らが彰義隊に合流して『上野戦争』に発展していきます。

 

 

 

 

 

 

また、甲州で『新選組』と別れた「原田左之助」もこの戦いに加わり戦死したとも、その後生き延びて大陸にわたり、馬賊の頭になり『日清・日露戦争』の際に『大日本帝国』に一矢報いたなどの伝説があります。

 

 

 

 

 

 

さて、『上野戦争』がたったの1日で決着がつき、新政府軍は関東より西側を制圧。

 

 

 

 

 

逆に旧幕府軍は東北地方に追いやられて行くようになります。

 

 

 

 

 

そして、新政府軍はいよいよ憎き敵である『会津藩』に向けて兵を進行していきます。

 

 

 

 

 


『朝敵』とされた会津藩庄内藩を守ろうと『奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)』を結成し、罷免を求めた。

 

 

 

 

 

また、会津藩庄内藩の同盟である『会庄同盟』も結成され、『会津戦争』では奮闘をしますが、新政府軍の圧倒的な強さに、会津藩は降伏。

 

 

 

 

 

この2日後には庄内藩も降伏し、さらに桑名藩も降伏します。

 

 

 

 

会津戦争』には新選組の三番隊隊長・「斎藤一」などが奮戦。

 

 

 

 

副長の「土方歳三」は仙台藩などに応援を求め走っていましたが、この間に会津藩が降伏することによって、最後の戦地である、箱館まで行くことになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

この戦いで、予備隊であった「白虎隊(びゃっこたい」」が、13歳から16歳で構成された部隊がありましたが、会津にある「飯盛山」で、鶴ヶ城が焼けていると勘違いをして、もはやここまでと悟り集団自決をすると言う悲劇が生まれます。

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この時の新政府軍の司令官が「人斬り半次郎」という異名も持っていた、「中村半次郎」のちの「桐野利秋」ですが、開城の際に男泣きをしたと伝わっており、その後の処理も会津藩に対して、解体はするものの、藩主である「松平容保」は江戸で謹慎と言う、軽い処分でした。

 

 

 

 

 

ただし、家老のひとりが責任をとり「切腹」、藩士たちは現在の青森県むつ市に移住させられ、特に冬は極寒になり、生活も非常に大変だったといいます。

 

 

 

 

 

それとは逆に、庄内藩西郷隆盛の意向もあり、藩自体の処罰も非常に軽いものになり、その後の庄内地方の人びとは西郷隆盛を敬愛しています。

 

 

 

 

 

 

 

その後、秋田や岩手でも戦いが行われ、最後の戦いになった「箱館戦争」が始まります。

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この時の新政府軍の指揮官である「黒田清隆」は、敵将である「榎本武揚」の助命に尽力をつくし、その後、黒田清隆内閣総理大臣になると、文部大臣や逓信大臣・農商務大臣を務めるなと、盟友となりました。

 

 

 

 

 

 

 

さて、箱館五稜郭で、旧幕府軍の軍事治安部門の責任者となった土方歳三ですが、蝦夷共和国旧幕府軍側)が樹立したときも、ほかの幹部たちが祝杯をしているときでも、「いまは浮かれている時ではない!」と言い放つなど、ひとり冷静な判断をしていました。

 

 

 

 

 

 

また、部下たちには「この戦況のなか、あまり飲みすぎると戦えなくなってしまうので、一杯だけな。」と言い、酒を振る舞うと言う、新選組時代には有り得ないほど、部下に対して気遣いをするくらいまで、温厚になっていました。

 

 

 

 

 

 

そして、土方歳三は「二股口の戦い」で、腹部に銃弾を受けて戦死。

 

 

 

 

 

希しくも、新選組局長・近藤勇と同じ歳で亡くなっています。

 

 

 

 

また、一番隊隊長・沖田総司近藤勇が斬首された1ヶ月後に病死しており、近藤の死は聞かされていなかったようです。

 

 

 

 

 

 

土方歳三の戦死をきっかけに、旧幕府軍側は降伏。

 

 

 

 

 

これにより、『戊辰戦争』が終結します。

 

 

 

 

そして、新政府軍は名実ともに、明治維新という新たな時代が開かれるようになりました。

 

 

 

 

 

 

時代を駆け巡った彼ら、そして残って新政府として、日本を作り上げた彼ら。

 

 

 

 

 

 

どっちが良い悪いと言うのではなく、お互いに『日本』と言う国を守ろうとしたと言うことには変わりが無く、ただ時代に翻弄されたとしか思えません。

 

 

 

 

 

そして、いま世界を脅かしている新型コ◯ナウイルス。

 

 

 

 

このような現状に、再びいま『日本人』が集結し、立ち向かって行かなければ行けないのでは無いでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新選組 17-甲州勝沼の戦い・そして江戸城無血開城

突如として大坂城から江戸へ逃げ出した旧幕府軍の総大将である、「徳川慶喜」。







これで戦意を失うと言うよりは、戦争をする目的もなくなった旧幕府軍は次々と新政府軍に寝返りを始めます。







その中でも「彦根藩」はすでに第二次長州征伐の時に、「大村益次郎」の高い指揮戦略を訓練していた、長州藩によって大敗をし、それ以降新政府軍側に寝返っています。









これには理由がありまして、徳川四天王のひとり『井伊直政』以来、兵を全身赤い甲冑で統一していました。







重くて動きにくい甲冑と、さらにその赤い色から目立ち、格好の標的とされます。






さらに、時代はもはや剣の時代ではなく銃の時代。




しかも、「トーマス・グラバー」から薩摩藩経由で購入したイギリス製の最新の武器です。






そうなると大敗をするのは一目瞭然ですね。









そして、『鳥羽・伏見の戦い』では新政府軍側につき、『東寺』などの守っていました。








また、第二次長州征伐の際に「彦根藩」と一緒に先鋒隊として兵を挙げたのが、これも徳川四天王のひとりである『榊原康政』の末裔の藩である、「越後高田藩」です。










この高田藩はまた後で名前が出てくるので、お楽しみを。









さて、勢いに乗った新政府軍はドンドン東会地方へと遂行していきます。








そして、また徳川四天王のひとりである『本田忠勝』が祖となり、のちに松平家が領地を収めることになった「桑名藩」に新政府軍は進軍していきます。







しかし、桑名藩旧幕府軍最強として名を轟かせており、能力のあるものを優先させた軍隊になっていました。







山県有朋」率いる新政府軍をも撃破すると言う結果を残しますが、周りの藩がつぎつぎと降伏。







これにより徐々に東に追いやられることになってしまい、城も開城せざるを得なくなります。






桑名藩主ではなくなった「松平定敬」はその後も戦い続け、『戊辰戦争』最後の地、「箱館戦争」まで参加していました。












実は松平定敬の実兄が会津藩主・「松平容保」だったということも大きいでしょうし、『大政奉還』で徳川慶喜が政権を返上するまで、幕末期に「一会桑政権」で実権を握っており、さらに薩摩藩とも対立を深めているという背景もありました。




