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新撰組 その⑥-八月十八日の政変(2)-

土佐藩山内容堂の側近であった、吉田東洋を暗殺した『土佐勤王党』は事実上の実権を握ったまで、前回お伝えしました。

 

 

そして、『土佐勤王党』の盟主である武田半平太は尊王攘夷派である長州藩薩摩藩土佐藩で密約を交わしそれを実現する為に、坂本龍馬長州藩久坂玄瑞に派遣するなど、様々な働きをしていました。

 

 

 

坂本龍馬はこのあたりから様々な人物に会い、考え学び後に『薩長同盟』を仲介役として成功させる人物になっていきます。

 

 

 

 

そんな中、薩摩藩の国父(藩主の父で隠居しているが実権は握っている)である「島津久光(しまづひさみつ)兵を率いて上京しました。

 

 

 

この時、京にいる尊王攘夷派の藩士たちは歓迎し、「寺田屋」で迎えいれる格好になりましたが、実はこの過激な尊王攘夷派を「粛清」する為のものだったのです。

 

 

 

これが世に言う「寺田屋事件」です。

 

 

この寺田屋、実はもうひとつ「寺田屋事件」がありまして、それは坂本龍馬が幕府から狙われて妻である「お龍」の機転のおかげで、なんとか助かって、後に薩摩藩に匿わられ、その後『薩長同盟』へとつながって行くと言う、貴重な場所になります。

 

 

 

 

この島津久光の考えは実は『公武合体』であったと言うことから、この事件は起きますが、これは先代の「島津斉彬」の意思でもあり、開国派でもありました。

 

 

 

いわゆる、『桜田門外の変』以前の幕府派の考えですね。

 

 

この中で、当時の開国派であった、土佐藩山内容堂や、『前・越前藩 松平春嶽(まつだいらしゅんごく)』、一橋慶喜など処分を受けていた諸侯が幕政に復帰。

 

 

 

朝廷にも開国論に転じて貰おうとする働きの中で、松平春嶽を代表にしました。

 

 

 

開国論を朝廷に理解して貰うには「将軍の上洛があってこそだ!」

と言う松平春嶽の条件を幕府も容認し、将軍上洛の予告を発表。

 

 

これがきっかけで集まったのが「浪士組」だったのです。

 

 

 

こうして一時期は、尊王攘夷派の動きも足が重くなっていくわけですが、長州藩や『土佐勤王党』、また薩摩藩の一部の尊王攘夷派が公武合体派である人物たちに「天誅」を加えるなかで、京のなかでも尊王攘夷派が盛り返してきました。

 

 

 

 

そんな中で、公武合体派の考え方の山内容堂は『土佐勤王党』を露骨に不快に思い始めます。

 

 

 

そして、彼らに対して「他藩士との政治的交際を禁ずる。」と藩命を出し始めます。

 

 

 

 

これがきっかけで、土佐藩は少しずつ歯車が合わなくなっていくのですが、長州藩も「独断で外国船などを撃ってはならない」と言う幕命を無視し、アメリカ商船を無勧告で襲撃するという「破約攘夷)を決行してしまいました。

 

 

 

 

これを機に長州藩アメリカ・フランス連合国との戦い(いわゆる「下関戦争」)が勃発。

 

 

 

その中で産まれたのが、吉田松陰の門生である「高杉晋作」率いる『奇兵隊(きへいたい)』でした。

 

 

この奇兵隊のシステムが、後に幕府を倒す官軍の前身となりその考え方は「武士などの身分などにとらわれず、志しがあるものなら誰でも採用する。」

と言う考えで、明治維新後はたまたま、現在でもその考え方には通ずる様なものでした。

 

 

 

「能力さえ有れば、上に上がれる」と言った実力主義システム。

また、ちょっと『豊臣秀吉』のような考え方ですね。

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そして、志願者には制服も身分を問わず統一していたと言うのも、現在も変わらないものがあります。

 

 

 

 

 

話は戻りますが、この「下関戦争」で土佐藩命を無視し、長州藩の襲撃に関わっていた『土佐勤王党』の幹部達が逮捕され、土佐藩でも尊王攘夷派の弾圧が始まるのです。

 

 

 

 

この結果、長州藩は幕府から孤立し始め、また、『孝明天皇』にも

攘夷論者ではあるが破約攘夷派の公家や長州は好まない。むしろ、開国を勧めて平和的な条約改正を推す薩摩などの方が良い。」

と思われて始め、完全に孤立していったのです。

 

 

 

 

そんな中で薩摩とイギリスとの間で「薩英戦争」が勃発。

 

 

しかし、これは幕命にもある「敵が襲来した際には、打ち払え」と言うのに従っただけで再三注意勧告を出したのに入国(侵略)してきたので攻撃をしたと言うものでした。

 

 

これで薩摩は称賛され、長州は賛同を得られないと言う、雲泥の差の立場になりました。

 

 

 

これはすぐさま攘夷を決行しなければいけないと言う状況に立たされた長州藩は、破約攘夷派の公家に迫り、朝廷からの攘夷決行の勅定を貰うべき、挙兵し京に入ることになりました。

 

 

 

そんな状況の中、『孝明天皇』が『大和行幸の詔』(初代天皇神武天皇陵、春日大社伊勢神宮行幸する)と言うのが発布されました。

 

 

 

これは『孝明天皇』自らの考えでは無く、破約攘夷派の公家達による計画であり、このハードなスケジュールの中で『孝明天皇』は寝る間も無く、憔悴しきっていた。

その間に攘夷決行の勅定を貰い、さらには天皇を長州に迎え入れてしまおうとしたのです。

 

 

 

 

そんな中で薩摩藩は越前藩に代わる新たな提携相手として『京都守護職』に就いていた『会津藩』と急接近しました。

 

 

 

そして、薩摩藩会津藩は念密に計画をし、京都に残っていた公家を説得。

 

 

孝明天皇』にはこの計画の概念だけを伝えると言う形とり、その夜には『兵力をもって、この災いを払うべし!』と決断し、京に残る公家達も賛同。

 

 

そして、翌日の文久3年8月18日の午前4時に会津藩薩摩藩を中心に『京都御所』を固め、さらに京都にいた諸藩主にも参内を命じ、参内した諸藩も兵を固めました。

 

 

 

 

これに『壬生浪士組』も『御所』を護るべく、参加したのです。

 

 

 

そんな一報を受けた長州藩はすぐさま『鷹司』邸に破約攘夷派の公家『三条実美(さんじょうさねとも)』などと集まり、『堺町門』に繰り出しますが、そこを陣取っていた会津藩薩摩藩と睨み合いが続きます。

 

 

 

そんな最中、宮中では長州藩の警備担当を解き、京都から退去するようにと言う勧告が出されます。

 

 

 

睨み合いは夕方まで続きますが、京都東山にある『妙法院(みょうほういん)』まで三条ら公家と共に退去。

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これにより長州藩と7人の公家は京都から追放(『七卿落ち』)となったのです。

 

 

 

ここまで、ざっくりと『八月十八日の政変』についてお伝えして来ましたが、いかがだったでしょうか?

 

 

この政変がきっかけで更なる時代の変化になって行きますので、次回もお楽しみ!

