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『世界最古の国』日本

#神社仏閣#歴史#都市伝説#グルメ#漫画#アニメ#ゲーム#その他生活にありとあらゆるものなどに関することを書いています。ここに記載するすべて記事の引用素材は誹謗中傷を目的としたものでは無く、著作権を侵害する目的で作成したものではありません。

平将門の結界 その②

今回は上図の④からお伝えして行きたいと思いますが、まず④の神社は江戸の総鎮守である神田明神です。

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ここは以前にもお伝えしましたが、江戸城の鬼門(北東)に位置し江戸の町を守護している神社ですが、初代将軍・家康が「関ヶ原の戦い」の時に必勝祈願として武士の先駆けである将門を祀っている『神田明神』に訪れ祈願し、これをきっかけに江戸幕府の庇護を受けこれ以降、江戸幕府の総鎮守として江戸市民達にも信仰を集めて行きます。

この「神田」と言う地の由来は元々、伊勢神宮に献上していた御田がこの地にありそこから神の田と言う事で「神田」になったや、将門の首が京都からカラダを探して飛んできて、この神社の付近で葬られたことにより、カラダと言うのが訛って「かんだ」になったなど諸説ありますが、どちらにせよ平氏による崇拝を受けており、3代将軍・家光の時には朝廷からの勅使に「将門は朝敵に非ず(将門は朝廷の敵ではない)」と秦上し朝敵から除かれました。

また、これは朝廷に反逆した将門を鬼門である「神田明神」に祀る事によって、徳川幕府の政治は朝廷には一切関与させないと言う意思表明の現れでもありました。

そしてこの「神田明神」は何度もお伝えするような江戸でも最も信仰のある神社の一つとなったのです。

 

さて、続いては⑤の『筑土八幡神社』なのですが先に言ってしまいますと、この神社には将門の「手」が葬られているという様に都市伝説がありますが、この神社の歴史には一切将門の話は出て来ません。これは一番最初にお伝えした「鳥越神社」と似ていますね。

ただ、千代田区にある『築土神社』と言う場所には将門の墓があり、土が盛り上り築ぎあれた事からこの名前がついたと言う説があり、また、関東大震災の際にこの神社の一部が「筑土八幡神社」のとなりに建てられたなどが関係しているのだそうです。

ただし、この「筑土八幡神社」がある場所は元々「津久戸」と言う地名だった事と言われていると言う説や、江戸明神と元々は名乗っていたが、いつの間にか誤字により「江」が「次」となってしまい、「次戸明神」と読まれて次第に「筑土」になったと言う説があります。

いずれにせよ、「筑土神社」と「筑土八幡神社」の関係は深く、将門の北斗七星の神社として江戸の結界を護ってきたのです。

さて、次にお伝えするのは新宿区戸塚にある『水稲荷神社』ですが、この神社は「新皇」と名乗り朝敵となった将門を討ち落した藤原秀郷が喜び、参拝した事でこの地が将門と関係がある地になりました。

さて、この神社の裏には元々「冨塚古墳」と言う古墳がありまして、この「冨塚」から現在の「戸塚」と言う地名が生まれました。そして元々は「冨塚稲荷」と呼ばれていたが、江戸時代に御神木の根元から霊水が湧き出る様になり、これが眼病に効くと言うことで評判になりいつしか今の名称になっていきました。

また、戸塚と言えば「早稲田大学」が頭に浮かんでくる方もいらっしゃると思いますが、今やこの周辺は日本屈指の学生街になっています。ただし、戦前はこのあたり一帯が旧陸軍の医療施設が点々としていたそうで、戦後100体以上の人骨が出てきたそうです。一説には人体実験をやっていたのでとか言われいるのですが、真実は分かりません。

しかし、そういう噂も相まって今では都内屈指の心霊スポットとしても有名でもあります。(戸山公園ですね。)

とこのように、将門の怨念よりもこっちの方が怖いと感じてしまうのは私だけでしょうか…。その様な歴史もあるこの地は実は私も学生時代に良く遊んでいた場所で昼間は市民の憩いの場としてたくさんの人で溢れていますので、立ち寄った際は是非行ってみたい場所でもあります。

と、また少し長くなってしまったので続きは次回にしたいと思います。

 

 

ヤマトタケルと平将門の結界 その①

今回は前回もお伝えしたヤマトタケルのお話を少しと『平将門』にまつわる江戸の神社のお話を少しずつしていきたいと思います。

 

なぜか、毎回長くなってしまうのはご勘弁を…。笑

 

さて、ヤマトタケルが白鳥になり大和の方角に向かって舞い上がっていきましたがその後、妙見(北極星)に行ったと千葉県の由来でもある千葉神社では伝えられています。

この千葉神社主祭神は『天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)』で、この神様は『造化の三神』の一柱で世界が出来て最初に高天原(アマテラスや他の神々が住んでいた場所)で生まれた三柱のうちの神様になります。

また、アメノミナカヌシは『至高の神』と言われて最高の神とされていました。そこと仏教の北極星を神格化した『妙見菩薩(みょうけんぼさつ)』が神仏習合で同一化した事で、ヤマトタケルがこの千葉神社の祭神になったのです。

 

そして、この千葉神社の社家の千葉氏は平常平(たいらのつねひら)が現在の千葉県を治める事により改名したのが始まりになります。

ここで、驚く事にこの平常平は『平将門』の5代後の子孫だったのです。

 

このように、ヤマトタケル平将門が繋がってくるのです。

ヤマトタケルから伊吹山に行く前に妻の『宮簀媛-ミヤズヒメ』に『草薙剣』を預かりそれを護るために建立したのが愛知県名古屋市にある『熱田神宮』です。

そして、ミヤズヒメの末裔の尾張氏が今もなお熱田神宮の社家として御守りし、熱田神宮は『伊勢神宮・内宮』に次ぐ神社になっていったのです。

 

さて、ここで鳥越神社に話を戻しまして、白鳥神社と呼ばれたこの神社ですが、前九年の役源義家がこの地に訪れた時に白鳥が飛んだのを見て浅瀬がある事を知り、渡ることが出来たのでのちに『鳥越大明神』という社号を奉りこの名前が付いたとあります。

そしてもう一つ不思議な話がありまして、平将門の乱で討たれた将門は京都の七条川原で晒し首になりました。その首は数日たっても全く腐らずにいたそうで、切り裂かれた胴体を求めて京都から飛んで行きました。

その首がこの神社を飛び超えて行った事から「とびこえ→とりこえ」と訛り、この名前になったと言う伝説です。また、この神社には「手」が埋められていると言う伝説もあり、社家は千葉氏の一族に当たる鈴木氏になります。

と、このように少なからず平将門に関わっていた神社なんですね。

また、例大祭の千貫神輿(大きな神輿)は浅草の「浅草寺」と共に東京都内最大級の神輿となっていて、これも見どころです。

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続いて②の『兜神社(かぶとじんじゃ)』ですがこの神社には平将門の兜を供養の為に埋めたとか、この地にある「兜岩」に源義家後三年の役の帰還の際に東国平定を祈願とする為に兜を埋めたと伝えられています。