(一会桑政権とは、一橋・会津・桑名の頭文字をとったもの)








また、残った桑名藩庄内藩とともにその後も東北地方で奮闘します。














桑名藩が城を明け渡した事で、いよいよ関東に接近してきた新政府軍。











対して、江戸城を守る最後の要となった「甲府城」を護るために新選組が、『甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)』と名を改め向かいました。
(この時に近藤勇は大名扱いになった。)










しかし、ひと足先に「板垣退助」率いる新政府軍が占領してしまい、これも敗戦。










そして、この敗戦で意見の合わなくなってしまった二番隊隊長・永倉新八と十番隊隊長・原田左之助と今生の分かれをしてしまいます。







その理由は諸説ありますが、近藤は大名扱いになったにも関わらず、この戦いで敗戦をしてしまった。


なんとか、再起をと思いこらえるように命じたに対して、この2人が怒ってしまったんですね。



同じ志を持つ者だとは思うが、決して近藤の手下では無いと。







これにより、さらに新選組は兵力が低下。







そして、いよいよ新政府軍が江戸に総攻撃を決定。










この時、旧幕府軍の全権を任されていたのが、かつての龍馬の師でもあり、西郷に長州征伐の際に「いまは国内同士で戦争をしている時では無い」と頷かせた『勝海舟』です。









また、「ハリー・パークス」と言うイギリスの外交官も諸外国との貿易に悪影響であるとして、中止を求めていました。







このハリー・パークスという人物。








実は彼もある秘密結社に繋がっていたのです。






それが







フリーメイソン








江戸のまちが戦場になったら、どちらが勝っても負けても、復興までに時間がかかり、利益をもたらすことが出来ないと考えていたのでしょう。









当時の新政府にはまだ、諸外国との関係を良い形でむかえなければならなく、また、江戸市中を戦場にかえてしまうのに躊躇すると言う意見もあり、江戸総攻撃を中止にしました。









そして、現在の港区高輪にあった薩摩藩邸で「西郷隆盛」と「勝海舟」が会談。






無血開城の条件として、「江戸城・軍艦や武器の明け渡し。また、徳川慶喜を水戸で謹慎させる。」と言うことで、この会談の終了後、すぐに執り行なわれ、慶喜は水戸にむかいました。








そして、10日後の1868年5月13日に新政府軍の東征大総督である『有栖川宮熾仁親王(あらるすがわのみやたるひとしんのう)』が江戸城へと入城し、新政府軍のものとなりました。













永倉・原田と別れ、試衛館以来の同士がもはや2人になってしまった近藤・土方はそれでもなお再起をかけ北へと移動し、千葉県の流山市にとどまっている際に、新政府軍に見つかってしまいます。








そして、局長である近藤勇は捕縛され、板橋へと連行され、そこで処刑されてしまいます。










それも武士でありながら「斬首」と言うかたちで。







本来、大名にまでのぼりつめた近藤勇でしたら、「切腹」のはずですが、近藤の出生が農民であるのに加えて、『尊王攘夷』派・特に長州藩にとって憎き存在である、新選組の局長・『近藤勇』だったからです。








新政府軍がこの戦争で欲しい首は3つ。





1つは元徳川幕府15代将軍・徳川慶喜・1つは会津藩主・松平容保、そして新選組、局長・近藤勇の首でした。






ただ、もはや慶喜は水戸で謹慎の身。






まさに新政府軍全ての恨みを1人で背負ったと言っても、過言じゃありません。








そして、近藤勇の首は塩漬けにされ、京都の『三条河原』で晒し首にされます。








さて、今ここまでとし次回は江戸城開城のその後についてお伝えしていきたいと思いますので、ご期待ください。

新選組 16 -戊辰戦争のはじまり-

大政奉還』で、政権を返上した徳川慶喜







それを提案した、「坂本龍馬」。






龍馬はこの『大政奉還』を成功させたあと、『薩長同盟』で共に仲介役として尽力を尽くした、「中岡慎太郎」とともに、京都の醤油屋である「近江屋」で暗殺されています。








しかも、『大政奉還』を発足した約1ヶ月後のことです。







この実行犯には色々諸説があり、また確定もされてませんが、個人的には黒幕は「薩摩藩」だと思っています。
いや、もはや当時、薩摩藩を動かしていた、「西郷隆盛」。







何故かと言うと、龍馬が提案した『船中八策』またそれに繋がった、『大政奉還』によって、倒幕の機を失いました。









当時、薩摩藩土佐藩はもはや倒幕派として同盟を組んでいました。
ただし、土佐藩は表立っては、倒幕派にはなりたくない。








このような状況から、龍馬・中岡の居場所はすぐに分かってしまう状況です。









これに利用されたのが京都見廻組










色々な諸説がありますが、通説ではこのようになっています。









ただし、あくまでこれは通説に過ぎず。










そしてひとつ興味深い説があります。








それが『フリーメイソン』陰謀説。









出ましたね!








理由は簡単です。
まず、「トーマス・グラバー」がイギリスの武器商人だったと言う事は、以前お話しました。




そして、グラバーは龍馬の立ち上げた日本初の株式会社「亀山社中」を仲介して、薩摩藩に武器を売り、利益を上げていました。







しかし、『大政奉還』の内容で、金・銀の交換レートの改正などの案を提出した龍馬。







これを良く思わないのが、武器商人である「トーマス・グラバー」だったのです。









それはそうですよね。







世界に合わせたレートになれば、儲けも減ることになる訳ですから。







余計なことしやがって!







