ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 https://analytics.google.com/analytics/academy/certificate/TiepweC8SKqeaAXTDSMm8A

『世界最古の国』日本

#神社仏閣#歴史#都市伝説#グルメ#漫画#アニメ#ゲーム#その他生活にありとあらゆるものなどに関することを書いています。ここに記載するすべて記事の引用素材は誹謗中傷を目的としたものでは無く、著作権を侵害する目的で作成したものではありません。

新撰組 ⑨ -三条大橋-

池田屋騒動』からその名を天下に轟かせた『新撰組』ですが、池田屋の場所からほど近くに『三条大橋』があります。

 

 

 

 

この橋の擬宝珠(ぎぼし)には池田屋騒動の時に『新撰組』と過激な尊皇攘夷派の志士との斬り合いの際に出来た刀傷が残っています。

 

 

 

 

 

それを観るだけで、壮絶な戦いだったと言うのが分かります。

 

 

 

 

そしてここは『東海道』の西の起点になっていて、ここから江戸に向かう事になります。

(東側の起点は言わずと知れた、江戸の『日本橋』になります。)

 

 

 

 

 

また、ここは江戸時代まで「処刑場」になっていまして、『豊臣秀吉(とよとみひでよし)』を暗殺しようとした(結果的には未遂で終わる)罪で捕まってしまった、『天下の大泥棒』としても有名な『石川五右衛門(いしかわごえもん)』が釜茹(かまゆで)で処刑されています。

 

 

この時、石川五右衛門の親類は見せしめとして、生後間もない子供も含め全員が処刑されています。

 

 

 

 

この理由はまず権力者のみを狙った義賊でしたが、当時は豊臣政権が民から嫌われていたと言う事。

 

 

 

また、2代目関白で秀吉の甥である『豊臣秀次(とよとみひでつぐ)』の家臣が石川五右衛門に依頼し、秀吉の寝室にある「千鳥の香炉」を『聚楽亭』に忍びこんで、盗みだそうとしたがそれが鳴きだして、気付かれてしまい捕まってしまってしまいました。

 

そして、その罪も含め数々の罪により、釜茹でにされ処刑にあったなどの伝説が残っており、今でも歌舞伎などではこの描写の演目があります。

 

 

この様な背景から『天下の大泥棒 石川五右衛門』と言うのが江戸時代には広まっていくのです。

 

 

 

 

また、歌舞伎と言えば『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』がありますが、忠義に対するものが人気になり、『新撰組』もそれに習い、ダンダラ模様の羽織にしたそうです。

 

 

 

 

ただし、『忠臣蔵』の羽織は黒色で『新撰組』は浅黄色になっているので、全てを真似したわけではなかったんですね。

 

 

 

 

と、ここで余談ですが『忠臣蔵』の主役?である『大石内蔵助(おおいしくらのすけ)』の家紋が私のうちの家紋と同じなので、どこか親近感が湧いてしまうんですね。

f:id:TOTAN:20200220232940j:image

 

 

 

 

そして、また話はズレますが歌舞伎などの演者やスタッフが舞台の合間に食べていたものが、「幕の内弁当」なんです。

f:id:TOTAN:20200221032712j:image

 

 

 

 

舞台の演目と演目の間に食べていたことが由来となるので、客席側から見たら「幕の内」。

 

 

 

ここから名前が来たそうです。

 

 

 

また、当時は冷蔵庫なども無い時代なので、なるべく食材も傷みにくいものを使用しており、焼魚に煮物・漬物にご飯の上に梅干しと言った

、今でもよく見る原型になりました。

 

 

 

 

その後、客席側にも配られるようになり、世間にも広まって行ったのです。

 

 

 

 

こうして見ると、普段食べていたり目にしているものにも、中々歴史を感じてしまいますね。

 

 

 

 

さて、話は戻しますが『三条河原』で処刑されたのとして、一番悲劇だったのは先程も名前が上がった、『豊臣秀次』とその妻や子供・侍女たちです。

 

 

 

 

秀吉は自身の子供が産まれた(のちの『豊臣秀頼(とよとみひでより)』)のをきっかけに、養子として迎えられていた秀次をどんどん邪魔になって来ました。

 

 

 

 

その理由は果たして、自分の子が次の当主になれるのであろうか。

 

 

 

当時、秀次にも嫡男がおり、自分が死んだ後、秀次系列になってしまうのではないかと不安に思った秀吉は「謀反の疑いあり」として、 秀次を拘束するのです。

 

 

 

そして、高野山に幽閉されますが間もなく、秀吉から「切腹」の命が下されます。

 

 

 

 

これでも悲劇と言えることなのですが、さらに秀次の首を三条河原に晒し、その前で秀次に関係のあったものたちを一人残らず処刑すると言う、悲劇が行われました。

 

 

 

その数は39名にも上り、三条河原は真っ赤な血で染まっていたそうです。

 

 

 

 

 

秀次は叔父である秀吉に最後まで翻弄されていた人生だったと思うと何か虚しくなります。

 

 

 

また、江戸時代に入り近くの『瑞雲寺』に遺骨が納められ、今でもそこに皆で眠っています。

 

 

 

 

もし、三条河原周辺を訪れた際にはこの様な悲劇があったと言うのを踏まえて行くと、また違う感覚で訪れる事が出来ると思います。

 

 

 

 

 

そして、秀吉の側近として仕え、『関ヶ原の戦い』実質的西側の総大将となった『石田三成』。

 

 

 

 

かれもまた、六条河原で斬首された後、この三条河原に晒し首にされてしまいました。

 

 

 

 

『勝てば官軍』と言う言葉があるように、勝った方が正義になってしまいますが、これもまたひとつの悲劇として今も語り継がれています。

 

 

 

 

個人的には石田三成は好きな武将の1人であり、忠義を尽くしたと言う意味でも、やはり別格な武将だと思います。

 

 

 

 

 

そして、最後に『新撰組』の局長である『近藤勇』もこの三条河原で晒し首にされてしまいます。

 

 

 

これに関しても悲劇としか言えないですが、『薩長同盟』で手を組んだ、薩摩藩長州藩を中心とした「新政府軍」に、現在の千葉県・流山市で捕まり、東京都の板橋区にある処刑場で斬首された後に、塩漬けにされこの三条河原で晒し首にされます。

 

 

 

 

新撰組』が「新政府軍」から特に長州藩からすごい恨みを買っていたいた事と、元は農民出身と言う事で、武士とは認めて貰えず、「切腹」ではなく、「斬首」になってしまったと言うのが、なんとも言えない虚しい気持ちになってしまいます。

 

 

 

 

最後に、これら全ての人物が『豊臣家』に関わっていたと言うのが分かります。

 

 

 

薩長関ヶ原の戦いで西軍側についた外様大名ですからね。

 

 

 

 

そう言う歴史も知った上で訪れてみると、また新たな発見が出来ると思いますので、是非今度、京都に訪れてる際にはご参考にと思います。

 

 

 

ひとつの場所でここまで、深く掘り下げる事が出来るのは、やはり歴史は面白いですよね。

 

 

新撰組 ⑧-池田屋騒動-

 

芹沢派を一掃して、『新撰組』を掌握した試衛館組は「近藤勇」を中心に京都の警備をしていました。

 

 

 

とは言っても、『京都御所』や『二条城』などを警護するのではなく『祇園』周辺などの警護を担当していました。

 

 

 

と少し話は戻りますが、芹沢鴨を宴会に誘い出した「角屋」と言う料亭。

 

 

 

実は長州藩薩摩藩などの志士たちも利用していたんですね。

 

 

 

 

そして江戸時代の支払い方法も、面白いんですが、一般的には「ツケ」になっていました。

 

 

 

それも回収するのは『お盆』と『大晦日』のみ!

 

 

 

 

なのでその日に回収が出来ないと、また半年後の回収になってしまったんですね。

 

 

 

 

店側も誰がいくら購入したと言うのを「台帳」に記しており、それを元に集金をすると言うシステムが一般的でした。

 

 

 

 

ここで生まれた言葉が「徳政令」などで借金をチャラにすることを「帳消し」と言いいます。

 

 

 

まさに台帳に書いてたのを消さなければいけないと言う、店側に取ってみれば相当厳しいものでした。

 

 

 

今でも使われている言葉がこのような形から出来たと思うと、面白いですよね!

 

 

 

 

 

さて、話は戻りますが、長州藩薩摩藩などの志士たちはこの「ツケ」のシステムで、料亭などに通っていました。

 

 

 

 

しかし、新撰組は「ツケ」の支払いがダメだったと言うのをご存知でしょうか?

