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『世界最古の国』日本

#神社仏閣#歴史#都市伝説#グルメ#漫画#アニメ#ゲーム#その他生活にありとあらゆるものなどに関することを書いています。ここに記載するすべて記事の引用素材は誹謗中傷を目的としたものでは無く、著作権を侵害する目的で作成したものではありません。

大嘗祭 その④

 

今回は『大嘗祭』についてもう少しだけお伝えして、と言うのは大嘗祭の直後に行われる『大饗の儀』と言う、参列者に向けて酒や食事や、悠紀国・主基国の芸能(舞など)を振舞う会です。

これは、悠紀国・主基国の風俗舞(これは大嘗祭ごとに新作)を両国の地名の入った歌を披露したり、両国から推薦された15種類の農林水産物を献物として会の開かれる所の正面に並べて、その色目を式部官長(宮内庁の儀式や雅楽を担当する部署の長)がこれを奉上します。

 

そして最後に天皇皇后両陛下が挿花を参列者に供します(贈る)。

 

また、古来では大嘗祭が11月の2回目の「卯の日」に行われいたので、翌辰・巳・午日にこれが行われおり、辰・巳日は直会(なおらい)の意味を目的としており(神社に於ける最後に祭祀に参加者一同でお神酒や神饌を食する事)、3日目の午日はこれよりも少しくだけた宴会の様な形で行われいました。

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(↑上記の御朱印は品川区の蛇窪神社で2019年11月9日から3000枚限定で配布しています。)

 

そして、大嘗祭がこの様な儀式として明確に行われ始めたのは第40代天武天皇・第41代持統天皇の頃時代になります。

 

天武天皇は歴史の授業にも取り扱われいる様に、「壬申の乱」で勝利した大海人皇子が即位して天武天皇になりました。そして、『元号』を始めて使い、「大化改新」を成し遂げた天智天皇の弟でもあり、自ら政務を行い天皇史上、まれな権力を集中させ、地方豪族を排除し皇族を要職に就かせる『皇親政治(こうしんせいじ)』を行い、古代天皇専制の頂点を極めました。

 

さらに、『日本』と言うことばを始めて使う他、『天皇』と言うことばも始めて使う人物でありました。

その皇后であり、第41代天皇である『持統天皇』。この天皇は「小倉百人一首」の2番目の歌でも有名ですが1番目の天智天皇の娘になります。

と言う事は、叔父と姪の結婚と言う訳ですね。

 

そして夫である天武天皇の方がイメージが強すぎてあまり知られてませんが、『飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)』と言う日本で最初の律令体制の体系を編纂した人物なのです。

 

これは天武天皇が元は行なっていた事業でその意思を継ぎ編纂され、班田収授など律令制の骨格を本格化させ、孫である第42代文武天皇が完成させた『大宝律令』によってこのプロジェクトを成功させています。(この制度により初めて国号を『日本』になりました。)

 

さらに天武天皇の念願であった『伊勢神宮』の『神宮式年遷宮』を持統天皇は成功させ、(第一回神宮式年遷宮)さらに藤原京(ここが初めて碁盤の目状の都市作りになりました。)や、史上初の『太上天皇上皇)』になった人物です。

 

何か、ここ数年にあった事と似ている様な気がしませんか?

2013年の神宮式年遷宮(この年は『出雲大社遷宮もあり、かなり話題になりました)・2019年の先代天皇(現・上皇陛下)からの譲位継承と現天皇の即位(即位後の儀式なども含め)とおよそ1300年も継承されています。

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今まであまり気にしていなかった持統天皇を今回の大嘗祭によって深く知ることが出来たのも何かの巡り合わせなのかなと感じました。

(実は小倉百人一首は小学生の頃からやっており、去年の正月にこれを買って子供と一緒に楽しんだ所でした。)

 

と、この様に日本人の中に自然と入っていたものも過去の歴史があり、それを皆が共有していると言うのがなんとも言えない面白さ。

これが伝承やら伝統と言うんですかね。

 

日本人に生まれ良かった!

 

 

 

 

大嘗祭 その③

前回、前々回とお伝えしてきた『大嘗祭(だいじょうさい)』ですが、お伝え忘れた事が少しあったので、もう少しだけお付き合い下さい。

 

大嘗祭』の神饌(しんせん)の中で最も重要なものは稲になります。(神饌とは神様に供える酒や食物の事を言います。)

その稲を収穫する田んぼのことを「斎田」と言い、大嘗祭を始めるにあたって、まずこの「斎田」を選ぶ事から始めます。

 

そして、この祭祀は同じ所作(しょさ)を2回繰り返して行われる事からこの「斎田」も2カ所あります。(所作とは振る舞いや踊る事を意味しています。)

この2カ所の事を『悠紀(ゆき)』・『主基(すき)』と呼び、前者が大嘗宮(大嘗祭が行われる場所)の東の悠紀殿・後者が西の主基殿に神饌されます。

 

さらに、原則として悠紀は西国から、主基は東国から選ばれていましたが、古代はその選定の場所は吉凶をあらわす占いによって選ばれていました。(この占いの事を「ト定」と呼びます。)

 

また平安中期の第59代目天皇である『宇多天皇』以降は京都から見て東にある悠紀は近江国(現・滋賀県)から、また西にある主基は丹波国(現・京都府など)と備中国(現・岡山県)から選ばれていました。この悠紀・主基に選ばれた国を『斎国』と言い、明治時代以降は京都から東・南の18都道県の地方を悠紀、西・北の29府県の地方を主基と定められました。

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さらにこの場所は亀の甲羅に熱を加えそのヒビを見て占い場所を決めているのです。(この占いを「亀ト」と呼びます。)

と言う事は、亀トを行い斎田をト定すると言うことですね。

(要約すると亀の甲羅に熱を加え、悠紀・主基の場所になる斎田を占いで選ぶと言う事になります。

 

さて、ここまで悠紀・主基についてお伝えしてきましたが最後に大嘗祭の流れについてお伝えしていきます。

 

まず、大嘗祭の前日に『鎮魂祭』と呼ばる天皇陛下の霊を大嘗祭と言う重要な祭祀を行う前に魂を強化させる儀式を行います。

 

そして、大嘗祭当日は悠紀殿・主基殿に斎田から持ち込まれた米を炊き両殿に用意します。その後、天皇陛下は内裏を出て廻立殿に向かい帷(とば)と言われる祭服を着用したまま、沐浴をしその後湯に入ったまま脱ぎ捨てて新しい帷に着替えます。(廻立殿の儀)

 

その後、廻立殿から悠紀殿に渡御(天皇陛下やかつては将軍がお出ましになる)します。その際、天皇陛下が通る通路に真薦(まこも)と呼ばる天皇陛下が通る時のみに使われるものが敷いてあり、通る直前に従者によって広げてられます。また、『三種の神器』のうち『八尺瓊勾玉』と『草薙剣』(この2つで『剣璽』と言います。)を持った従者、天皇陛下天皇陛下の祭服を持った従者がここを通り終わった直後にこれは終われます。

この時に現れる道を『御筵道(ごえんどう)』と呼びます。

 

その後、天皇陛下は悠紀殿の外で着御し、剣璽は上座に奉安(安置)されます。その際にこれに付き添った皇太子も含めた男性皇族は『古忌幄舍』に入り、続いて皇后陛下・女性皇族が進み、皇后陛下は『帳殿』、女性皇族は『殿外古忌幄舎』に入ります。(ただし、女性皇族の列席は大正以降からになります。