と思ったのでしょう。








さらに、西郷隆盛などは武力倒幕を果たしたいが、それを龍馬の内戦回避のための書状により、結局出来ずじまい。






狙われるのも当然です。






ただ、常に命を狙われていた状態だったので、いったい誰がやったのかは闇の中なんですが。









その後に、相楽総三率いる「赤報隊」が江戸市中で暴れまくり。







それに対して徳川慶喜は旧幕府側に抑制をしていましたが、いよいよ我慢の限界に達してしまいます。







そして、庄内藩が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしてしまうのです。









この焼き討ちにより、『戊辰戦争』のきっかけになってしまいました。









1868年1月27日、京都の南側の郊外にある鳥羽・伏見で、新政府軍と旧幕府軍の衝突によって、戦争が開始されました。
鳥羽・伏見の戦い









旧幕府軍は数でこそ多いものの、しっかりとした指揮が取れておらず、いわば寄せ集めのようなものになっていました。







逆に、薩摩藩は軍服や銃などしっかりと揃えており、指揮管理もしっかりしていたために、その勢いで旧幕府軍を圧倒します。







さらに翌日、『錦の御旗』を掲げた新政府軍はこれによりさらに勢いを増していきます。









それもそのはず。







『錦の御旗』=『朝廷側』。
ひいては『天皇』の勅命により、兵を挙げているので、それに銃を放つ=『朝敵』になってしまうからです。









これに怯んだ旧幕府軍は大阪へと後退せざるを得なくなります。







さて、新選組もこの時に戦闘に参加しているのですが、この時に試衛館時代から「近藤勇」や、「土方歳三」の兄弟子でもあり、大変慕っていた「井上源三郎」が戦死してしまいます。






また、この敗北がきっかけで逃げ出す隊士たちも多く、戦力が一気に低下してします。








さらに、『空海』が建立し、京都の民衆に強い信仰を集めた『東寺(とうじ)』で、新政府軍は陣をはり、指揮をしていました。







この心理的作戦から民衆をも味方につけたのです。







その総指揮を執っていた人物が




西郷隆盛





です。






『東寺』の上へ登り、鳥羽・伏見の戦況を見守っていました。







その後、すぐに薩長は『朝廷』から正式に『官軍』となり、土佐藩も加わりさらに新政府軍は勢いを増していきます。







また、その逆に旧幕府軍は『賊軍』として認知されていくようになり、さらに戦いでも敗北を期します。







そんな中大阪城にいた旧幕府軍の総大将である、「徳川慶喜」が突如、数名の側近のみを連れ江戸に帰ってしまいます。






理由はいくつかありますが、その中で慶喜が出た「水戸徳川藩」の家訓に、「幕府に背くことがあっても、決して『朝廷』に弓を引いてはならない。」といのがあります。





さらに自らが『朝敵』となってしまったこと。










この精神的ショックにより撤退。









これで旧幕府軍は一気にやる気を喪失してしまいます。









こうして、新政府軍は江戸城へ向かい東へとドンドン進んでいきます。






次回は江戸城開城など、にお伝えして行こうと思いますので、よろしくお願いします。

新撰組15 -大政奉還・王政復古の大号令

前回から3回ほど、『新撰組』とは関係の無い記事になりましたが、今回からまた『新撰組』の歴史についてお伝えしていたいと思います。






薩摩藩長州藩が「坂本龍馬中岡慎太郎」の仲介をえて『薩長同盟』を水面化で結ばれ、倒幕にむけて少しずつすすんできている間に、新撰組は内部でのゴタゴタが絶えない状況にありました。







その代表的なものが、「参謀」の役職につき、『池田屋事件後』に加わった「伊東甲子太郎」の脱退です。







新撰組に途中から入った彼は、頭脳明晰としてむかえられますが、実績も無いうえに、『尊王攘夷』と言う考え方も新撰組とは違っていました。







と言うのも、『総長』である「山南敬助」を失ったいま、頭脳で勝るものは無く、むしろ新撰組が野蛮な考え方だと思うようになったのです。






結果的に、第121代天皇の『孝明天皇』の御陵をまもり、さらに薩長の動向を伺うというかたちで『御陵衛士(ごりょうえじ)』を結成。







同じような考えの隊士も引き抜いて行ったのです。







その中には『試衛館』時代からともにした、「藤堂平助」や「斎藤一」など、新撰組のなかでも古参の幹部たちまで引き抜いてしまいました。
斎藤一はスパイとして送り込まれたという説もある。
また、藤堂平助は江戸にいた頃、同じ道場に通っていたという間柄から)






しかも、今後一切、お互いの隊士の引き抜きをしないと言う条件までありました。







その間に15代将軍「徳川慶喜」がまさかの行動をします。







その行動が






大政奉還



これは徳川幕府が『朝廷』に政権を返上すると言うことです。









これを受けた『明治天皇』は勅許をし、1867年11月10日に260年以上も続いた、『江戸幕府』が終焉を迎えました。









なぜ、こんなにいとも簡単に幕府を解体したかと言うと、実は「徳川慶喜」は政権は返上しても、こと外交となると、旧幕府のほうが朝廷側よりも優れていたんですね。






実際、朝廷側の方は全く外交ができず、旧幕府側に協力を得るしかなかったくらい、実力が無かったようです。







さらに、薩長による倒幕での国内内戦を避けるため。






実際に、『大政奉還』を行ったことにより、倒幕の「大義名分」を失った薩長は先手を打たれたと、かなりの動揺があったようです。








しかも、これには龍馬が土佐藩の幹部であった「後藤象二郎」をとおして山内容堂に進言した、『船中八策』をもとに、『大政奉還』後の新国家の体制の基本方針が記されていました。








そこにも、なんだかんだで資産のある『徳川家』を中心に議会などを創設するなどです。








また、不平等条約の改正や、憲法の制定。





金や銀の交換レートの世界と共通にさせることや、海軍の強化。





世襲制ではなく常に良い人材を政治に投与するなど、画期的な案でした。








これを提出し、山内容堂徳川慶喜を説得。






そして、『大政奉還』が行われたのです。










その後、『王政復古の大号令』を『明治天皇』が発足。








これにより、本当の意味で江戸幕府が解体しました。










また、摂政・関白などを廃止し、そのかわりに、「三職」を設置。(総裁・議定・参議)






そして、『天皇』を中心とした新政府が樹立されたのです。









さて、薩長を中心にした倒幕派は、どうしても徳川家・会津藩など旧幕府軍をつぶしたくて仕方ありません。






しかし、もはや江戸幕府は解体しているので、それもかないません。








そこで、「西郷隆盛」が打った策は薩摩藩が中心にとなって、「相楽総三」率いる「赤報隊」なとが江戸市中や関東各地で暴れまくったのです。










江戸城の西の丸までも焼失させてしまうくらいの暴れっぷりでした。









そして、我慢の限界が達した旧幕府側は、庄内藩(当時、江戸市中の警護を担当していた。
さらに庄内藩は「徳川四天王」の筆頭でもある「酒井忠次」の子孫がずっと統治していました。)
に命を下し、江戸にある薩摩藩邸を焼き討ちしてしまいます。







しかも、この時、慶喜の「堪えよ!」と言う命にも従わえないほど、怒りの頂点を超えていたようです。







これで、「大義名分」が出来た薩長を中心とした倒幕派








まんまと罠にはめられた旧幕府軍








そして、旧幕府軍の息の根を絶やさんとばかりに、『戊辰戦争』が勃発していきました。

春分の日

本日は『春分の日』になりますが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか?