 

 

 

藩士たちは身元も分かっていて信用性が高い。

 

 

 

一方、新撰組は「烏合の集」、いわゆる寄せ集めみたいな奴らなのでと思った方もいらっしゃると思いますが、実はそうではありません。

 

 

 

 

不逞浪士の見回りなど京都の治安維持が任務の彼らは、いつ何時死んでもおかしく無い状態でした。

 

 

 

 

死んだ人からは集金が出来ないですもんね。

 

 

 

 

 

そんな彼らを一躍有名にしたのが題名にもある『池田屋騒動』です。

 

 

 

 

八月十八日の政変』で失脚した長州を支援していると言う情報を聞きつけた『新撰組』は炭薪商をしていた「古高俊太郎」の存在を突き止めます。

 

 

 

そして、店の中を捜索中に大量の武器と長州と繋がっていた手紙を発見。

 

 

 

 

すぐに捕らえ、古高を拷問にかけた「土方歳三」はとんでもない事を耳にします。

 

 

 

 

それは「祇園祭の前の風の強い日に、京の街に火を放ち、その混乱に乗じて松平容保一橋慶喜を暗殺。さらに、孝明天皇を奪い、長州に連れて去ろう」と言う計画でした。

 

 

 

 

 

 

そして、この古高を奪還すべく、長州・土佐・肥後などの『尊皇攘夷派』の志士たちが「池田屋」か「四国屋」どちらかで襲撃をするかしないかと言う会合があると言うことも突き止めました。

f:id:TOTAN:20200217082830j:image

 

そして、祇園祭宵山の夜、現在の『八坂神社(やさかじんじゃ)』近くの祇園の会所に集まった新撰組の隊士達が近藤組と土方組に別れて、捜索が始まりました。

 

 

 

 

当時の状況からすると、どうやら片っ端からしらみつぶしに当たっていたみたいですね。

 

 

 

 

そして、池田屋で発見した近藤組。

 

 

 

 

近藤勇沖田総司永倉新八藤堂平助の4名

が『御用改め』として踏み込み、残りの隊士は外を固めました。

 

 

 

 

この時に舞台や映画などで有名な「階段落ち」(実際にはフィクション)が始まりであり、ここから壮絶な奮闘が繰り広げられます。

 

 

 

 

尊皇攘夷派は約20名、対して新撰組は4名となると明らかに不利な状況と思いますが、試衛館組の4名ですので、少数先鋭でさらに普段から真剣を使い日々鍛錬していた、彼らにとってはこっちの方がやりやすかったのではないかと思います。

 

 

 

 

そんな中、過激尊皇攘夷派の中心人物であった「宮部鼎蔵(みやべていぞう)」や吉田松陰の門下生で、久坂玄瑞高杉晋作入江九一とともに『門下四天王』と称された「吉田稔麿(よしだとしまろ)」も必死に応戦しましたが、のちに自刃。

 

 

 

 

また、新撰組の方では沖田総司が、奮闘中に病に倒れ吐血。

 

 

藤堂平助も油断していた鉢金を外した時に額を斬られ、一時は近藤勇永倉新八の2人のみが戦闘が出来ると言う状態になってしまいました。

 

 

 

 

その後、すぐに土方組も駆けつけて数で有利になった新撰組は、次々と過激尊皇攘夷派の志士たちを捕縛していき、終焉を向かえます。

 

 

 

 

終焉後には会津藩桑名藩も駆けつけてますが、手柄の横取りをされないようにと土方は一歩も近づけさせなかったと言うくらい、圧倒し奮闘していた様子が分かります。

 

 

 

 

また、桂小五郎池田屋におり、新撰組到着後、すぐさま屋根から逃げた説や、池田屋に桂が到着した時間が早くまだ、会合が出来るほどの十分な人が集まっていなかったので、いったんここを出て対馬藩邸に行っている間に、事件が起きたと言う説があります。

 

 

 

 

いずれにしても難を逃れた桂小五郎はのちに『薩長同盟』を始め、『維新の三傑』となって時代を動かしていく様になります。

 

 

 

 

また、この事件が維新を10年遅らせたとか逆に早めたなど、言われていますが当時、火を放つなど尊皇攘夷派はテロ。

 

 

 

そのテロ行為を未然に防ぎ、また京都の治安を護った新撰組はこの事件がきっかけで、一気に天下に名を轟かせるようになります。

 

 

 

 

また、近くには長州藩邸(現在の京都ホテルオークラ)や土佐藩邸なども近くにあるなど、のちに時代を動かす事になる人物たちが、この周辺に、集まっていたことが分かります。

f:id:TOTAN:20200218015046j:image

 

 

 

さて、次回はこの事件がきっかけで起きた『禁門の変』についてお伝えしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新撰組⑦ -粛清-

前回は祝日であり、どうしてもお伝えしておきたかったと言う事で、『建国記念日』についてと、少し都市伝説染みたのを含んだ内容でしたが、今回はまた『新撰組』を中心に、幕末の動乱期をお伝えして行きたいと思います。

 

 

 

 

八月十八日の政変』以降、その活躍ぶりを認められた『壬生浪士組』は京都守護職である会津藩主・「松平容保(まつだいらかたもり)」からの呼び出しにより、筆頭局長である「芹沢鴨(せりざわかも)」と試衛館派の局長である「近藤勇(こんどういさみ)が参上しました。

 

 

 

その時に恩賞と新たな名前を拝命されたのです。

 

 

 

その名前こそが

 

 

 

新撰組

 

 

 

 

いよいよ、会津藩の正式なお預かりになり、また京都の警護をする様に、さらに一説には「松平容保」から直々に名前を拝命されたと言うくらいで、さぞ彼らは喜んだ事が容易に想像でします。

 

 

 

 

また、これにより組織としてもより強化すべく各組長や担当が決まります。

 

 

 

 

 

そして、この名前を拝命されたきっかけで、外見なども変わってきます。

 

 

 

 

 

 

 

それが『新撰組』のイメージと言うと『誠』の文字が入った旗。

また、浅黄色のダンダラ模様の羽織と言うのが強いと思います。

f:id:TOTAN:20200215034703j:image

 

 

 

実はこの時に作られたものなんですね。

 

 

 

 

そしてこの資金は、大阪の豪商で両替商の『鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)』から200両が、筆頭局長である「芹沢鴨」に献金された形でのものでした。

 

一説には芹沢が奪い取ったと言う説もありますが、当時の1両=現在の約7千円くらいの相場だと言う所からも、いかに『八月十八日の政変』以降、生活が一変したかが分かると思います。

 

 

 

 

 

京に上るまでは一介の浪士に過ぎなかった志士たちですから。

 

 

 

 

 

 

そして、この200両もの大金を献金した(鴻池善右衛門」、代々当主が受け継く名前でして、江戸時代の中で同族集団での両替商として最大の『財閥』になっています。

 

 

 

 

上方落語(大阪)なんかでは、「鴻池の犬」と言う噺などにも登場するくらいの大豪商となっており、幕府や各藩の大名貸しをし繁栄して行きました。

 

 

 

幕末には、「鴻善(鴻池善右衛門の略)、ひとたび怒れば諸侯、色を失う」とも言われおり、意味は「鴻池善右衛門を怒らせてしまっては、大名ですら青ざめてしまうくらい怖い。」

 

 

 

そのくらい、幕府や大名もお金を借りていたと言う事で、財力も無くなっていたと言う事が分かります。

 

 

 

 

 

その後、鴻池財閥鴻池銀行を経て、第二次世界大戦後の「財閥解体」ののち、元山口財閥と合併し「三和銀行」、東海銀行と合併し「UFJ銀行」、東京三菱銀行と合併して「三菱東京UFJ銀行」となって、現在に至ります。

 

 

 

 

 

 

この200両を使い浅黄色のダンダラ模様の羽織は現・大丸松坂屋百貨店となった「大丸」。

f:id:TOTAN:20200215200129j:image

 

 

そして、旗は同じく現在も百貨店としてある「高島屋」がつくりました。

 

 

 

 

 

いま聞いても分かるような店で作っている事なんかはスゴイ面白いですよね。

 

 

 

 

 

さて、話を戻しますが、そんな京都の地でも名が知れ渡るようになった新撰組

 

 

 

 

旗印を見るだけで、不逞浪士は恐れていたと言うのですから、しっかりとした警備をしていたんですね。

 

 

 

ただし、試衛館組が中心に。

 

 

 

 

芹沢派、特に筆頭局長である芹沢鴨は昼間から酒を飲み、時には暴れまわったりなど素行の悪さから、会津藩から「なんらかの処置をせよ!」と試衛館組の「土方歳三」・「沖田総司」らに極秘での命が下ります。

 

 

 

 

そしてちょうど少し前に『局中法度(きょくちゅうはっと)』と言う新撰組内での鉄の掟が発布されます。

 

 

 

 

まず、第一に『士道に背く事』が挙げられ、その他には、『脱走する事』・『勝手に隊内の金を使う事』・『プライベートで喧嘩をする事』・『勝手に裁判をする事』となり、これに背いたものは如何なるものも『切腹』をしなければなりませんでした。

 

 

 

 

まず手始めに芹沢派の2番手であった「新見錦」が切腹させられます。

 

 

 

 

 

そして、次は芹沢派のトップである芹沢鴨です。

 

 

 

 

新撰組主催の宴会に出席にした芹沢は、島原の「角屋」で大いに酔い、その後芹沢派と隊士たちと八木邸に帰宅した後になっても泥酔するほど酒を浴びていました。

 

 

 

 

 

そして、泥酔しきった所に土方歳三をはじめ沖田総司山南敬助原田左之助が芹沢たちを襲い、芹沢派の『粛清』が終わりました。

 

 

 

この時の刀傷がまだ八木邸に残っており、実際に見た時は壮絶だったんだろうと思いましたね。

 

 

 

 

粛清された日は大雨だったと言う事からも、足音など聞きづらく、しかも泥酔しきって寝ていたのにも関わらず、抵抗が出来た芹沢鴨はやはり、剣術も相当なものだったと言うのが分かります。

 

 

 

 

それでも4対1となるとやはり負けてしまいますもんね。

 

 

 

そこまでしなければ勝てなかった芹沢鴨はやはり初代・筆頭局長の器であったのでは無いでしょうか。

 

 

 

 

 

 

この「粛清」により、芹沢派は壊滅。

 

 

 

 

 

 

 

いよいよ試衛館組が中心となっていくのです。

建国記念日 2月11日

今回はちょうど本日が『建国記念日』と言うとこで、少しだけこの日の事をお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

そもそも、『建国記念日』とは何か?