 

 

 

 

新撰組 その⑤-八月十八日の政変-

さて、「壬生浪士組」が「京都守護職」に就いた会津藩の預りとなり、市中警護を任される事になり、京都の治安を守っていましたが、文久3年の8月18日にとんでもない政変(クーデター)が起こりました。

 

 

 

それが世に言う『八月十八日の政変』です。

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この背景には、京都では黒船来航以来、尊皇攘夷の動きが勢いをまし、さらに『安政の大獄』で斬首された長州藩の「吉田松陰」の門下生たちなどが『桜田門外の変』以降、さらなる発言力を持つ様になりました。

 

 

 

その理由は江戸幕府が『孝明天皇』の勅許を得ずに『日米修好通商条約』などを結んだこと。

 

 

さらに「大老井伊直弼」が討たれた後に、吉田松陰の意思を継ぎ、世を変えようと努力し、朝廷に働きかけていたのが吉田松陰の開いた私塾『松下村塾』の塾生である「久坂玄瑞」など。

 

また塾生では無いものの吉田松陰から直接、藩校である「明倫館」の時代に兵法の講義を受けていた後に『維新の三傑』の1人としても功績を残す『木戸孝允』もしくは『桂小五郎』が中心になり、『尊王攘夷』のなかでもやむ終えない時には戦争をしてでも攘夷を決行すると言うような『破約攘夷』を勧めたのが『長州藩』でした。

 

 

 

そして、もし生きていたら初代・内閣総理大臣になっていたであろうと言われた『土佐勤王党』の盟主であった「武市半平太」率いる『土佐藩』。

 

 

 

この土佐藩と言うのがまた、他の藩とは全然違う藩でして。

 

 

 

当時の土佐藩には『関ヶ原の戦い』以降、徳川方に付いて、この領地を治めた「山内一豊」の家臣を「上士(じょうし)」。

それ以前からこの領地を治め、豊臣方についた「長宗我部氏」の家臣を「郷士(ごうし)」として、差別化をしていました。

 

 

ただし、のちに尊王攘夷論を勧める『土佐勤王党』(郷士中心)の考えと、富国強兵や開国貿易など、『公武合体政策』を勧める上士達と考え方の違いから、土佐勤王党の刺客によって暗殺されてしまう藩政の中心的存在となった「吉田東洋」などの家系は「長宗我部氏」の旧家臣に当たります。

 

 

また、15代将軍・慶喜に『大政奉還』を提議した「後藤象二郎」の義叔父にあたり、後藤の実父が早くに亡くなってしまった事により、吉田東洋が父親代わりになっていました。

 

 

 

さらに、『自由民権運動』の主導者となる「板垣退助」や『三菱財閥』の創立者である「岩崎弥太郎」なども、吉田東洋の門生でした。

 

 

 

 

さて、この土佐勤王党が出来た背景には、武市半平太郷士ではありますが「白札郷士」と呼ばれる、上士格として認められた事。

そして、剣術の面でも優れていた事により、自ら道場を開く事から始まります。

 

 

そこに集まってきた門生はほとんどが郷士・または農民や町人達でした。

 

 

 

この中には『薩長同盟』を仲介役として「坂本龍馬」と共に成功させた「中岡慎太郎」や、京の都を「天誅」として、公武合体派を恐怖のドン底に追い伏せた「人斬り以蔵」こと「岡田以蔵」などがおり、『土佐勤王党』の母体を作っていきました。

 

 

 

 

そんな中、藩命により江戸剣術修行が許され、『幕末の江戸三大道場』のひとつである『鏡新明智流 士学館』の門生となり、塾頭にまでになります。

 

 

 

 

そして、この江戸三大道場で、『神道無念流 練兵館』の塾頭には長州藩桂小五郎がなっており、また『北辰一刀流 玄武館』には『新撰組』の総長である「山南敬助」や八番隊隊長「藤堂平助」などがいます。

 

 

 

 

その後、幕政では次の将軍を一橋慶喜に推薦していた「山内容堂」が「大老井伊直弼」により、隠居・謹慎にさせられ、土佐藩士達は激しく怒り、憤りを隠しきれませんでした。

 

 

 

そんな中でかの有名な『桜田門外の変』が起き、土佐藩士達は『赤穂浪士』のようだと感銘を覚え、次第に尊王攘夷の動きが高まって行った訳です。

 

 

 

 

 

その後、剣術修行の名目で再び江戸に来た武市半平太は、桂小五郎久坂玄瑞、また「高杉晋作」などと交流を持ち、久坂や高杉たちの師である「吉田松陰」の思想に深く共鳴しました。

 

 

 

 

そして、土佐藩尊王攘夷運動に対し、遅れていると痛感し長州藩薩摩藩土佐藩の三藩で朝廷にこの尊王攘夷運動を直訴する計画を立てました。

 

 

 

 

この時期に先程も書いた『土佐勤王党』の刺客による『公武合体派』である吉田東洋の暗殺によって、実質的実権を武市半平太は握って行くようになるのです。

 

 

 

 

 

と、ここまで『八月十八日の政変』の背景をお伝えしてきましたが、まだもう少しあるので次回も是非ご覧下さい。

 

 

 

 

新撰組 その④

「浪士組」から離れた近藤以下・試衛館組と、芹沢一派など総勢24名で「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」・若しくは「精忠浪士組(せいちゅうろうしぐみ)」を結成しました。

 

 

当時、現在の『京都御所(きょうとごしょ)』が中心であったので、壬生地区と言うのは少し離れた場所でした。

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とは言っても『御所』までは5km程度、また『二条城』までは2.5km程度と今の感覚なら結構近場に感じませんか?

 

 

実際、いまの交通整備された状態で歩くと『御所』までは約1時間弱・『二条城』まででも約30分は掛かるのだから、当時はそれよりもっと時間が掛かっていたのが分かります。

 

 

 

 

しかも、刀装をしながらなので余計遠く感じてしまいますよね。

ただ、この程度の距離や時間は当時の人達にとって本当に遠く感じていたとは分かりませんが。

 

 

 

 

私自身、実際に夏に行った時『二条城』から『新撰組』の屯所になる「八木邸」まで歩いて行った事がありますが、すごく遠く感じました。

当時はまだスマホも無くガラケーの時代で場所もイマイチ分からなかった分、余計にですね…。

 

 

 

またこの「壬生(みぶ)」と言う意味は「水辺や湿地帯」などの意味があり、水生(みぶ)と言う読み方が転じて、今の字になったそうです。

 

 

 

そう言う所からも都の中心部からはひとつ離れた場所にあるのが分かりますね。

 

 

 

なぜなら、当時も今もそんな場所の近くに政治の中心を置いたら、水害時の度に多大な被害が出てしまいますから。

 

 

 

 

ただ、その湿地帯を利用し農業が発展し、そこに住んだ農家の人達に「融通念仏(口から口へと広がる念仏)」が発展し、現在では『重要無形民俗文化財』である『壬生狂言』が出来ました。

 

 

 

また、「京の伝統野菜」にもなっている「壬生菜(ミブナ)」もこの地で出来ました。

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きっと「壬生浪士組」もこの壬生狂言を観て楽しんだり、ミブナを食べていたのでしょうね!

 

 

 

さて、そんな「壬生浪士組」ですが、当時の京都は『尊皇攘夷』派の志士たちで溢れかえっていました。

 

 

 

中には過激派な志士もたくさんおり、世の為にならない者には『天誅』として何人もの人が殺されていったのです。

 

 

 

中でも長州藩土佐藩郷士を中心に)などは過激派が多く、「人斬り以蔵」などが暗躍していました。

 

 

 

そんな治安が悪い京を治安維持を目的としてまかされた『京都守護職』と言う役職に就いたのが、「会津藩主 松平容保(まつだいらかたもり)」でした。

 

 

 

 

その本陣として選ばれたのが浄土宗の格式の高い寺院で、七大本山・また京都四ヶ所本山のひとつでもある『金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)』です。

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この寺院は浄土宗の開祖である『法然(ほうねん)上人』が最初に浄土宗を布教した地となっており、第100代天皇後小松天皇(ごこまつてんのう)』からも「浄土真宗最初門」を賜わっています。

(ここで言う浄土真宗とはのちに弟子である『親鸞(しんらん)上人』が開いた「浄土真宗」とは別のものになります。)

 

 

 

そして、法然上人の霊廟も『金戒光明寺』にはあるのですが、他にも有名な歴史上の人物達の墓所があります。

 

 

 

例えば、日本で一番気温が高いとして有名な「埼玉県 熊谷市」が出身と言うので、平家物語でも出てくる「熊谷直実(くまがやなおざね)」の一族が眠る墓所

 

 

3代将軍・家光の乳母であり、江戸城の大奥の礎を築いた「春日局」の墓所

 

 

また、面白い所では京都のお土産で人気な「八ツ橋」の名前の由来にもなった「八橋検校(やつはしけんこう)」の墓所もあります。

この八橋検校と言う人物は江戸時代前期に大変活躍した音楽家であり、荘園などを管理する盲人の中では最高位の名称です。

そんな八橋が亡くなったあとに京の民衆がその業績を偲んで、琴の形をした堅焼き煎餅を配った事から始まったそうです。

 

 

 

今では「生八橋」の方が認知度が高くなっている気がしますが、元々ここが起源だったと言うのはやはり、面白いですよね!