 

 

 

 

今年はコロナウィルスの影響によって、外出も自粛している方々も多いと思います。

 

 

 

実際、私の家庭なんかは上の子が小学生なので、その影響をモロに受けている状況ですが、それでもなんとかやっています。

 

 

 

 

さて、そんな本日『春分の日』ですが、なかなか勉強になることを見つけてしまいました。

 

 

 

 

 

 

『彼岸(ひがん)』

 

 

 

 

と言うことばです。

 

 

 

 

よく『お彼岸』と言うことばで、この時期にご先祖さまのお墓参りに行かれる方も多いと思います。

 

 

 

 

『お彼岸』と『お盆』の時期に、家族一同が集まって、お墓参りをしたあとに、みんなでご飯を食べるなんていうのも、まだたまに聞いたりしますが、なかなか良いものですよね!

 

 

 

 

 

 

 

さて、この『彼岸』と言うのは、実は仏教用語になります。

 

 

 

 

 

以前、戦国末期の『織田信長』また『豊臣秀吉』の時代に『浄土信仰』が全国で流行したと言うのをお伝えしました。

 

 

 

 

この『浄土信仰』というのは『南無阿弥陀仏』と唱えれば、『阿弥陀如来』が助けてくれ、また仏門に入らなくても良い。

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さらに、妻子を持つこと、肉・魚も食べもよいなどで、民衆に支持を得たんですね。

 

 

 

 

そんな『阿弥陀如来』が悟りをひらいた『極楽浄土』の場所が、日本からみて西にあります。

 

 

 

 

春分の日』・『秋分の日』は太陽が真東から真西にへと、沈むことから、この『極楽浄土』を思いながら、手を合わせおがんでいたのが始まりになります。

 

 

 

 

 

 

さらに日本人の遥か昔からある、「太陽信仰」・「先祖の霊の供養」するなどの風習から、現在のようなかたちになって行ったのです。

 

 

 

 

 

また、豊作を願って「日願(ひがん)」と言う太陽信仰のことばが仏教の『彼岸』と結びついたという説もあります。

 

 

 

 

そして、天皇陛下がおこなう『宮中祭祀』のひとつに『皇霊祭(こうれいさい)』という行事があります。

 

 

 

 

 

これは『大祭』として、歴代の天皇・皇后・また皇族などの霊をまつるための儀式になります。

 

 

 

 

 

また、これは毎年、「春」と「秋」に行われていて、それぞれ『春分の日』を『春季皇霊祭』。

秋分の日』を『秋季皇霊祭』となります。

 

 

 

 

 

 

さらにむかし民衆たちは「お彼岸」にいちばん近い「戌の日(いぬの日)に、氏神様のいる神社に参拝し、春には『五穀豊穣』を。

秋にはその年の収穫を感謝する『収穫祭』をしていました。

 

 

 

 

 

キリスト教にも、同じようなものがありますね。

 

 

 

 

春の『イースター』と、秋の『ハロウィン』がまさにそうです。

 

 

 

 

いまでは両方もビッグイベントとして、日本でも知れ渡っているのが分かると思います。

 

 

 

 

 

 

さて、『春分の日』に食べると縁起の良い食べ物をご存知でしょうか?

 

 

 

 

 

やはり、一番有名なのが『ぼた餅』ですよね。

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『ぼた餅』は春のあんころ餅になります。

 

 

 

 

そして、秋のあんころ餅は『おはぎ』。

 

 

 

 

 

この名前の違い。

 

 

 

 

春に咲く「牡丹(ぼたん)」の花と、秋に咲く「萩(はぎ)」の花からきていんです。

 

 

 

 

 

また、『ぼた餅』は「こし餡」で、『おはぎ』は「つぶ餡」となっています。

 

 

 

 

 

この理由も、聞くと中々面白いのですが、小豆(あずき)は秋に収穫ができ、そのまま新鮮なものを使えたので「つぶ餡」になります。

 

 

また、逆に春は収穫から時間が経ってしまい、そのままよりも潰して加工しなければいけなかったので「こし餡」になりました。

 

 

 

 

いずれにしても、昔は「甘味」を摂取できる大変貴重なものだったことから、先祖の墓に感謝の意味を込めて、お供えしたのだと思います。

 

 

 

 

 

また、あずきは赤い色をしているところから「邪気を払い、身を守ってくれる効果」があるものと考えられおり、縁起物として食べられていました。

 

 

 

 

 

次に『春分の日』に食べると良いと言われているのが、『精進料理』です。

 

 

 

 

これは、先祖供養・また仏教の世界では『不殺生戒』ということばがあり、肉や魚を食べないと言うものがあります。

 

 

 

そのかわりに、野菜や海藻などを使ったメニューをかんがえ食べていました。

 

 

 

 

いまでも、寺院の近くの食事処に行くとこのような料理を食べることができる場所もありますので、是非機会があればお食事下さい。

 

 

 

 

それから、「はっさく」や「つくし」、「キヌサヤ」なんかも『春分の日』の縁起物になっています。

 

 

 

 

 

 

さて、『春分の日』・『秋分の日』にだけ太陽の通る、いわゆる『レイライン』をご存知でしょうか?

 

 

 

 

 

これは、千葉県にある上総国一宮である『玉崎神社(たまさきじんじゃ)から始まります。

 

        ↓

古来から唯一、八方除(はっぽうよけ)で、相模国一宮の『寒川神社(さむかわじんじゃ)』

 

        ↓

世界遺産』にもなり日本一の山である『富士山』

 

        ↓

日蓮宗』の総本山である『身延山久遠寺(みのぶさん・くおんじ)』

 

        ↓

その『法華経(ほっけきょう)』を守護神で『七面大明神(しちめんだいみょうじん)』という「女神」をお祀りしている『七面山(しちめんさん)

 

        ↓

日本一の湖である『琵琶湖』に浮かぶ『竹生島(ちくまじま)』

 

        ↓

伊勢神宮と言われて、『皇大神社(こうたいじんじゃ)』・『豊受大神社(とうけだいじんじゃ)』

(それぞれ、元内宮・元外宮とされている。)

 

 

        ↓

そして、言わずと知れた出雲国一宮でもある『出雲大社(いずもおおやしろ)』

 

 

 

 

 

を一直線に太陽が遠っているのです。

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そして、『夏至』・『冬至』もこの中で唯一、『レイライン』が通っている神社があります。

 

 

 

 

それが、

 

 

 

 

寒川神社』⛩

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まだ、GPSなどもない時代に、これほど精密な一直線で建てているというのが、本当に不思議で興味深いですよね!