 

 

 

世界には色々な基準で『建国記念日』を制定していますが、例えばアメリカではイギリスから植民地として統治されていた「13」の州が独立宣言をアメリカの大陸議会で採択された日となっています。

 

 

その宣言をしたのが1776年7月4日となっており、毎年7月4日は「インデペンデンス・デー」として花火が上がったり、無料で軽食が配られたりなどお祭として大いに賑わいます。

 

 

 

また、これと同様に「クリスマス」と「サンクスギビングデー」もアメリカでは最も重要な祝日の日となっています。

 

 

 

 

1776年と言う事はまだ250年くらいしか経っていない国なんですね。

 

 

 

アメリカと言う国は。

 

 

 

その時、日本はと言いますと、『平賀源内(ひらがげんない)』が長崎で手に入れたエレキテルを復元させた年になります。

 

 

 

また、平賀源内でそれに匹敵するくらい有名なのが『土用の丑の日はウナギ』と言うのを流行らせた人物と言うことですよね。

f:id:TOTAN:20200210175159j:image

 

 

 

 

 

ただ、これを証明する資料などは残っていないそうですが…。

 

 

 

 

それでも、個人的にはウナギが大好きなので、夏に食べれるきっかけとなって嬉しい限りですが😃

 

 

 

 

話は戻りまして、日本ではこの『建国記念日』は『天孫降臨』で高天原(たかあまはら)から降りて来た『邇邇芸尊(ニニギノミコト)』の孫である初代天皇・『神武天皇(じんむてんのう)』が現在の奈良県にある『橿原神宮(かしはらじんぐう)』で即位したと言う日に制定されています。

f:id:TOTAN:20200210180507j:image

 

 

 

そして面白いのがこの『橿原神宮』からほぼ一直線で北には奈良時代の御所であった『平城宮(へいじょうきゅう)跡』や『京都御所(きょうとごしょ)』があります。

f:id:TOTAN:20200210181516j:image

 

 

 

また、東には『豊受大神トヨウケビメ)』や皇祖神である『天照大御神アマテラスオオミカミ)』を祀り、日本の神社でNo.1でもある『伊勢神宮(いせじんぐう)』。

 

 

 

 

南には『八咫烏(やたがらす)』や『世界文化遺産』にもなった『熊野三山(くまのさんざん)』。

 

 

 

 

西にはアマテラスの親で『伊奘諾(イザナギ)』『伊奘冉(イザナミ)』が最初に作ったと言われる島の『淡路島』があると言う、不思議な場所です。

 

 

 

これだけでも、何か特別な場所である事が分かりますよね!

 

 

 

 

そして、祝日で日付が固定された数少ない日なんですね!

 

 

 

 

また、全国の神社のほとんどで御祝いがされると言う特別な日なんです。

 

 

 

 

ただ、この日に制定されてたのは明治時代に入ってからなのですがね。

 

 

 

 

と、ここで「2月11日」の数字に注目してみて下さい。

 

 

 

2+11=「13」になるんですね。

 

 

 

さっきも書きましたアメリカの独立宣言をした時の州も「13」。

 

 

 

 

そして、アメリカ初代大統領である「ジョージ・ワシントン」。

 

 

 

彼は『フリーメイソン』のメンバーの一員なのです。

 

 

 

また、ジョージ・ワシントン悪魔崇拝で世界を牛耳っているとも言われいる『イルミナティ』の創設者「アダム・ヴァイスハオプト」と実は同一人物であるとも言われており、この2つの秘密結社の『聖数』が

 

 

 

『13』

 

 

 

なのです。

 

 

 

 

何かゾッとしてしまいますよね。

 

 

 

 

そして、世界で最も有名な人物画である『モナリザ』を描いた『レオナルド・ダ・ヴィンチ』は秘密結社『フリーメイソン』の総長でもあり、その秘密をこの絵画に残したと言う話があります。

 

 

 

 

それは実は『キリスト』が復活した際に一緒にいたとされる『マグダラのマリア』には2人の子を身篭っており、それも双子だったと言うのです。

 

 

 

その1人がイギリスに。

 

 

 

またもう1人は日本の東京に。

 

 

 

 

ここでちょっと不思議なものがありますのでご紹介します。

f:id:TOTAN:20200210191008j:image

 

 

 

イギリスのロンドンと日本の東京を「線」で結んでみるとウズベキスタンの首都である『タシュケント』になります。

 

 

 

 

そしてこの名前の意味はテュルク語で『石の町』なのです。

 

 

 

フリーメイソン』は元々「石工職人」達が技術を継承していく為に出来た秘密結社と言われています。

 

 

 

これだけでも驚くのですが、もうひとつ。

 

 

 

 

それが『市章』です。

f:id:TOTAN:20200210192523j:image

 

 

 

太陽に松の木のような木、そして富士山のような山。

 

 

何か日本的な感じがしますよね。

 

 

ここまで来るともはや怖くもなって来ますよね。

 

 

 

そして、いま次の天皇を『女帝天皇にして、女系天皇にするかどうか』を政府や博識者達が急ピッチで話し合いが行われています。

 

 

 

また、フリーメイソンはミレミアムである2000年から13年ごとに世界が変わると言われたり、2026年に神が降臨するなどと言う都市伝説があります。

 

 

 

 

これは今まで見た事も聞いた事もなく、完全に私個人的な見解ですが、現在の天皇の娘である『愛子内親王(あいこないしんのう)様』は2026年には25歳でなり、さらに21世紀初に産まれた皇族になります。

 

 

 

そして、いとこである『悠仁親王(ひさひとしんのう)様』も21世紀初の男子皇族になり、2026年には20歳を迎えます。

 

 

 

 

ここで、日本の法律だといとこ同士の結婚はオッケーとなっていますよね⁉︎

 

 

 

さらに男女ともに18歳以上とも。

 

 

 

この2人がもし、御結婚なされたら「男子系天皇の継続」が可能になるのです。

 

 

 

そして、2026年にもし子供が産まれたとしたらまさに神の遺伝子を持った子になりますよね!

 

 

 

 

建国記念日』と言うのからここまで話がズレてしまいましたが、いかがだったでしょうか?

後半はちょっと都市伝説みたいな形になってしまいましたが、このような見方をするのも面白いと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新撰組 その⑥-八月十八日の政変(2)-

土佐藩山内容堂の側近であった、吉田東洋を暗殺した『土佐勤王党』は事実上の実権を握ったまで、前回お伝えしました。

 

 

そして、『土佐勤王党』の盟主である武田半平太は尊王攘夷派である長州藩薩摩藩土佐藩で密約を交わしそれを実現する為に、坂本龍馬長州藩久坂玄瑞に派遣するなど、様々な働きをしていました。

 

 

 

坂本龍馬はこのあたりから様々な人物に会い、考え学び後に『薩長同盟』を仲介役として成功させる人物になっていきます。

 

 

 

 

そんな中、薩摩藩の国父(藩主の父で隠居しているが実権は握っている)である「島津久光(しまづひさみつ)兵を率いて上京しました。

 

 

 

この時、京にいる尊王攘夷派の藩士たちは歓迎し、「寺田屋」で迎えいれる格好になりましたが、実はこの過激な尊王攘夷派を「粛清」する為のものだったのです。

 

 

 

これが世に言う「寺田屋事件」です。

 

 

この寺田屋、実はもうひとつ「寺田屋事件」がありまして、それは坂本龍馬が幕府から狙われて妻である「お龍」の機転のおかげで、なんとか助かって、後に薩摩藩に匿わられ、その後『薩長同盟』へとつながって行くと言う、貴重な場所になります。

 

 

 

 

この島津久光の考えは実は『公武合体』であったと言うことから、この事件は起きますが、これは先代の「島津斉彬」の意思でもあり、開国派でもありました。

 

 

 

いわゆる、『桜田門外の変』以前の幕府派の考えですね。

 

 

この中で、当時の開国派であった、土佐藩山内容堂や、『前・越前藩 松平春嶽(まつだいらしゅんごく)』、一橋慶喜など処分を受けていた諸侯が幕政に復帰。

 

 

 

朝廷にも開国論に転じて貰おうとする働きの中で、松平春嶽を代表にしました。

 

 

 

開国論を朝廷に理解して貰うには「将軍の上洛があってこそだ!」

と言う松平春嶽の条件を幕府も容認し、将軍上洛の予告を発表。

 

 

これがきっかけで集まったのが「浪士組」だったのです。

 

 

 

こうして一時期は、尊王攘夷派の動きも足が重くなっていくわけですが、長州藩や『土佐勤王党』、また薩摩藩の一部の尊王攘夷派が公武合体派である人物たちに「天誅」を加えるなかで、京のなかでも尊王攘夷派が盛り返してきました。