また、明治になり東京株式取引所(現・東京証券取引所)がこの地に設立され、取引所がこの神社の氏子総代になりました。そのような事から信仰を集めこの地の名前でもある「兜町」と言えば東京証券取引所の事を指すようになります。(この地名の由来は兜神社から来ています。)

 

そしてこの将門にまつわる北斗七星の中でも最も有名で、テレビや雑誌等でも毎年のように特集されている「将門首塚」が③に当たる場所にあります。

この場所は今の大手町にあり、かつての江戸城の大手門(正門)のすぐ近くにあります。

ここの伝説としては、京都から将門の首がカラダを探しに飛び出したが、ついに力尽きてこの場所に降りたったと言うもので、他にも色々な都市伝説が残っている場所になります。

例えば、関東大震災後の跡地に都市開発としてこの地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際に、工事関係者や職員、また当時の大蔵大臣が相次いで怪死する事件が起きたので、中止になったことや、第二次世界大戦後にGHQによる区画整理の際に、工事の為に使用していたブルドーザーがひっくり返るなどの事件が起こり、これらが将門の怨念と言う事で手付かずの場所になりました。

おかげでと言うのはおかしいですが、その為現在ビル群が立ち並ぶ中で緑のある場所になり、参拝される方は意外にも怨念によっての怖いと言うイメージよりもむしろ、神聖な場所(神社)と言うイメージになる方も多いのです。

 

と、ここまで将門の北斗七星に関する①〜③までお伝えしてきましたが、次回は④からお伝えして行きたいと思いますので、乞うご期待を!よろしくお願いします。

 

 

 

 

江戸を守る5不動尊 その③ そして、平将門へ

今回は五色不動尊の残り1色2寺院をお伝えしたいと思いますが最後の目黄不動尊だけがなぜか2寺院あるんですね。

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まずは⑤の品川区三ノ輪にある『永久寺』ですがここの寺院の歴史は中々面白く、元々建立した時は真言宗最澄)でさらに名前も「唯識院」と呼ばれていました。

その後戦乱などで焼失、再建などを繰り返し、また名前も「大乗坊」・「蓮台寺」と変遷され宗派も禅宗臨済宗栄西が開祖・曹洞宗道元が開祖でこの2宗派で行われている坐禅を組んで悟りを開くのも)から日蓮宗日蓮が開祖で法華宗とも言われている) と変遷され、江戸時代に入りようやく現在の天台宗・永久寺になりました。

そして、江戸幕府より五街道が整備されると天海により、日光街道に面していた永久寺が(古くからあるお寺の中から)『目黄不動尊』が選ばれました。

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また、この近くには五千円札の肖像にもなった『樋口一葉』の銅像や記念館があるので、ここに訪れた際には是非寄りたい場所でもあります。

そして、最後の『目黄不動尊』がある⑥の江戸川区にある『最勝寺』ですが、ここは天台宗明治維新前までは『牛島神社(本所総鎮守)』の別当も務めいた由緒ある寺院でした。特に3代将軍・家光からの崇拝が厚く、その後の将軍達が鷹狩りの際の休憩所である「仮の御殿」も設けられ、江戸市民たちにも広く信仰を集めて行きました。

また、五色不動尊のなかでもこの目黄不動尊は中心的な意味を持つ由緒があるとして、五街道の守護の中心にも「黄」が置かれています。これは、四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)に加え黄龍もしくは麒麟を加えた「五神」から来ていてるものです。

と、ここまで五色不動尊についてお伝えしてきて気づいた事は全ての不動尊で天海と3代将軍・家光が関わっている事。

そして、江戸市民たちによって広く信仰されていた事が今日まで残る『五色不動尊』の信仰となっているのです。

また大日如来の化身でもある不動明王は毎月28日に縁日が開かれいるので日取りを合わせて参拝するのがオススメです。

 

 

さて、話は変わりまして次にお伝えしたい江戸幕府が置いた結界ですが、その結界と言うのは以前にもお伝えした『平将門』に関係のある神社を並べてみると不思議な事に『北斗七星』になると言うものです。

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(↑上図が手書きで分かりにくくてすみません。)

でも、ひとつずつ説明して行きたいと思いますのでご勘弁を。

 

まず①にある神社は『鳥越神社(とりこえじんじゃ)』と言って主祭神は『日本武尊ヤマトタケルノミコト』です。

元々はヤマトタケルが東国征討の際にこの地に立寄ってそれを見た人々がこの地にヤマトタケルを祀っていて、白鳥神社と称していました。

 

ここでヤマトタケルの事を少しお話しますと、第12代天皇景行天皇(けいこうてんのう)の子で、子供に第14代天皇仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)がいます。また、その子の第15代天皇応神天皇(おうじんてんのう)は『八幡宮様』としても、全国各地にお祀りされているのは、以前お話をしました。

また、妃の一人に「吉備武彦」の娘がいますがこの吉備武彦が昔話でも有名な「桃太郎」のモチーフになった人と言われています。

そして、九州の熊襲征討・東国征討(この時に伊勢で三種の神器でもある『草薙剣』を授かる)を経て、伊吹山(現在の滋賀県岐阜県の境にある山)の神を征討しに向かいます。その際、ヤマトタケル草薙剣を持たずに素手で挑むと言い、妻に預けています。

伊吹山を登っていると白いイノシシが現れたが、これは山の神の使いなので大した事は無いと思いそのまま進みましたが、これが山の神自身だったのです。山の神は怒り、大氷・大雨を降らせこれを受けたヤマトタケルは大きな深手をおおってしまい、やがて病にかかり伊吹山を下りました。

その後、大和に帰路しようとするが疲れ果て足が三重に折れ曲がり嘆き悲しみました。「わが足、三重の勾りして、いと疲れり」と語った場所から今の三重県の由来になっています。

そして、能褒野に着きここで終焉を迎えるのですが、それを聞いた妃たちがこの地に陵(墓)を造りました。そして、妃たちが嘆き悲しんでいると一羽の白鳥が陵から空へ舞い上がり、大和に向かっていたと言う日本神話のお話です。

 

と、この事からヤマトタケルを祀る神社には『白鳥神社』が多くなった訳です。

ここで少々長くなってしまったので次回はもう少しだけヤマトタケルのお話と話を戻して、平将門に関係する神社のお話をして行きたいと思います。

 

 

 

江戸を守る5不動尊 その②

今回は前回に引き続き、五色不動の残り2色3寺院と江戸にあったもう一つの結界である平将門に関連している寺院のお話をしようと思います。

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前回も載せてましたが、上図の④に当たる場所が『目赤不動尊』がある「南谷寺(なんこくじ)」です。