 

 

 

また、会津藩士達の供養塔もあるわけですが、この会津藩士達の派遣は年に1000人程度しか出来ませんでした。

 

 

 

 

実はこの京都守護職の費用はほとんどが会津藩の実費だったんですね。

 

 

 

幕府から無理やり言われ就いた役職なのに、ほぼ実費って。

しかも、今で言ったら福島から京都まで1年に一回交代で藩士を送っていたのですからね。

 

 

 

今で言ったらブラック中のブラックですよ…。

 

 

 

ただ、会津藩訓には初代会津藩主の「保科正之(ほしなまさゆき)」が残した『会津藩たるは将軍家を最後の最後まで守護すべきもの』と言うのがあったので、仕方なく引き受けてしまったのです。

 

 

 

この保科正之と言う人物は3代将軍・家光の異母弟でその子の4代将軍・家綱も2代に渡り補佐してきた人物です。

また、江戸市民の飲料水を安定させた「玉川上水」などの治世を行ったのもこの人物でした。

 

 

 

 

そんな人手の足りない中、目を付けたのが『壬生浪士組』でした。

 

 

言ってしまえば、どこぞの田舎侍(実際は農民出身もいる)に京の守護の元、不定浪士の取締りと市中警護を任せた方が、自国の藩士への負担も減る一方、「壬生浪士組」も会津藩預りになれば、いよいよ自分達の時代が来たと双方の思いが合致したことにより、会津藩の下についたのですね。

 

 

 

これによって、いよいよ「壬生浪士組」が表舞台へと出てくるのです。

 

 

 

次回は、『新撰組』と言う名前を授かるきっかけである『8月18日の政変』からお伝えして行きたいと思いますので、是非ご覧下さい!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新撰組 その③

さて、京に着いた『浪士組』一向ですが、実は発案者の「清河八郎」は将軍警護の為に集めた訳ではありませんでした。

 

 

その本当の目的は『尊王攘夷』だったのです。

 

 

 

この『尊王攘夷』とは「天皇を尊び、外国人を斥(しりぞ)けようとする思想」で、黒船来航以来、幕府や外国人に不満を持った志士達が溢れていました。

 

 

 

その先鋒隊として、実行しようとしたのがこの「浪士組」の発案者、清河八郎だったのです。

 

 

 

しかし、芹沢鴨一派や近藤勇土方歳三など試衛館組などはそれ反対し、あくまで将軍警護の為にと意向を見せ、「浪士組」から離れました。

 

 

 

翌日、清河八郎は残った「浪士組」200名近くを引き連れて朝廷に「建白書」を申し出て、それがまさかの受理されたんですね。

 

 

 

この、背景には当時の天皇である第121代目天皇の『孝明天皇(こうめいてんのう)』は大の異国嫌い。

 

 

 

その理由は開国を許可していないのに、幕府が勝手に『日米修好通商条約』を調印してまった事などが原因になります。

 

 

 

これには大変激怒されたそうで、この他にもロシアやイギリスなどと勅許(天皇の許可)が無いまま、勝手に調印されました。

 

 

 

ここまで悪化した朝廷と幕府の間の打開策としてなされたのがいわゆる『公武合体(こうぶがったい)』です。

 

 

 

これは孝明天皇の異母妹である『和宮(かずのみや)』を14代将軍・『徳川家茂(とくがわいえもち)』に「降嫁(こうか)」する事で、なんとか関係性が保たれました。

 

 

 

そして、家茂と和宮の関係はそれは良い関係だったと言うのが、なんとも微笑ましく思ってしまいますね。

 

 

 

と、この様な時代背景があり、朝廷に「建白書」を提出した清河八郎ですが、このような行動を不安に思った幕府方は「浪士組」を江戸に呼び戻し、帰ってきてからは幕府の刺客に命を狙われて、のちに斬殺されてしまいます。

 

 

 

その後、尊王攘夷派の同志であった「石原周造(いしはらしゅうぞう)」が首を奪還し、清河塾の門生であり、「浪士組」の最初の取締役に就任していた、「山岡鉄舟(やまおかてっしゅう」の妻が『伝通院』に葬りました。

 

 

そして、後に遺族の元に引き渡され今も伝通院に眠っているのです。

 

 

 

また、江戸に戻った「浪士組」は「新徴組(しんちょうぐみ)」と名を改め、庄内藩の預りになりました。

 

 

 

庄内藩と言うのは『徳川四天王』の筆頭である『酒井忠次(さかいただつぐ)』の子孫が江戸時代を一貫して統治していた藩で、老中を出すなど、江戸幕府に対しかなり信用度の高い藩です。

 

 

 

そして「新徴組」は江戸の取締につく訳ですが、これによって江戸の治安は回復しだし、江戸市民にはかなり喜ばれていたそうです。

 

 

その様子を『酒井なくてはお江戸はたたぬ、おまわりさんには 泣く子もだまる』などと謳われていたとか。

 

 

また、「新徴組」の組頭に『新撰組』の一番隊隊長『沖田総司』の義兄である「沖田林太郎」がいたことなど交流もありました。

 

 

 

そして、この「新徴組」が江戸にある薩摩藩邸を焼打ちにしたことがきっかけで世に言う『戊辰戦争(ぼしんせんそう)』が勃発するのです。

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その背景には、最期の将軍・『徳川慶喜』が先手を打って『大政奉還(たいせいほうかん)』をし、幕府こそ無くなりはしましたが、未だに有力は存在では違いありませんでした。

 

 

 

しかし、これでは何も変わらない!と考えていた『薩長』は根こそぎ旧幕府方を取り潰したいと考え、藩士達に「町中で暴れろ!」などと指示。

それを聞いた「新徴組」は薩摩藩を監視しだしたわけですが、その中で薩摩藩の志士が「新徴組」の屯所を襲撃し、使用人が殺害された事によって起こったのです。

 

 

 

この様に考えると、良くも悪くもやはり清河八郎がきっかけで時代が動いたのだと言うのが分かりますね!