 

 

 

 

そんな中で、公武合体派の考え方の山内容堂は『土佐勤王党』を露骨に不快に思い始めます。

 

 

 

そして、彼らに対して「他藩士との政治的交際を禁ずる。」と藩命を出し始めます。

 

 

 

 

これがきっかけで、土佐藩は少しずつ歯車が合わなくなっていくのですが、長州藩も「独断で外国船などを撃ってはならない」と言う幕命を無視し、アメリカ商船を無勧告で襲撃するという「破約攘夷)を決行してしまいました。

 

 

 

 

これを機に長州藩アメリカ・フランス連合国との戦い(いわゆる「下関戦争」)が勃発。

 

 

 

その中で産まれたのが、吉田松陰の門生である「高杉晋作」率いる『奇兵隊(きへいたい)』でした。

 

 

この奇兵隊のシステムが、後に幕府を倒す官軍の前身となりその考え方は「武士などの身分などにとらわれず、志しがあるものなら誰でも採用する。」

と言う考えで、明治維新後はたまたま、現在でもその考え方には通ずる様なものでした。

 

 

 

「能力さえ有れば、上に上がれる」と言った実力主義システム。

また、ちょっと『豊臣秀吉』のような考え方ですね。

f:id:TOTAN:20200208073735j:image

 

 

 

そして、志願者には制服も身分を問わず統一していたと言うのも、現在も変わらないものがあります。

 

 

 

 

 

話は戻りますが、この「下関戦争」で土佐藩命を無視し、長州藩の襲撃に関わっていた『土佐勤王党』の幹部達が逮捕され、土佐藩でも尊王攘夷派の弾圧が始まるのです。

 

 

 

 

この結果、長州藩は幕府から孤立し始め、また、『孝明天皇』にも

攘夷論者ではあるが破約攘夷派の公家や長州は好まない。むしろ、開国を勧めて平和的な条約改正を推す薩摩などの方が良い。」

と思われて始め、完全に孤立していったのです。

 

 

 

 

そんな中で薩摩とイギリスとの間で「薩英戦争」が勃発。

 

 

しかし、これは幕命にもある「敵が襲来した際には、打ち払え」と言うのに従っただけで再三注意勧告を出したのに入国(侵略)してきたので攻撃をしたと言うものでした。

 

 

これで薩摩は称賛され、長州は賛同を得られないと言う、雲泥の差の立場になりました。

 

 

 

これはすぐさま攘夷を決行しなければいけないと言う状況に立たされた長州藩は、破約攘夷派の公家に迫り、朝廷からの攘夷決行の勅定を貰うべき、挙兵し京に入ることになりました。

 

 

 

そんな状況の中、『孝明天皇』が『大和行幸の詔』(初代天皇神武天皇陵、春日大社伊勢神宮行幸する)と言うのが発布されました。

 

 

 

これは『孝明天皇』自らの考えでは無く、破約攘夷派の公家達による計画であり、このハードなスケジュールの中で『孝明天皇』は寝る間も無く、憔悴しきっていた。

その間に攘夷決行の勅定を貰い、さらには天皇を長州に迎え入れてしまおうとしたのです。

 

 

 

 

そんな中で薩摩藩は越前藩に代わる新たな提携相手として『京都守護職』に就いていた『会津藩』と急接近しました。

 

 

 

そして、薩摩藩会津藩は念密に計画をし、京都に残っていた公家を説得。

 

 

孝明天皇』にはこの計画の概念だけを伝えると言う形とり、その夜には『兵力をもって、この災いを払うべし!』と決断し、京に残る公家達も賛同。

 

 

そして、翌日の文久3年8月18日の午前4時に会津藩薩摩藩を中心に『京都御所』を固め、さらに京都にいた諸藩主にも参内を命じ、参内した諸藩も兵を固めました。

 

 

 

 

これに『壬生浪士組』も『御所』を護るべく、参加したのです。

 

 

 

そんな一報を受けた長州藩はすぐさま『鷹司』邸に破約攘夷派の公家『三条実美(さんじょうさねとも)』などと集まり、『堺町門』に繰り出しますが、そこを陣取っていた会津藩薩摩藩と睨み合いが続きます。

 

 

 

そんな最中、宮中では長州藩の警備担当を解き、京都から退去するようにと言う勧告が出されます。

 

 

 

睨み合いは夕方まで続きますが、京都東山にある『妙法院(みょうほういん)』まで三条ら公家と共に退去。

f:id:TOTAN:20200209032644j:image

 

 

 

これにより長州藩と7人の公家は京都から追放(『七卿落ち』)となったのです。

 

 

 

ここまで、ざっくりと『八月十八日の政変』についてお伝えして来ましたが、いかがだったでしょうか?

 

 

この政変がきっかけで更なる時代の変化になって行きますので、次回もお楽しみ!

 

 

 

 

新撰組 その⑤-八月十八日の政変-

さて、「壬生浪士組」が「京都守護職」に就いた会津藩の預りとなり、市中警護を任される事になり、京都の治安を守っていましたが、文久3年の8月18日にとんでもない政変(クーデター)が起こりました。

 

 

 

それが世に言う『八月十八日の政変』です。

f:id:TOTAN:20200205193722j:image

 

 

 

 

この背景には、京都では黒船来航以来、尊皇攘夷の動きが勢いをまし、さらに『安政の大獄』で斬首された長州藩の「吉田松陰」の門下生たちなどが『桜田門外の変』以降、さらなる発言力を持つ様になりました。

 

 

 

その理由は江戸幕府が『孝明天皇』の勅許を得ずに『日米修好通商条約』などを結んだこと。

 

 

さらに「大老井伊直弼」が討たれた後に、吉田松陰の意思を継ぎ、世を変えようと努力し、朝廷に働きかけていたのが吉田松陰の開いた私塾『松下村塾』の塾生である「久坂玄瑞」など。

 

また塾生では無いものの吉田松陰から直接、藩校である「明倫館」の時代に兵法の講義を受けていた後に『維新の三傑』の1人としても功績を残す『木戸孝允』もしくは『桂小五郎』が中心になり、『尊王攘夷』のなかでもやむ終えない時には戦争をしてでも攘夷を決行すると言うような『破約攘夷』を勧めたのが『長州藩』でした。

 

 

 

そして、もし生きていたら初代・内閣総理大臣になっていたであろうと言われた『土佐勤王党』の盟主であった「武市半平太」率いる『土佐藩』。

 

 

 

この土佐藩と言うのがまた、他の藩とは全然違う藩でして。

 

 

 

当時の土佐藩には『関ヶ原の戦い』以降、徳川方に付いて、この領地を治めた「山内一豊」の家臣を「上士(じょうし)」。

それ以前からこの領地を治め、豊臣方についた「長宗我部氏」の家臣を「郷士(ごうし)」として、差別化をしていました。

 

 

ただし、のちに尊王攘夷論を勧める『土佐勤王党』(郷士中心)の考えと、富国強兵や開国貿易など、『公武合体政策』を勧める上士達と考え方の違いから、土佐勤王党の刺客によって暗殺されてしまう藩政の中心的存在となった「吉田東洋」などの家系は「長宗我部氏」の旧家臣に当たります。

 

 

また、15代将軍・慶喜に『大政奉還』を提議した「後藤象二郎」の義叔父にあたり、後藤の実父が早くに亡くなってしまった事により、吉田東洋が父親代わりになっていました。

 

 

 

さらに、『自由民権運動』の主導者となる「板垣退助」や『三菱財閥』の創立者である「岩崎弥太郎」なども、吉田東洋の門生でした。

 

 

 

 

さて、この土佐勤王党が出来た背景には、武市半平太郷士ではありますが「白札郷士」と呼ばれる、上士格として認められた事。

そして、剣術の面でも優れていた事により、自ら道場を開く事から始まります。

 

 

そこに集まってきた門生はほとんどが郷士・または農民や町人達でした。

 

 

 

この中には『薩長同盟』を仲介役として「坂本龍馬」と共に成功させた「中岡慎太郎」や、京の都を「天誅」として、公武合体派を恐怖のドン底に追い伏せた「人斬り以蔵」こと「岡田以蔵」などがおり、『土佐勤王党』の母体を作っていきました。

 

 

 

 

そんな中、藩命により江戸剣術修行が許され、『幕末の江戸三大道場』のひとつである『鏡新明智流 士学館』の門生となり、塾頭にまでになります。

 

 

 

 

そして、この江戸三大道場で、『神道無念流 練兵館』の塾頭には長州藩桂小五郎がなっており、また『北辰一刀流 玄武館』には『新撰組』の総長である「山南敬助」や八番隊隊長「藤堂平助」などがいます。

 

 

 

 

その後、幕政では次の将軍を一橋慶喜に推薦していた「山内容堂」が「大老井伊直弼」により、隠居・謹慎にさせられ、土佐藩士達は激しく怒り、憤りを隠しきれませんでした。

 

 

 

そんな中でかの有名な『桜田門外の変』が起き、土佐藩士達は『赤穂浪士』のようだと感銘を覚え、次第に尊王攘夷の動きが高まって行った訳です。

 

 

 

 

 

その後、剣術修行の名目で再び江戸に来た武市半平太は、桂小五郎久坂玄瑞、また「高杉晋作」などと交流を持ち、久坂や高杉たちの師である「吉田松陰」の思想に深く共鳴しました。

 

 

 

 

そして、土佐藩尊王攘夷運動に対し、遅れていると痛感し長州藩薩摩藩土佐藩の三藩で朝廷にこの尊王攘夷運動を直訴する計画を立てました。

 

 

 

 

この時期に先程も書いた『土佐勤王党』の刺客による『公武合体派』である吉田東洋の暗殺によって、実質的実権を武市半平太は握って行くようになるのです。

 

 

 

 

 

と、ここまで『八月十八日の政変』の背景をお伝えしてきましたが、まだもう少しあるので次回も是非ご覧下さい。

 

 

 

 

新撰組 その④

「浪士組」から離れた近藤以下・試衛館組と、芹沢一派など総勢24名で「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」・若しくは「精忠浪士組(せいちゅうろうしぐみ)」を結成しました。

 

 

当時、現在の『京都御所(きょうとごしょ)』が中心であったので、壬生地区と言うのは少し離れた場所でした。

f:id:TOTAN:20200203160809j:image

 

 

とは言っても『御所』までは5km程度、また『二条城』までは2.5km程度と今の感覚なら結構近場に感じませんか?