 

そして、この日に参列者がここに入り、古風(古代から吉野に伝わる歌)・悠紀国・主基国の国つ神からの寿歌(その地に古代から伝わる歌)などの行事が行われ、その後『神饌行立』が行われます。

 

天皇陛下は神饌が用意されると古代から伝わる方法で、自ら箸をとり規定の数だけを神供(神に供物を献上する)すると、『御告文』(歴代の天皇の霊に告げる文)を奉すります。この時は参列者全員が起立をしています。

 

その後、天皇陛下自らが神饌を聞き召さられ(飲食をする)、それを聞き召さられた後に撤下され、天皇陛下も廻立殿に還御(還る)します。(この時も渡御と同様に御筵道が現れます。)

 

そして次に、主基殿に渡御しますが全く同じ祭礼が行われます。また、天皇陛下はこの全ての行事が終えてもこの日は内裏には戻らず、大極殿(正殿)で朝を向え、全ての儀式が終わります。また、神座も全ての儀式が終えた後に全て撤去します。

 

 

と、ここまで一連のの流れをお伝えしましたが聞いているだけでも大変な儀式であり、伝統的で古来から重要視されてきた儀式だと言うのが分かります。それは『新嘗祭』が『勤労感謝の日』の祭日になる訳だと思いました。

 

また、今回の令和の悠紀国は栃木県で「ちちぎの星」・主基国は京都府で「キヌヒカリ」が精米で180Kg・玄米で7.5Kgが奉納されました。

 

 

とここまでかなり長くなってしまいましたが、最後に大嘗祭後の11月21日から12月8日まで、この儀式が行われる『大嘗宮』が一般公開されるそうなので是非足をお運びください。

 

 

 

 

 

 

 

 

大嘗祭 その②

前回は『大嘗祭(だいじょうさい)』の際に用いる麻織物の『麁服(あらたえ)』ですがこれは、徳島県の剣山付近にある『阿波忌部(あわいんべ)』と言う古代から朝廷に仕える職能集団の『三木氏(みきし)』のみが天皇陛下に供進出来ると言うのをお伝えしました。

 

そしてもう一つ、絹織物である『繪服(にぎたえ)』と言うのもある限定的な地域からこの時に供進されます。それが三河国(現・愛知県)になります。

ここは徳川幕府・初代将軍の家康の出身地でもある事でも有名ですが、さらに古代では「大化改新」後には国造(くにのみやつこ)と呼ばれる地方を治める官職で、特に祭祇を司る世襲制の名誉職になったが、それ以前(古墳時代からヤマト政権)では、軍事権や裁判権を持った役割を果たしていた官職で、この三河国に深く関係を持った国造を、優先的に郡司(中央から派遣された地方を治める官職の事)を派遣されていました。

それほど、この地が重要であると言うのが分かりますね!

また、面白い事に剣山(麻織物の麁服)と三河国(絹織物の繪服)の一宮である『砥鹿神社(とがじんじゃ)』を結ぶと奈良県橿原市がちょうど中央の位置になります。

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この橿原市は初代天皇である『神武天皇(じんむてんのう)がこの地で即位・建国したと言われている場所でさらには『神武天皇陵』や『橿原神宮(かしはらじんぐう)』さらには日本で最初に作られた都城の『藤原京』があった場所になるのです。

橿原神宮神武天皇の宮である橿原宮があった言われている場所に明治に入り、この地に神宮を建てました。)

 

何かこの話を聞くと偶然とは思えない様な場所に3つが存在していますよね!

本当に面白い‼︎

これは必然的に建てられたとしか思えません。

 

日本には不思議なことにこの様に重要な場所を結べる(レイライン)が幾つかあるんですねぇ。

 

と、話を戻しまして『あらたえ』と『にぎたえ』と言うのがもう一つあるのです。

それが伊勢神宮(内宮)で天皇陛下の皇祖神である天照大御神を祀る皇大神宮荒祭宮にのみ毎年5月と10月の14日に麻織物の『荒妙(あらたえ)』と絹織物の『和妙(にぎたえ)』を奉る祭典があるのです。

その祭典が『神御衣祭(かんみそさい)』と言い、『神嘗祭(かんなめさい)』(神嘗祭とは内宮で天照大御神にこの年に収穫された新穀をお供えすると同時に感謝する祭事です。)とともに伊勢神宮(内宮)でも格別の由緒あるお祭りになります。

新嘗祭』は皇居で行う祭事になるので、どこでやるかは名前で判断すると分かりやすいですよね!

 

さらに面白いのが毎年行われてる『新嘗祭』では天皇陛下が自らで作られた新穀を神に捧げるのに対し、『大嘗祭』では国民が作った新穀を神に捧げると言う事も伝統的で、これは天皇陛下にとっても即位後の年に、一世一度の大切な儀式であり、本当に国民の安寧を祈っていると言う事からも分かります。

 

と言うのすら、おこがましいのですがね。

 

さて、今回の『令和』の大嘗祭は11月14日・15日に行われますがそれ以前は11月23日に行われていて、また新嘗祭はこの日に行われています。その理由としては元は冬至に行われてその後、太陰暦の11月の二の卯日に行われるようになりました。

その後、明治時代に入り、明治政府から『国民の休日・祭日』の『新嘗祭』が定められましたが、戦後GHQから『勤労感謝の日』に変更され今に至るわけです。

と言う事は、本来の意味は「天皇陛下が国民の安寧の為に祈りを奉る事」に対して、感謝する日と言う意味なんですね!

もちろん、私たちや先人達勤労者に対しての感謝する日でもあるのですが。

 

 

と、今回は2回に分けて『大嘗祭』についてお伝えしてきましたが、また沢山面白い事が発見出来て、さらに神社仏閣・そして皇室について興味深くなりました。

 

令和と言う時代がどうなるかが楽しみですが良い時代になって欲しいものです!

 

それでは、また次回も楽しみに‼︎

 

 

 

 

大嘗祭 その①

今回は『大嘗祭(だいじょうさい・おおなめまつり・おおにえまつり)』についてお伝えしたいと思いますが、この儀式は天皇陛下が『一世に一度きりで、天皇陛下が即位した直後の「新嘗祭(しんじょうさい,にいなめさい・にいなめまつり)」』になります。

新嘗祭」とは11月23日に天皇陛下が国家・国民の安寧を祈り、五穀「稲作物・鮮魚・干物・果物・鮑やミル貝の羹(アツモノ-)などの汁物」を天照大御神を始めとする天神地祇天津神国津神の事)に御供えをし、さらに天皇陛下自らも口にしてその年感謝を祈念する事です。

そして、大嘗祭邇邇芸命ニニギノミコト)が天孫降臨の際に天照大御神から稲穂を授かりそれを聞こし召す(食べたり飲んだりする事)で天照大御神の霊威を授かると言う伝統を、即位後の年に天皇陛下が行う事によって、天皇陛下自身に天照大御神の霊威を授かると言う儀式であり、皇室行事になっています。

 

また、新嘗祭はこれを更新する為の皇室行事になっており、前者も後者も御祭服は両者共にだけ、純白の生織りのままの麻で織られた天皇陛下が祭事に際に着る中で最も清浄で神聖な服装の麁服(あらたえ)と言う服を着ます。

 

と、ここで面白いのがこの麻を使い麁服を作り宮中に献上出来るのは、現徳島県の剣山近くの集落にある吉野川市にある『忌部神社(いんべじんじゃ)』で織られたもののみであり、古代から朝廷祭祀であった『阿波忌部氏』の末裔の『三木氏(みつきし)』だけになります。

 

そして、以前お伝えした鹿島神宮・皇居・富士山・伊勢神宮・高千穂のレイラインを覚えいるでしょうか?