 

 

そして明治に入り、清河は『正四位 贈位』をされるくらいの素晴らしい人物でした。

 

 

 

さて、少し脱線はしましたがかなり歴史上の繋がりには重要なので、今回書かせてもらいましたが、次回からは『新撰組』に焦点を戻しお伝えしていきたいと思います。

 

新撰組 その②

前回お伝えした、「近藤勇」率いる試衛館の面々は「清河八郎」が発案した将軍上洛の為の将軍警護と言うかたちで募集した「浪士組」に参加しました。

 

その理由は、世の中は目まぐるしい速さで動いているのに、江戸の小さな道場の主で終わってしまうのは悔しいと日々思い、近藤勇に惹かれて集まった食客達もそれを支えようとした結果からだと思います。

京に上れば、何かきっかけが生まれるかもしれないと。

 

 

このように熱い志を持って「浪士組」に参加したんですね。

 

 

 

そして、この「浪士組」には後の『新撰組 初代筆頭局長 芹沢 鴨』など、いわゆる芹沢派の面々も、参加していました。

 

 

また「浪士組」の参加者は計234人になっており、これら全ての参加者が『伝通院(でんつういん)』に集まりました。

 

 

 

この伝通院と言うのは江戸幕府・初代将軍「徳川 家康」の母を埋葬した寺院で、この母が晩年は伝通院と名乗っていたことからこの名前に改称しました。

 

 

その後も、徳川家ゆかりの菩提寺となり『増上寺寛永寺』とともに、『江戸三霊山』と称し、特に2代将軍・秀忠の娘で『豊臣秀頼(とよとみひでより)』の正室であった『千姫』や、3代将軍・家光の正室や息子など数多くが眠っており、増上寺に次ぐ徳川将軍家菩提寺次席にもなった由緒のある寺院です。

 

 

 

また、清河八郎もこの寺院に眠っている事から、志半ばで倒れた思いが伝わってきますね。

 

 

 

と、ここで一度集められた志士達は解散し、身支度を済ませもう一度、この伝通院に集まり、京へと『中山道』を通って上洛します。

 

なぜ、『東海道』では無く、中山道を選んだかと言うと、険しい山道が続く「箱根峠」や、船で渡る事が許されていない川を人の足で渡らなければならないと言うような交通面で不便な東海道より、遠回りではあるが比較的楽な道のりで、さらに旅籠の代金も東海道よりも2割程度安いと言う理由からになりました。

 

 

 

それもそのはず。

「浪士組」は幕府が発足した隊で、234名分の宿泊代となると、それだけで大変な金額になってしまいますからね。

 

 

ただ、このようなことからも幕府がもはや力を失いつつある事が分かりますが…。

 

 

 

そんなこんなで、東山道を通り京に着いた『浪士組』一向ですが、ここからドンドン歴史の表舞台へと巻き込まれて行く事になるのです!

 

 

 

 

 

 

 

新撰組 その①

新撰組と聞いて、皆さんはどうお思いでしょうか?

 

 

賛否両論ありますが、個人的にはすごい好きなんですね!

 

 

何しろ、格好良い!

 

 

漫画やアニメ、映画など様々な作品に取り上げられたりとありますが、いまも尚根強い人気を誇っています。

 

 

私が最初に『新撰組』に触れたのは漫画で、そこに一番隊隊長である「沖田 総司」でした。

 

 

 

格好良い!

 

 

単純に思いましたね!

 

 

 

その後に触れたのは高校1年になった時に友人の家に遊びに行った時でした。

 

 

そこがまさかの「局長 近藤 勇」の生家がある場所だったんです。

 

 

そして、私は学生時代に剣道をやっていたのですが、当時めちゃくちゃ強い学校があったんです。

 

 

その学校が「近藤 勇」の生家にほど近くにあったんです。

 

 

 

その時に思いましたね。

 

 

「そりゃあ、強いわ!」

 

 

 

その後、大河ドラマにもなり、更に好き度がアップしていくのですが、この大河ドラマはいつ観ても泣けるんですよね。

 

 

 

もう、後半は毎回泣けます。

 

 

 

そんな思い入れのある『新撰組』ですが、まず始めに何故『新撰組』が出来たを説明すると、「清河 八郎(きよかわ はちろう)」という人物が14代将軍・徳川家茂の上洛(京都に行く事)にともない、将軍警護の名目で浪士たちを集めたのがきっかけになります。

 

 

 

 

この清河 八郎と言う人物が実はすごい人物で、庄内藩出身の郷士なのですが、江戸に出て学問を学び、その才能を認められ塾頭にまで命じられますが、それを拒否し違う塾に移ってしまうんです。

 

そんな傍、塾の同輩に誘われ「千葉 周作(ちば しゅうさく)」が開祖である北辰一刀流の「玄武館(げんぶかん)」で剣を磨き、免許皆伝を許されるほどにまでなりました。

 

 

 

この「玄武館」と言うのは『江戸三大道場』のひとつとして数えられる道場なので、いかに清河八郎の剣の腕前が凄かったかが、分かります。

 

 

 

その後、江戸幕府の学問所である『昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)』で学び、

自ら「清河塾」を設て学問と剣を教えました。

 

 

そして、当時学問と剣を両方とも教える塾はこの「清河塾」のみだったと言うのだから、まさに文武両道の人物です。

 

 

 

そのような人物だったからこそ、江戸幕府も将軍警護の為に浪士たちを集める事を認め、そしてドンドンと時代が変化していったきっかけを作った人物と言っても過言ではありません。

 

 

 

さて、話は戻りまして『新撰組』になりますが、のちの局長になる「近藤 勇」のもとへ剣豪達が、たくさん集まってきます。

 

 

当時は小さな道場であった天然理心流の道場『試衛館』で日々、四代目宗家として剣術の稽古をしていた近藤勇ですが、よく出稽古に八王子や日野、調布などに行っていました。

 

 

 

そこで知り合ったのがのちの「鬼の副長」として恐れられる「土方 歳三」などです。

 

 

 

そして、面白いのが四代目就任のお披露目試合をやった場所と言うのが『大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)』なんですね!

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(↑上記の画像は酉の市の大国魂神社です。)

 

 

こんなところにまで、大国魂神社は出てくるんです。本当に多摩地区の人々に愛されている神社と言うのが分かりますね!

 

 

 

その後、のちに新撰組の中心人物達が続々と近藤勇の元に集まってくるわけですが、ほとんどが「食客(しょっかく)」と言うかたちからでした。

この食客と言うのは、普段はただの居候のようなものですが、いざとなると命に変えても主人を守るものとされていて、そのような経緯で浪士組にみんな参加します

 

 

そのメンツと言うのが、

局長 近藤 勇

総長 山南 敬助

副長 土方 歳三

一番隊隊長 沖田 総司

二番隊隊長 永倉 新八

六番隊隊長 井上 源三郎

八番隊隊長 藤堂 平助

十番隊隊長 原田 左之助

 

の面々です。

 

この名前を聞いただけでも、私はワクワクしてしまいます。

 

 

さて、今回はここまでにしまして、次回は京に上るところから。

 

 

幻の御所 その⑤

前回、東京都の西部にある『『関東三大不動』にも含まれる正式名称を『真言宗智山派 別格本山 高幡山 金剛寺』と言う寺院についてお伝えしました。

 

 

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そして、題名にもある『幻の御所』の結界の点になっている場所、これで4つ全てが終わった訳ですが、いかがだったでしょうか?

 

 

 

東京にここまで、歴史的にも古く重要な場所があったことをご存知だったでしょうか?

 

 

 

そして去年、天皇・皇后両陛下が無事に『大嘗祭(だいじょうさい)』を終えた事を皇祖神である『天照大御神』をお祀りしている『伊勢神宮』や、初代天皇である『神武天皇陵』などに報告する儀である『親謁の儀(しんえつのぎ)』を臨まれましたが、その一番最後に臨まれた場所が、上記の図の中央付近にある『武蔵野御陵』です。

 

 

 

この場所は大正天皇昭和天皇の御陵地でありますが、元々はここに江戸時代末期に新たな御所を造営する計画があったと言う場所で、さらに地形が京都に似ている事からも、この地が選ばれたと言うのは必然だと思ってしまいます。

 

 

 

御所は造営されませんでしたが、その後『大正天皇昭和天皇』の御陵を置いたことによって、新たな結界を作り我が国『日本』の安寧を願っているのです。

 

 

そして、この話もただの都市伝説では無く、少し現実味も増してきますね!