 

 

実際、いまの交通整備された状態で歩くと『御所』までは約1時間弱・『二条城』まででも約30分は掛かるのだから、当時はそれよりもっと時間が掛かっていたのが分かります。

 

 

 

 

しかも、刀装をしながらなので余計遠く感じてしまいますよね。

ただ、この程度の距離や時間は当時の人達にとって本当に遠く感じていたとは分かりませんが。

 

 

 

 

私自身、実際に夏に行った時『二条城』から『新撰組』の屯所になる「八木邸」まで歩いて行った事がありますが、すごく遠く感じました。

当時はまだスマホも無くガラケーの時代で場所もイマイチ分からなかった分、余計にですね…。

 

 

 

またこの「壬生(みぶ)」と言う意味は「水辺や湿地帯」などの意味があり、水生(みぶ)と言う読み方が転じて、今の字になったそうです。

 

 

 

そう言う所からも都の中心部からはひとつ離れた場所にあるのが分かりますね。

 

 

 

なぜなら、当時も今もそんな場所の近くに政治の中心を置いたら、水害時の度に多大な被害が出てしまいますから。

 

 

 

 

ただ、その湿地帯を利用し農業が発展し、そこに住んだ農家の人達に「融通念仏(口から口へと広がる念仏)」が発展し、現在では『重要無形民俗文化財』である『壬生狂言』が出来ました。

 

 

 

また、「京の伝統野菜」にもなっている「壬生菜(ミブナ)」もこの地で出来ました。

f:id:TOTAN:20200203181132j:image

 

 

きっと「壬生浪士組」もこの壬生狂言を観て楽しんだり、ミブナを食べていたのでしょうね!

 

 

 

さて、そんな「壬生浪士組」ですが、当時の京都は『尊皇攘夷』派の志士たちで溢れかえっていました。

 

 

 

中には過激派な志士もたくさんおり、世の為にならない者には『天誅』として何人もの人が殺されていったのです。

 

 

 

中でも長州藩土佐藩郷士を中心に)などは過激派が多く、「人斬り以蔵」などが暗躍していました。

 

 

 

そんな治安が悪い京を治安維持を目的としてまかされた『京都守護職』と言う役職に就いたのが、「会津藩主 松平容保(まつだいらかたもり)」でした。

 

 

 

 

その本陣として選ばれたのが浄土宗の格式の高い寺院で、七大本山・また京都四ヶ所本山のひとつでもある『金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)』です。

f:id:TOTAN:20200203195242j:image

 

 

 

この寺院は浄土宗の開祖である『法然(ほうねん)上人』が最初に浄土宗を布教した地となっており、第100代天皇後小松天皇(ごこまつてんのう)』からも「浄土真宗最初門」を賜わっています。

(ここで言う浄土真宗とはのちに弟子である『親鸞(しんらん)上人』が開いた「浄土真宗」とは別のものになります。)

 

 

 

そして、法然上人の霊廟も『金戒光明寺』にはあるのですが、他にも有名な歴史上の人物達の墓所があります。

 

 

 

例えば、日本で一番気温が高いとして有名な「埼玉県 熊谷市」が出身と言うので、平家物語でも出てくる「熊谷直実(くまがやなおざね)」の一族が眠る墓所

 

 

3代将軍・家光の乳母であり、江戸城の大奥の礎を築いた「春日局」の墓所

 

 

また、面白い所では京都のお土産で人気な「八ツ橋」の名前の由来にもなった「八橋検校(やつはしけんこう)」の墓所もあります。

この八橋検校と言う人物は江戸時代前期に大変活躍した音楽家であり、荘園などを管理する盲人の中では最高位の名称です。

そんな八橋が亡くなったあとに京の民衆がその業績を偲んで、琴の形をした堅焼き煎餅を配った事から始まったそうです。

 

 

 

今では「生八橋」の方が認知度が高くなっている気がしますが、元々ここが起源だったと言うのはやはり、面白いですよね!

 

 

 

また、会津藩士達の供養塔もあるわけですが、この会津藩士達の派遣は年に1000人程度しか出来ませんでした。

 

 

 

 

実はこの京都守護職の費用はほとんどが会津藩の実費だったんですね。

 

 

 

幕府から無理やり言われ就いた役職なのに、ほぼ実費って。

しかも、今で言ったら福島から京都まで1年に一回交代で藩士を送っていたのですからね。

 

 

 

今で言ったらブラック中のブラックですよ…。

 

 

 

ただ、会津藩訓には初代会津藩主の「保科正之(ほしなまさゆき)」が残した『会津藩たるは将軍家を最後の最後まで守護すべきもの』と言うのがあったので、仕方なく引き受けてしまったのです。

 

 

 

この保科正之と言う人物は3代将軍・家光の異母弟でその子の4代将軍・家綱も2代に渡り補佐してきた人物です。

また、江戸市民の飲料水を安定させた「玉川上水」などの治世を行ったのもこの人物でした。

 

 

 

 

そんな人手の足りない中、目を付けたのが『壬生浪士組』でした。

 

 

言ってしまえば、どこぞの田舎侍(実際は農民出身もいる)に京の守護の元、不定浪士の取締りと市中警護を任せた方が、自国の藩士への負担も減る一方、「壬生浪士組」も会津藩預りになれば、いよいよ自分達の時代が来たと双方の思いが合致したことにより、会津藩の下についたのですね。

 

 

 

これによって、いよいよ「壬生浪士組」が表舞台へと出てくるのです。

 

 

 

次回は、『新撰組』と言う名前を授かるきっかけである『8月18日の政変』からお伝えして行きたいと思いますので、是非ご覧下さい!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新撰組 その③

さて、京に着いた『浪士組』一向ですが、実は発案者の「清河八郎」は将軍警護の為に集めた訳ではありませんでした。

 

 

その本当の目的は『尊王攘夷』だったのです。

 

 

 

この『尊王攘夷』とは「天皇を尊び、外国人を斥(しりぞ)けようとする思想」で、黒船来航以来、幕府や外国人に不満を持った志士達が溢れていました。

 

 

 

その先鋒隊として、実行しようとしたのがこの「浪士組」の発案者、清河八郎だったのです。

 

 

 

しかし、芹沢鴨一派や近藤勇土方歳三など試衛館組などはそれ反対し、あくまで将軍警護の為にと意向を見せ、「浪士組」から離れました。

 

 

 

翌日、清河八郎は残った「浪士組」200名近くを引き連れて朝廷に「建白書」を申し出て、それがまさかの受理されたんですね。

 

 

 

この、背景には当時の天皇である第121代目天皇の『孝明天皇(こうめいてんのう)』は大の異国嫌い。

 

 

 

その理由は開国を許可していないのに、幕府が勝手に『日米修好通商条約』を調印してまった事などが原因になります。

 

 

 

これには大変激怒されたそうで、この他にもロシアやイギリスなどと勅許(天皇の許可)が無いまま、勝手に調印されました。

 

 

 

ここまで悪化した朝廷と幕府の間の打開策としてなされたのがいわゆる『公武合体(こうぶがったい)』です。

 

 

 

これは孝明天皇の異母妹である『和宮(かずのみや)』を14代将軍・『徳川家茂(とくがわいえもち)』に「降嫁(こうか)」する事で、なんとか関係性が保たれました。

 

 

 

そして、家茂と和宮の関係はそれは良い関係だったと言うのが、なんとも微笑ましく思ってしまいますね。

 

 

 

と、この様な時代背景があり、朝廷に「建白書」を提出した清河八郎ですが、このような行動を不安に思った幕府方は「浪士組」を江戸に呼び戻し、帰ってきてからは幕府の刺客に命を狙われて、のちに斬殺されてしまいます。

 

 

 

その後、尊王攘夷派の同志であった「石原周造(いしはらしゅうぞう)」が首を奪還し、清河塾の門生であり、「浪士組」の最初の取締役に就任していた、「山岡鉄舟(やまおかてっしゅう」の妻が『伝通院』に葬りました。

 

 

そして、後に遺族の元に引き渡され今も伝通院に眠っているのです。

 