このライン上にある場所は夏至冬至の日の出・日の入の時にピタリと一直線になるのですが、まさかの剣山もこのレイライン上に当てはまるんですね!

この場所を選んだ理由はもう必然的にしか思えないですよね!

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さらにこの剣山は実は古代ピラミッドであって人工的に作られたものだと言われていたり、この場所に『ソロモンの秘宝』が隠されいると言う都市伝説があります。

この『ソロモンの秘宝』とは『十戒の石版』『アロンの杖』『マナの壺』であり、それを入れた特別な箱である『契約の聖櫃(せいひつ)』が隠されいると言われており、それを物語る様に、この剣山にある『磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ)』には主祭神天照大御神ですが、『五社三門』と呼ばれている5つの祈壇と3つの入り口がありこれがユダヤの礼拝所と酷似しているのです。

(この神社自体も1000年以上続く神社です。)

 

また、鶴岩・亀岩と言う場所には童謡の「かごめかごめ」が深く関わっており、かごめは「籠の目」でこれはダビデの紋章になり、また「夜明けの晩」は夜が明けるとなり、「ヨハネ(キリストの使徒)」になると言うのです。そして、剣山はかつては「鶴亀山」と書いてつるぎやまと記されていたと言う文献も残っていたり、『栗枝渡神社(くりしどじんじゃ)』はキリストから名前が来ていると言う説があります。

 

そして、「天地一切の悪運を断ち現世で最高良縁を結ぶ」と言われている『大剣神社(おおつるぎじんじゃ)』など様々なミステリースポットがある場所になっています。

 

と少し話がズレてきてしまったので今回はここまでにして次回も大嘗祭について少しお伝えしたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

即位礼正殿の儀

(令和元年(2019年)10月22日に行われた天皇陛下の『即位礼正殿の儀』ですが、なんと言いますか。驚きと感動、そして日本人であり良かったと思いかつ誇りにも感じる日でしたね。

 

今回の儀式は明治以降、生前退位と言うのは無く現在生存されている方(当たり前ですが自分も含めて)には未経験な体験でしたが、日本国民も含め全世界が感心を持った儀式でしたね。

それを証明するにテレビの視聴率は20%超え、または全世界のSNSでも話題になった程です。

(視聴率20%超えと言う事はその時間にテレビを見てる日本国民だけで5人に1人以上はいると言う事になり、ラジオで視聴されてる方や現地に来れた方、またあえなく仕事があった方などを含めたらもっと多くの日本国民が今回の儀式に関心を持っていたと思われます。)

 

と、この『即位礼正殿の儀』ですが平安時代にはすでにこの儀式が行われており、この原型は古墳時代にあり、天武天皇の時代にはこの儀式のしきたりが確立されていったと言われています。

さて、この『即位礼正殿の儀』ですがこれは、国内外(世の中)に対して皇位継承が行われ即位する事を宣明を致す儀式で、そこには皇族・世界各国の国家元首・日本の三権の長(立法・行政・司法権)などが参列致します。

また、この儀式は国内外に示す皇室儀式の中でも最高の儀式になり、『三種の神器』のうち剣璽草薙剣八尺瓊勾玉)・御璽(天皇が用いる公式な印章)・国璽(国家の表徴として用いる公式な印章)を継承すると共に、唯一天皇陛下のみが許された玉座である高御座(皇后陛下は御帳台に昇ります)にこれを安置し、全世界に対して『御言葉』を申し上げられ、宣明致します。

剣璽等継承の儀はこの日の当日、即位礼正殿の儀が行われる前に行われる儀式でここで剣璽・御璽・国璽の継承がなされます。)

そして、参加者は皇族・内閣総理大臣三権の長国家元首(各国の国王など)・各界の著名人などが参列致します。

その後、参列された方を招待し晩餐会が開かれますが5日に渡って繰り広げられます。また、今回は和食(日本食)をベースにした料理が出されたそうですが、これは和食が世界無形文化遺産に選ばれた事や、来年に東京でオリンピックが開かれる事で、世界にもっと知って欲しいと言うのがあったからとされています。

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(今回のメニューの一部ですが、箸が苦手な方の為にナイフとフォークも用意してあります。)

 

とここで、テレビなどでも話題になったのが天皇陛下が高御座で『即位礼正殿の儀』を行う直前に今まで雨がずっと降っていたのに、止んで更に虹が掛かると言う神懸かりの様な出来事が起きました。

しかも、元々この『剣璽』のうち『草薙剣』は『天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)と呼ばれており、これを使用する際には必ず雨が降る言われている神剣で、それをも断ち切るはやはり天照大御神(太陽神)の正統なる末裔だからなのでしょうか。

本当に不思議で凄くですよね!

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と、今回は神社仏閣は出て来ませんがそれに関係のある天皇陛下の『即位礼正殿の儀』をお伝えしましたが、次回は『大嘗祭』についてお伝えして行きたいと思いますので、ご期待ください!

 

 

 

陸奥国一宮 鹽竈神社 その②

今回は宮城県にある『鹽竈神社(しおがまじんじゃ)』についてお伝えしたいと思います。

ここは前回もお伝えしましたが、陸奥国の一宮になっており、古くから東北鎮護として朝廷、また庶民からの崇敬を集めて来ました。

奈良時代多賀城国府兼・鎮守府として建てられると、その東北の方角である「鬼門」を護る精神的な支えとしてこの神社が建てられ信仰があったとされています。

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そして、中世以降、奥州藤原氏をはじめ様々な武家からの崇敬を集めて特に江戸時代には伊達政宗以降、全ての当主が大神主を務める様になりました。

それは主祭神で左右宮に祀られているタケミカヅキ・フツヌシノカミが古事記・日本書記に登場する軍神であり武家からたくさんの崇敬を集めていた事からが理由とされています。

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また、別宮(この神社の場合は特別な宮と言う意味があります)にはシオチノオジが祀られており、この神様は前者の2柱を東北地方平定する際に案内役として務め、その後役目を果たしたタケミカヅキ・フツヌシノカミはそれぞれ鹿島神宮香取神宮に戻りましたが、シオチノオジだけがこの地に留まり地元の民衆に塩の製法を教えたとされています。

そこからこの地名の由来になったと伝わっています。

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またこの神社は少しで不思議な造りをしており、通常は鳥居または門に対して正面に主祭神があるのに対して、左右宮(タケミカヅキ・フツヌシノカミを祀っている宮)は南向きに、また別宮(シオチノオジを祀っている宮)は松島湾に背を向けて西向きに建てられいます。