この寺院を創建した万行律師が比叡山南谷の出身と言う事からこの寺院の名前も南谷寺になりました。

万行律師が比叡山を下り伊勢国(現在の三重県)赤目山で修業をしている時に一寸二分(約3,6㎝)の大きさの不動尊を授かり江戸の駒込に寺院を建てました。当時はまだ赤目不動尊と呼ばれていましたが、ちょうど3代将軍・家光が鷹狩りの際に立ち寄り、すでに有名であった目黒・目白不動尊と合わせるようにここも目赤にしろ!と命令があり、今の「目赤不動尊」と呼ばれるようになりました。

また、この寺院の宗派は天台宗であり天海が建てた寛永寺の直末寺になり、現在の文京区本駒込にあり、今でも「家内安全・交通安全・極楽住生」などのご利益があり多くの人々の信仰があります。

そして、ここで話はずれますがちょっと面白い話がありまして。

この南谷寺のすぐ近くに『諏訪山 吉祥寺』と言う寺院があるのですが、明暦の大火の際にこの『吉祥寺』の門前町も焼失し、この地を江戸幕府は都市計画に基づき大名屋敷を再建しようと考えました。その為にこの地に住む住民たちなどが現在の東京都武蔵野市吉祥寺に移り住み、この『諏訪山 吉祥寺』に愛着があった住民たちによって「吉祥寺村」と名付けられました。

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またドラマや小説など数々の作品にも登場し、憩いの場としても有名な「井の頭恩賜公園」ですが、この井の頭の「井」とは湧き水や川の水をくむ場所と言う意味がありまして、古くは縄文時代から集落が形成されていたほど沢山の水が湧いていました。そして、この湧き水を神田川の一部として引いて江戸市民たちの飲み水としました。

この井の頭恩賜公園には、弁財天様が祀られており(天台宗大盛寺が別当寺になります。)、この弁財天様は最澄が作ったものを源経基がこの地に安置する為に建てたお寺です。

その後、源頼朝源平合戦の際に東国平定を祈願し、その大願成就の後に改築されたことが伝わっています。しかし、元引の乱の際に焼失してしまい、数百年ものあいだ放置されてましたが3代将軍・家光により弁財天様を再建されました。

また初代将軍・家康が「関東随一の名水だ!」と言ったことが資料にも残っているように、家光も鷹狩の際の休憩所として井の頭の水を使っていました。そして、この弁財天様は江戸市民たちの信仰の地とともに行楽地としても人気があり、その当時の歌舞伎役者などが寄進した石灯篭などが残っています。

そして、この弁財天様は水にまつわる神様で、天女でもあり『七福神』の一員でもあります。そうした背景からここ、井の頭恩賜公園に祀られ、現在まで慕われているのです。

ここで、この井の頭恩賜公園のちょっとした都市伝説をひとつ。

この公園には溜池があり、スワンボートがあるんですが、このスワンボートをカップルが乗ると別れてしまう!と言う都市伝説です。

なぜかと言うと弁財天様は女性の神様であり、カップルに嫉妬してしまうからと言われているんですが、ほんとのところは男性の方が意外とスワンボートをこげなかったりするので、嫌気がさして別れるらしいのですがね。笑

とこのような都市伝説は他の場所にもいくつかありますがだいたいが似た様な話で近いんです。

さて、話を戻して五色不動尊の残り1色2寺院の話をしようと思いましたが、少し余談が長くなり過ぎてしまったので、また次回にしたいと思います。

しかし、まさかの井の頭恩賜公園の弁財天様も3代将軍・家光が関わっていたのは驚きましたね!

それでは次回もお楽しみに!

 

 

 

江戸を守る5不動尊 その①

今回は5色不動尊のお話をしたいと思いますが、まずはじめにこの5色とは「黒・白・青・赤・黄」の5色で五行思想から来ていると伝えられていて、これは自然における四季の流れに例えられた思想です。

青は「春」、赤は「夏」、黄は「季節の移り変わり」、白は「秋」、黒は「冬」をそれぞれ象徴していて、ここから青春や朱夏などの言葉が生まれました。

とこのような背景から天海が江戸の守護として置き、特に目黒・目白・目赤不動尊は「江戸三大不動尊」とも呼ばれるくらい有名な場所になったのです。

また、その配置が五街道と関連づけられているほかに、この五色不動尊を結んだ線の内側が「江戸」になると言う都市伝説が残っています。

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さて、この5色6箇所にある「不動尊」ですが、前回も少し話した様に目黒不動尊がある場所は地名としても有名な目黒区の名前の由来にもなっているのですが正式名称は『瀧泉寺(りゅうせんじ)』と言う寺院で天台宗です。

上記の①の場所になります。

この瀧泉寺は天海の弟子の生順大僧正(大僧正とは僧侶の官位の中では最高位の地位)が寛永寺の子院(本寺院に付属する子寺院)、護国寺の末院(本寺院の支配下になる寺院)になり兼務すると3代将軍家光の擁護を受け、「目黒御殿」と呼ばれるほど豪華絢爛になりました。

また、「江戸の三富(残りの2つは湯島天満宮・谷中感応寺)」と呼ばれ、富くじ(今で言う宝くじ)が行われていましたが、天保の改革で中止になってしまいました。

江戸時代には行楽地として門前町が栄え、江戸の町を紹介している本である「江戸名所図会」にも、目黒飴屋(目黒の名物品)の風景が描かれており、かなり大きな店構えから見てもこの地が栄えていた事が分かります。

そして、この寺院の名前の由来にもなった独鈷(天台宗真言宗では仏具として使われており、古代インドでは武具として使われていた。)の滝があり、今もなお霊泉が湧き続けていて人々はそれをあやかりに参拝しています。この瀧泉寺は関東三十六不動尊霊場では第18番、江戸三十三箇所では33礼所になっています。

さらに瀧泉寺は都内最古の狛犬があったり、「日本三大不動尊(他の2つは成田不動尊、木原不動尊)」でもある事も含めて、今もなお多くの参拝者が訪れています。

と、ここでもう一度上記の地図を見てみると江戸城の裏鬼門に当たる場所でもあることから「厄除け」の御利益もあり、毎月8日・18日・28日には縁日が開かれいて、28日には露店も出ているので大いに盛り上がりますよ!