 

 

また、江戸に戻った「浪士組」は「新徴組(しんちょうぐみ)」と名を改め、庄内藩の預りになりました。

 

 

 

庄内藩と言うのは『徳川四天王』の筆頭である『酒井忠次(さかいただつぐ)』の子孫が江戸時代を一貫して統治していた藩で、老中を出すなど、江戸幕府に対しかなり信用度の高い藩です。

 

 

 

そして「新徴組」は江戸の取締につく訳ですが、これによって江戸の治安は回復しだし、江戸市民にはかなり喜ばれていたそうです。

 

 

その様子を『酒井なくてはお江戸はたたぬ、おまわりさんには 泣く子もだまる』などと謳われていたとか。

 

 

また、「新徴組」の組頭に『新撰組』の一番隊隊長『沖田総司』の義兄である「沖田林太郎」がいたことなど交流もありました。

 

 

 

そして、この「新徴組」が江戸にある薩摩藩邸を焼打ちにしたことがきっかけで世に言う『戊辰戦争(ぼしんせんそう)』が勃発するのです。

f:id:TOTAN:20200131040033j:image

 

 

その背景には、最期の将軍・『徳川慶喜』が先手を打って『大政奉還(たいせいほうかん)』をし、幕府こそ無くなりはしましたが、未だに有力は存在では違いありませんでした。

 

 

 

しかし、これでは何も変わらない!と考えていた『薩長』は根こそぎ旧幕府方を取り潰したいと考え、藩士達に「町中で暴れろ!」などと指示。

それを聞いた「新徴組」は薩摩藩を監視しだしたわけですが、その中で薩摩藩の志士が「新徴組」の屯所を襲撃し、使用人が殺害された事によって起こったのです。

 

 

 

この様に考えると、良くも悪くもやはり清河八郎がきっかけで時代が動いたのだと言うのが分かりますね!

 

 

そして明治に入り、清河は『正四位 贈位』をされるくらいの素晴らしい人物でした。

 

 

 

さて、少し脱線はしましたがかなり歴史上の繋がりには重要なので、今回書かせてもらいましたが、次回からは『新撰組』に焦点を戻しお伝えしていきたいと思います。

 

新撰組 その②

前回お伝えした、「近藤勇」率いる試衛館の面々は「清河八郎」が発案した将軍上洛の為の将軍警護と言うかたちで募集した「浪士組」に参加しました。

 

その理由は、世の中は目まぐるしい速さで動いているのに、江戸の小さな道場の主で終わってしまうのは悔しいと日々思い、近藤勇に惹かれて集まった食客達もそれを支えようとした結果からだと思います。

京に上れば、何かきっかけが生まれるかもしれないと。

 

 

このように熱い志を持って「浪士組」に参加したんですね。

 

 

 

そして、この「浪士組」には後の『新撰組 初代筆頭局長 芹沢 鴨』など、いわゆる芹沢派の面々も、参加していました。

 

 

また「浪士組」の参加者は計234人になっており、これら全ての参加者が『伝通院(でんつういん)』に集まりました。

 

 

 

この伝通院と言うのは江戸幕府・初代将軍「徳川 家康」の母を埋葬した寺院で、この母が晩年は伝通院と名乗っていたことからこの名前に改称しました。

 

 

その後も、徳川家ゆかりの菩提寺となり『増上寺寛永寺』とともに、『江戸三霊山』と称し、特に2代将軍・秀忠の娘で『豊臣秀頼(とよとみひでより)』の正室であった『千姫』や、3代将軍・家光の正室や息子など数多くが眠っており、増上寺に次ぐ徳川将軍家菩提寺次席にもなった由緒のある寺院です。

 

 

 

また、清河八郎もこの寺院に眠っている事から、志半ばで倒れた思いが伝わってきますね。

 

 

 

と、ここで一度集められた志士達は解散し、身支度を済ませもう一度、この伝通院に集まり、京へと『中山道』を通って上洛します。

 

なぜ、『東海道』では無く、中山道を選んだかと言うと、険しい山道が続く「箱根峠」や、船で渡る事が許されていない川を人の足で渡らなければならないと言うような交通面で不便な東海道より、遠回りではあるが比較的楽な道のりで、さらに旅籠の代金も東海道よりも2割程度安いと言う理由からになりました。

 

 

 

それもそのはず。

「浪士組」は幕府が発足した隊で、234名分の宿泊代となると、それだけで大変な金額になってしまいますからね。

 

 

ただ、このようなことからも幕府がもはや力を失いつつある事が分かりますが…。

 

 

 

そんなこんなで、東山道を通り京に着いた『浪士組』一向ですが、ここからドンドン歴史の表舞台へと巻き込まれて行く事になるのです!

 

 

 

 

 

 

 

新撰組 その①

新撰組と聞いて、皆さんはどうお思いでしょうか?

 

 

賛否両論ありますが、個人的にはすごい好きなんですね!

 

 

何しろ、格好良い!

 

 

漫画やアニメ、映画など様々な作品に取り上げられたりとありますが、いまも尚根強い人気を誇っています。

 

 

私が最初に『新撰組』に触れたのは漫画で、そこに一番隊隊長である「沖田 総司」でした。

 

 

 

格好良い!

 

 

単純に思いましたね!

 

 

 

その後に触れたのは高校1年になった時に友人の家に遊びに行った時でした。

 

 

そこがまさかの「局長 近藤 勇」の生家がある場所だったんです。

 

 

そして、私は学生時代に剣道をやっていたのですが、当時めちゃくちゃ強い学校があったんです。

 

 

その学校が「近藤 勇」の生家にほど近くにあったんです。

 

 

 

その時に思いましたね。

 

 

「そりゃあ、強いわ!」

 

 

 

その後、大河ドラマにもなり、更に好き度がアップしていくのですが、この大河ドラマはいつ観ても泣けるんですよね。

 

 

 

もう、後半は毎回泣けます。

 

 

 

そんな思い入れのある『新撰組』ですが、まず始めに何故『新撰組』が出来たを説明すると、「清河 八郎(きよかわ はちろう)」という人物が14代将軍・徳川家茂の上洛(京都に行く事)にともない、将軍警護の名目で浪士たちを集めたのがきっかけになります。

 

 

 

 

この清河 八郎と言う人物が実はすごい人物で、庄内藩出身の郷士なのですが、江戸に出て学問を学び、その才能を認められ塾頭にまで命じられますが、それを拒否し違う塾に移ってしまうんです。

 

そんな傍、塾の同輩に誘われ「千葉 周作(ちば しゅうさく)」が開祖である北辰一刀流の「玄武館(げんぶかん)」で剣を磨き、免許皆伝を許されるほどにまでなりました。

 

 

 

この「玄武館」と言うのは『江戸三大道場』のひとつとして数えられる道場なので、いかに清河八郎の剣の腕前が凄かったかが、分かります。

 

 

 

その後、江戸幕府の学問所である『昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)』で学び、

自ら「清河塾」を設て学問と剣を教えました。

 

 

そして、当時学問と剣を両方とも教える塾はこの「清河塾」のみだったと言うのだから、まさに文武両道の人物です。

 

 

 

そのような人物だったからこそ、江戸幕府も将軍警護の為に浪士たちを集める事を認め、そしてドンドンと時代が変化していったきっかけを作った人物と言っても過言ではありません。

 

 

 

さて、話は戻りまして『新撰組』になりますが、のちの局長になる「近藤 勇」のもとへ剣豪達が、たくさん集まってきます。

 

 

当時は小さな道場であった天然理心流の道場『試衛館』で日々、四代目宗家として剣術の稽古をしていた近藤勇ですが、よく出稽古に八王子や日野、調布などに行っていました。

 

 

 

そこで知り合ったのがのちの「鬼の副長」として恐れられる「土方 歳三」などです。

 

 

 

そして、面白いのが四代目就任のお披露目試合をやった場所と言うのが『大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)』なんですね!

f:id:TOTAN:20200127175210j:image
f:id:TOTAN:20200127175207j:image

(↑上記の画像は酉の市の大国魂神社です。)

 

 

こんなところにまで、大国魂神社は出てくるんです。本当に多摩地区の人々に愛されている神社と言うのが分かりますね!

 

 

 

その後、のちに新撰組の中心人物達が続々と近藤勇の元に集まってくるわけですが、ほとんどが「食客(しょっかく)」と言うかたちからでした。

この食客と言うのは、普段はただの居候のようなものですが、いざとなると命に変えても主人を守るものとされていて、そのような経緯で浪士組にみんな参加します

 

 

そのメンツと言うのが、

局長 近藤 勇

総長 山南 敬助

副長 土方 歳三

一番隊隊長 沖田 総司

二番隊隊長 永倉 新八

六番隊隊長 井上 源三郎

八番隊隊長 藤堂 平助

十番隊隊長 原田 左之助

 

の面々です。

 

この名前を聞いただけでも、私はワクワクしてしまいます。

 

 

さて、今回はここまでにしまして、次回は京に上るところから。

 

 

幻の御所 その⑤

前回、東京都の西部にある『『関東三大不動』にも含まれる正式名称を『真言宗智山派 別格本山 高幡山 金剛寺』と言う寺院についてお伝えしました。

 

 

f:id:TOTAN:20200121152808j:image

 

 

そして、題名にもある『幻の御所』の結界の点になっている場所、これで4つ全てが終わった訳ですが、いかがだったでしょうか?