 

 

 

 

このような事を知りながら本日をお過ごしになると、少しは話のネタともなるので、是非!

 

 

 

 

それでは良い祝日を!

 

大英帝国とある一族

前回は、『世界を牛耳る一族』と呼ばれているある一族がどのように財力を増していったかについてお伝えしました。

 

 

 

今回はさらに財力・権力をつけて行ったかについてお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

まずある一族と言うのは世界を裏で牛耳っていると、ある意味、都市伝説化している一族。

 

 

 

 

 

 

ロスチャイルド家

 

 

 

 

 

 

そのなかでも、5兄弟のなかで『総司令官』とも言われ、この一族の繁栄に大きな影響を及ぼした人物。

 

 

 

 

『ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド

 

 

 

 

 

彼が俗に言う

 

 

 

 

『ネイサンの逆売り』

 

 

 

 

 

と言うイギリス公債の60%以上を手にした事により、莫大な利益を得てその後の一族の繁栄に繋がります。

 

 

 

 

 

そしてその息子で、2代目・ロンドンロスチャイルド家嫡流で当主である

 

 

 

 

『ライオネル・ド・ロスチャイルド

 

 

 

 

 

彼によって、いよいよ確固たる地位を築き上げました。

 

 

 

 

 

まず歴史的背景から説明しますと当時、イギリスでは『ヴィクトリア女王』が統治していました。

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また、『大英帝国初の首相』であった

 

 

 

『ベンジャミン・ディズレーリ』

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彼もまたユダヤ人だったのです。

 

 

 

さらに面白いことに、彼が『ディズレーリ』と名乗る前には、『デ・イズレーリ』。

 

 

 

 

 

また、祖父の前までは『イズレィーリ』だったのです。

 

 

 

 

この、『イズレーリ』と言う意味は

 

 

 

 

 

 

 

イスラエル

 

 

 

 

 

 

そうです。

 

 

 

 

『D  Isuraeri』

 

 

 

 

と書くのです。

 

 

 

 

 

 

ここでも、また出てきましたね。

 

 

 

 

 

『Dの意思』

 

 

 

 

 

 

どうやら、ユダヤ教の「洗礼名」にこの「D」があるみたいですけど、ここまでこのアルファベットにこだわる理由とは。

 

 

 

 

 

 

さて、イギリスでは『産業革命』のあと『ヴィクトリア女王』が即位します。

 

 

 

 

 

そんな中で『ベンジャミン』も選挙で当選します。

 

 

 

 

 

 

また、ある人物も選挙に立候補し、当選しますが「ユダヤ教徒」で「キリスト教徒」ではないと言う理由から議員になれませんでした。

 

 

 

 

 

しかし、同じ「ユダヤ人」であった「ベンジャミン」は猛反対をします。

 

 

 

 

そして、

 

 

 

ユダヤ教キリスト教は兄弟である。」

 

 

 

を信念とし、

 

 

 

 

ユダヤ人は元々保守的な民族である。それにもかかわらず、いつもこの様な迫害を受けている。

 

 

 その結果、保守的政党の逆(革命政党)においやられ、そこで彼らの高い知能を持って、革命政党側のリーダーになってしまうのだ。

 

 

 これは保守的にとっては大変な損失だ!」

 

 

 

 

と演説。

 

 

 

この演説により、他の議員たちから賛成票を獲得。

 

 

 

 

さらに、ユダヤ教徒も議員になれるようになりました。

 

 

 

 

 

さて、このユダヤ人とはいったい誰だかお分かりでしょうか?

 

 

 

 

勘の良い方はもうお気づきでしょうが、そうです。

 

 

 

 

ロンドン・ロスチャイルド家嫡流にして2代目当主。

 

 

 

『ライオネル・ド・ロスチャイルド

 

 

 

 

 

これにより、2人の仲は急接近。

 

 

 

 

 

そして、1875年。

 

 

 

 

エジプトにある「スエズ運河」の株を敵対国である『フランス』に買われそうになったとき、首相になっていた『ベンジャミン』から『ライオネル』に急遽400万ポンドの貸付を頼まれます。

 

 

 

 

 

これにすぐさま用意した『ライオネル』のおかげで、スエズ運河の株を獲得。

 

 

 

 

 

こうして

 

 

 

『陽の沈まない国 大英帝国

 

 

 

が出来上がってくるのです。

 

 

 

 

さらに、このときに『ベンジャミン』が担保としてだしのは

 

 

 

 

『イギリス政府』

 

 

 

 

これにより、『ヴィクトリア女王』は欲していた称号である「女帝」を手に入れ、『ベンジャミン』は『大英帝国』を指導。

 

 

 

 

『ライオネル』は裏でこれを牛耳ることができるという、構造になって行ったのです。

 

 

 

 

 

大英帝国』に関してはその後、第一次世界大戦前までは「帝国主義」としては完全なる『1強』。

 

 

 

 

その後も、第二次世界大戦終結までは「アメリカ」と同じく力を持つようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

こうして、『ロスチャイルド家』は繁栄していき、そして今なおその財力を持って世界を牛耳り続けているのです。

 

 

 

 

 

さて、ここまで『ロスチャイルド家』の発展と繁栄の歴史についてお伝えしてきましたが、最後に1つ不思議な話を。

 

 

 

 

 

ロスチャイルド家』の祖である『マイアー・アムシェル・ロートシルト』(ロートシルトは英語読みでロスチャイルドになります。)は1744.2.23生まれです。

 

 

 

 

そして、令和の『天皇陛下』(『今上天皇』)の誕生日は1960.2.23生まれです。

 

 

 

 

1960−1744=216

 

 

 

216年後に御生誕なされたって事ですよね?