その理由は鹽竈神社の大神主が伊達藩の歴代当主になっていて、青葉城仙台市青葉区)に向けて建てられおり、城から見れる様な配置になっています。

また、別宮のシオチノオジは海上守護の神様であるので、海難を背負ってもらう様な配置になっています。

ちなみになんですがこの神社は山の上にあり天気の良い時は松島湾が絶景として見れます。

その写真を撮り忘れたのが心残りでもあります。泣

そして、鹽竈神社伊勢神宮と同じく20年に一度の式年遷宮が定められているので綺麗な姿が保たれておりその信仰の深さを実感出来ます。

 

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また、この神社の末社の「御釜神社(おかまじんじゃ)」には不思議な釜が4つあり『四口の神釜』と言われているものがあります。これは『日本三奇』の一つとして数えられており、その理由はこの御釜の水は、日照りが続いても枯れる事がなく、雨が降っても溢れることもない不思議な御釜であり戦国時代以降、鹽竈神社の大神主となった伊達氏の仙台藩では「この水になにか異変があれば必ず報告せよ‼︎」と言う藩命も出たほどです。

初代藩主の伊達政宗が亡くなった際にも普段は赤茶に濁っている水の色が変わったと言うのが伝わっていたり、2011.3.11に発生した「東日本大震災」の際にも4つのうち2つの水が澄んでいたとされ、これを予言していたと言われる不思議な御釜です。

 

とこの様に、都市伝説じみたものもあったりと魅力的な『志波彦神社鹽竈神社』ですので一度は訪れて欲しい神社ですので、機会がありましたら是非ともッ!

 

 

陸奥国一宮 鹽竈神社 その①

今回はレイラインや結界と言うのからはちょっとズレまして、宮城県にある陸奥国一宮の『鹽竈神社(しおがまじんじゃ)』についてお伝えしていきたいと思います。

ここは元々、鹽竈神社のみが鎮座していましたが明治時代に志波彦神社(しわひこじんじゃ)が宮城県仙台市の冠川から遷座してきたことにより、現在では『志波彦神社鹽竈神社』と言うのが正式名称になっています。

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志波彦神社は『延喜式』神明帳にも記載されている格式のある神社で、この『延喜式』と言うのは10世紀初頭に朝廷から「官社」として認められた神社で、当時の政治的背景が強く見られています。

また、この神明帳に記載されている神社の事を『延喜式内社』と呼ばれており、その反対に当時から存在はしていたが朝廷の勢力からの範囲外の神社・または『熊野三社』など独自の勢力を持っていた神社・『岩清水八幡宮』など僧侶が管理をしていた神社などは『式外社』と呼ばれていました。

そして、『鹽竈神社』は式外社になっており、この地には式内・式外社が共に共存している場所になる訳です。また、鹽竈神社の方は陸奥国の一宮として鎮座しているので、両社とも格式の高い神社だと言う事がここで分かります。

また、国の天然記念物の「鹽竈桜」も有名で開花時には観光客がたくさん見物しに訪れるます。

 

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志波彦神社主祭神は『志波彦大明神』になります。この神様はあまり馴染みの無い神様ですが、鹽竈神社主祭神である『塩土老翁シオツチノオジ)』よりも格上の神様になり、その証拠にこの2社の正式名称も志波彦神社の方が先の名前が来ていて、明神大社として朝廷からも厚い信仰がありました。

また、志波彦神社は先述でも書いた様に、東山道から多賀城までの交通の要であった現・宮城県仙台市宮城野区岩切に鎮座していましたが、中世以降衰退の一途を辿ってしまった為に明治に入り現在の地に造営をする旨を明治天皇から奏上されました。

しかし、大正に入っても造営されなかったので政府に訴えてましたが、翌年の関東大震災により、その話もうやむやになってしまい次代の宮司が痺れを切らしてもう一度政府に強く訴えてかけ、ようやく昭和に入り着手されて今の地に造営されました。

この時に宮司が政府に「天下の一大事である。直ぐに取り次ぐべし!」と乗り込み、圧倒された係官が担当の大臣に取り次ぐと、大臣が「天下の一大事とは何事か?」と問いました。

そこで宮司は「明治天皇の思し召しでもある志波彦神社の造営をいつまで待たせるのか!」とさらに問いました。

すると担当大臣は「天下の一大事と言うから何事かと思えばそのような事か。」と答え、それに宮司は「神様の事と明治天皇の御意志をおいてこれに勝る一大事があるか!」と一喝し、ようやく政府が重い腰を上げたと言う逸話が残っています。

そしてシワシコはシオチノオジを協力した神様として伝えられており、国土開発・産業・農耕守護の神様として信仰になっていますが、この地周辺には「シワ」と言う地名が多くあります。これは「端っこ=シワ」と言う意味があり、朝廷がこの地まで勢力を拡大していった事が分かり、国津神(土着神)として、この地に住む民衆から深い信仰を集めてきました。

 

また、本殿・拝殿は鹽竈神社とは違い、ともに朱黒漆塗りの極彩色社殿になっており、全額国費で造営された最後の神社とも言われています。

 

さて、ここまで志波彦神社についてをお伝えして来ましたが、次回は陸奥国の一宮である鹽竈神社の事についてお伝えして行きたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

東国三社 その②

前回、お伝えした『鹿島神宮』ですが『東国三社』に数えられており、その残りの2社を伝えたいと思います。

まずは『鹿島神宮』と一対として存在している『香取神宮』ですがここは本当に両社が似ているので、前回お伝えしたのがほとんどになってしまうのですが『鹿島神宮』の主祭神がタケミカヅキに対して、『香取神宮』の主祭神はフツヌシノカミになっています。

この2柱は「国譲り」の際にオオクニヌシとの交渉役にアマテラスによって選ばれ成功したその功績により「軍神・武神」として数多くの武将や民衆によってたくさんの信仰を集めて来ました。

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その様子が平安時代末期の歌集で後白河法王が編成した「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の中の歌に「関東の軍神は鹿島・香取・諏訪の宮」と読まれています。

また、タケミカヅキが『鹿島大明神』と呼ばれているのに対してフツヌシノカミは『香取大明神』と呼ばれ現在でも武道の世界では今でも武道の中に掛軸を掛けている場所も多く、NHK大河ドラマの『新撰組‼︎』でも香取大明神の掛軸が掛けられていました。

 

また、この両神宮は前回もお伝えした様にヤマト政権の蝦夷に対しての軍事的・貿易的役割を果たしており、その勢力は宮城県の一宮でもある『鹽竈神社(しおがまじんじゃ)』辺りまで影響力を占めており、朝廷から関西地区の神社以外に勅使(朝廷から派遣された使者)が派遣されている神社は、九州の大分県にある『宇佐神宮(うさじんぐう)』とこの両神宮のみでした。それも宇佐神宮は6年に一度に対して、両神宮は毎年派遣されていたと言う事からもいかに重要視されていた神社であるかが分かります。

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毎年4月14日・15日には例祭・神幸祭が行われておりこの神社では最も重要なお祭で6年に一度(子年・午年)には勅使が派遣されて参向されます。そして12年に一度丑年に式年神幸祭が4月15日・16日に行われます。

 

そして文化財としては国宝である『海獣葡萄鏡』と言う銅鏡があり、正倉院にこれと瓜二つの銅鏡がある事から古くから朝廷との関係性が伺える事が出来る他に、鹿島神宮香取神宮常陸国下総国のそれぞれの一宮になっており、この事から朝廷からも東の拠点として極めて重要視されていたことも分かります。

 