 

 

 

 

 

さて、少しだけ話を戻しますが、少し面白い話がありまして。

高幡不動を創建させたのは天台宗第3代、座主である『慈覚大師(円仁)』です。

 

 

そして東京都最古の寺院で「雷門」でも有名な浅草にある『浅草寺(せんそうじ)』も慈覚大師が再興に携わったんです。

 

 

 

東京最古の寺院と最古の不動堂がある寺院に携わっているのも何か縁深いものを感じさせますよね。

 

 

また、慈覚大師の出自は「下野国(しもつけのくに)」の壬生氏になります。

 

 

ここであれ?と思った事が。

 

 

幕末に活躍した『新撰組』の副長で「鬼の副長」と恐れられていた『土方歳三』の菩提寺にも、高幡不動はなっているんです。

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新撰組』と言う名前になる前の名が『壬生浪士組』になっています。

 

 

実際には壬生氏と壬生(京都市中央区)は何も関係ありませんが、そう言った所からも繋がりが見えてきますね。

 

 

 

そして、もうひとつ面白いのが『高幡不動』を勅願したのは第56代天皇である『清和天皇(せいわ)』なのですが、この天皇の末裔が後の、武家の棟梁となる『清和源氏』なのです。

 

 

鎌倉幕府の源氏・室町幕府の足利氏・徳川幕府の徳川氏の全てがこの清和源氏になっています。

(ただし、徳川氏は末裔と称しているのみ)

 

 

 

 

征夷大将軍清和源氏の流れをくんでいるんですね!

 

 

そして、皮肉な事に高幡不動は「最後の侍」と言われた『新撰組』の鬼の副長「土方歳三」の菩提寺になっており、彼の死をもって武士の時代が終わりを告げます。

 

 

 

この様に、歴史を振り返ると元々は点と点でしか無いものが、線になると言うが本当に面白いですよね!

 

 

 

さて、次回からは私も大好きな『新撰組』についてお伝えして行きたいと思います。

 

 

ご期待下さい。

幻の御所 その④

前回まで、東京都(本州)で唯一の「村」である檜原村にある『浅間領』、高尾山、そして昭島市周辺についてお伝えして来ましたが、今回は最後の結界の「点」である日野市にある通称『高幡不動尊(たかはたふどうそん)』についてお伝えして行きたいと思います。

 

 

 

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正式名称は『高幡山明王院 金剛寺(たかはたみょうおういん こんごうじ)』と号し、真言宗智山の別格本山であり、本尊は『大日如来』そして名前の通り『不動明王』になります。

 

 

この寺院の創建は古文書には奈良時代と書いてあるが、実際には第56代・清和天皇の勅願によって、天台宗延暦寺第3代目座主である慈覚大師(円仁)が、「東関鎮護(とうかんちんご)」の為に、霊場として定めて不動明王を不動堂に安置したことに始まります。

 

 

この時に建立した不動堂は山中にあり、建武2年(1335年)にあった大風によって倒壊してしまいました。

 

 

その後、当時の住職が7年間の歳月を経てこの山の麓に新たに不動堂を建て直し、現在にまで至り存在しており、仁王門とともに重要文化財として指定され、さらにこの不動堂は東京都最古の文化財建造物になっています。

 

 

さて先程、本尊は『大日如来』と言いましたが、実は『不動明王』はこの大日如来の『化身』となっています。

 

大日如来はおだやかな顔をしていますが、不動明王は怒ったような顔をしていますよね?

 

 

それもそのはず。

 

 

元来、日本では仏様と言うのは「どのような民も、慈悲の心を持って救済下さる」ものであります。

だからほとんどの仏様は優しいお顔をなされているんですね。

 

 

 

その中でも大日如来は最高位の位置におり、それは一目見ただけでも分かります。

 

 

 

その見分け方としては、特に如来と言われる悟りを開き終えたグループは一枚の布を覆っている簡素な格好をしていますが、大日如来だけは装飾品なども着けているのです。

 

 

宇宙の中心である大日如来がこの煌びやかな姿で私達を導こうとしている様を表しているのです。

 

 

しかし、いくら悟りを開き終え、宇宙の中心の最高の仏様だとしても、あまりにも煩悩が多すぎる民には厳しく接する必要があります。

 

 

それによって出来たのがこの怒った顔をし、手に剣を持った姿をした不動明王なのです。

 

 

不動明王は「心を鬼にして、手に持っている剣で力づくでも煩悩を断ち切り、民を正しい道に導く仏様」となって表されており、それにより大日如来から枝分かれした仏様です。

 

 

元々は「慈悲の心で、救う」と言う事には変わらないので、そう言った所からも不動尊信仰が広まったのだと分かります。

 

 

そして、高幡不動ではこの2体の像が奥院に安置されています。

 

 

この奥院に移った際に、不動明王像も修理され、さらに全身も新たに漆が塗り替えられた結果、太陽の光を浴びると反射であたかも汗をかいている様に見え、この不動明王が「全身に汗をを掻きながらもお願いを聞いて下さる」と言う事が広まり、『汗かき不動』と呼ばれるようになったのです。

 

 

この様子から、室町時代には「鎌倉公方」を始めとする関東周辺を中心の戦国武将たちが戦勝祈願で訪れ、さらに信仰を集めて行ったのです。

 

 

 

 

そして江戸時代には真言宗の関東十一檀林(だんりん)の談義所となり、多くの学僧がここから輩出されて行き、さらに寺院自体の地位を上げて行ったのです。

 

 

この檀林とは仏教の僧侶たちの養成所や研究所などの学問機関の事を言い、この事からもいかに『高幡不動』が一目置かれた存在の寺院かが分かりますね。

 

 

 

また、創建当時の平安時代では『天台宗最澄が開祖)』でしたが、いつしか鎌倉時代に入り『真言宗空海が開祖)』に移り変わり、以降に『高幡のお不動さん』として信仰を集めており、『成田山 新勝寺(なりたさん しんしょうじ)』などとともに、『関東三大不動』と

されて行ったのです。

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とここまで、高幡不動についてお伝えしてきましたが次回ももう少しだけお伝えしようと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幻の御所③

前回は下図の①、②についてお伝えしましたが、今回は残りの③、④をお伝えしたいと思うます。

 

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と、その前に③の場所は東京都の日野市にある通称『高幡不動尊』として、また「新撰組 副長 土方歳三」の菩提寺としても新撰組ファンにとっては有名な不動尊です。

 

 

 

実は自分もこの新撰組が大好きで、きっと長くなってしまうので、ちょっと順番は変わってしまいますが、先に④についてお伝えしたいと思います。

 

 

 

と、言っても④の場所は結構大雑把な話になってしまうんですが、昭島市福生市周辺の地なんです。

 

 

 

なぜ、この地が選ばれたかと言うと、なんと言っても地盤がめちゃめちゃしっかりとしているんです。

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上記のマップは「東京都都市整備局」の「地震に関する地域危険度測定調査」から引用したものです。

都心部では色が濃い事が分かると思いますが、

これを見て頂いてもこの2市がとても地盤が強い事が分かります。(赤丸で記した場所です。)

 

 

さらに同じく「東京都都市整備局」の「区市町村別の地域危険度」から引用した次の表をご覧下さい。

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この表を見て頂くと分かる様に、昭島市福生市ともに地盤が強い事が分かります。

特に、福生市は総合危険度のランクがほとんどレベル1になっている事が分かると思います。

 

 

 

また、前回お伝えした八王子市もかなり強い地盤になっています。

 

 

やはり、新しく御所をつくるにあたって日本の過去の災害の経験から地盤が強く、水害の恐れも少ない場所を選ぶと言うのは当然な事ですよね。

 

 