続いて地図の②の目青不動尊がある『最勝寺(さいしょうじ)』は今は世田谷区にあり、通称は「教学院(きょうがくいん)」と呼ばれいます。

この寺院は江戸城の紅葉山付近にはじめ建立されその後麹町貝塚、赤坂三分坂と移転を繰り返し、現在の場所に移転して来ました。

また、現在の六本木1丁目付近にあった観行寺が廃寺となったのに伴って、この寺院に移って来ました。現在は秘像となっており一般公開はされていませんが、目が青い所から天と地の連絡をしてくださると言われ、いつしか「縁結びの不動尊」として信仰を深めて行きました。

また、この寺院も寛永寺の末寺で天台宗になります。

そして、次は③の目白不動尊になりますが、ここは豊島区にある『金乗院(こんじょういん)』にあります。

宗派は真言宗で唐から帰ってきた空海羽黒山で修業をしている際に彫られたと伝わっており、その後3代将軍家光から「目白不動尊」と言う名を贈られ以後、この名前を名乗りました。

また、当時江戸市民たちに時間を告げる時の鐘として使われていたり、この地(目白や目白台)の名前の由来にもなりました。

現在では1月・5月・9月の28日の3日間だけご開帳されている秘像でもあります。

そして自分の身を切ってまで人々にご利益を与える事から「家内安全・病気平瘉」の不動尊として信仰を集めていきました。

さて、ここまで3色の不動尊をお伝えしてきましたが今のところ全て3代将軍・家光からの庇護があり関わって来ますね。また、前に書いた空海羽黒山も出て来て本当に引き寄せられているんだと実感しました。

次回は残り2色3寺をお伝えしたいと思いますので、お楽しみに‼︎

 

 

 

 

 

江戸の結界 その⑤

さて、今回も前回と引き続き日光にある神社仏閣のお話をしたいと思いますが、まずは前回と同様『日光東照宮』から行きたいと思います。

2017年に平成の大修理を終えた陽明門は建立当時の豪華爛漫さを取り戻し、それと同時に徳川家の権力の大きさを物語っているのが分かる建造物になっています。(とは言っても、大修理を終えてからはまだ私は行ってないんですけどね💦)

そして、右に行くと家康公の霊廟があるのですが、そこに行くまでに少々階段を登って行きます。

私事ですが、初めて霊廟に行った時は旅行がてら日光に行ったのですが、荷物を預ける場所が見つからずっと持ち歩いたまま行き、すごい大変だった記憶があり2回目は車で日帰りにしてしまいましたね。

さて、この霊廟に向かう最初の場所には「眠り猫」と言われる彫刻があるのですがその意味をするのは「猫が眠れるほど平和で安泰な時代になるように」と願いが込めてられており、その反対側にはスズメが遊んでいる彫刻がそれを証明しているような気しますよね。

そして、陽明門・奥の院(家康公の霊廟がある場所)を周りその次に訪れたのは、その時期がちょうど家康公没後400年と言うのもありまして、孫である3代将軍家光公の霊廟のある『日光山輪王寺大猷院』に訪れました。

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ここに訪れた時に感じたのは金・金・金‼︎

お寺の中は本当に金で装飾されており、さらに家康公の位牌も金箔?が張られて全て金でした。また、歴代将軍が座ったと言われている場所があり、その上には見事な金の飾りがあったのです。

そこで家康公の位牌に拝むとなんとも言えない厳粛な気持ちになり、これは本当にそこに出向いたからこその体験だと思いました。

(2016年の特別公開なので今はやっていません。)

そして、干支によって守護神が違うネックレスタイプの御守りを買い、車での帰路中「龍」のような雲が現れたので、何良い事が起きそうな予感がしました。

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ここでまた私事ではありますが、この『日光東照宮』に参拝した後になぜか必ず人生に関わる良い事が起こるんですよね。

一度目の時は今の就職先に受かり、結婚、子供が産まれ二度目はマイホームを建てて2人目の子供が産まれた事。さらにこんな事がありました。

家族で違う神社に参拝した際に、分社がいくつかありその中で『東照現権』を祀ってある場所がありました。その時に私の父が「必ずお参りしとけ!」と言われたのでお参りし、その理由を尋ねると私の先祖が紀州和歌山藩の医師を代々していたと言う話を聞きました。

紀州和歌山藩と言うのは徳川幕府の中でも徳川将軍家の次に地位が高い「御三家(尾張藩紀州藩水戸藩)」の中の一つで、8代将軍・吉宗以後、14代将軍・家茂まで紀州藩からの将軍が続いている藩です。

そのような事を聞いてから親近感が湧き、私にとってもこの『日光東照宮』は神聖な場所になりました。

 

さて、ここまで日光のお話をしてきましたが一度江戸に戻り、江戸の風水による結界のお話をしたいと思いますが、江戸城を囲うように不動尊があるのはご存知でしょうか?

この不動尊と言うのは「不動明王」の事を指していて、天台宗では在家(出家せずに各家庭で生活をしながら仏教に帰依している事)で祀る事もあり、また不動明王大日如来の化身として見られています。

そしてこの江戸を風水の結界を利用し、繁栄させようとした人物で江戸幕府初期のブレーンでもある「天海」も天台宗出身でしたよね。

そのような背景から不動尊を建て江戸を守ろうとしたのではないでしょうか。

また、この不動尊は5色の目をしておりその色は「黒・青・白・赤・黄」になっています。ここで気づかれた方もいらっしゃると思いますが、東京都内でも一等地としても有名な「目黒」はこの不動尊がある場所なんですね。

そして、「目白」も白い目の不動尊があった事からこの地名になったと言うなんとも面白い話です。

さて、今回はここまでにし次回はこの5色不動尊のお話をもう少ししていきたいと思います。

 

江戸の結界 その④

今回は世界文化遺産としても登録されており、徳川将軍の中でももっとも重要な礎を築きその後、265年間もの平和な時代を作りあげた初代将軍・家康と3代将軍・家光が眠る『日光』にスポットを当てて行きたいと思います。

さて、この地は元々奈良時代に勝道上人が開山し山岳信仰として『二荒山大神オオクニヌシタキリビメアヂスキタカヒコネの総称であり、この3柱は親子になります。)』を祀っており、日光連山の主峰である日光三山である男体山(元々は二荒山−ふたらさん)・女峰山・太郎山をそれぞれ聖地として神格化したものです。

 

あれっ、なんかまたオオクニヌシが出てきましたねぇ。

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そしてその後、鎌倉幕府を開いた源頼朝も寄進していましたが、戦国末期には衰退して行きます。その後、源氏の末裔であると名乗り(平氏・源氏・藤原・皇族以外は征夷大将軍の官職に就いた事がないことから)、天下統一を成し遂げた源頼朝を崇拝していた事から、日光再興を図った事、またこの地が江戸城から見てちょうど真北の方角に位置し、北方信仰(北極星はずっと位置が変わらない事から、皇帝などに好んで信仰された)により選ばれたと言う説があります。

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そして、この地にあった「二荒神社(ふたあらじんじゃ)」の名から二荒(ふたあら)と呼ばれていたが、これを音読みにしするとニッコウと読める事から字を変えて、「日光(にっこう)」と言う地名になったと言う説があります。

また、家康は生前に遺言で、「遺体は久能山に葬り、葬儀は増上寺で、位牌は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光に小さな御堂を建て祀れよ。」と残した事により、2代将軍・秀忠が建立し、その後3代将軍の家光がこの豪華爛漫な『日光東照宮』を改修しました。

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そして、この日光東照宮で最も巨大なパワーがある場所と言うのは国宝でもある『陽明門』と手前にある鳥居を中心に結んだ上に北極星が来る場所でガイドの方も教えてくれるので参拝した際は是非、記念写真を!