 

 

 

東京にここまで、歴史的にも古く重要な場所があったことをご存知だったでしょうか?

 

 

 

そして去年、天皇・皇后両陛下が無事に『大嘗祭(だいじょうさい)』を終えた事を皇祖神である『天照大御神』をお祀りしている『伊勢神宮』や、初代天皇である『神武天皇陵』などに報告する儀である『親謁の儀(しんえつのぎ)』を臨まれましたが、その一番最後に臨まれた場所が、上記の図の中央付近にある『武蔵野御陵』です。

 

 

 

この場所は大正天皇昭和天皇の御陵地でありますが、元々はここに江戸時代末期に新たな御所を造営する計画があったと言う場所で、さらに地形が京都に似ている事からも、この地が選ばれたと言うのは必然だと思ってしまいます。

 

 

 

御所は造営されませんでしたが、その後『大正天皇昭和天皇』の御陵を置いたことによって、新たな結界を作り我が国『日本』の安寧を願っているのです。

 

 

そして、この話もただの都市伝説では無く、少し現実味も増してきますね!

 

 

 

 

 

さて、少しだけ話を戻しますが、少し面白い話がありまして。

高幡不動を創建させたのは天台宗第3代、座主である『慈覚大師(円仁)』です。

 

 

そして東京都最古の寺院で「雷門」でも有名な浅草にある『浅草寺(せんそうじ)』も慈覚大師が再興に携わったんです。

 

 

 

東京最古の寺院と最古の不動堂がある寺院に携わっているのも何か縁深いものを感じさせますよね。

 

 

また、慈覚大師の出自は「下野国(しもつけのくに)」の壬生氏になります。

 

 

ここであれ?と思った事が。

 

 

幕末に活躍した『新撰組』の副長で「鬼の副長」と恐れられていた『土方歳三』の菩提寺にも、高幡不動はなっているんです。

f:id:TOTAN:20200121172612j:image

 

 

 

新撰組』と言う名前になる前の名が『壬生浪士組』になっています。

 

 

実際には壬生氏と壬生(京都市中央区)は何も関係ありませんが、そう言った所からも繋がりが見えてきますね。

 

 

 

そして、もうひとつ面白いのが『高幡不動』を勅願したのは第56代天皇である『清和天皇(せいわ)』なのですが、この天皇の末裔が後の、武家の棟梁となる『清和源氏』なのです。

 

 

鎌倉幕府の源氏・室町幕府の足利氏・徳川幕府の徳川氏の全てがこの清和源氏になっています。

(ただし、徳川氏は末裔と称しているのみ)

 

 

 

 

征夷大将軍清和源氏の流れをくんでいるんですね!

 

 

そして、皮肉な事に高幡不動は「最後の侍」と言われた『新撰組』の鬼の副長「土方歳三」の菩提寺になっており、彼の死をもって武士の時代が終わりを告げます。

 

 

 

この様に、歴史を振り返ると元々は点と点でしか無いものが、線になると言うが本当に面白いですよね!

 

 

 

さて、次回からは私も大好きな『新撰組』についてお伝えして行きたいと思います。

 

 

ご期待下さい。

幻の御所 その④

前回まで、東京都(本州)で唯一の「村」である檜原村にある『浅間領』、高尾山、そして昭島市周辺についてお伝えして来ましたが、今回は最後の結界の「点」である日野市にある通称『高幡不動尊(たかはたふどうそん)』についてお伝えして行きたいと思います。

 

 

 

f:id:TOTAN:20200120012928j:image

正式名称は『高幡山明王院 金剛寺(たかはたみょうおういん こんごうじ)』と号し、真言宗智山の別格本山であり、本尊は『大日如来』そして名前の通り『不動明王』になります。

 

 

この寺院の創建は古文書には奈良時代と書いてあるが、実際には第56代・清和天皇の勅願によって、天台宗延暦寺第3代目座主である慈覚大師(円仁)が、「東関鎮護(とうかんちんご)」の為に、霊場として定めて不動明王を不動堂に安置したことに始まります。

 

 

この時に建立した不動堂は山中にあり、建武2年(1335年)にあった大風によって倒壊してしまいました。

 

 

その後、当時の住職が7年間の歳月を経てこの山の麓に新たに不動堂を建て直し、現在にまで至り存在しており、仁王門とともに重要文化財として指定され、さらにこの不動堂は東京都最古の文化財建造物になっています。

 

 

さて先程、本尊は『大日如来』と言いましたが、実は『不動明王』はこの大日如来の『化身』となっています。

 

大日如来はおだやかな顔をしていますが、不動明王は怒ったような顔をしていますよね?

 

 

それもそのはず。

 

 

元来、日本では仏様と言うのは「どのような民も、慈悲の心を持って救済下さる」ものであります。

だからほとんどの仏様は優しいお顔をなされているんですね。

 

 

 

その中でも大日如来は最高位の位置におり、それは一目見ただけでも分かります。

 

 

 

その見分け方としては、特に如来と言われる悟りを開き終えたグループは一枚の布を覆っている簡素な格好をしていますが、大日如来だけは装飾品なども着けているのです。

 

 

宇宙の中心である大日如来がこの煌びやかな姿で私達を導こうとしている様を表しているのです。

 

 

しかし、いくら悟りを開き終え、宇宙の中心の最高の仏様だとしても、あまりにも煩悩が多すぎる民には厳しく接する必要があります。

 

 

それによって出来たのがこの怒った顔をし、手に剣を持った姿をした不動明王なのです。

 

 

不動明王は「心を鬼にして、手に持っている剣で力づくでも煩悩を断ち切り、民を正しい道に導く仏様」となって表されており、それにより大日如来から枝分かれした仏様です。

 

 

元々は「慈悲の心で、救う」と言う事には変わらないので、そう言った所からも不動尊信仰が広まったのだと分かります。

 

 

そして、高幡不動ではこの2体の像が奥院に安置されています。

 

 

この奥院に移った際に、不動明王像も修理され、さらに全身も新たに漆が塗り替えられた結果、太陽の光を浴びると反射であたかも汗をかいている様に見え、この不動明王が「全身に汗をを掻きながらもお願いを聞いて下さる」と言う事が広まり、『汗かき不動』と呼ばれるようになったのです。

 

 

この様子から、室町時代には「鎌倉公方」を始めとする関東周辺を中心の戦国武将たちが戦勝祈願で訪れ、さらに信仰を集めて行ったのです。

 

 

 

 

そして江戸時代には真言宗の関東十一檀林(だんりん)の談義所となり、多くの学僧がここから輩出されて行き、さらに寺院自体の地位を上げて行ったのです。

 

 

この檀林とは仏教の僧侶たちの養成所や研究所などの学問機関の事を言い、この事からもいかに『高幡不動』が一目置かれた存在の寺院かが分かりますね。

 

 

 

また、創建当時の平安時代では『天台宗最澄が開祖)』でしたが、いつしか鎌倉時代に入り『真言宗空海が開祖)』に移り変わり、以降に『高幡のお不動さん』として信仰を集めており、『成田山 新勝寺(なりたさん しんしょうじ)』などとともに、『関東三大不動』と

されて行ったのです。

f:id:TOTAN:20200121142332j:image

 

 

とここまで、高幡不動についてお伝えしてきましたが次回ももう少しだけお伝えしようと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幻の御所③

前回は下図の①、②についてお伝えしましたが、今回は残りの③、④をお伝えしたいと思うます。

 

f:id:TOTAN:20200116051717j:image

 

 

と、その前に③の場所は東京都の日野市にある通称『高幡不動尊』として、また「新撰組 副長 土方歳三」の菩提寺としても新撰組ファンにとっては有名な不動尊です。

 

 

 

実は自分もこの新撰組が大好きで、きっと長くなってしまうので、ちょっと順番は変わってしまいますが、先に④についてお伝えしたいと思います。

 

 

 

と、言っても④の場所は結構大雑把な話になってしまうんですが、昭島市福生市周辺の地なんです。

 

 

 

なぜ、この地が選ばれたかと言うと、なんと言っても地盤がめちゃめちゃしっかりとしているんです。

f:id:TOTAN:20200116054031j:image

 

上記のマップは「東京都都市整備局」の「地震に関する地域危険度測定調査」から引用したものです。

都心部では色が濃い事が分かると思いますが、

これを見て頂いてもこの2市がとても地盤が強い事が分かります。(赤丸で記した場所です。)

 

 

さらに同じく「東京都都市整備局」の「区市町村別の地域危険度」から引用した次の表をご覧下さい。

f:id:TOTAN:20200116054834j:image

f:id:TOTAN:20200116054843j:image

この表を見て頂くと分かる様に、昭島市福生市ともに地盤が強い事が分かります。

特に、福生市は総合危険度のランクがほとんどレベル1になっている事が分かると思います。

 

 

 

また、前回お伝えした八王子市もかなり強い地盤になっています。

 

 

やはり、新しく御所をつくるにあたって日本の過去の災害の経験から地盤が強く、水害の恐れも少ない場所を選ぶと言うのは当然な事ですよね。

 

 