特に天皇陛下を京都から東京(当時は江戸)に御迎えすると言う事になったら、それこそ当時の博識人(その中でも陰陽師が先導していました。)が束になってこのような地を探したのだと思います。

 

 

 

ただし、実際にはこれは実現されなかった事はもう皆さんもご周知の上だと思います。

 

 

 

それはなぜかと言うと、この案が出たのはまだ江戸時代末期の事でした。

 

 

ちょうどこの時、『黒船来航』で日本が激動の時代に突入し、『公武合体』も実現・さらに『尊皇攘夷』と言うことばも多くの志士達のスローガンとなった時代です。

 

 

そんな中、『桜田門外の変』で大老井伊直弼が殺害されますます、江戸幕府の地位は傾いてきます。

 

 

 

その様な背景から実現されなかったんですね。

 

 

 

そして、明治に入り政府は天皇陛下江戸城に入城して頂き、今の皇居になったわけです。

 

 

それもそのはず。

 

 

前権力者の案なんて聞き入れるはずもなく、新政府は全て自分達が決めて執り行いたいに決まっていますからね。

 

 

 

しかも、江戸の地は特に風水を利用していた訳ですから、新しい案なんてもっての他だったと思います。

ただし、実際には皇居も元は江戸城で風水で守られています。

そして、新政府は新たな都を造るよりも先に、たくさんのやるべき事があったので、とりあえず現・皇居に天皇陛下を遷都して頂き、その周辺に沢山の機関を作っていったのだと思います。

 

 

 

少し離れた所でも新しく都を造るのはそれだけで莫大な出費がかかりますから。

 

 

 

そして、これも面白い話なんですが、その後大日本帝国は勢いを増し、陸軍は航空部隊の中心となった零戦(初期は世界最強と言われた戦闘機でした。)を作り、その中核拠点を作りました。

 

 

そこで選ばれたのが知ってか知らずか、現在の立川市から昭島市にかけて広がる「国営 昭和記念公園」です。

 

 

そして、その付属施設として試験場を作った場所が現在の米軍空軍横田基地(現在は航空自衛隊の航空総隊司令部などもあります。)が出来るのです。

 

 

 

先程もお伝えしましたが、現在ではこの辺り(福生市周辺)の地盤が強い事が分かっていますよね。

これは偶然なんでしょうか。必然的に選ばれたとしか思えませんよね。

さすがにこの当時の技術でも今のような地盤の強さが分かるまでの技術までには至らないと思いますから。

 

 

 

このように、ちょっと違う角度から見ても歴史と言うのは面白いと思います。

皆さんもこのような歴史を発見してみて下さい。そして是非、教えて欲しいです。

 

 

 

と、今回はここまでなぜこの結界が昭島市福生市周辺になったかをお伝えしましたが、次回は『高幡不動』についてお伝えして行きたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

幻の御所 その②

前回は、東京西部地方に実は天皇陛下をお迎えしようと、そしてこの場所を選んだ理由も京都御所に地形が似ていて、それが陰陽師を筆頭とした風水で選んだと言うをお伝えしましたが、今回は少し、この4つの点の事についてお伝えしたいと思います。

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まず最初は①の東京都で唯一(本島)の『浅間領(せんげいれい)です。

 

 

この場所は山名(すみません、山です。)でも分かる様に、富士浅間神社がお祀りされている事からこの名前が着きましたが、晴れた日には富士山が抜群の絶景です。

 

また、春になると山頂ではたくさんの桜が咲き誇り、多くの登山者がこれを見物する為に訪れて賑わいます。

 

 

そして、東京で唯一の日本滝百選にも選ばれた「払沢の滝(ほっさわのたき)」があり、ここも見所の一つになります。

 

 

次に②の高尾山ですが、ここは言わずと知れた場所でミシュラン・ガイドの観光部門であり「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で三つ星の評価をされており、それ以降さらに多くの観光客が訪れています。

 

 

そして、ここは以前にもお伝えしたようにもともとは霊山となっており、修験道の場で『真言宗智山派大本山 高尾山薬王院 有喜寺』の寺域となっています。

 

 

さらに、富士山から龍脈が来ており、それを江戸城にまで繋げる中継役にもなっており、そのおかげで265年もの間、江戸時代を続かせ、さらに今現在は皇居になっている事から、今もなお首都東京として繁栄しているんです。

 

 

また、ここを登山し山頂に行くと休み所がありそこの名物の「とろろ蕎麦」がなんとも美味いんです。

これはもともと高尾山薬王院に参拝し終えた参拝者に振舞われていたそうですが、今ではそうではなくても登山客に振舞われています。

 

きっと、登山をすると少なからず汗をかくので、蕎麦のつゆで塩分補給としてもあり、さらにとろろの成分であるビタミンやミネラルも含まれて滋養にも効くと言う配合によって、さらに美味さを感じるんでしょうね。 

 

 

現代でこそ科学的に証明されていますが、それ以前の人々も長い経験からこれを振舞われっていると言うのが、本当に「先人達の知恵」は凄いと思います。

 

 

と、ここで少し面白い話がありまして、高尾山薬王院の鬼門に位置する場所に福生市にある『熊川神社(くまがわじんじゃ)』と言う神社があります。

この神社の創建は古く平安時代初期になり、社殿も現存しているものでは、東京都で2番目に古く東京都の指定有形文化財にもなっています。

 

 

そして、この神社の主祭神は『大国主命(オオクニニヌシ)』と『市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)』になっています。

 

 

 

また、このオオクニヌシイチキシマヒメ神仏習合において『オオクニヌシ=大黒天』『イチキシマヒメ=弁財天』となっています。

 

 

七福神の二柱ですね。

 

 

この様な経緯からこの神社には『七福神』全ての神様がお祀りされています。

また、七福神の御守りもあり、初詣などでは多くの参拝者がいらっしゃります。

 

 

 

是非一度、御参拝下さい。

 

 

 

話は戻しますが、この熊川神社がある福生市には大きな病院があるんですが、そこから亡くなった方々が熊川神社を経由して霊山である高尾山に帰ると言うのです。

そして、その道は霊の道と言われおりそこを通っているのが某カラオケ店なんですが、ここは昔から良く出ると言われていて、その辺の地域の人達には有名な都市伝説みたいな話になっていました。

 

もう、15年以上も前の話なので今は分かりませんがね。

 

 

 

と、少し長くなってしまったので次回は残りの③、④をお伝えしたいと思いますのでご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

幻の御所 その①

さて、今回は実は皇居(天皇・皇后両陛下のお住い)を、現在の場所では無く他の場所に置こうと言う計画があった事を皆さんはご存知でしょうか?

 

 

その場所とは東京都の西側にある檜原村にある浅間領と言う山・八王子の高尾山・日野市にある金剛寺(ここは高幡不動としても有名です)・そして昭島市付近の4つを結んだ場所になります。

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なんでも、現在の皇居にあたる地は江戸時代前は半分は高台にあり、もう半分は湿地帯や埋立地になっています。

皇居周辺を訪れた方はお分かりだと思いますが、◯◯坂と言うのが本当に多いんです。

 

 

今では乃木坂やけやき坂なんて、有名ですよね。この2つの坂は実際にある坂なんです。

 

 

また、明治維新の三傑で初代内務卿(初期の明治政府の実質的リーダー)であった『大久保利通(おおくぼとしみち)』が暗殺された紀尾井坂の変もやはり坂になります。

(実際に暗殺された場所は紀尾井坂ではないんですけどね。)

 

 

 

そのような不安定な地盤よりもしっかりとした地盤に新たな皇居を置こうとしたのもうなずける気がしますね。

 

 

 

そして、下記の図を見て貰うとお分かりでしょうが、どこか京都の形と似ていないですか?