(実際、私が参拝した際にはガイドさんが記念写真を売ってました。)

また、この鳥居を抜けて陽明門に入る前に大きな灯籠があるのですが、それは「独眼竜」で有名な『伊達政宗』がポルトガルから輸入した鉄で作り寄進したり、 正面にある石の鳥居は福岡藩初代藩主である黒田長政が寄進し、その足元にははっきりと『黒田筑前守藤原長政』と彫られているのです。

さらに多くの大名が寄進した灯籠は合計で121基あり、その中で唯一女性から寄進されているものがあります。それが黒田長政の継室であり、家康の養女でもあった栄姫からのものである事でも分かる様に、当時かなりの財力・技術があり、信頼されていたのが伺えます。

また、余談ではありますが今では全国的にも有名な福岡県の郷土料理の「筑前煮」はここから来てるんですね!

福岡では正月や祝い事の席には必ず出されるそうですので、福岡に行った際は是非食べてみたい料理のひとつです。

そして、全121基あるこの灯籠ですが3基を除き全て3万石を超える大名が寄進しています。

この残りの3基ですが、2基は先程もお話をした栄姫で、もう1基は福井藩松平家)の家老になります。

この福井藩が幕末期に薩長同盟の仲介役をした坂本龍馬を支援していたと言うのも、何か皮肉なものですよね…。

さて、この日光東照宮は陽明門だけで無く色々と観て楽しめるわけですが、その中でも一番有名なのが「見ざる言わざる聞かざる」ですが、自分や人の欠点や過ちを、見ない・言わない・聞かない方が良いと言う意味があります。

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また、この言葉が日本に伝わったのは8世紀頃に天台宗系の僧が持ち込んだとして、天台宗比叡山の鎮護社となっていた日吉大社と密接な関係にあった事から山王信仰比叡山の麓にある日吉大社から生まれた信仰で、山王とは日吉大社に祀られている神様の別名である。「山王日枝神社の神様と同じですね!)が発展して行ったもので、山王信仰では猿が神の使いとなっているので、ここで使われたのではないかと考えられています。

 

そういえば、天海は天台宗出身でしたね!

 

さて、次回はもう少し日光の神社仏閣についてお話していきたいと思いますのでよろしくお願いします。

 

 

 

江戸の結界 その③

今回は前回の続きの『山王日枝神社』そして増上寺のお話をしたいと思います。

この『山王日枝神社』と言うのは前回もお伝えした江戸城の裏鬼門(南西の方角)にあたり徳川家の氏神として江戸の鎮守と扱われましたが、この神社のお祭も鬼門にあたる『神田明神』の神田祭と同様に「天下祭」として江戸っ子達に親しまれてきました。

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そして、この2つの祭は1年ごとに交互に行われ、山王祭は十二支で言うと「子・寅・辰・午・申・戌」の年に、神田祭は「丑・卯・巳・未・酉・亥」の年に西暦で言うと前者が偶数年、後者が奇数年の隔年に行われている。

また、神田明神は江戸の町の守護神としてに対して山王日枝神社江戸城そのものの守護神として司っていたので幕府から手厚く保護されていた。ただし、一方で行列の集合から経路・解散まで厳しく順序も定められていました。

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とこの様に、山王祭神田祭は似ている様で似ていない天下祭になっていったのです。

そして今では皇城の鎮として守護しているのです。

そしてもう1つの裏鬼門にあたる『増上寺』は今の芝公園内に位置する場所にありますがここはちょっと他の寺院に比べるとスケールの大きさが違うというのを感じます。

まさに圧巻っ!

 

と言うのが始めて訪れた時の直感的な感想でして、15年年くらい前の事ですが、何も知らずに浜松町駅から東京タワーに遊びに行った時に、「なんの鳥居だろう?」

と言う事しか思っていませんでした。そしてそのまま東京タワーに歩いて向かっているとふと、左側に神社なのかお寺なのかどっちが分からないがやたらと大きなのがあるなぁ。と思いそのまま少し時間があったので寄る事になりました。

時間帯的にも夕方過ぎで辺りも薄暗くなってきてたのもあり、照明を点けていたのですが、その時の迫力と言ったら今まで体験した事の無い様な息の詰まるほどの圧巻さと少しの恐さだったのです。

そして、参拝をしこのお寺は何というお寺なのかを辺りを見渡すと、『葵の御紋』が目に入り、「ここは徳川家に関係のあるお寺なんだなぁ」と思いながらパンフレットを手に取りました。

そこで初めてこのお寺は『増上寺』と言うお寺なんだと分かり、更にそこに記載されていたのに更に驚いたのです。

それは前回、『寛永寺』が徳川家の菩提寺とお話をしたの同じく、ここ『増上寺』も徳川家の菩提寺だったのです!

そしてこのお寺で眠っているのは15人の将軍のうち6人で、秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂です。

その時はこの霊廟には時間的に遅かった事もあり行けませんでしたが、後日ちゃんと時間帯を調べて参拝致しました。

と、ここで思ったのが徳川将軍15代のうち6人ずつ鬼門である寛永寺と裏鬼門である増上寺に守護神として置き、さらには北方に初代将軍『家康』3代将軍『家光』を置くことによって、風水で最強の結界を作り、江戸、そして今の東京は繁栄していったのです。

また、このとてつもない敷地を持っていた増上寺は麹町貝塚と言う先史時代から発展していた場所に建立しており、今現在も芝公園内に古墳として残っています。そして、その近くには東京のシンボル的存在でもある東京タワーがあります。この麓にはフリーメイソンの日本本部ロッジがあったりもするんですね。

さらに時代劇や歌舞伎でも有名な「赤穂浪士」のきっかけを作った場所にもなっていたりとやはり江戸時代はかなり重要な寺院だったのですね。

そして江戸城の鬼門の延長線上には霊峰・筑波山があります。そのさらに奥には日立市にある「御岩神社」があります。この神社も中々面白い話があるのですが、宇宙飛行士が宇宙から地球を見た時に1箇所だけ光の柱が立っている場所があったそうです。

その場所を調べてみるとこの神社だったそうです。さらにこの神社には188柱の神様を祀っているのです。

さらに裏鬼門には川崎大師、その奥にはたくさんの神社仏閣がある鎌倉市があるのです。

このように見てみるとこの地に幕府を開いたのは必然だった気がしてなりません。

さて、次回は初代将軍家康・3代将軍家光の霊廟がある日光に焦点を当てて行きたいと思いますます

 

 

 

 

 

江戸の結界 その②

前回、江戸城の鬼門にあたる『神田明神』さらに奥に天台宗別格大本山にもなり、また徳川家の菩提寺にもなっている『寛永寺』のお話をしましたが、もう少しだけこのお寺のお話をしたいと思います。

この寛永寺を開山した天海ですが初代将軍家康の参謀として、風水を使い江戸城を建設しました。それは当時から江戸庶民に人気のあった『平将門』のパワーを利用しこの江戸を護ろうとしまた、将門は「如見菩薩」を信仰しておりそれが北方の守護神である事から、将門に関係のある場所に「北斗七星」を作り江戸に結界を作りました。

この中でも一番有名なのが「将門首塚」ですが、大手町(大手門とは正門の事)にある事、江戸総鎮守でもある神田明神の三ノ宮の祭神が将門である事、家康が北方信仰(北極星は変わらずそこに君臨していることから古代から皇帝などに好まれて信仰されていた)を信じていた事からも将門自体を信仰していた事が分かりますよね。