さて、ここまで『東国三社』2つをお伝えして来ましたが続いて最後の3社目の『息栖神社(いきすじんじゃ)』をお伝えしたいと思います。

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まずこの神社の主祭神は『久那戸神(クナドノカミ)』で古くから交通安全や災いを防ぐ神として崇拝されており、鹿島大明神香取大明神も東国の地に案内した神様であります。

また、神仏習合ではサルタヒコと同一神でもある事からやはり道案内(道しるべ)の神様として信仰を高めていったのだと思われます。

 

この神社は鹿島神宮からも近い事もあり摂社として扱われて来ましたが、朝廷からは元寇の際に国家安全の祈願の為に勅使を送るなどとしていたのでやはり重要な神社として認識されていました。

 

そして、一の鳥居には「忍潮井(おしおい)」と呼ばれている2つの井戸があり、それぞれ「男瓶・女瓶」となりこの井戸に顔を覗き込んで底が見えると幸せが訪れると言う言い伝えがあります。

またこの地は海水と淡水が混じり合う場所にも関わらず真水が湧き出てくる事から「押潮井(おしおい)」と呼ばれてる不思議な現象が起こり、『日本三霊水』のひとつにもなっています。

さらにこの神社の御神体そのものが井戸であるのも、古代から真水を重宝しそれを信仰の対象にしていた事分かり、さらに鹿島神宮の摂社で深い関係があるように軍事的・交通的拠点として、重要視されていた事が分かります。

 

と、この様に『東国三社』をお伝えして来ましたが、古代ヤマト政権に深く関係していた事が分かりました。そして、軍神を祀っている鹿島神宮レイラインの一番東にとして置いたと言うのも守護してもらい、平和な時代がいつまでも続く様にと言う願いが垣間見れる気がします。

 

さて、次回はちょっと脱線しまして、宮城県の一宮をお伝えしたいと思いますのでよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

東国三社 その①

さて、前回お伝えした『東国三社』ですが、この三社は江戸時代には伊勢神宮の参拝後に、関東地方・東北地方の人々に『下三宮参り』と呼ばれ、大いに信仰を集めて行きました。

そしてこの三社の位置が面白い事に直角三角形の形になっているんですねぇ。

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(上図が汚くて申し訳ありませんが、頂点は『息栖神社(いきすじんじゃ)になっています。)

 

さて、話は戻していよいよ『鹿島神宮』について話して行きたいと思います。

 

先程も書いたように『下三宮参り』は回る順番は特に決まっていないのですが高い割合で『鹿島神宮』から回る方が多いみたいです。

その理由がこの神社の主祭神である『タケミカヅキ』が軍神であることから、さまざまな武将が戦勝祈願の為にこの地に立ち寄って戦さに向かった事から、まずはこの神社からと言う習慣がついたようです。

 

この鹿島と言う名称は鹿が神の使いである事から名付けられたそうで、タケミカヅキを祖とする「藤原氏(中臣氏)」の氏神として祀った『春日大社』にも白鹿でタケミカヅキが降りて来て祀ったとあります。その関係からか奈良公園の鹿は全国的にも有名で、人間の方が鹿に気を使いながらの生活をしていますよね。

そして生まれたことわざが『早起きは三文の得』と言うもので、これはもう10年前ほどになりますが、奈良に旅行に行った際に人力車に乗った時に教えて貰ったのですが、この意味は実は「鹿は神の使いであるから万が一、自分の家の前で死んでいたら罰せられてしまう為に、朝早くに起きて確認する」事からきたことわざだそうです。

サッカーの鹿島アントラーズのキャラクターのデザインもそう言った意味からあのようになったのでしょうね。

また、今では武道でも信仰のある神社で自分が実際に鹿島神宮に訪れた時にも小学生が稽古している様子が少し見えました。私も小学生から剣道を習っていたのですが、もはや練習内容が違うのを見てこの地域が強いわけを実感し、驚きを隠せなかった事を覚えています。

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また、千葉県にある『香取神宮』とは一対の存在であり、古くから深く関係していました。その背景には「ヤマト政権」の蝦夷(関東より北)への軍事的輸送基地としての機能をもっていたとあり、この2つの神宮がその拠点になっていました。そのような事から東北地方沿岸部には各地で「鹿島・香取神宮」が祀られており、鹿島神宮の社殿が北を向いているのも蝦夷を牽制する為に建てられた配置になっています。

 

そして「鹿島・香取神宮」でも一位・二位を争う有名な「要石(かなめいし)」は前者が凹型・後者が、凸型となっており、これはかつては地震を引き起こすのは大鯰のせいだと言う事で、両神宮の主祭神のタケミカヅキ・フツヌシノカミがこの要石を杭として大鯰の頭(鹿島側)と尾(香取側)を抑えつけ守っていると言う伝承があります。

 

また、国宝である『韴霊剣(フツノミマタノツルギ)』や、三韓征伐の際に神功皇后からタケミカヅキの守護を受け勝利した感謝の意で献上した腹帯の、『常陸帯(ヒタチオビ)』が神宝としてあります。常陸帯は現在でも本殿深くの箱に納められており見ることは出来ないが、この伝承により現在でも安産祈願の為に特に「戌の日」に妊婦に腹帯授けると言う風習に変わって行きました。

 

さらに「延喜式神名帳に記載されている『神宮』は伊勢神宮鹿島神宮香取神宮の3社だけでその事からも古くから強い信仰を集めていたことが分かります。

 

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と、このようにレイラインの東の端に置かれた鹿島神宮ですがやはり古くから重要な場所だと言うのが分かりました。

次回は少し話がズレますが『東国三社』の残り2社の事について少しだけお伝えして行こうと思います。

 

 

 

 

 

 

レイラインの意味

さて、今回は前回もお伝えしたレイライン(東から鹿島神宮江戸城・現在の皇居→富士山→伊勢神宮→高千穂)が一直線に走っていて、風水上では、龍脈というとても良い気が流れている一番東にある『鹿島神宮』についてお伝えして行きたいと思います。

 

と、その前にこれも前回お伝えしたのですがこの上記に書いた場所は夏至の日の日の出と冬至の日の日の入がピタリと一致していて、さらに春分秋分の日の日の出と日の入りが諏訪大社とピタリと一致するという話をしました。

しかし、もう一つ不思議なことに『中央構造線』上、さらに『フォッサマグナ』にこれら全て重なりあっているのです。

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(上図の赤線が『中央構造線』、青線が『フォッサマグナ』です。)

この中央構造線とは世界第1級の断層で、この一部は活断層になっていて九州から関東まで縦断している大断層の事です。

またフォッサマグナとはかつて日本アジア大陸から離れまだ東と西の列島に分かれいた頃に北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界にある場所にあり、元々は海だった所がこの2つのプレートが重なりありその歪み(地震)によって隆起した場所の事です。

このように、今現在も地震大国と言われている我が国『日本』の構造を古代人はすでに知っていたかのように『聖地』と言われる場所や古くから『神社仏閣』を建て神に祈りを捧げていたというのが興味深いものを感じてしまいます。

そしてこの線上にあるのが例えば熊本県の幣立神社から高野山弘法大師としても有名な空海金剛峯寺を建てた山)、伊勢神宮諏訪大社、千葉県の香取神宮鹿島神宮と全て重要な場所にあるのです。

 

面白いですよね!