 

 

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左右と背後に山で囲まれた天然の要塞で守られており、また山から流れてくる川が2つに重なり1本の川になる形もどこか京都の鴨川をイメージできます。

 

 

このように酷似している地を探し出すのはさぞ大変な苦労だったと思います。

今のようにGoogle MAPみたいにすぐに見つけ出す事が出来ない時代ですから。

ただ、この計画が始まった時代にはそれなりにしっかりとした地図が存在していたので、神憑り的なものではないでしょうが、それでも相当な苦労だったと思います。

 

 

そして、この計画を打ち出し、見つけだしたのが風水など陰陽道に特化した人々。

そうです。

安倍晴明で有名な『陰陽師』なのです。

 

 

安倍晴明と言えば、かつての天皇の住まいで朝廷の中枢であった『京都御所』の鬼門の方角に『晴明神社』もありますよね。

 

 

 

そして、265年もの平和な時代が続いた江戸時代の礎を築いたのも風水でした。

 

 

 

このように、昔から日本は風水を用いて時代を平定してきていたんですね。

 

 

さらに、ここで面白いことに大正天皇陵や昭和天皇陵がなどがある『武蔵陵墓地(通称・多摩御陵)』がこの地にあるのです。

 

 

何かこの場所が選ばれたのも、必然的に思えてならないですよね。

 

 

 

こうやった視点で見てみるとまたさらに日本が面白い事に気づかされます。

 

 

 

皆さんも是非一度、訪れて見て下さい。

 

 

 

 

 

田無神社 その④

今回も『田無神社(たなしじんじゃ)』についてお伝えしたいと思いますが、正直ほんとに色々と見所があり、今回でも終わる気がしないんです。

 

 

と、お話しているうちに時間もどんどん経ってしまうので早々とお伝えしていきます。

 

 

 

まず、今回最初にお伝えしたい見所は『撫龍』と言う場所になります。

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この場所は東参道から入るとすぐにある場所で龍の頭と玉を撫でると運気が向上すると言われています。

また、毎年の初辰日は発達につながることから商売繁盛など、縁起の良い日とされとおり、2020年ですと1月2日でした。

 

 

 

次にご紹介したいのは『青龍』の隣に祀られている『楠木正成公像』です。

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なんでこんな所に?

 

 

と思う方もいると思いますが、実は楠木正成の子孫が保谷(現在は保谷市田無市が合併して西東京市になりました。)に移り住み、田無神社の分社である尉殿神社を守護していた経緯から、いつの日か本社である田無神社にお祀りされました。

 

そして、見てもらうとお気づきでしょうが、この像は欠損だらけなんですね。

 

何故かと言うと、地元の若者が戦争に行く際に、この像を削りそれを御守り変わりに持っていったからなんです。

 

 

と言うのも、楠木正成南北朝時代から江戸時代まで一貫して『日本史上最大の軍事的天才』と評価されていました。

 

 

そのような武将だった事から、戦争に出征しても負けずに帰ってこれるようにと言う願いで、この像を削り御守りにしたのです。

 

 

 

そしてこの『楠木正成公像』と『青龍』の奥には『鹽竈神社』や『野分初稲荷大社』があります。

 

 

 

鹽竈神社のこのブログのvol.38・39でもお伝えしましたが、総本社は現在の宮城県陸奥国一宮として鎮座していますが、航海や遠征・また安産祈願や虫封(子供のかんしゃくや寄生虫などの封じる施術で、現在は漢方薬鍼灸治療が有効的になっています。)にご利益があります。

 

 

 

そして、野分初稲荷大社は名前からもわかる様に「お稲荷さん」をお祀りしている神社で、豊作祈願や商売繁盛にご利益があります。

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また、この地域から日露戦争に出征した若者を後世に伝えてる為に記念碑を建て、この文字を書いたのは日露戦争時に元帥陸軍大将として、満州軍総司令官を務め、日本の勝利に大きく貢献した『大山巌(おおやまいわお)』になります。

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さらにその前には、昭和の名横綱大鵬関が寄進した土俵があり、いまでは子供たちのわんぱく相撲の取り組が行われています。

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そして、その左側には『大黒・恵比寿社』があります。

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この二柱の神様は『七福神』でも有名ですが、大黒様はここの主祭神であるオオクニヌシと、恵比寿様はその子の『事代主神(コトヌシのカミ)』と一般的にはなる事が多いが、『少彦名神スクナビコナノカミ)』となる事もあり、田無神社ではスクナビコナとなっています。

 

 

 

そして、ここで面白いのが大黒様は元々インドや中国からやってきた神様であり、さらに2020年の干支であるネズミが使者になっています。

打ち出の小槌や福袋を持っているとこからも、金運や商売繁盛などにご利益があるので、今年はさらにご利益がありそうですね。

 

 

 

また、恵比寿様も鯛を持っている事から「めで鯛」などでもよく言われるように縁起の良い神様です。

そして、七福神の中で唯一の日本古来の神様なんです。

 

 

 

と、ここで思ったのがオオクニヌシは大陸からやってきた渡来人であり、その子は日本で生まれ育っている事から、生粋の日本国籍になり、そこから唯一の日本古来の神様になったんではないでしょうか。

 

 

と、ここで少し都市伝説を。

 

 

恵比寿様がラベルにも貼ってある「エビスビール」ですが、何万本かに1本だけ2つの鯛を持っている恵比寿様があるようです。

ただし、瓶のみみたいですので、これを探しだすのは相当苦労しそうですね。

そもそも、最近は瓶ビール自体をあまり見かけ無くなって来てますから。

 

 

 

と、ここまで田無神社境内をお伝えしてきましたが最後にこれを。

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ここは「参集殿」と言う国の有形登録文化財として保存されている貴重な建築物ですが、そこにあった「九頭竜」ですが、なんとも縁起が良さそうな像ですね!

 

 

 

さて、長々となりましたが、田無神社をお伝えしてきました他にも見所が満載なので、是非一度御参拝下さい。

今年は子年でもあるので、きっとご利益を授かると思いますよ。

 

 

 

 

 

田無神社 その③

前回は『田無神社(たなしじんじゃ)』にお祀りしてある『五龍神』についてお伝えしてきましたが、もう少し詳しくお伝えしたいと思います。

 

 

と言いますのも、この田無神社は元々は『尉殿大権現』と称して創建された当初から『志那都比古命(しなつひこのみこと)』と『志那都比売命(しなとべのみこと)』もお祀りされていました。

 

 

この二柱は奈良県生駒郡にある『龍田大社(たつたたいしゃ)』では、シツナヒコを『天御柱命(あめのみはしらのみこと)』と呼び「男神」として、シナトベを『国御柱命(くにのみはしらのみこと)』と呼び「女神」として、お祀りされています。

 

 

そしてこの二柱の神様は男女一対として、風を司る神様となっており、伊勢神宮では内宮の別宮である『風日祈宮(かざひのみみや)』・外宮の別宮である『風宮』にどちらもお祀りされています。

 

 

 

また、この風日祈宮は元々は『風神社』と称していましたが、鎌倉時代末期の「元寇」襲来の際にこの神様が『神風』を吹かせ、勝利した事から、名称を風日祈宮と宣下され、さらには一般的にも有名な『風神』と呼ばれるようになり、強く信仰をあつめました。

 

 

そして、現在は『五行思想』に基づき、田無神社では本殿にこの二柱を『金龍』として、また境内の東西南北それぞれに『青・白・赤・黒龍』を配祀し五龍として信仰されています。

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さて、ここまで「五龍」についてお話しましたが、この神社には他にもたくさんの龍神様がお祀りされていまして、まずは『龍神の道』と呼ばれる、表参道から一の鳥居・二の鳥居を通り本殿に向かう道があります。

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この道は本殿に真っ直ぐ向かう道であることから、神聖な道となっています。