 

 

 

 

この『216』と言う数字。

 

 

 

 

実は6の3乗なんです。

 

 

 

 

 

6×6×6=216

 

 

 

 

 

『6・6・6』

 

 

 

 

 

いよいよ、本当の世界の救世主が現れる日も、もうあとわずかなのかもしれません。

 

 

 

 

 

世界を牛耳る一族

前回、「トーマス・グラバー」はイギリスの武器商人であり、坂本龍馬などが設立した、「亀山社中」が仲介役となり、薩摩藩に軍艦や武器を大量にを売り、それを長州藩横流し

 

 

 

 

実際には、長州藩がお金を支払っていましたが、これにより長州藩幕府軍に勝利し、その後幕府軍は衰退。

 

 

 

逆に薩摩・長州藩はいきおいをまして、戊辰戦争

 

 

 

そして、明治維新につながっていきました。

 

 

 

 

 

 

このグラバーはイギリス商人として、その後の日本の発展を手助けしていくことになりますが、彼にはもうひとつ裏の顔があります。

 

 

 

 

その裏の顔と言うのが、

 

 

 

 

 

フリーメイソン

 

 

 

 

 

 

さらに、フリーメイソンの総本部があるのがロンドン。

 

 

 

 

 

 

そして、このイギリス金融、さらには郵便や鉄道などまでも裏で支配し続ける、ある一族がいます。

 

 

 

 

 

その一族の名が

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロスチャイルド家

 

 

 

 

 

 

 

 

この一族はもともと、『神聖ローマ帝国』時代のフランクフルト出身であり、『マイヤー・ロートシルト』がドイツで銀行家として、成功したことをきっかけに、ヨーロッパ最大の「財閥」としての基礎を築きあげたところからスタートします。

 

 

 

 

 

 

そして、5人の息子たちにヨーロッパ各地に派遣し、さらなる銀行業の拡大に成功させます。

 

 

長男を本拠地であるフランクフルト

 

次男をウィーン

 

三男をロンドン

 

四男をナポリ

 

五男をパリに。

 

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兄弟が一丸となり、情報伝達の共有することで資産を増やしてきましたが、いちばん最初のきっかけは『フランス革命』以降、ドイツに綿製品が高騰していました。

 

 

 

 

しかし、『産業革命』で綿製品を大量に作れるようになったイギリスに移った三男である「ネイサン・ロスチャイルド」がこれを安価で大量に購入。

 

 

 

 

これをドイツに送り莫大な利益を得ることになります。

 

 

 

 

 

さらに、『フランス革命』後に『皇帝』となった「ナポレオン」がヨーロッパをの大半を勢力下におくようになると、敵対するイギリスに対して、貿易を禁止するようになりました。

 

 

 

 

 

これにより、イギリス本土やイギリスの植民地で生産していた綿製品・コーヒー・砂糖などの物資がヨーロッパ諸国で高騰。

 

 

 

 

イギリスでは逆に暴落し、安価で手に入るために、ネイサンが大量に購入しヨーロッパ各地にいる兄弟たちに独自のネットワークを駆使し、売りさばく事によって、『ロスチャイルド家』は莫大な利益を得ることになりました。

 

 

 

 

さらに、物資不足に悩まされていたヨーロッパ諸国の民衆はこれにより、物資が手に入るようになり、大変喜ばれることになりました。

 

 

 

 

 

これで、資産も信用も手に入ることが出来たのです。

 

 

 

 

 

 

そして、最大の利益を得たきっかけは「皇帝・ナポレオン」率いるフランス軍とイギリスなどの連合国軍・ドイツ軍との最後の戦争となる『ワーテルローの戦い』です。

 

 

 

 

 

 

この戦いでイギリスが負ければイギリス公債が大暴落。

 

 

 

 

勝てば高騰するという状況でした。

 

 

 

 

 

この時、すでに「ネイサン・ロスチャイルド」は投資家たちには『先見の明』がある者として、知れ渡っていました。

 

 

 

 

また、『ロスチャイルド家』のネットワークでいち早く情報を得ることが出来ると知れ渡っていた投資家たちは、彼の動向を常に伺っていました。

 

 

 

 

実際に、いち早くイギリスが勝利したという情報を得た「ネイサン・ロスチャイルド」は、これを利用し、まずイギリスが負けたとし、イギリス公債を売りに出します。

 

 

 

 

これを信じた投資家たちも一気に売りに出します。

 

 

 

 

 

これにより、イギリス公債が大暴落。

 

 

 

 

 

そこで、「ネイサン」はイギリス公債を買い占め、当時のロンドン証券の公債の株を1日で、60%買い占めました。

 

 

 

 

 

その後、イギリスが勝ったという正確な情報が入ると、イギリス公債が大高騰。

 

 

 

 

それにより、『ロスチャイルド家』はさらに莫大な利益をもたらすのです。

 

 

 

俗に言う

 

 

『ネイサンの逆売り』

 

 

 

 

これにより、「ネイサン」は兄弟の中でも『総司令官』と呼ばれ、他の兄弟は『師団長』と呼ばれるようになりました。

 

 

 

 

 

さらに、フランスの元々、貴族に与えたられた『de』と言う称号を得ます。

 

 

 

 

 

出ましたね。

 

 

 

 

 

 

『Dの意思』

 

 

 

 

 

これにより莫大な資金を手にした『ロスチャイルド家』は金融などで利益を拡大。

 

 

 

 

その後、影に隠れ世界を動かしていくことになるなのです。

 

 

 

 

それを証拠に、現アメリカ合衆国大統領アメリカ合衆国商務長官などに過去支援していました。

 

 

 

 

 

アメリカ合衆国=世界の警察

 

 

 

 

 

それに支援している『ロスチャイルド家

 

 

 

 

 

 

まさに世界を牛耳っていますよね!

 

 

 

 

そして、日本にも繋がりをもらたしてきますが、それはまた次回に。

 

 

 

 

新撰組 14 -薩長同盟②-

坂本龍馬中岡慎太郎の尽力により、ようやく結ばれた『薩長同盟』ですが、その内容は以下のようにになります。

 

 

 

長州藩が幕府との戦闘になった際には、すぐさま薩摩藩は出兵し味方になる。

 

 

長州藩が不利な状況になっても、薩摩藩は朝廷に対して申し出て、長州藩を救うように尽力する事。

 

 

長州藩が幕府との戦いで負けが濃厚になってもあきらめずに、尽力して欲しい。

 

 

長州藩が幕府に勝っても負けても、もしくは引き分けになっても、「朝敵」と言う冤罪を晴らす為に薩摩藩は朝廷に対して尽力して欲しい。

 

 

⑤万が一、幕府が兵力を増強し、会津や桑名なども長州藩に対して、強硬をし続ける時は、薩摩藩が手助けする。

 

 

長州藩の「朝敵」と言う冤罪が晴れた時には、薩長ともに、天皇に奉じるのに尽力すること。

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これは『薩長同盟』時には、書き残されてはいませんでしたが、後日に桂小五郎から坂本龍馬宛に書いた『薩長同盟』の内容を書いたもので、龍馬はそれを了解するように、朱色で裏に書き記しました。

 

 

 

 

今もこの手紙は現存しており、『宮内庁』に保存されています。

 

 

 

 

 

 

 

この同盟により、幕府が第二次長州征伐の命を出したのですが、薩摩藩は参加を拒否。

 

 

 

 

また、第14代将軍・家茂も幕府軍の士気を高めるために上洛し大阪城に入りましたが、元々病弱ぎみ。

 