 

 

さて、話は戻り『鹿島神宮』ですがこの中でも一番東にある事から最初に日の出をする神社としても古くから強い信仰を集め来ました。

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ここの主祭神は『建御雷之男神(タケミカヅキノオノカミ)』でこの神様は出雲の国譲りの際に大きく貢献した事により軍神と呼ばれており・また雷神・地震の神様でもあります。

出雲の国譲りをする為にアマテラスから下界に降り任命をされたのがこのタケミカヅキと『経津主神(フツヌシノカミ)』の2柱でした。

「フツヌシ」は先程の中央構造線上の神社として出てきた『香取神宮』の主祭神になっており、この『鹿島神宮』・『香取神宮』は大和朝廷時代の東国を開拓するための拠点になっていたと推測されています。

また、この2つの神社に『息栖神社』を加えた『東国三社』と呼ばれており、江戸時代には『伊勢神宮』を参拝した後に関東地方・東北地方の人々はこの3つの神社を巡礼するという習慣があり、それが「下三宮参り」と呼ばれ信仰を集めました。

 

とここで今回は区切りが良いので次回からは本格的に『鹿島神宮』についてお伝えしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

平将門の結界 その③ そしてレイライン

さて、今回は平将門の北斗七星の最後になる⑦の「鎧神社」で、ここは新宿区にあります。

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この神社はヤマトタケルが東国平定の際にここに立ち寄り甲冑六具を隠したと言う伝説もある神社です。

創建の由緒としては平安時代初期に藤原秀郷が「新皇」と名乗り関東一円を支配していた将門を討伐する為に、訪れた際に重い病に掛かってしまい、この地に薬師如来像があると言う寺院に祈願をしに行きました。すると、重い病はたちまち治り、討伐を達成出来たのでその感謝の意を込めて「圓照寺」を創建しました。

そして、その鬼門鎮護として建てられたのがこの「鎧神社」なのです。

また、将門が討たれその死を悼んだ人々によって将門の鎧をこの地に埋めたとされています。

 

と、ここで一通りの将門にまつわる「北斗七星」の神社をお伝えしてきましたが、やはり気になるのが、ヤマトタケルも度々出てくる事です。

もしかしたら、日本神話の英雄のヤマトタケルと武士(武家)と言う組織として初めて束ね、今でこそ時代劇などで良く見る光景の馬を用いて合戦を行う騎馬隊を駆使した戦いを行ったり、今の日本刀の形で反っている刀を始めて実戦で使用するなど、後の武家のかたちを作り出したという事で崇拝を受けていたり、また当時の世の中に不満を持っていた民衆の声を代弁し乱を起こした事でのちに多くの民衆達からの信仰も得られた事により、同じ東国を平定させようとしたヤマトタケルと、「関東の雄」として平将門は後世にもさまざまな形で伝説が残っているのでは無いでしょうか?

 

さて、これまで江戸城(江戸市内)の結界についてお伝えしてきましたが、もう一つ興味深い事があります。それは茨城県鹿島市にある『鹿島神宮』から富士山に向けて線を引くとちょうど真ん中に江戸城(現・皇居)になるのです。

また、それをさらに伸ばして行くと『伊勢神宮』になるのです。

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これをレイラインと言い、世界各地の遺跡でレイラインが存在していて古代の人々がこのような技術が本当にあったのか、宇宙人の仕業なのではないかなどと研究者たちの間で議論され続けているのです。

また、この直線上は風水では龍脈と言い、良い気が流れる場所であり、その良い気が集まる場所が龍穴と言いますがこの4点はまさに龍穴の場所に当たるのです。

そしてなんと、夏至の日の出の位置と冬至の日の入の太陽の位置がこの4つをピタリと通っているのです。

そしてそして伊勢神宮から伸ばした線のその先には『天孫降臨』の際にニニギ達一行が降りたったとされる『高千穂』があるのです。

 

さらに面白い事にこの『鹿島神宮』の主祭神は『建御雷之男神(たけみかづきのおのかみ)』という神様で、出雲国の『国譲り』の際にオオクニヌシの所にやって来た神様です。その時に戦った相手で『諏訪大社』の主祭神でもあるタケミナカタと相撲の原型でもあるもので戦い、タケミカヅキが勝利した事で、この国譲りが決定しました。

その際、負けたタケミナカタは遠く諏訪まで逃げてきて、「この場から二度と出ませんのでお許しください。」と仰ってこの地の神様となったのです。

そのような2柱の関係がある神様を主祭神として祀っている『鹿島神宮』と『諏訪大社』が春分秋分の日の出・日の入の時にだけ太陽がピタリと重なるのには驚きました。

何か、切っても切れない間柄で結ばれている感じもしますし、当時の人々はどのように計測をしてこの場所に神社を建立したのでしょうか。

 

本当に不思議であり、色々な想像をしてしまうのと同時に大変興味をそそられますよね。

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という事で次回はこの鹿島神宮についてお伝えしていきたいと思いますので、ご期待下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

平将門の結界 その②

今回は上図の④からお伝えして行きたいと思いますが、まず④の神社は江戸の総鎮守である神田明神です。

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ここは以前にもお伝えしましたが、江戸城の鬼門(北東)に位置し江戸の町を守護している神社ですが、初代将軍・家康が「関ヶ原の戦い」の時に必勝祈願として武士の先駆けである将門を祀っている『神田明神』に訪れ祈願し、これをきっかけに江戸幕府の庇護を受けこれ以降、江戸幕府の総鎮守として江戸市民達にも信仰を集めて行きます。

この「神田」と言う地の由来は元々、伊勢神宮に献上していた御田がこの地にありそこから神の田と言う事で「神田」になったや、将門の首が京都からカラダを探して飛んできて、この神社の付近で葬られたことにより、カラダと言うのが訛って「かんだ」になったなど諸説ありますが、どちらにせよ平氏による崇拝を受けており、3代将軍・家光の時には朝廷からの勅使に「将門は朝敵に非ず(将門は朝廷の敵ではない)」と秦上し朝敵から除かれました。

また、これは朝廷に反逆した将門を鬼門である「神田明神」に祀る事によって、徳川幕府の政治は朝廷には一切関与させないと言う意思表明の現れでもありました。

そしてこの「神田明神」は何度もお伝えするような江戸でも最も信仰のある神社の一つとなったのです。

 

さて、続いては⑤の『筑土八幡神社』なのですが先に言ってしまいますと、この神社には将門の「手」が葬られているという様に都市伝説がありますが、この神社の歴史には一切将門の話は出て来ません。これは一番最初にお伝えした「鳥越神社」と似ていますね。

ただ、千代田区にある『築土神社』と言う場所には将門の墓があり、土が盛り上り築ぎあれた事からこの名前がついたと言う説があり、また、関東大震災の際にこの神社の一部が「筑土八幡神社」のとなりに建てられたなどが関係しているのだそうです。

ただし、この「筑土八幡神社」がある場所は元々「津久戸」と言う地名だった事と言われていると言う説や、江戸明神と元々は名乗っていたが、いつの間にか誤字により「江」が「次」となってしまい、「次戸明神」と読まれて次第に「筑土」になったと言う説があります。