また、江戸城の鬼門方面に古事記の「岩戸隠れ」で活躍した神様達にあやかり町を作って行きました。その神様が布刀玉命(フトダマノミコト)・天宇受売命(アメノウズメノミコト)・天手力男神アメノタヂカラオ)で上から芸人・遊女・力士の神とされていました。

ここでお解りの方もいらっしゃると思いますがそうです。芸人=浅草・遊女=吉原・力士=両国となるのです。そして、この地は幕府からも正式に認められいた地ですよね。

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さて、天海が開山しのちに徳川家の菩提寺になった寛永寺ですが15人の将軍のうち6人が眠っており(家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定)、守護神として江戸を見守っています。

そして、あくまで都市伝説の域なのですが天海は実は「明智光秀」であったと言う話があり、日光にある明智平と言う地名は天海が名づけたと言う伝承があることや、3代将軍家光の乳母の春日局の父は光秀の重臣斎藤利三であること。また、天海の墓所が光秀の居城があった近江坂本にあると言う事からこの様な都市伝説が出来たのだと思います。

また少し話はズレますが、明治維新の立役者の坂本龍馬の先祖が近江坂本出身でこの明智光秀の末裔と言う話があり、倒幕の際、龍馬の家紋が光秀の家紋である桔梗紋と似ていることから、志士たちにも絶大な効果があり奮起させたと言う事実もあります。

そして、今まで鬼門の方のお話をしてきましたが、実は裏鬼門にも守護をしている神社仏閣があるんですね。1つは『山王日枝神社』・もう1つは大本山でもある『増上寺』です。

まず、『山王日枝神社』ですがここの主祭神大山咋神(オオヤマクイノカミ)であり、地主神でありさらに農耕の神とされており、また近江の日枝山(のちの比叡山)に鎮座したことから山全体の神となった。また、この地に最澄天台宗延暦寺を建ててからはこの山の結界を守る守護神として扱われています。

また、天海は天台宗出身である事もあり徳川家の氏神となり、江戸幕府の鎮守となりました。

さて次回はこの山王日枝神社のお話をもう少しと増上寺のお話をしたいと思います。

 

 

 

 

江戸の結界 その①

今まで伊勢神宮と関連して、色々とお話をしてきましたが今回は首都、東京のお話とそれに関連する様なお話をしていきたいと思います。

さて現在、上皇天皇をはじめ皇族の方々のお住まいになっている『皇居』ですがそれ以前は『徳川幕府』の中枢部であったのは皆さん、周知の通りだと思います。

この通称、江戸城(千代田城とも呼ばれる)は外郭を含めると日本最大の城郭になりまして、西は四谷辺りから東は両国辺りまで、さらに北は飯田橋や水道橋辺りから南は新橋辺りまでと広大な範囲をほこり、その中で政治や経済、文化が発展し当時、「世界最大の人口都市」として栄えて言ったのです。

そして、この江戸城を護るようにして鬼門に『神田明神』がそのさらに奥に徳川家の菩提寺としてなった『寛永寺』があるのです。

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そしてこの神田明神主祭神ですが、『オオクニヌシ』『スクナビコナ』そして『平将門』の3柱であり、元々この辺りは伊勢神宮に献上する為、または皇族の方々に献上する為の神田であった場所なので、神田(かんだ)と言う地名がついたそうです。そして、この地に出雲系の人々がやってきてオオクニヌシを祀る為に創建したのがこの神田明神と言われています。

そして、神田明神は『江戸総鎮守』とも言われいて、神田祭の際に山車は将軍が上覧する為に江戸城内に入った事から『天下祭』とも呼ばれるようになりました。

それだけ、徳川将軍家にとって崇敬されていた事が分かりますね。

また、皮肉にもアマテラス(伊勢神宮)とスサノオオオクニヌシは子孫)の関係がありさらに言うと『三種の神器』の一つでもある『八尺瓊勾玉』が現・皇居に保管されていると言う因果関係も面白いですよね。

この『三種の神器』と言うのは『八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)』『八咫鏡(やたのかがみ)』『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』で上から順に皇居・伊勢神宮(内宮)・熱田神宮に保管されていると言われています。

また、八咫の鏡=アマテラスであるとされており鏡を『陽』、八尺瓊勾玉は形から月(ツキヨミ)に見立ているので『陰』となり、草薙剣スサノオヤマタノオロチを倒した際に見つけたものである事から『三貴神』に繋がっており、天皇即位の際の儀式にはこの3つが揃う事になっています。

と、このようにいまの皇居を中心とする東京は『古事記』などにも繋がってくるのですが、当時はまだ八尺瓊勾玉は『京都御所』に保管されていたので分かりませんが、この様な事を踏まえつつ散策をしてみるとまた面白いかも知れませんね。

さて、江戸城を中心に鬼門となる場所に神田明神寛永寺が存在するとお話をしましたが、この上野にある寛永寺天台宗の別格大本山と寺で3代将軍『家光』が開基し、初代将軍『家康』のブレーンとして、江戸初期の朝廷・宗教的な政策に深く関わってきた『南光坊天海』が開山しました。

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そして、この天海ですが少し面白い話があるのですが、また少し長くなってしまったのでこの続きは次回にしたいと思います。

 

『陽』のアマテラス・『陰』のツキヨミ その④

さて、前回は羽黒山の下山までのお話をしましたが今回もこの続きをしていきたいと思います。

下山はタクシーで帰ったわけですがその時にタクシーの運転手さんが有料道路(400円します)を下山中おっしゃっていたのが「この時期は熊がよく出るんですよ!」と。なんの話じゃとお思いになるかもしれませんが、羽黒山を階段で登山中そういえばずっと「パンパン‼︎」と鳴っているなと。それが熊除けの為のだとは思いませんでした。「どっかでお祭りでもあるのかなぁ」くらいにしか。

確かに登山中に熊と出くわしたら怖すぎますよね💦逃げるところが無いんですから💦

そんなこんなで下まで来ると出羽三山神社の「随神門」の前で止めてもらいました。

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ここに戻ってきた目的はただ一つ!

御朱印を頂く為です。しかも、この日は特別な御朱印が頂く事が出来るのです。とは言っても毎月5日・15日・25日の日には頂けるんですけどね。

と言うわけで頂いて来ました、金字の御朱印‼︎

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なかなかこの日付に合わせて行けませんからね。この日も前日にふと思いつき行ったわけですが、天気予報では雨。しかし、以前もお話をした通り、直前で雨も止んだので本当に引き寄せられているんだなぁと実感しました。

また、この御朱印を頂く際に順番のプレートを貰い少しの間待つんですが、その時に渡されたプレートも何か縁起の良いと感じました。

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それがこの黄色に「8」の数字です。

風水では黄色と金色は「金運」が上がると言われています。皆さんも自宅で金運アップの風水を取り入れている方も結構多くいらっしゃるのでは無いでしょうか?