正室は第121代天皇孝明天皇』の異母妹である『和宮親子親王』。

 

さらに前将軍である13代将軍・家定の正室は前々薩摩藩の義娘の『天璋院』と『公武合体』のなかの狭間で悩み苦しめられていた人物でした。

 

 

そして家茂は、「平和な時代が限りなく続いて欲しい、それにいまは国内で争っている場合では無い。外国とに備えて国力を強化した方が良い!」

と考えていました。

 

 

 

 

しかし、一橋慶喜松平容保などは、それよりもまずは長州藩を潰すこととし、押し通し第二次長州征伐になってしまったのです。

 

 

 

 

この心労と元々、病弱であった家茂は大阪城に何ヶ月も留まってしまいます。

 

 

 

 

将軍が動かずには諸藩の士気も下がりだしましたが、その諸藩に対しケツを叩くように、一橋慶喜が朝廷に長州征伐の命の建白書を献上しましたが、薩摩藩の工作により、これも認められませんでした。

 

 

 

 

 

 

そして、薩摩藩名義によりイギリスから買いつけた武器や軍艦を手に入れた(実際には長州藩がお金を支払いました)長州藩は、最新の武器を手に、まさかの幕府側に勝利してしまうのです。

 

 

 

 

これにより、一気に全国的にも倒幕という風潮になって行くんですね。

 

 

 

 

 

諸藩は幕府に対しての不信感、そして民衆はこの第二次長州征伐での諸藩が米を買い占めたことにより、米の物価が高騰。

 

 

 

 

それにより農民たちによる「世直し一揆」や、民衆たちによる「ええじゃないか運動」などで、世は混乱の時代になってしまいました。。

 

 

 

 

 

その間に、将軍・家茂は大阪城内で死去。

 

 

 

これで、幕府軍は江戸に引き返し、さらに倒幕運動が活発になって行きますが、 その前にちょっと面白い話を。

 

 

 

 

 

 

 

薩長同盟』を仲介役として、働いた2人を覚えているでしょうか?

 

 

 

とは言ってもこのブログを読んで下さっている方はだいたい歴史好きだと思いますので、知っているとは思いますが、知らない方にも分かるように。

 

 

 

実は龍馬も中岡も土佐藩出身だったんですね!

 

 

 

 

当時、龍馬はすでに脱藩し、のちに中岡も脱藩。

 

 

 

 

しかも、龍馬は「亀山社中」と言う日本で初の株式会社を作り上げて、のちに「海援隊」と言う貿易・私立の海軍・などの役割をする商社をつくり上げます

 

 

 

また、中岡はそれに続けと言わんばかりに倒幕運動のための武力集団「陸援隊」を創立。

 

 

 

 

 

この2人が仲介役になり、『薩長同盟』を結ばせたのは必然的だったのです。

 

 

 

 

 

 

この同盟により、イギリスの武器商人である「グラバー」から龍馬率いる亀山社中が仲介し薩摩に軍艦や武器を購入。

実際には長州が支払っていましたが、これで長州藩は勢いを再びもどし、倒幕へと繋がって行ったのです。

 

 

 

 

イギリスと言えば、『薩英同盟』によりもはや繋がっていますよね。

 

 

 

 

その武器商人である「グラバー」。

 

 

 

 

実は彼は

 

 

 

 

フリーメイソン

 

 

 

 

なんです!

 

 

 

 

明治に入り、初代内閣総理大臣伊藤博文はグラバーの手助けにより、ヨーロッパに渡航をしました。

 

 

 

 

そして、イギリスの武器商人を一挙にまとめていたのは

 

 

 

 

ロスチャイルド

 

 

 

 

 

出ましたね。

 

 

 

 

世界を牛耳ると言われている一族。

 

 

 

 

 

そして、明治に入りようやく諸外国に対し不平等を平等条約にまでもっていけた陸奥宗光も、「亀山社中」・「海援隊」の出身です。

 

 

 

 

陸奥は龍馬に「俺に以外に他の者と交渉出来るのは、アイツだけだ。」

と言わしめていた人物であり、またフランスの大財閥にも繋がっていました。

 

 

 

 

そこからの支援により、ようやく日本も世界に対等に渡りあえるようになったのです。

 

 

 

 

そして、その支援をしたのが

 

 

 

 

 

 

 

ロスチャイルド

 

 

 

 

こちらはフランスですが、同じ一族です。

 

 

 

 

 

中々、シビれる話ですよね。

 

 

 

 

薩長同盟』を仲介した龍馬は『フリーメイソン』の会員である「グラバー」から武器を買っていた。

 

 

 

 

そのイギリスの武器商人の総元締めでもあるのが、『ロスチャイルド』。

 

 

 

 

そして、明治に入り不平等条約を平等条約に働いた陸奥宗光は元々、亀山社中海援隊のメンバーでした。

 

 

 

 

 

それを支援したフランスの『ロスチャイルド』。

 

 

 

 

これにより、新政権・そして発展していった日本。

 

 

 

 

 

 

皆さんはどう思いますか?

 

 

新撰組 13 -薩長同盟-

新撰組が『西本願寺』に屯所を移している最中、薩摩藩長州藩にも動きを起こすようになって来ました。

 

 

 

 

 

そもそも、新撰組が『西本願寺』に屯所を移した理由のひとつには、隊士が増え壬生の屯所では手狭になったと言う事。

 

 

 

 

もうひとつは『八月十八日の政た変』『禁門の変』により、『朝敵』となった長州藩とつながっているとの噂があったからです。

 

 

 

 

 

さて、この時に水面化では天地がひっくり返るほどの同盟が結ばれます。

 

 

 

 

 

それが

 

 

 

 

薩長同盟

 

 

 

 

この同盟により、最終的には幕府を倒し新しい政権を迎えるわけですが、じつはまだこの時はそこまでのことはお互いに考えてはいなかったようです。

 

 

 

 

 

その後の幕府の対応により世の中が倒幕への風潮を迎えてしまうわけですが、それは追々としまして。

 

 

 

 

今回はなぜ薩摩と長州が手を結んだかについてお伝えしようと思います。

 

 

 

 

 

まず、長州藩は先ほどもお伝えしたように『八月十八日の政変』以降、京都を追われ、その後イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合国軍艦と『下関戦争』で敗北。

 

 

 

その結果、多大な賠償金を払うことになり、さらに『池田屋騒動』・『禁門の変』により状況は悪化していきます。

 

 

 

 

さらに追い討ちをかけるように、『朝敵』となり幕府の命により、長州征伐がはじまります。

 

 

 