いずれにせよ、「筑土神社」と「筑土八幡神社」の関係は深く、将門の北斗七星の神社として江戸の結界を護ってきたのです。

さて、次にお伝えするのは新宿区戸塚にある『水稲荷神社』ですが、この神社は「新皇」と名乗り朝敵となった将門を討ち落した藤原秀郷が喜び、参拝した事でこの地が将門と関係がある地になりました。

さて、この神社の裏には元々「冨塚古墳」と言う古墳がありまして、この「冨塚」から現在の「戸塚」と言う地名が生まれました。そして元々は「冨塚稲荷」と呼ばれていたが、江戸時代に御神木の根元から霊水が湧き出る様になり、これが眼病に効くと言うことで評判になりいつしか今の名称になっていきました。

また、戸塚と言えば「早稲田大学」が頭に浮かんでくる方もいらっしゃると思いますが、今やこの周辺は日本屈指の学生街になっています。ただし、戦前はこのあたり一帯が旧陸軍の医療施設が点々としていたそうで、戦後100体以上の人骨が出てきたそうです。一説には人体実験をやっていたのでとか言われいるのですが、真実は分かりません。

しかし、そういう噂も相まって今では都内屈指の心霊スポットとしても有名でもあります。(戸山公園ですね。)

とこのように、将門の怨念よりもこっちの方が怖いと感じてしまうのは私だけでしょうか…。その様な歴史もあるこの地は実は私も学生時代に良く遊んでいた場所で昼間は市民の憩いの場としてたくさんの人で溢れていますので、立ち寄った際は是非行ってみたい場所でもあります。

と、また少し長くなってしまったので続きは次回にしたいと思います。

 

 

ヤマトタケルと平将門の結界 その①

今回は前回もお伝えしたヤマトタケルのお話を少しと『平将門』にまつわる江戸の神社のお話を少しずつしていきたいと思います。

 

なぜか、毎回長くなってしまうのはご勘弁を…。笑

 

さて、ヤマトタケルが白鳥になり大和の方角に向かって舞い上がっていきましたがその後、妙見(北極星)に行ったと千葉県の由来でもある千葉神社では伝えられています。

この千葉神社主祭神は『天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)』で、この神様は『造化の三神』の一柱で世界が出来て最初に高天原(アマテラスや他の神々が住んでいた場所)で生まれた三柱のうちの神様になります。

また、アメノミナカヌシは『至高の神』と言われて最高の神とされていました。そこと仏教の北極星を神格化した『妙見菩薩(みょうけんぼさつ)』が神仏習合で同一化した事で、ヤマトタケルがこの千葉神社の祭神になったのです。

 

そして、この千葉神社の社家の千葉氏は平常平(たいらのつねひら)が現在の千葉県を治める事により改名したのが始まりになります。

ここで、驚く事にこの平常平は『平将門』の5代後の子孫だったのです。

 

このように、ヤマトタケル平将門が繋がってくるのです。

ヤマトタケルから伊吹山に行く前に妻の『宮簀媛-ミヤズヒメ』に『草薙剣』を預かりそれを護るために建立したのが愛知県名古屋市にある『熱田神宮』です。

そして、ミヤズヒメの末裔の尾張氏が今もなお熱田神宮の社家として御守りし、熱田神宮は『伊勢神宮・内宮』に次ぐ神社になっていったのです。

 

さて、ここで鳥越神社に話を戻しまして、白鳥神社と呼ばれたこの神社ですが、前九年の役源義家がこの地に訪れた時に白鳥が飛んだのを見て浅瀬がある事を知り、渡ることが出来たのでのちに『鳥越大明神』という社号を奉りこの名前が付いたとあります。

そしてもう一つ不思議な話がありまして、平将門の乱で討たれた将門は京都の七条川原で晒し首になりました。その首は数日たっても全く腐らずにいたそうで、切り裂かれた胴体を求めて京都から飛んで行きました。

その首がこの神社を飛び超えて行った事から「とびこえ→とりこえ」と訛り、この名前になったと言う伝説です。また、この神社には「手」が埋められていると言う伝説もあり、社家は千葉氏の一族に当たる鈴木氏になります。

と、このように少なからず平将門に関わっていた神社なんですね。

また、例大祭の千貫神輿(大きな神輿)は浅草の「浅草寺」と共に東京都内最大級の神輿となっていて、これも見どころです。

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続いて②の『兜神社(かぶとじんじゃ)』ですがこの神社には平将門の兜を供養の為に埋めたとか、この地にある「兜岩」に源義家後三年の役の帰還の際に東国平定を祈願とする為に兜を埋めたと伝えられています。

また、明治になり東京株式取引所(現・東京証券取引所)がこの地に設立され、取引所がこの神社の氏子総代になりました。そのような事から信仰を集めこの地の名前でもある「兜町」と言えば東京証券取引所の事を指すようになります。(この地名の由来は兜神社から来ています。)

 

そしてこの将門にまつわる北斗七星の中でも最も有名で、テレビや雑誌等でも毎年のように特集されている「将門首塚」が③に当たる場所にあります。

この場所は今の大手町にあり、かつての江戸城の大手門(正門)のすぐ近くにあります。

ここの伝説としては、京都から将門の首がカラダを探しに飛び出したが、ついに力尽きてこの場所に降りたったと言うもので、他にも色々な都市伝説が残っている場所になります。

例えば、関東大震災後の跡地に都市開発としてこの地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際に、工事関係者や職員、また当時の大蔵大臣が相次いで怪死する事件が起きたので、中止になったことや、第二次世界大戦後にGHQによる区画整理の際に、工事の為に使用していたブルドーザーがひっくり返るなどの事件が起こり、これらが将門の怨念と言う事で手付かずの場所になりました。

おかげでと言うのはおかしいですが、その為現在ビル群が立ち並ぶ中で緑のある場所になり、参拝される方は意外にも怨念によっての怖いと言うイメージよりもむしろ、神聖な場所(神社)と言うイメージになる方も多いのです。

 

と、ここまで将門の北斗七星に関する①〜③までお伝えしてきましたが、次回は④からお伝えして行きたいと思いますので、乞うご期待を!よろしくお願いします。

 

 

 

 

江戸を守る5不動尊 その③ そして、平将門へ

今回は五色不動尊の残り1色2寺院をお伝えしたいと思いますが最後の目黄不動尊だけがなぜか2寺院あるんですね。

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まずは⑤の品川区三ノ輪にある『永久寺』ですがここの寺院の歴史は中々面白く、元々建立した時は真言宗最澄)でさらに名前も「唯識院」と呼ばれていました。

その後戦乱などで焼失、再建などを繰り返し、また名前も「大乗坊」・「蓮台寺」と変遷され宗派も禅宗臨済宗栄西が開祖・曹洞宗道元が開祖でこの2宗派で行われている坐禅を組んで悟りを開くのも)から日蓮宗日蓮が開祖で法華宗とも言われている) と変遷され、江戸時代に入りようやく現在の天台宗・永久寺になりました。

そして、江戸幕府より五街道が整備されると天海により、日光街道に面していた永久寺が(古くからあるお寺の中から)『目黄不動尊』が選ばれました。

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また、この近くには五千円札の肖像にもなった『樋口一葉』の銅像や記念館があるので、ここに訪れた際には是非寄りたい場所でもあります。