また、「8」と言う数字は横にすると無限とも読めたり、漢字にすると「八」と書きその形から末広がりのように見える事から、昔から好まれていた数字なのです。

さらに、風水では2019年は「5」と「8」は一番良い数字だそうで、この2つの数字がある場所に行くと運気がアップするそうです。

例えば、宝くじ売り場やスーパーのレジなどでこの数字の場所で購入すると良いそうですよ!

そして、ここ出羽三山神社‼︎

先程も写真を載せましたが、「5」と「8」がたくさんあるのです。

まずは国宝である「五重塔」、それから5のつく日は御朱印が金字で頂けると言いましたよね。この日は8月25日でしたので、両方とも入っています。さらにプレートの黄色と数字。

ここまで、揃うと何かこの日、この場所に引き寄せられている様な気がします。

と、ここまで書きましたが今のところ何も変わっていないのですがね。ようは、気の持ちようですね。

皆さんもこのようにしてお出かけしてみるのも楽しいですよ。

「信じるか信じないかは、あなた次第です!」笑笑

『陽』のアマテラス・『陰』のツキヨミ その③

前回、『羽黒山 五重塔』を拝見しその後に2446段の階段を登りようやく出羽三山神社にたどり着いたと言うお話をしましたが今回ももう少しだけこのお話をしていきたいと思います。

まず山頂に着くなり、出羽三山神社の鳥居が見え心の中では本当に「ようやく着いたぁ💦」と言う気持ちしか無く、そのすぐ左側に手水舎(ちょうずや)があったので、そこで神社を参拝する前のしきたりでもある渇ききった口と汗でベタベタな手を清めました。

そして恥ずかしながら、そこで始めて手水舎の意味が分かった様な気しました。

現代でこそ、どこかの神社に参拝する時は自動車などで目的の神社に参拝が出来るが、昔は特に江戸時代までは歩いて行かなければならなく、もちろんの事汗がビジョビジョになっていたのでしょう。

そう言った意味も込めてまずは手水舎で手や口を清めると言うような風習が出来たのでは無いでしょうか?

そう考えると以前お話をした『伊勢神宮(内宮)』ではかつては五十鈴川での禊は川の中に入り、全身を清めていました。(現在では手を入れるだけの方が多いですがね)

何か分かる様な気がしませんか?

江戸時代には「一生に一度はお伊勢参りかっこと言われるほどに一般民衆にも人気になった事でも分かるように全国各地から参拝者が訪れました。

そして、日本の最高位の神であるアマテラスに参拝するとなると汗まみれの身体では流石に失礼に当たると思いませんか?

そう言った所から、この様な風習が出来たのではないかと思います。

さて、そんな手水舎での清めが終わり鳥居をくぐっていざ参拝しようとすると「あれっ?何かある!」と。近く寄ってみるそれはこの地を開山した蜂子皇子もこの山を登る際に腰を掛けたとか昇天のときに召されたくつがこの場所にあったと伝わる石があったのです。

なるほど。流石の皇子でもここで休息されたのかと思うと何か親近感も湧きます。

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「能除太子」と言うのは蜂子皇子の事で、この地羽黒では人々の面倒がよく、多くの人々の苦悩を取り除いたことからそう呼ばれる様になったそうです。また、「能除仙」「能除大師」とも呼ばれいます。

そんなこんなで参拝を終え、帰りは流石に大変なのでタクシーで下山しようと思い(情けない💦)登山をした側の逆側にあるお茶屋でまさかの1杯、お茶を頂く事が出来ました。

その美味さと言ったら本当に美味しくて美味しくて!

それはしいたけ茶だったのですが、登山で汗も大量にかき終わったせいもあるのでしょうが感動する美味さでした。そして、お茶屋さんのお心遣いにも感謝し少し時間もあったので、玉こんにゃくを購入したのですがこれも美味い!

あの塩気と辛子の辛さ、そしてお茶の美味さが身体に元気をくれたのです。

もしかしたら、疲れた身体に合うものをちゃんと計算されてご提供なされてるんでしょうね。それも、今の様な科学的にで実証される前から!

伊勢神宮(内宮)では赤福が有名ですがこれも糖分の摂取と言う疲れた身体には理にかなっているのが面白いです。

と、少しの休憩を挟みタクシーで下山していく訳ですが、ちょっと長くなったのでこの続きはまた次回に!

次回は必見ですよ!笑

 

 

『陽』のアマテラス・『陰』のツキヨミ その②

前回に引き続き出羽三山神社のお話を今回も少ししていきたいと思います。

と、先日この神社に参拝しに行った訳が2つほどありまして1つは『西の伊勢神宮、東の出羽三山』と言われるほど、重要な神社で特に江戸時代頃から一般民衆のあいだで広まっていったそうです。

また、ちょっと面白いことを発見しまして、この伊勢神宮月山神社は『陽・陰』の関係性があるとお話をしましたが、この2つの神社を線で結ぶとその中心にはなんと『浅間山』がありました。

そしてこの浅間山は日本のシンボル的な山で世界遺産にも登録された『富士山』の北側に位置しているのです。

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さらにこの2つの山には姉妹の神様がおり、姉の神様は浅間山に(イワナガ姫)、妹の神様は富士山に(コノハナチル姫)が祀られています。この2柱の父が大山祇命オオヤマツミ)であり、スサノオと結婚するクシナダヒメの祖父にあたります。

また、コノハナチル姫の子孫・スサノオの子孫が大国主神オオクニヌシノカミ)になり、やはり『三貴神(アマテラス・スサノオ・ツキヨミ)』は繋がっていると感じてしまいます。

そして浅間山は長野県と群馬県の境にあるのですが、また『長野県』が出てきた!とも感じてしまいます。何かありますね、きっと!笑

と、だいぶ脱線したので話を戻しますが、もう1つの理由が出羽三山神社の麓にあり、『国宝』でもある『羽黒山五重塔』が只今、150年ぶりに御開帳と言う事で訪れたのです。

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早朝にここに着いたのですが、1時間くらい前まで雨が降っていたので正直なところ、来る日を間違えてたかなと思っていたわけですが、おかげ様で天気も良くなり逆に綺麗に見えました。何かこの地に来た事を歓迎して貰っているかのようでした。

また、ここに来る前に2446段の階段を登ると言うのは事前に知っていたので、錫杖(簡易的なやつ)を借りようと思ったのですが、貸出のお店はまだやっておらず結局は購入しました。

が、しかしこれは本当に買っておいて良かった!

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これにはだいぶ助けられ、無かったらどうなってたんだろうと思うくらい過酷でした。

また、一ノ坂から三ノ坂まであるのですが一番キツイのが二ノ坂でこれを登り終わると左側に一軒のお店が出て来ます。

ここで少し休憩をした訳ですが水が本当に必要だと言う事を実感し、またこの「力餅二の坂茶屋」で休憩する事で息も整うので是非寄ってみて下さい。

そして、お店の人に「認定証をお願いします。」と伝えると書いて下さるので是非!