特に天皇陛下を京都から東京(当時は江戸)に御迎えすると言う事になったら、それこそ当時の博識人(その中でも陰陽師が先導していました。)が束になってこのような地を探したのだと思います。

 

 

 

ただし、実際にはこれは実現されなかった事はもう皆さんもご周知の上だと思います。

 

 

 

それはなぜかと言うと、この案が出たのはまだ江戸時代末期の事でした。

 

 

ちょうどこの時、『黒船来航』で日本が激動の時代に突入し、『公武合体』も実現・さらに『尊皇攘夷』と言うことばも多くの志士達のスローガンとなった時代です。

 

 

そんな中、『桜田門外の変』で大老井伊直弼が殺害されますます、江戸幕府の地位は傾いてきます。

 

 

 

その様な背景から実現されなかったんですね。

 

 

 

そして、明治に入り政府は天皇陛下江戸城に入城して頂き、今の皇居になったわけです。

 

 

それもそのはず。

 

 

前権力者の案なんて聞き入れるはずもなく、新政府は全て自分達が決めて執り行いたいに決まっていますからね。

 

 

 

しかも、江戸の地は特に風水を利用していた訳ですから、新しい案なんてもっての他だったと思います。

ただし、実際には皇居も元は江戸城で風水で守られています。

そして、新政府は新たな都を造るよりも先に、たくさんのやるべき事があったので、とりあえず現・皇居に天皇陛下を遷都して頂き、その周辺に沢山の機関を作っていったのだと思います。

 

 

 

少し離れた所でも新しく都を造るのはそれだけで莫大な出費がかかりますから。

 

 

 

そして、これも面白い話なんですが、その後大日本帝国は勢いを増し、陸軍は航空部隊の中心となった零戦(初期は世界最強と言われた戦闘機でした。)を作り、その中核拠点を作りました。

 

 

そこで選ばれたのが知ってか知らずか、現在の立川市から昭島市にかけて広がる「国営 昭和記念公園」です。

 

 

そして、その付属施設として試験場を作った場所が現在の米軍空軍横田基地(現在は航空自衛隊の航空総隊司令部などもあります。)が出来るのです。

 

 

 

先程もお伝えしましたが、現在ではこの辺り(福生市周辺)の地盤が強い事が分かっていますよね。

これは偶然なんでしょうか。必然的に選ばれたとしか思えませんよね。

さすがにこの当時の技術でも今のような地盤の強さが分かるまでの技術までには至らないと思いますから。

 

 

 

このように、ちょっと違う角度から見ても歴史と言うのは面白いと思います。

皆さんもこのような歴史を発見してみて下さい。そして是非、教えて欲しいです。

 

 

 

と、今回はここまでなぜこの結界が昭島市福生市周辺になったかをお伝えしましたが、次回は『高幡不動』についてお伝えして行きたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

幻の御所 その②

前回は、東京西部地方に実は天皇陛下をお迎えしようと、そしてこの場所を選んだ理由も京都御所に地形が似ていて、それが陰陽師を筆頭とした風水で選んだと言うをお伝えしましたが、今回は少し、この4つの点の事についてお伝えしたいと思います。

f:id:TOTAN:20200113193414j:image

 

 

 

まず最初は①の東京都で唯一(本島)の『浅間領(せんげいれい)です。

 

 

この場所は山名(すみません、山です。)でも分かる様に、富士浅間神社がお祀りされている事からこの名前が着きましたが、晴れた日には富士山が抜群の絶景です。

 

また、春になると山頂ではたくさんの桜が咲き誇り、多くの登山者がこれを見物する為に訪れて賑わいます。

 

 

そして、東京で唯一の日本滝百選にも選ばれた「払沢の滝(ほっさわのたき)」があり、ここも見所の一つになります。

 

 

次に②の高尾山ですが、ここは言わずと知れた場所でミシュラン・ガイドの観光部門であり「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で三つ星の評価をされており、それ以降さらに多くの観光客が訪れています。

 

 

そして、ここは以前にもお伝えしたようにもともとは霊山となっており、修験道の場で『真言宗智山派大本山 高尾山薬王院 有喜寺』の寺域となっています。

 

 

さらに、富士山から龍脈が来ており、それを江戸城にまで繋げる中継役にもなっており、そのおかげで265年もの間、江戸時代を続かせ、さらに今現在は皇居になっている事から、今もなお首都東京として繁栄しているんです。

 

 

また、ここを登山し山頂に行くと休み所がありそこの名物の「とろろ蕎麦」がなんとも美味いんです。

これはもともと高尾山薬王院に参拝し終えた参拝者に振舞われていたそうですが、今ではそうではなくても登山客に振舞われています。

 

きっと、登山をすると少なからず汗をかくので、蕎麦のつゆで塩分補給としてもあり、さらにとろろの成分であるビタミンやミネラルも含まれて滋養にも効くと言う配合によって、さらに美味さを感じるんでしょうね。 

 

 

現代でこそ科学的に証明されていますが、それ以前の人々も長い経験からこれを振舞われっていると言うのが、本当に「先人達の知恵」は凄いと思います。

 

 

と、ここで少し面白い話がありまして、高尾山薬王院の鬼門に位置する場所に福生市にある『熊川神社(くまがわじんじゃ)』と言う神社があります。

この神社の創建は古く平安時代初期になり、社殿も現存しているものでは、東京都で2番目に古く東京都の指定有形文化財にもなっています。

 

 

そして、この神社の主祭神は『大国主命(オオクニニヌシ)』と『市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)』になっています。

 

 

 

また、このオオクニヌシイチキシマヒメ神仏習合において『オオクニヌシ=大黒天』『イチキシマヒメ=弁財天』となっています。

 

 

七福神の二柱ですね。

 

 

この様な経緯からこの神社には『七福神』全ての神様がお祀りされています。

また、七福神の御守りもあり、初詣などでは多くの参拝者がいらっしゃります。

 

 

 

是非一度、御参拝下さい。

 

 

 

話は戻しますが、この熊川神社がある福生市には大きな病院があるんですが、そこから亡くなった方々が熊川神社を経由して霊山である高尾山に帰ると言うのです。

そして、その道は霊の道と言われおりそこを通っているのが某カラオケ店なんですが、ここは昔から良く出ると言われていて、その辺の地域の人達には有名な都市伝説みたいな話になっていました。

 

もう、15年以上も前の話なので今は分かりませんがね。

 

 

 

と、少し長くなってしまったので次回は残りの③、④をお伝えしたいと思いますのでご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

幻の御所 その①

さて、今回は実は皇居(天皇・皇后両陛下のお住い)を、現在の場所では無く他の場所に置こうと言う計画があった事を皆さんはご存知でしょうか?

 

 

その場所とは東京都の西側にある檜原村にある浅間領と言う山・八王子の高尾山・日野市にある金剛寺(ここは高幡不動としても有名です)・そして昭島市付近の4つを結んだ場所になります。

f:id:TOTAN:20200112201239j:image

 

 

なんでも、現在の皇居にあたる地は江戸時代前は半分は高台にあり、もう半分は湿地帯や埋立地になっています。

皇居周辺を訪れた方はお分かりだと思いますが、◯◯坂と言うのが本当に多いんです。

 

 

今では乃木坂やけやき坂なんて、有名ですよね。この2つの坂は実際にある坂なんです。

 

 

また、明治維新の三傑で初代内務卿(初期の明治政府の実質的リーダー)であった『大久保利通(おおくぼとしみち)』が暗殺された紀尾井坂の変もやはり坂になります。

(実際に暗殺された場所は紀尾井坂ではないんですけどね。)

 

 

 

そのような不安定な地盤よりもしっかりとした地盤に新たな皇居を置こうとしたのもうなずける気がしますね。

 

 

 

そして、下記の図を見て貰うとお分かりでしょうが、どこか京都の形と似ていないですか?

 

 

f:id:TOTAN:20200113072726j:image

f:id:TOTAN:20200113073303j:image

 

左右と背後に山で囲まれた天然の要塞で守られており、また山から流れてくる川が2つに重なり1本の川になる形もどこか京都の鴨川をイメージできます。

 

 

このように酷似している地を探し出すのはさぞ大変な苦労だったと思います。

今のようにGoogle MAPみたいにすぐに見つけ出す事が出来ない時代ですから。

ただ、この計画が始まった時代にはそれなりにしっかりとした地図が存在していたので、神憑り的なものではないでしょうが、それでも相当な苦労だったと思います。

 

 

そして、この計画を打ち出し、見つけだしたのが風水など陰陽道に特化した人々。

そうです。

安倍晴明で有名な『陰陽師』なのです。

 

 

安倍晴明と言えば、かつての天皇の住まいで朝廷の中枢であった『京都御所』の鬼門の方角に『晴明神社』もありますよね。

 

 

 

そして、265年もの平和な時代が続いた江戸時代の礎を築いたのも風水でした。

 

 

 

このように、昔から日本は風水を用いて時代を平定してきていたんですね。

 

 

さらに、ここで面白いことに大正天皇陵や昭和天皇陵がなどがある『武蔵陵墓地(通称・多摩御陵)』がこの地にあるのです。

 

 

何かこの場所が選ばれたのも、必然的に思えてならないですよね。

 

 

 

こうやった視点で見てみるとまたさらに日本が面白い事に気づかされます。

 

 

 

皆さんも是非一度、訪れて見て下さい。