そして、最後の『目黄不動尊』がある⑥の江戸川区にある『最勝寺』ですが、ここは天台宗明治維新前までは『牛島神社(本所総鎮守)』の別当も務めいた由緒ある寺院でした。特に3代将軍・家光からの崇拝が厚く、その後の将軍達が鷹狩りの際の休憩所である「仮の御殿」も設けられ、江戸市民たちにも広く信仰を集めて行きました。

また、五色不動尊のなかでもこの目黄不動尊は中心的な意味を持つ由緒があるとして、五街道の守護の中心にも「黄」が置かれています。これは、四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)に加え黄龍もしくは麒麟を加えた「五神」から来ていてるものです。

と、ここまで五色不動尊についてお伝えしてきて気づいた事は全ての不動尊で天海と3代将軍・家光が関わっている事。

そして、江戸市民たちによって広く信仰されていた事が今日まで残る『五色不動尊』の信仰となっているのです。

また大日如来の化身でもある不動明王は毎月28日に縁日が開かれいるので日取りを合わせて参拝するのがオススメです。

 

 

さて、話は変わりまして次にお伝えしたい江戸幕府が置いた結界ですが、その結界と言うのは以前にもお伝えした『平将門』に関係のある神社を並べてみると不思議な事に『北斗七星』になると言うものです。

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(↑上図が手書きで分かりにくくてすみません。)

でも、ひとつずつ説明して行きたいと思いますのでご勘弁を。

 

まず①にある神社は『鳥越神社(とりこえじんじゃ)』と言って主祭神は『日本武尊ヤマトタケルノミコト』です。

元々はヤマトタケルが東国征討の際にこの地に立寄ってそれを見た人々がこの地にヤマトタケルを祀っていて、白鳥神社と称していました。

 

ここでヤマトタケルの事を少しお話しますと、第12代天皇景行天皇(けいこうてんのう)の子で、子供に第14代天皇仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)がいます。また、その子の第15代天皇応神天皇(おうじんてんのう)は『八幡宮様』としても、全国各地にお祀りされているのは、以前お話をしました。

また、妃の一人に「吉備武彦」の娘がいますがこの吉備武彦が昔話でも有名な「桃太郎」のモチーフになった人と言われています。

そして、九州の熊襲征討・東国征討(この時に伊勢で三種の神器でもある『草薙剣』を授かる)を経て、伊吹山(現在の滋賀県岐阜県の境にある山)の神を征討しに向かいます。その際、ヤマトタケル草薙剣を持たずに素手で挑むと言い、妻に預けています。

伊吹山を登っていると白いイノシシが現れたが、これは山の神の使いなので大した事は無いと思いそのまま進みましたが、これが山の神自身だったのです。山の神は怒り、大氷・大雨を降らせこれを受けたヤマトタケルは大きな深手をおおってしまい、やがて病にかかり伊吹山を下りました。

その後、大和に帰路しようとするが疲れ果て足が三重に折れ曲がり嘆き悲しみました。「わが足、三重の勾りして、いと疲れり」と語った場所から今の三重県の由来になっています。

そして、能褒野に着きここで終焉を迎えるのですが、それを聞いた妃たちがこの地に陵(墓)を造りました。そして、妃たちが嘆き悲しんでいると一羽の白鳥が陵から空へ舞い上がり、大和に向かっていたと言う日本神話のお話です。

 

と、この事からヤマトタケルを祀る神社には『白鳥神社』が多くなった訳です。

ここで少々長くなってしまったので次回はもう少しだけヤマトタケルのお話と話を戻して、平将門に関係する神社のお話をして行きたいと思います。

 

 

 

江戸を守る5不動尊 その②

今回は前回に引き続き、五色不動の残り2色3寺院と江戸にあったもう一つの結界である平将門に関連している寺院のお話をしようと思います。

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前回も載せてましたが、上図の④に当たる場所が『目赤不動尊』がある「南谷寺(なんこくじ)」です。

この寺院を創建した万行律師が比叡山南谷の出身と言う事からこの寺院の名前も南谷寺になりました。

万行律師が比叡山を下り伊勢国(現在の三重県)赤目山で修業をしている時に一寸二分(約3,6㎝)の大きさの不動尊を授かり江戸の駒込に寺院を建てました。当時はまだ赤目不動尊と呼ばれていましたが、ちょうど3代将軍・家光が鷹狩りの際に立ち寄り、すでに有名であった目黒・目白不動尊と合わせるようにここも目赤にしろ!と命令があり、今の「目赤不動尊」と呼ばれるようになりました。

また、この寺院の宗派は天台宗であり天海が建てた寛永寺の直末寺になり、現在の文京区本駒込にあり、今でも「家内安全・交通安全・極楽住生」などのご利益があり多くの人々の信仰があります。

そして、ここで話はずれますがちょっと面白い話がありまして。

この南谷寺のすぐ近くに『諏訪山 吉祥寺』と言う寺院があるのですが、明暦の大火の際にこの『吉祥寺』の門前町も焼失し、この地を江戸幕府は都市計画に基づき大名屋敷を再建しようと考えました。その為にこの地に住む住民たちなどが現在の東京都武蔵野市吉祥寺に移り住み、この『諏訪山 吉祥寺』に愛着があった住民たちによって「吉祥寺村」と名付けられました。

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またドラマや小説など数々の作品にも登場し、憩いの場としても有名な「井の頭恩賜公園」ですが、この井の頭の「井」とは湧き水や川の水をくむ場所と言う意味がありまして、古くは縄文時代から集落が形成されていたほど沢山の水が湧いていました。そして、この湧き水を神田川の一部として引いて江戸市民たちの飲み水としました。

この井の頭恩賜公園には、弁財天様が祀られており(天台宗大盛寺が別当寺になります。)、この弁財天様は最澄が作ったものを源経基がこの地に安置する為に建てたお寺です。

その後、源頼朝源平合戦の際に東国平定を祈願し、その大願成就の後に改築されたことが伝わっています。しかし、元引の乱の際に焼失してしまい、数百年ものあいだ放置されてましたが3代将軍・家光により弁財天様を再建されました。

また初代将軍・家康が「関東随一の名水だ!」と言ったことが資料にも残っているように、家光も鷹狩の際の休憩所として井の頭の水を使っていました。そして、この弁財天様は江戸市民たちの信仰の地とともに行楽地としても人気があり、その当時の歌舞伎役者などが寄進した石灯篭などが残っています。

そして、この弁財天様は水にまつわる神様で、天女でもあり『七福神』の一員でもあります。そうした背景からここ、井の頭恩賜公園に祀られ、現在まで慕われているのです。

ここで、この井の頭恩賜公園のちょっとした都市伝説をひとつ。

この公園には溜池があり、スワンボートがあるんですが、このスワンボートをカップルが乗ると別れてしまう!と言う都市伝説です。

なぜかと言うと弁財天様は女性の神様であり、カップルに嫉妬してしまうからと言われているんですが、ほんとのところは男性の方が意外とスワンボートをこげなかったりするので、嫌気がさして別れるらしいのですがね。笑

とこのような都市伝説は他の場所にもいくつかありますがだいたいが似た様な話で近いんです。

さて、話を戻して五色不動尊の残り1色2寺院の話をしようと思いましたが、少し余談が長くなり過ぎてしまったので、また次回にしたいと思います。

しかし、まさかの井の頭恩賜公園の弁財天様も3代将軍・家光が関わっていたのは驚きましたね!

それでは次回もお楽しみに!