これにより、家老三人が切腹させられてしまうと言うボロボロの状態になってしまいます。

 

 

 

 

しかし、こんな状況でもまだまだ倒幕へと野心を燃やしているのが、高杉晋作率いる『奇兵隊』やいまだ京都に潜伏している桂小五郎などです。

 

 

 

 

 

ただ、『朝敵』となってしまった長州藩は武器の購入が一切出来なくなってしまったんですね。

 

 

 

 

武器もなく、藩内はボロボロ。

 

 

 

 

それでも、倒幕という野心だけは未だに燃え続けている状態でした。

 

 

 

 

 

 

さて、一方の薩摩藩もイギリスと戦争をし敗北してしまいますが、この戦争によりイギリスとの関係が良好な状態になります。

 

 

 

 

いわゆる『薩英同盟』ですね。

 

 

 

 

これにより、イギリスから大量の武器を購入出来るようになるなどで財力が大変潤います。

 

 

 

この時に薩摩は幕政に対しても、多大な影響力を持っており、幕府の中には『雄藩否定論』と言う風潮になっていました。

 

 

 

 

その中心となっていたのが一橋慶喜松平容保会津藩主)です。

 

 

 

 

 

簡単に言えば、財力を持つ大名を潰し発言権も持てなくして、より徳川家に近いものだけで政権を取り決めようとすることです。

 

 

 

 

 

それに目をつけられたのが薩摩藩

 

 

 

 

第二次長州征伐により薩摩藩の財力・兵力を奪おうと、また長州藩の息の根を止めようと言う幕府にとっては「一石二鳥」だったわけです。

 

 

 

 

 

しかし、ことわざとは面白いもので、「二兎追うものは一兎も得ず」と言うことばがあるように、さいごにはまさに対義語のような結果に幕府はなってしまったんですね。

 

 

 

 

このような長州征伐と幕府内で話題になっている中で西郷隆盛幕臣勝海舟と出会います。

 

 

 

 

勝海舟はかつて「神戸海軍操練所」を創設した人物で、塾頭には坂本龍馬、またのちに外務大臣となる陸奥宗光などがこの塾生でした。

 

 

 

 

そんな勝海舟は西郷に対して「今は国内で争っている場合でじゃねえ!

諸外国に対しての国力をつけなければ、日本が食い物にされ、他のアジアの国と同じように植民地にされちまう。

お前が一番よく分かっているだろっ!」

 

 

と論じたのです。

 

 

 

 

 

西郷は薩英戦争でのイギリスの強さは嫌と言うほど知っていました。

 

 

 

 

また、長州を討ったあとは次に狙われるのは薩摩だと恐れた西郷は、家老である小松帯刀や旧知の仲である大久保利通にこの旨を伝えてます。

 

 

 

 

さらには薩摩もじつは幕府を倒して、外国と渡りあえるような新体制をつくりたいという思惑もありました。

 

 

 

 

こうした中で、絶好の相手が長州藩だったわけです。

 

 

 

 

 

長州藩

①倒幕の為に武器が欲しい。

②しかし、幕府の命により買えない。

 

 

 

 

薩摩藩

①財力を使いたくない。

②しかも、実は倒幕をして実権を握りたい。

③しかし、表立っての行動は出来ない。

④なので、長州藩の倒幕のうしろに隠れてるかたちで実行していきたい。

⑤また、第二次長州征伐の幕命によってお米の値段も高騰してしまったので、お米も欲しい。

 

 

 

 

 

と言ったお互いの藩が利害が一致したのです。

 

 

 

 

しかし、『八月十八日の政変』以降、犬猿の仲の状態。

 

 

 

 

それもそのはず。

 

 

 

 

薩摩藩は先頭に立って『八月十八日の政変』『第一次長州征伐』と長州藩を攻撃してきた藩です。

また長州藩もこの報復として薩摩藩を攻撃しています。

 

 

 

 

 

こんな状況の中で仲介役を買って出たのが、坂本龍馬中岡慎太郎です。

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龍馬は江戸に剣術修行時代、『幕末江戸三大道場』のひとつで『技の千葉』といわれた玄武館の創設者である千葉周作の弟の千葉定吉がつくった道場(通称・小千葉)の塾頭でした。

 

 

 

また、盟友で親戚であった『土佐勤王党』の盟主・武市半平太は『位の桃井』といわれ、これまた『幕末江戸三大道場』のひとつであった士学館の塾頭でした。

 

 

 

 

 

そしてもうひとつの『幕末江戸三大道場』である『力の斎藤』と呼ばれた練兵館の塾頭に桂小五郎がなっていたのです。

 

 

 

 

このような繋がりから長州藩と関係を持っていた龍馬。

 

 

 

 

 

さらに、京都で幕府によって襲われた(寺田屋事件)ときに、保護してもらったのが薩摩藩でした。

 

 

 

この時に龍馬は日本人初の「新婚旅行」をしたと伝わっています。

 

 

 

 

 

これにより、薩摩・長州の両方に繋がる手立てが出来たのです。

 

 

 

 

さらに、中岡慎太郎も『土佐勤王党』の一員で尊皇攘夷派であり、桂小五郎久坂玄瑞と交流を持ち、その後もずっと長州藩と繋がっていました。

 

 

 

 

 

この2人の土佐藩士(龍馬は脱藩したので元土佐藩士)が協力し合い、『薩長同盟』へと結びつくのです。

 

 

 

 

両藩を説得し、ようやく会談にまでいき代表として長州側は桂小五郎薩長側は西郷隆盛でしたが、まさかの西郷がドタキャン!

 

 

 

 

これには桂も仲介役の龍馬・中岡も怒りました。

 

 

 

 

そしてなんとかもう一度、会談にまでこぎつけたのですが、ここでも桂を怒らせてしまう事態になってしまうのです。

 

 

 

その理由は、薩摩藩の家老・小松帯刀邸で行われたからです。

 

 

 

 

龍馬たちはこれに対して、薩摩藩はまだ幕府に信用されているから、目をつけられにくいと桂を説得します。

 

 

 

 

ようやく会談が実現しますが、ここでもまたお互いのプライドが邪魔をして話が進みません。

 

 

 

 

 

そこで龍馬が一喝ッ‼︎

 

 

 

「お互いにそんな事言うとる場合じゃないだろ!どっちもこのままじゃ幕府に潰されてるぞ!」

 

 

 

 

と。

 

 

 

この一喝に正気を取り戻し、ようやくここで『薩長同盟』が結ばれるのです。

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さて、今回は『薩長同盟』が何故結ばれたかまでをお伝えしましたが、次回はその内容と、少し都市伝説などについてお伝えしたいと思いますので、ご期待下さい。