この認定証と言うのは2446段もの坂を登りきったと言う証として下さるのですが、実はこの場所はまさかのちょうど中腹付近でして、あと半分登らなければいけないんですね。

一瞬、心が折れそうになりました。

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ただ、この後はそこまでキツくないので(と言ってもキツかったですが💦)なんとか登り切る事が出来ますよ!

と言う事で、タオルと飲み物は必要不可欠です。

皆さんも是非、挑戦してみて下さい!

 

さて、また少し長くなってしまったので、次回ももう少しだけ出羽三山神社のお話をしたいと思いますので、よろしくお願いします。

 

『陽』のアマテラス・『陰』のツキヨミ その①

祝20回目㊗️

私、TOTANのブログの記事数がようやく20回目を迎えました。まだまだ下っ端ですが…。

 

さて、今回は先日行って来た『出羽三山神社』のお話をしたいと思います。

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と言うのも、この『出羽三山神社』は山の上にありましてそこに辿り着くために、2446段の階段を登って辿り着くと言う過酷な場所にあるのですが、この山頂にある神社に着くと壮大な社殿に驚くのと、登りきった達成感でまさに心が洗われたような爽快な気分になりました。

また、この神社の社伝によると第32代崇峻天皇の第三皇子、蜂子皇子(はちこのおうじ)が父の崇峻天皇蘇我馬子に暗殺された際に、厩戸王が逃すために匿われ、宮中を脱出して丹後国富津(現在の京都府富津市)から北へと向かいました。その後、蜂子皇子は現在の山形県鶴岡市辺りの海岸に辿り着き、3本足の霊烏(ヤタガラス)に導かれ羽黒山の阿古谷で聖観音菩薩に感銘を受けこの地で開山されたと伝わっています。

 

また、この神社は日本でも珍しく一つの場所で3カ所の参拝が出来ると言うと言う場所で右から『出羽神社』『月山神社』『湯殿神社』となっています。

そしてこの羽黒山は日本独特の自然信仰と仏教と密教が合わさり生まれた「修験道」と言うものがあり、その中での羽黒修験道の中枢となる場所でもあります。

実際に今でも羽黒修験道は行われており、一般の方も参加出来るのもあるそうです。ただ、一週間この山での修行を行う為にかなり過酷らしく、途中で亡くなってしまう方や断念してしまう方もいるそうです。(帰りのタクシーの運転手さんがおっしゃっていました。💦)

私も山を登りきりましたが、あれを一日に何度もするのは相当過酷な修行だなと思いました。

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ただ、女性限定で3日間だけのもあるみたいでこっちは比較的楽みたいなのですが、それでもかなり過酷だとは思いますがね。

そしてこの羽黒修験道の極意は『羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を願う山(過去)、湯殿山は生まれかわりを願う山(未来)と見立てる事で生きながら新たな魂として生まれ変わることが出来る』と言う事で江戸時代には庶民にも広まって行きました。羽黒修験道では『三関三度の行(さんかんさんどのぎょう)』と言います。

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そして、月山神社主祭神天照大御神の弟でもある『月読命』です。また、アマテラスは太陽の神・ツキヨミは月の神であることか『陽・陰』の関係となっており、『西の伊勢神宮、東の出羽三山』と言われているのです。

 

 

この羽黒山を開山した『蜂子皇子』ですが東北地方で唯一の皇族の墓があるそうでそれも宮内庁が管理しているのを聞いてビックリしました。なぜかと言うと出羽三山神社を出てすぐに石碑みたいな形であり、注意してみないと通り過ぎてしまうくらいだったからです。

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さて、今回はここまでにして次回ももう少しこの出羽三山神社のお話をしてみたいと思います。

 

 

 

 

『16』と言う数字 その③

今回は、前回お話をした杉並区にある『大宮八幡宮』と福生市の続きを少しだけしようと思います。(と言っても完全に妄想なので、悪しからず。)

この『大宮八幡宮』は第15代天皇応神天皇なのですが、武蔵国三大大宮とも言われており、埼玉県さいたま市の『氷川神社武蔵国一宮)・埼玉県秩父市の『秩父神社(知知父国一宮)ともにこの大宮八幡宮が含まれています。

昔はかなりの勢力を持っていたと言うことですよね。

また、ここは不思議な都市伝説があり参拝中に境内の中で「小さいおじさん」が走り回っていると言うのです。そして、その「小さいおじさん」を見つけた人には幸せが訪れるのだとか…。

みなさんもここに参拝する際には是非、探して見て下さい。

そして、ここの御利益は「安産・子育て」なのですが、実際私は2回程参拝した事がありまして、始めて参拝した年に一人目の子供ができました。しかも、この時はまだお腹にいる事はまだ知らなかったのでまさに御利益通りだなと感じました。ただ、2回目の時は参拝した次の日に妻と二人目の子供が車で事故って大変な目にあいましたけどね。

ただ、2人ともケガも無く、こっちは一切悪くないと言う形で最終的になったので、それも守られているのかなと感じました。

そして、この神社の場所は、井の頭線(吉祥寺ー渋谷間)の永福町が最寄りの駅になるのですが、ふと福生市と何か関係があるのでは無いかとと思いました。なぜなら『福』と言う漢字が使われていると言うただ単純な理由なんですけどね。

そこで色々調べてみたら不思議な事に気づきました。それはこの永福町にある『大宮八幡宮』と福生市にある『福生神明社主祭神天照大御神になります)を線で結ぶとなんと府中市にある『大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)』になるのです。

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この図だと少し分かりにくくて申し訳ありません。

この『福生』と言う地名が歴史に登場するのは平安時代末期(1087年)に武士団・西党の平山宗末と言う人物が源義家から福生村を与えられ

その後、子孫の平山季重と言う人物が「保元の乱」の恩賞として再びこの地を与えられたとなっています。さらに、室町時代には福生周辺の有力な支配者として青梅方面の三田氏と秋川方面の小宮氏がおり、この小宮氏の軍事上、最重要防衛ラインが現在の福生にあたった訳です。

このように福生の歴史を少しお話しましたが、ここであれれと言うものが!

福生と言うの地名が登場する時代と大宮八幡宮が創建された時代がほぼ同時期。

さらに源義家は通称、八幡太郎と言う名で知られています。

八幡宮八幡太郎

 

繋がってきましたね!

八幡神または八幡大菩薩と言うのは「応神天皇」のことです。また、八幡神応神天皇の神霊である事から「皇祖神」とも位置づけられ「承久記」では『日本の帝位は、伊勢天照大御神八幡大菩薩の御計ひ』と記されおり、天照大御神に次ぐ皇室の守護神とされていました。

また、宇佐神宮宇佐八幡宮)や岩清水八幡宮伊勢神宮に次ぐ第ニの宗廊とされてきました。

そして、熟語で「永生(えいせい)」と言う言葉があり、意味は限りない生命、永遠の生命、永遠に生きこと、長生きなどとなっていますがそこに『福』と言う文字をつけて、古代から人々の幸せを願っていたのかもしれません。