また、この道の途中に『道祖神』が祀られており、これはこの集落に災いが訪れない様にと願われており、日本神話でのこの道案内をするとして『猿田彦命(さるたひこのみこと)』と同一神となっており、良縁や子孫繁栄にご利益があります。

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そして、二の鳥居をこえると右側に『白龍の水』と呼ばれた手水舎があり、その斜め左側に『龍神池』と呼ばれる池があり、この2つは田無神社境内の深くから汲み取られた水源として、清らかな「御神水」となっています。

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と、ここで少し関心のあるお話が。

 

 

実はこの龍神池は2018年に完全したばかりの池なのですが、これを作った理由は田無神社の宮司さんからNPO法人に「子供たちに生き物と触れ合う場所をつくってほしい。」と言う思いからでした。

さらに、もうひとつ重要な点がありました。それは江戸時代には、この地域に田無水路と言う水路があり、この辺りの地域の人々は炊事、洗濯そして農作物など様々にこの水路を利用していました。

また、メダカやホタルなど様々な生き物が暮らしていましたが、時代の変化によってコンクリートで埋め尽くされてしまい、この生き物たちも姿を消してしまいました。

そのような経緯から、もう一度以前の自然の姿を取り戻そうと言う働きにより、この池が出来たのです。

 

 

 

何か、少し羨ましい気もしますね。

 

 

この地域の子供たちは物心がついた時にはこのような景色があり、それがまた次の世代の子供たちに受け継いでいけるのですから。

そして、それが神社なら余計に地元愛が深まると思います。

 

 

 

 

さて、今回は『五龍』と『龍神の道』などをお伝えしましたが、次回はその他の見所についてお伝えしたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

田無神社 その②

本日で、2020年の正月・三ヶ日も終わり「初詣」に参拝し終えた方、まだこれから参拝しに行く方も今年が良い年である様願います。

 

 

ちなみに初詣は関東は7日・関西では15日までに済ませば良いみたいなので、焦らずに参拝出来ますよ。

また、神社でも寺院でもどちらでも良いそうです。

ただし、去年の御守りなどは神社は神社に、寺院のは寺院に返すのが礼儀となっているので、そこだけは注意して貰えばとのことです。

 

 

 

 

 

そして、本来初詣と言うのは、住んでいる場所の氏神様、もしくはその年の「恵方」に参拝するのが風習でしたが、今ではどこに参拝しても良いので自分に合う神社仏閣に是非、参拝していただきたいと思います。

 

 

 

 

さて、前々回お伝えした『田無神社(たなしじんじゃ)』について、今回もお伝えして行きたいと思います。

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この神社は鎌倉時代に現在の地の北側約1kmの場所に『尉殿大権現(じょうどのだいごんげん)』と称して、龍神を祀り創建されました。

その後、江戸時代に入り江戸城増改築の為に、漆喰の原料となる石灰を運ぶ為に、江戸幕府により、その地に住む人々を現在の西東京市・田無付近に移り住む様に命令が下りました。

 

 

その理由は、ここに宿場町を作り、石灰の運搬を捗らせる為で、この時に現在でも東京の主要道路である「青梅街道」が出来ました。

(ただし、現在では並行する「新青梅街道」がバイパス道路になっています。)

 

 

この青梅街道は甲州街道を現在の新宿から分かれ、青梅・奥多摩を経由しまた甲州街道に繋がる事から「甲州裏街道」とも呼ばれていました。

 

 

また、田無の位置が新宿から石灰の採取できる青梅までの距離のちょうど半分の距離になる事からも、この地が宿場町として栄えた理由のひとつでもあります。

 

 

 

と、この様な経緯から現在の地に田無神社も遷座されました。

 

 

 

さて、この田無神社に五つの龍神様が祀られていまして、「方位除け」でも有名な五龍神になります。

 

 

まずひとつ目は「春」を象徴している東方を守護する『青龍』ですが、芸能やスポーツなどの技芸の向上・就業成就など、「発展と成長」にご利益があります。

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次に「夏」を象徴している南方を守護する『赤龍』です。これは出世運や勝負運、また努力などを守護し、「先見の明」にご利益があります。

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3つ目は「秋」を象徴する西方を守護する『白龍』です。西の方角は風水でも金運に良く、良縁成就を守護し、「収穫」にご利益があります。

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4つ目は「冬」を象徴する北方を守護する『黒龍』です。これは水回りを守護し、水は流れる事から「新しい気」にご利益があり、また夫婦円満や交際運にもご利益があります。

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そして、最後の5つ目である『金龍』ですが、これは中央に位置し、「基盤づくり」にご利益があり、またこの『金龍』こそがこの神社の御祭神の『尉殿大権現』であり、あらゆる運気の向上と幸福招来にもご利益があるのです。

また、『金龍』は中央の本殿の中に祀られている秘像神で、一年のうちに11月の「酉の市」での特別拝観の時にしか姿を見る事が出来ませんので、是非一度お目に掛かってください。

 

 

と、ここで区切りが良いので、また次回も田無神社の事をお伝えしたいと思いますので、ご期待ください!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福が生まれる場所 『福生』

『謹賀新年』

 

 

 

去年は平成も終わり、新たな元号の『令和』になり本日、令和初めてのお正月を迎えました。

 

 

さて、今回は田無神社の事をお伝えすると前回、お伝えしましたが、その前にお伝えしたい神社が御座いまして。

 

 

新年と言うことで、名前からして縁起の良い『福生神明社(ふっさしんめいしゃ)』です。

 

 

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この神社は以前も少しお伝えした事がありますが、主祭神天照大御神アマテラスオオミカミ)・伊奘諾(イザナギ)・伊奘冉(イザナミ)・豊宇気比毘(トヨウケヒメビ)など全部で7柱をお祀りしている神社です。

 

ここが何故、こんなにも神様が多く鎮座しているかと言いますと、元々江戸時代までは旧福生村(現・福生市)の「清の丘」と呼ばれる神域(現在の福生神明社の地)にイザナギイザナミが祀られていました。

 

 

 

実際、この神社は坂の上にありまして裏参道を階段で下ると小さな公園があり、そこには堂川が流れています。

近くには江戸の水用の要となる「玉川上水」が流れていたり、その下には多摩川が流れていた事により、水が豊かであった為に「清の丘」と呼ばれていたのだと思います。

 

 

 

実はこの神社を下った場所は「長沢地区」と言って、さらにその下の地区は「田園地区」と言い、その地名からも水が豊かであった事が伺えます。

 

 

また、福生神明社のすぐ近くで、縄文時代の遺跡が発見された事からも古代から人々が住みやすい環境にあった事が分かります。

 

 

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そして、裏参道前には「長沢稲荷」がありますが鎌倉時代から創建されていると言われている薬師如来を祀る「薬師堂」もあります。

 

 

 

また、加美地区からのアマテラスなど、各部落から5柱を合祀し、全部で7柱の神様が集まり明治時代になり、地域の安らぎや治水・産業(特に蚕業がこの地域では盛んでした。)・衣食住・学問など、各方面にわたって功徳な神社となり、『福生総鎮守』の神社となりました。

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また、御守りも毎年の干支の根付けがあり結構可愛いですよ。

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そして、この神社の近くには東京でも数軒しかない酒蔵の「田村酒造」が氏子であったり、(ここの酒造のメイン酒が「嘉泉」になり、御神酒としても頂けます。)

山号が「福生山」である臨済宗建長寺派の『清岩院(せいがいん)』があります。

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と、ここまで福生神明社の事をお伝えしてしまいましたが、はじめにもお伝えしましたが、名前からもご利益がありそうなこの神社をよろしければ、是非一度御参拝下さい。

 

 

そして、次回は必ず田無神社についてお伝えしたいと思いますので、ご期待下さい。